あたしの名前は、ヘルガ。 ダンナと一緒に、ベルリンで肉屋をやってる。 結婚したのは34の時だった。ちょっと遅い?でも、ちっちゃいにせよ、一応マスコミと名前のつくとこで仕事をしていたら、 女の結婚が遅くなるのは仕方ないのよ。 ダンナはハンス。幼なじみってヤツ。勝ち気で負けん気の強いあたしを、しっかり支えて、そして丸ごと受け止めてくれる優しい人。 結婚してすぐ、子供ができた。あたしはでも、仕事を辞めるつもりはなかったし、ハンスも反対しなかった。 だから、あたしはギリギリまで職場にいるつもりだった。 そしたら、来たわね、ツケってのが。 丁度その頃世界中がばたばたしてた。ドイツ統一、ユーロ成立、その上コソボで戦争が始まったり… とにかく、寝てる暇もないほど忙しくて、あたしも校正や面割に追っかけ回されてたのよ。 そしたら、呆気ないくらい簡単に、あたしの最初の子供はあたしの体から出ていっちゃった。切迫流産ってヤツね。 母体が過労しきってて、子供を支えきれなかったんだって。 名前まで決めてたのに。最初の子は、きっと男の子。そしたら、アル。 あたしは働いた。アルがいなくなった悲しみを忘れるには、働くしかなかった。 それから2年して、あたしに神様はまた子供を授けてくれた。今度は注意したわよ。もう二度と、あんな悲しい思いはしたくなかったもの。 だけど、今度はちょうど、ハンスの店の引越しが重なったの。市街の一等地にいい物件が出て、あたしたちちょっと頑張って そこに新しい店を出そうとしていたのね。なにせ、ハンスの作るソーセージと来たら天下一品、『勝利のソーセージ』だからね。 だから、がんばったわよ。開店準備にも気合いいれたし…思ったより、客の出足も快調だった。 そしたら、その中でまた、あのいやあな痛みがあたしの中に走った。 あたしは急いで病院に向かった。でもその日は休日で何処も休みで、あっちこっちたらい回しにされて、 そしてやっと診察してくれるお医者がいた所に辿り着いた時には、あたしは出血で意識不明になってたらしいわ。 もちろん、今度の子も駄目。 女の子だといいねって、ハンスが言ってたのに。そうだねって。看板娘なんて言われるわって、笑ったのが昨日なのに。 あたしは病院のベッドで、ほんの少しだけ泣いた。 もう子供なんて諦めようって、思ってた。でも、そんな時に限って、またまた神様はあたしにプレゼントを落っことしてくれた。 仕事は辞めた。絶対無理はしないって自分に誓った。どんな事があってもこの子は産んでみせるって。ハンスはあたしを気遣って、 店に立つ事さえ最低限にさせようとしたけど、まあ、ちょっとくらいならいい気分転換になったのよね。 そして、あの日が来た。 定期検診に通ってたあたしのおなかに手を当てたお医者様が一瞬ぎょっとした顔になったのを、今でも忘れない。 それから、聴診器をだして、あっちこっちに当てて、──それから、ものすごい顔で叫んだ。 「トナー!それから、内診用のペースサーチ用意して!」 どういう事?あたしは呆気に取られて目の前の騒ぎを見ていた。 わからなかったのよ。なんて鈍感な母親なんでしょうね。 あたしの赤ちゃん、ちょうど6ヶ月目に入った所だったんだけど、心臓が止まっちゃってたんですって。 「このまま放置していくと、子宮内に腫瘍があるのと同じ状態になります」 連絡を受けてすっ飛んできたハンスの手があたしの肩をぎゅっと掴んだのが、わかった。 「要するに、掻破しろって言うんでしょ」 なるべくあたしは、冷静な声を出そうとした。笑顔も浮かべようと努力した。 だってしょうがないじゃない。ここにいる誰も悪くないんだもの。 悪いのはあたし。ううん、赤ちゃんをちゃんと守って、育ててあげられない弱っちいあたしのこの腹の中の袋。 「いや、奥さん…冷静に聞いていただきたいんですが」 あたしより多分幾つか若い先生は、銀縁の眼鏡を押し上げる様にして、(まるでそれで勇気を振り絞りました、ってカンジで) こうおっしゃいました。 「胎児がもうかなり大きくなっていまして…掻破は無理です。奥さんの命に関わります」 「じゃ、どうしたらいいんですか」 あたしの代わりに声を出したのはハンスだった。 「帝王切開で胎児を摘出するしかありません。ただその場合…胎児と内壁の融合状況によっては、子宮を摘出しなければなりません」 そして、先生はまるでこれが全部自分の責任だと思ってるみたいに深々と頭を下げた。 「申しわけありません。でも、われわれに奥さんの命を助けさせて下さい」 あたしは笑った。周りのみんなはびっくりしたみたいにこっちを見てたけど、あたしは確かに、その時声を出して笑った。 いいわいいわ、坊や。あたしの大切な、最後の坊や。 お母さんの全部を、あんたと一緒に持っていきなさい。 「そんなに辛気臭い顔しなくていいわよ、センセ」 あたしは目の前の先生の肩をぱんと叩いた。 「腹かっさばくのも、内臓取り出すのも、こちとら慣れたもんよ。あたしを誰だと思ってんの?ベルリンで一番の肉屋の女房だよ」 先生はあたしの顔をじっと見詰めてた。優しそうな茶色の目だった。 きっと、あんたの奥さんは元気な赤ちゃんを産んで、幸せに子育てできるわね、と思った。 「だからさ、あんま深く考えないで、すかっとやっちゃおうよ。ね?」 その次の日、あたしは手術を受けた。 2日ばっかり眠って、目を覚ましたらハンスが目を真っ赤にしてあたしの傍に座ってた。病院の真っ白な天井に、 夕日の光がブラインドを通りぬけて、真赤な縞を作ってるのが見えた。 それだけで、全部分かった。 あたしは、毛布の下からそうっと手を出した。ハンスのあったかい、厚い手がすぐに握り返してくれた。 「…ごめんね…」 あたしの声、なんだか変な風にしゃがれてた。 「……あんた、子供大好きなのに…ごめんね…」 ハンスの顔は涙でぐしゃぐしゃになった。そして、なんにも言わないで首を横に振り続けた。 お子さんの顔、見ますか、と先生が聞いてきたのがそれから3日後だった。そのころ、あたしはもう一人で起き上がって、 重湯を啜れるくらいには回復していた。 「…あの子に会えるの!?」 思わず大声出してたわ。そりゃそうよ。想像もしなかったもの。死んじゃった子供の顔が、しかも生まれる前にあたしのおなかから 出されちゃった子供に「顔」があるだなんて。 「6ヶ月目でしたから…ちいさいですけど、殆ど人間ですよ」 だからせめてお母さんだけにでも見ていただいた方がいいんじゃないかと思いまして、と先生はまた眼鏡を上げながら言いました。 もちろん、見たわ。ううん、「会った」わ。 あたしの赤ちゃん。もうこれきり出会う事のない、あたしの坊や。 そう、その子はね、男の子だった。可笑しくてしょうがなかったけど、両手に収まるほど小さいくせに、 立派に男の子の証拠が在ったのよ。ナマイキに。 冷蔵庫で保管されてた体は、かちんかちんで硬くなってたけど、もう薄ら生えてる髪の毛が、あたしと同じ金髪だった事も、 足の裏の肌がびっくりするくらい白かった事も覚えてる。ハンスが、ちょっと日に当たっただけで火ぶくれするほどの色白だからね。 この子はあたしたちの子供。間違いなく、あたしとハンスの子供だった。 「先生、この子にちょっと触ってもいい?」 あたしは一応断ってからそっとその子の瞼にキスをした。 おやすみ坊や、そういうつもりだったのよ。そしたらね。 ウソだと思うかもしれないけど、ホントの話よ。 あたしの目の前で、ちっちゃい瞼が微かに開いたの。多分、あたしがキスしたから、一時的に皮膚の凍結が緩んだんでしょう、 って先生は言ってたけど… そこから微かに見えた瞳は、ハンスと同じ、緑灰色の優しい色だった。 あたし、坊やが最後に「さよなら、おかあさん(ムッティ)」って、笑ってくれたような気がしたのよ… 俺はベルリンで肉屋をやってるハンスと言います。 恋女房のヘルガ(こういうとバカみたいかも知れませんが、俺にとっちゃあいつは子供の頃から惚れに惚れぬいて、 やっと手に入れた最高の女房なんですよ…)が、3人目の子供を死産して、その時一緒に子宮を取っちまってから、 どうも様子がおかしいのには、気が付いてました。 前の二人の子を流産した時にも(ヘルガはドイツ女には珍しいくらいほっそりしてるから、もともと子供を産める体質じゃ なかったのかも知れません)、死んだ子に名前を付けて、墓参りに行って、そんな事をきちんとしていましたが、今回はその‥ なんていうか、感情移入が、普通じゃないんです。 なんでも先生が子供を見せてくれたらしくて、退院してきた時にはそれこそ口から泡を飛ばしながらその事を話してくれました。 「金髪だったのよ。あたしとおんなじ。信じられる?こんなちっちゃいくせに一丁前にオチンチンつけちゃってさあ…色なんて もう真っ白でね。あんたに似てたのねえ」 それは屍蝋化って言って、低温で死体を保存しておくと、みんなそうなるんだよとは俺には言えませんでした。 でも、金髪だったんだ。そこだけは、俺にも嬉しかったですよ。 ヘルガと同じ、太陽の下で本当に眩しいくらい輝く金色の髪の子供だったんだ。 「それで、ね」 ヘルガは、もう一つ大事な秘密を話す時─こういう癖って、子供の頃から変わらんものです。─の様子で、身を乗り出してきました。 「あの子の目、あんたと同じ色だったわ」 「目!?」 どうしてそんな物が見えたんだと聞き返す間もなく、ヘルガは組み合わせた指の上に顎を乗せ、天井の方を見ながら、 ほんとに楽しそうに呟いてました。 「きれいな柔らかい緑色。ちょっと灰色がかっててねー。あーっ、この子間違いなくあたしとあんたの子供だわって思ったら、 もう、嬉しくて嬉しくて」 「……」 「名前ももう決めてあるのよ」 「なんて…?」 すると、ヘルガは俺を見て、にこっと笑いました。 「ヤコフ。」 俺とヘルガを良く遊びに連れていってくれた、俺の祖父の名前でした。 それからの数年間、ヘルガはすっかり元気になりました。あれほど情熱を傾けてたマスコミの仕事もさっぱり辞めて、 俺と一緒に肉屋のおかみになりきって。 でも、確かに昔のヘルガじゃなくなってました。 アルと次の子──女の子だって信じ込んでたんで、名前はマリエ──の時には、墓参りにちょくちょく出掛けてたのに、 ヤコフの時にはそれをしないんです。 なのに、暇さえあればヤコフの話をする。 「もうオムツが取れる頃ねえ」とか、「そろそろサッカー始めてもいい頃じゃない?やっぱり、地元のチームからたたき上げて いかないとだめよね」とか。 あいつの中で、ヤコフは死人の仲間入りをしていない。死なせちまった事をあいつは認めてない。それに気が付いた時は、辛かったですよ。 俺には何もしてやれない。学のない俺には、気の利いた慰めの言葉すら浮かんでこない。 ただただ、幻の中で、金色の髪に灰緑色の目をした息子が大きくなっていくのを見つめているあいつの傍にいるしか、なかったんです。 ところが、ある日とんでもないことが起こりました。 奥で肉を作ってた俺に、店番をしてたヘルガが顔色変えてすっ飛んできたんです。 「あんた!」 何が起こったんだろう、と思いました。またクーデター?それとも、暴動?この国じゃそんなの珍しくなかったし、 その時のあいつの様子ときたら、その位取り乱していたし、顔色も真っ青でした。 「どうした!?」 思わず包丁を持ったまま振り返ると、ヘルガは俺の肩に取り縋って呟きました。 「…いま、ヤコフが、いた」 とうとうおかしくなっちまった。はっきり言ってそう思いました。 「ヘルガ…」 宥めようとした俺に、あいつは長い金色の髪を思いきり横に振って、叫び出しました。 「ほんとだよ!ほんとに今店の前を走っていったんだってば!」 綺麗な緑色の瞳がふっとヘルガの視線に気付いたように振り返り、そして、照れくさそうににこっと笑った、と言う。 「なんであんななりしてるんだろう…なんで、どこに、行っちゃったんだろう」 がくりと座り込んだヘルガの肩を支え上げ、俺はしみじみとあいつの顔を眺めました。 そして、思いました。 いいじゃないか。幻でもなんでも。 俺はこいつにどこまでも付き合うしかないし、そうしたいんだもの。 「探してみようか、ヘルガ」 ヘルガの灰色の瞳が俺の顔に向きました。 「あんた」 「この前を走って行ったんだろう?近所にいるんだよ、多分。また、ここを通るかもしれない。そしたら、二人であとをついていって、 どこに住んでいるのか確かめようよ」 もしかしたら、この所やたらに増えている東からの流れ者の孤児かもしれない。 それなら、ここに迎え入れて、養子にしたっていいじゃないか。俺はそこまで考えていました。 その子の事は、意外にあっさり分かりました。 この先の、取り壊しのきかない旧市街(なんでも年代もののお屋敷がある所為で、政府が手をつけられないんだそうで) に住んでいる男のところにいる、ジェイドという名前の孤児でした。 しかも、この子とその男の正体にはさらに物凄いおまけがついていたんです。 『超人』だというのですよ、二人とも。 確かに俺が子供の頃、そういう人達が世界を守ってたのは知ってますけど、まさか今ごろそんな言葉を聞くとは 思っても見なかったし、ましてやそれが自分の家のすぐ傍に住んでた、なんて、ねえ。 ジェイドは素直な子でした。その名前の通り、綺麗な翡翠の色の目をしていて、ふわふわした蜂蜜の色の髪をした、 ぎゅっと抱き締めたら折れてしまいそうに華奢な体の男の子、でした。 ただ、彼がその気になれば、大の大人を片手で捻り上げ、壁をぶち抜く拳を持っている事を除けば、です。 でも、そんな事はヘルガにはどうでもいい事だったようです。うちが食料品屋だった事も良かったんでしょう。 なんだかんだと理由を付けてはジェイドを呼び止め、あれもこれもと食べ物やら日用品やら、着るものまで渡しているようでした。 そんなヘルガの顔が、日に日に明るくなってきた事が俺には嬉しくてたまりませんでした。 やっとヘルガは戻ってきた。幻の世界から、俺達の生きている世界に。確かに、俺達はヤコフの身代わりにジェイドを 愛しているのかもしれません。でも、それでも勘弁して下さい、としか俺には言えません。あの子が明るい声で『今日は!』と 店先から声を掛けてくる度に、俺の気持ちまでぱあっと光に満たされたみたいな気分になるんですから。 俺達にとっては、そう、ジェイドは、真っ暗な生活の中に神様が最後のお情けで下ろしてくれた、天使みたいな存在だったんです── そんな風にして時間が過ぎていって、暫く立ちました。 その日は朝から土砂降りの雨が降っていて、物凄く寒かった事を覚えています。 「ちょっと聞いてよ、ハンス」 ヘルガと来たら、頭から湯気が出そうなほど怒り狂って台所のテーブルに座りました。 「なんだ?どうした?」 「あの師匠ったら、この雨ん中でまで、ボーヤに修行させてるんだよ。鬼だよあの人」 この、冬の間近な、氷交じりのベルリンの雨の中で?正直言うと、俺も耳を疑いました。 ジェイドはどう見てもまだ十歳前です。それとも、体の発育が人より遅いのかもしれませんが。 とにかく、あんな小さな子をこの雨に晒しておくなんて、とても正気とは思えません。 「ボーヤに何かあったら、このあたしが黙っちゃいないんだから」 夕飯のポトフに入れるらしいエンドウマメの莢剥きをしながら椅子を蹴飛ばすヘルガに、それでも俺は微笑ましいものすら 感じていました。 まだ、このときまでは。 その夜中近くの事です。 ドアが酷く強い手つきで叩かれ、俺は店の方に首だけ突き出して応じました。 「悪いけどとっくに閉まってるよ。明日にしてくれ」 でも、そのノックは執拗でした。俺はなんだかふっと嫌な予感に襲われて、暖炉に突っ込んであった火掻き棒を手に立ち上がりました。 「あんた」 恐る恐るついてこようとするヘルガを背中に押しやっておいて、俺はドアを開けました。 そしたら、そこには「あの人」が立っていたんです。 土砂降りの真夜中の街に、まるで闇を衣服にして纏ったように、その周囲にだけ深い深い暗さを立ち込めさせた、あの人が。 ヘルガがひっと叫びを挙げたのが分かりました。そりゃそうです。男の俺だって、思わずちびりそうになったくらい 『怖かった』んですから。 それはもう、強盗とかそういうものに対する恐さじゃありません。なんて言うんでしょうか…そう、墓場から蘇ってきた幽霊に ばたっと出くわしてしまった、そんな感じでした。 「あんたが、肉屋のおかみさんか」 あの人の声は、俺を通り越して、後ろにいたヘルガに向けられました。 「夜分すまんが、手を借りたい。俺と一緒に来てくれ」 「アンタ誰よ!」 こういう時になると、どうも女の方が正気に戻るのが速い様で。 「俺の名前は…ブロッケンJr.。」 あの人の声は、雨音に掻き消されそうに微かでした。 「最近、弟子のジェイドが度々お世話になっているらしい。礼を言う」 そう言われてみればそうです。明るい光の下とでは、全く印象が違うので気付きませんでしたが、この人は、昔俺が子供心にも 憧れた事があるあの、『超人』ブロッケンJr.なのです。 「ボーヤになにかあったのかい!?」 いきなり、ヘルガが飛び出してきて、あの人の胸座を掴みました。 「そうなんだね!?はっきり答えな!」 「…高熱を出して、魘されている」 ヘルガに振り回されるままになりながら、あの人は答えました。 「俺一人では手のほどこしようがない…しかし、あの子を普通の医者に見せる訳には行かない。頼む。手を貸してくれ」 「バカァっ!!」 絶叫と共に、ヘルガの平手があの人の頬に炸裂したのはその次の瞬間でした。 「ヘルガ!」 俺が止めるのも耳に入らない様子で、ヘルガは肩を震わせながら、あの人に食って掛かりました。 「あんた鬼だ!こんな日に子供にあんなキツイ事させたら、倒れない方がおかしいって事、なんでわかんないの!? あんた、あの子殺す気なの!」 ヘルガの灰色の瞳からは、ぼろぼろ涙が零れています。それを、あの人は黙ってじっと見詰めていました。 何か、とても辛そうな──それでいて、酷く優しい顔でした。 「ボーヤに何かあったら、あたしがあんたを殺してやる」 ぐいと拳で涙を拭うと、ヘルガは捨てぜりふを残して家の中に消えました。多分着替えをする為、そして、看病に必要なものを 揃えに行く為でしょう。 俺は、取り敢えず頭を下げました。 「すいません…どうにも気の短いカカアで…」 「いや…こちらこそ夜分に申し訳ない。御主人にもご迷惑だろう」 「いやいや、いいんですよ。ジェイド坊やのためなら、いくらでもこき使ってやって下さい」 そこで、俺は気付きました。俺は庇の下に立っているんですが、あの人はさっきから、殆ど氷のような、霙雨の中に 立ち尽くしているのです。 「あの…失礼ですが、中にお入りになって下さい。女の仕度は手間取りますから」 すると、あの人は静かに首を振りました。 「でも…ブロッケンJr.さん…」 「好意はありがたく頂いておく。ありがとう」 そして、あの人はまるで裁きを待っているかのように雨の降ってくる天に向かって顔を向け、こう言いました。 「ジェイドが苦しんでいるのに、自分だけ楽をするつもりはない」 びっしょり濡れたプラチナブロンドの髪が、半ば凍り付いているのがここからでも分かりました。 そう、今になって考えて見たら、あの時、あの人は「髑髏の徽章」を着けていなかったんですね。帽子を被っていなかったんだから。 「人間」のあの人だったんです。あの夜、俺達の前に現れたのは。 「手の着けられない年代物のお屋敷」ってのが実は、ボーヤのお師匠の家の事だったって知った時には流石にあたしも驚いた。 でも、今はそんな事構っちゃいられない。 見上げるようなでっかい玄関のポーチを潜って、家の中に入った途端、あたしは思わずぞうっと首を縮めた。 家の中が異様に寒いのよ。大理石製の壁に、豪華だけど役立たずのマントルピース。これじゃ、このだだっ広い家は 天然冷蔵庫みたいなもんだわ。保証してもいいけど、生ハムを一週間放置しといても腐んないわよ、この家。 「ボーヤの部屋は?」 「二階の東端だ」 ジェイド坊やのお師匠のブロッケンJr.──ああめんどくさい、もう『お師匠』でいいわよね──の後をついていきながら、 あたしは素早く家の中をチェックしてみた。 比較的綺麗に片付いてる。男所帯にしちゃ大した物だわ。埃も溜まってないし、窓ガラスもキレイ。 ゴミもきちんと捨てられてるらしい。意外にこのお師匠さん、見掛けに依らずまめなのかしら? 「ここだ」 ドアが開かれるなり、あたしはベッドに駆け寄った。 「ボーヤ!」 ジェイド坊やの顔は真っ青だった。それなのに額に手を当てると燃えるように熱い。手足は氷みたいだった。 この熱の出し方はおかしい。何かが変だ。 「とにかく、熱を下げないと」 あたしは用意してきたものを開きながら突っ立っているお師匠に言った。 「ちょっと。ぼさっとしてるヒマが在ったら、お湯を沸かしてちょうだい」 「…湯?」 これが、このいいオヤジが真顔で言ったもんだわ。 「すまんが、俺には発火能力はない」 「だ・れ・があんたに『火を点けてこい』って言ったの!?まさかガスぐらい通ってる…」 そこであたしは気がついた。 この家の異様な気温の低さに。 「まさか、…ガスとか引いてないとか言わないよ、ねえ?」 そしたら、恐れていた返事が帰ってきました。 「わからん。」 「なにそれ!?ワカンナイってどーゆー事よ!?あんたこの家の主でしょ!?」 「家の事は全てジェイドに任せていた。俺に細かい事を聞かれても分からない」 目眩がマジで襲ってきたのは初めてだったわ。 「…やーっぱりこいつ殺してボーヤかっさらって帰ろうかしら…」 「何だって?」 「何でもないわよ、うるさいわね!」 昔取った杵柄の記憶を掘り起こせば、ブロッケン家ってのは確か代々超人を生む一族で、色々な意味で時の為政者から 特別扱いを受けてきたらしい。貴族なんてものが消え失せたはずのドイツで、「ヴォン」の称号を名乗り続けてるのもその証拠だし、 このお師匠(むかつくオッサン)の顔立ちと来たら、無精髭を剃ってまともにタキシードでも着たら、その場に失神する女が ごろごろ出るんじゃないかってくらいに整ってる。 そういや確か、ブロッケン一族は『プラチナの美貌』とか言って、物凄い美男美女の家系なんだったよね…それで、 血の純潔を保つ為に、血族婚を繰り返してたんじゃなかったっけ… でもあえて言わせていただくなら、どんなに家柄が良くたって、顔が良くたって、『超人』だって、基本的生活能力欠落の 『使えない』男だけはガマンならないわ、あたしは!! 「物置小屋とかの場所くらいはまさか知ってるんでしょうね、殿様」 あたしは腕まくりして立ち上がった。 「多分そこに薪があるんでしょう。取りに行くわよ」 お蔭様で、程なくジェイド坊やの部屋の暖炉にも火がいこって、部屋の中は落ち着いて座っていられるくらいに暖まってきた。 あたしはその火で薄いコーンのスープを作りながら、坊やの額のタオルをひっきりなしに交換し、脚と手にはお湯の入ったポットを 入れてやっている。 その間も、お師匠は呆然とジェイド坊やの傍に座ってるだけと来たもんだ。 「あのさあ…」 あたしは、スープをカップに入れ、一つを彼に差し出しながら言った。 「あたしは、他人の事詮索するのが嫌いな性分なの。だから別にここであんたが何をしてるのかなんて聞かないけど、 一つだけ言わせてよ」 お師匠の、深い藍色の瞳が、ゆらりと上がってきた。 ちょっと力の抜けた、睫の長い切れ長の目は思ったより綺麗で、不覚にもどきんとした。でも、そんなことどうでもいい。 「ボーヤの事、大事?愛してる?」 「愛…して?」 あたしはその、間の抜けた聞き返し方にまたカチンと来た。 あたしだったら即答してやるわ。愛してますとも。ダンナと比べたって負けないくらい愛してますとも。例えば、ボーヤが 死にそうだって時に、身代わりの命を差し出せばジェイド坊やが助かるってんなら、あたしが迷わずその身代わりになるわよ。 多分、そんな事したら、ボーヤが絶対に許してくれないのは分かってるけどね。 「俺は…ジェイドを、愛して…」 両手で顔を蔽ったお師匠にあたしはこっぴどく言葉を叩き付けた。 「いいこと、レーラァ?子供育ててんのよアンタは。幾ら『超人』が『超人』育ててるったって、ジェイドが子供な事は事実なのよ。 子供だもん、夜中に熱出す事もあるし、急に病気になる事もあるでしょうよ。あんたそういう事ちゃんと分かっててこの子を 引き取った?分かってないわよね?自分と同じレベルでこの子の体を考えてない?」 一気に喋ってたら、胸のむかつきが酷くなってきた。 「あんたのやり方、ジェイドを愛してるなんて言えない。少なくともあたしは認めない。あんたはジェイドに何かをおっつけようと してるだけ。変な自己満足の為にこの子使うのはやめてよね!!」 怒鳴りながら、それはいつしかあたし自身への声になっていたかも知れない。 ヤコフに良く似たジェイドを見つけたあたし。いなくなった息子の代わりに、ジェイドの笑顔を欲しがってなかった?あたしは? だけど、だけどね。 呟いているうちにあたしの頬にはどっと涙が溢れ出してきた。 ──この上ボーヤまで失うなんて、そんな恐ろしい事、あたしには耐えられない── その時だった。 「…やめて」 微かな声が、あたしの酷いセリフの間に割って入って来た。 「やめて…レーラァは、悪くない…」 「ジェイド!」 物凄い勢いで駆け寄ったお師匠に、ほんとに微かに笑い掛けて、坊やはまた呟いたのよ。 「大丈夫…だから…レーラァを、責めないであげて…」 そしてまたうとうとし始めたらしい坊やを見下ろして、あたしは溜息を吐いた。 なんて優しい子なんだろう。 この優しさと人を疑わない純粋さが、いつかどこかで恐ろしい落とし穴にならなきゃいいんだけど… そう思いながらふとお師匠を見て、あたしは驚いた。 お師匠、ジェイドの手を握り締めたまま泣いてたの。声も立てないで。 なんだか切ない光景だったわね……もしかしたら、この人、あたし達が思ってるほど、冷酷非情な人じゃないんじゃないかな、 ってその時なんとなく思った。 だから、涙を拭った後、腕を擦りながら言って見た。 「あのさあ、思ったんだけど…この家、少し寒すぎるんだわ」 お師匠は不思議そうにあたしを見上げてきた。 「大きい部屋、あるんでしょ?」 「あるが…それが何か?」 「明日から、一緒に寝てやってちょうだいよ」 あらら、お師匠の目が落っこちそうになってる。この人でもこういう顔できるんだ。 「やあねえ。変な事言ってる訳じゃないのよ。この子にもう少し体力がついて、寒さを自力で凌げるようになるまで、 あんたに守ってやって欲しいって言ってんですよ、レーラァ。」 「し…しかし、俺は子供と寝た事など…」 「どーしても嫌だってなら、ボーヤはうちで預かってもいいわよ?」 その言葉に、お師匠の顔はそれでなくても血の気がないほど白いのに、もっと青くなっちゃった。あーあ、それほどジェイド坊やが 手元を離れる事が恐いなら、もう少しまともな扱いしろってのよねえ。 「…それともあたしが毎晩ここに来て、ボーヤに添い寝しましょうか?」 「…絶対にそれだけは辞退申し上げる!!」 あたしは笑い転げた。こんなに可笑しいのなんて何年ぶりだろうって思うほど笑った。 なんだか、ジェイド坊やの寝顔もいくらか楽になったみたいに、薄ら微笑んで見えたのは気のせいかしら? さて、それから。 二日も寝ていたらジェイド坊やはすっかり元気になった。なんでも、お師匠の話によれば「急激に超人レベルが上がる時に起こる、 一種のショック症状」だそうで……自分も子供の頃、同じような事があったらしいのに、取り乱した勢いで忘れてたってんだから、 …使えない男だわねええ、ほんとに!! 「今日は、おかみさん」 噂をすれば影。ボーヤがお買い物に来てくれた。 「あらボーヤ、調子どう?」 「お蔭様で。すっかりお世話になりました」 ぺこっと頭を下げて挨拶する、それがまたこの子は本当にいじらしくて可愛いのよねえ。 「いーえいーえ。あの位ならいつでもどうぞ」 店の奥でハンスが手でも振ったんでしょ。坊やはまたにこっと笑って頭を下げた。 「どう?あれから」 ご注文の品を袋に入れながら、あたしが聞くと、坊やはくるんと目を動かした。 「え?」 「あたしとの約束、お師匠はちゃんと守ってくれているのかなあ?」 すると、坊やは可愛い顔をほんのちょっと紅くして肯いた。 「はい…」 ああ、ほんっとーに可愛い。この顔見る為なら、何だってしてあげたくなっちゃう。 「そう。じゃ、寒いベッドで一人でちっちゃくなってるんじゃないかな、なんて心配はもうしなくても大丈夫ね」 すると、坊やはなんともいえない笑顔であたしを見た。 そう。この顔。 この子が時々する、物凄く遠い所にいるような、哀しそうな、妙に大人びた笑顔。 あたしは、この顔を見ると訳もなく不安で、胸の動悸が速くなるのを感じる。 「あのね、おかみさん」 「なあに?」 「俺、捨て子だったって話した事あるでしょ?」 「うん…」 その思い出は、あまりジェイド坊やにとって楽しいものではないだろうから、あたしもあまり口にしない様にしてきたのだけれど。 「そのせいかなあ…育ててくれたおじさん、おばさんのことも、俺、どうしても父さん(ファティ)、母さん(ムッティ)って 呼べなかったんですよね」 父と母。その言葉はそのまま、坊やの中で「捨てられた」記憶と結びついてしまっているんだろうから。 「そしたらね…昨夜気がついたんですけど…レーラァも、お父さんの事、ファーターって絶対に言わないんです」 坊やはちょっと考えるように首を傾げた。 「『あの人』とか、『ブロッケンマン』とか…なんだか俺、ずうっと一緒にいたのに、ああやって寝るまで色んなお話を してくれるようになるまで、全然気がついてなかったんです」 「そうなんだ…」 あたしもショーケースに肘を突いて考えに耽った。 これは、やはりあの師匠に関して、今までの認識を改めた方が良さそうな何かを感じる。そして、あたしのそういう勘って、 外れた試しがないのよね。 「もしかしたら、ブロッケン師匠も、お父さんと何か在ったのかもね」 「そうですね…」 そこで、荷物を差し出そうとすると、坊やはにこっと笑った。 「あ、そうだ。おかみさんにお礼しなきゃ」 「やだ何言ってるのこの子」 あたしは手を振った。 「何も要りません。はい、お品ですよお客様」 大きな包みをガラスケース越しに渡そうとした、その時だった。 ジェイド坊やが思い切り背伸びして、あたしの頬に軽く音を立ててキスして、囁いた。 「ありがと、ムッティ。」 その時のあたしの顔ったらなかったと思う。 『さよなら、ムッティ。』 その、冷え切った囁きと一緒にいなくなった息子の声がどんどん薄れて行き、その上に、温かくて柔らかい、擽ったそうな囁きが 被さってくる。 『ありがと、ムッティ。』 帰っていくジェイド坊やに手を振ってやり、その姿が完全に見えなくなった所であたしは両手で顔を覆った。 ほんとにいいの?みんなはあたしを許してくれるの? ちゃんと生んであげられなかった子供たち。ここでのうのうと生きている母親がいるのに、冷たい世界に行ってしまった子供たち。 アル。 マリエ。 ヤコフ。 あんたたちの冷たくて哀しい声が遠くなって、そこにあの子のあったかい、優しい声が流れ込んでくるのを、 あんたたちは許してくれるの……? 気がついたら、ハンスがあたしの背中をそっと支えてくれていた。 「あんた…」 呟くと、ハンスは灰色がかった緑色の瞳を細めて、すごく優しく笑った。 「明日も天気が良かったら、大きなリース作って、墓参りに行こう、ヘルガ」 あたしが涙で一杯の目を瞬くと、ハンスはちょっと洟を啜りながら──ほんと、涙もろいのよ、この人──笑った。 「最高のローストビーフでサンドイッチ作ってやるよ。もし良かったら、ジェイド坊やとお師匠さんも誘って行こう── 紹介しとかなきゃな、俺達の家族に」 俺達の家族に──。 その言葉は、あたしの胸の中に、静かに静かに染み込んできた。 「そうだね。大き目のポットに、山ほどコーヒー湧かしていこう」 「Jr.さんは酒の方がいいんじゃないのか?」 「ダメ。あたしとボーヤの範疇内では、あの人アルコール厳禁」 ハンスは溜息を吐いた。じつは、こいつもかなりの飲兵衛なのよね。 「気の毒な話だ…」 あたしは大きく空に向かって両手を伸ばした。空は、嵐の後のあの綺麗に磨き上げられた青色に輝いて、 そこには天使の翼の音さえ聞こえてきそうな光が一杯に広がっていた。 ねえ、あたしの子供たち。 ほんの少しだけ、仲間入りさせてあげる人を増やしても、怒らないわよね…? ENDE |