コンコン…と、軽い音でドアがノックされた。 こんなデリケートな叩き方(にもかかわらず躊躇いがまるで感じられない)をする人物に心当たりがなく、 スカーフェイスは怪訝そうに立ち上がって施錠を解除した。 するとそこには、どこか陶器じみた滑らかに白い肌を持つ、チェックメイトが立っていた。 あの騒動から、早いもので半年が経過した。 一足先にファクトリーへ送還されたジェイド達に続いて、彼もまた「二期生スカーフェイス」として やはりファクトリーに戻され、以前に勝る猛烈なしごき…もとい、強化訓練を受ける日々が続いている。 それもこれも、沖縄サミットその他もろもろの関係で、どうしても手薄になりがちな地域警備のため、 二期生EXチームの日本再派遣がほぼ決定しているからである。 もっとも、正式派遣が予想されているのはスカーフェイスを除く残りの3人。彼の場合、 『思想及びファイトスタイルの再教育と監察』というお題目がついているので、果たして日本にいく事になるかどうかは 全く不明なままだ。 そして同じ頃、ファクトリーにはスカーフェイスの他にもう一人新しい顔が増えた。 それが、今彼の目の前にいるチェックメイトである。 彼もやはりd.M.pの生き残りであり、一期生のキッドや万太郎と凄まじい戦いを展開し、最終的には万太郎に敗北して 瀕死の重傷を負った身である。しかしその後、ケビン同様『フリー』になる道を選び、どこでどう気が合ったのかは 良く分からないが、暫くは当の万太郎と行動を共にし、悪行超人と戦っていたらしい。 そういう経緯から、彼もまた『保護監察処分』となり、師匠であるサンシャインの友人であるバッファローマンの責任で、 このファクトリーに迎え入れられたのだ。 「今晩は、ご機嫌如何ですか、マルス」 胸に手を当てて一礼するチェックメイトに、スカーフェイスは壁に寄り掛かったまま応えた。 「お尋ね先を間違ってらっしゃいませんか?魔界の貴公子さま」 「は?どういう事でしょうか?」 端正な顔で真顔のまま聞き返すチェックメイトに、スカーフェイスはひらひらと手を振って見せた。 「悪いがマルスなんて超人はここにはいねえんだよ」 さっさとどこかに行ってくれ、と示したつもりだったのだが、チェックメイトはああ、とぽんと手を打った。 「そうでした。申し訳ありません。あなたはスカーフェイス。」 このピントのずれっぷりは天下一品である。さしものスカーフェイスが食いつく間を見つけきれずに、奇妙な顔になってしまった。 実は、『戦いに必要なポジティヴな思考』だけを幼い頃から師匠に擦り込まれたチェックメイトは、一種の 「感情障害児」なのだ。彼は、通常の人間ならば当然持っていて然るべき、「自己の表白としての感情表現」が、 全く出来ないのである。 そもそも、「自己」の実感がチェックメイトには完璧に欠落しているようだ、と何気なくロビンがぼやいていたのを思い出した。 「自己」の認識が明確でないのだから、その基本意識は赤ん坊のそれと同じか、それ以下だということだろう。 自己の肉体の限界を察知できないというのが、その最も顕著な症例だとロビンはスカーフェイスへ首を振ってみせた。 要するに、10日に渡るカウンセリングの結果、ロビンとウォーズが出した結論が、「集団生活の中で行動させる事で、 この子にまともな人間としての判断と感情を取り戻す事が最優先」なのだから、今までの彼は「責任能力が問えないほどの 人格乖離状態」だったという事になる。 逆を言えば、「悲しみ」や「喜び」、「恐怖」や「愛」などの感情を「知り」、それを「理解する」事が出来れば、 チェックメイトは極めて優秀な正義超人になる可能性大、とウォーズが分析・判断し、それにロビンが賛同したという事なのだろう。 「では改めて、ご機嫌如何ですか、スカーフェイス。」 「てめえの顔を見た途端最悪になった。」 すると、チェックメイトのアイスブルーの瞳が不安そうに曇った。 「何故でしょうか?私はあなたにお尋ねしたい事があって来ただけで、まだ何もお話していませんが…」 「てめえのツラとその話し方だけで沢山だ。苛々してくる」 「それでは私は、あなたが落ち着くまで部屋の外で待っています。苛々しなくなったら声を掛けて下さい」 では、と一礼しようとしたチェックメイトの肩を、スカーフェイスは血相を変えて引き止めた。このままにしたら、 こいつの事だ。本気で一晩中でも部屋の前に座っていかねない。 「待て待て待て、こら!」 「話を聞いて下さるんですか?」 人形のような、一片の歪みもなく左右対称に整った顔が、微笑みのようなものを浮かべる。 「良かった。」 こいつ、笑えるようになったのか、などと余計な事を考えたのが、スカーフェイス最大のミスだったかもしれない。 気がついたら、ベッドの上に座ったチェックメイトと、デスクチェアに座って向き合う破目になってしまっていたのだ。 「ああ…お勉強なさっていたんですか」 机の上に取り散らかされた書物を見て、チェックメイトは恐縮したように瞬いた。 「申し訳ありません。お邪魔して」 「別に勉強って程のもんじゃねえ」 ぱた、と閉じた分厚い本は、ここへ戻ってからロビンが貸してくれた、過去の超人達の戦闘記録の一つである。 スカーフェイスがチャド言語を理解すると知ったロビンは、時折彼を自分の執務室に呼び寄せ、何冊かの書物を渡すようになった。 それは、こうした戦闘記録であったり、歴史書であったり、誰が編纂したとも知れない、技の解説だったりする。 しかも、渡されるものは、分野は広範囲でありながら、全てが実戦で活かされるべく組まれた内容のものに絞り込まれている。 もともとが授業の内容など寝ていてもベスト4に入るほどの基礎知識を貯えている彼には、これ以上の理屈の上塗りは 不要とロビンは考えているのかもしれない。そう思わせるほど、ロビンから与えられる書物には生々しい戦いの記録が 残されていた。時折、元悪行超人の俺にこんなもの見せちゃっていいのかね、とスカーフェイス自身が首を捻るような 代物までその中には混じっている。 ただ、内容自体はひどく面白い。だから、こんな夜更けまで時折この単語の意味はなんだったかな、などと頭を捻りながらも 読みふけっている。正規の授業ではまずお目にかかる事のない熱心さだろう。 そう、授業といえば、最近客員教授が一人増えた。 これがなにを隠そうブロッケンJr.なのだ。戦略法の講師として招かれた(一説によるとバッファローマンに拉致されて 来たという噂もある。)彼は、現在一週間に数コマの授業を担当している。一応、必須種目である。 流石にこの授業だけはばっくれて逃げる訳にも行かず、スカーフェイスも寝もせずに(大欠伸をかましてにらまれた事など 一度や二度ではないが)大人しく拝聴している。Jr.の授業は理論的で分かりやすく、他の生徒の受けも上々である。 基本的に学者や教師の方が向いていたんじゃないのかと思うくらいだ。 しかし、問題は別の所にあった。 これがもう、Jr.の授業ともなると最前列の真ん中に座ったジェイドが、毎度毎度只事ではないオーラを出しているのだ。 気持ちは分からないでもない。全てが終わり、たとえ日本派遣までの短時間とは言え、手を伸ばせば届く所にいる 師匠との関係を隠す必要さえなく、その薫陶に酔っ払っていられるのである。 しかし、『自分を偽る』なんて言葉を、捨て子にされた時絶対にどこか道のその辺に落っことしてきたとしか思えない彼が、 幸せ全開の薔薇色オーラを出しまくって、うっとりと教壇に立つ師匠に見惚れているのだから、端で見ているものにとっては… かなり恐い見物である。 おまけに授業中に目でも合おうものならこの師弟、止まる事を知らず見詰め合い、挙句の果てにはあからさまに 微笑みかわしたりしてしまうものだから、いわゆる「生身」系の超人は、ブロッケンJr.の授業の時のみ、ジェイドの 半径3m以内には絶対に近づかない。 かほどに恐ろしき、師弟愛パワーMAXの今日このごろなのである。 ま、仕方ないだろうとスカーフェイスは半ば苦笑混じりにその背中を見詰めている。 何にしても、悲痛な顔で泣き崩れられるよりは遥かにましというもので。 時折、廊下で擦れ違ったりするとそれはもう何か言いたそうなバッファローマンが露骨ににやにやしたりするのだが、 これは黙殺。 ほっといて欲しい。オヤジが想像するほど俺は餓えてないし、心が狭い訳でもない。 それに、正直な所を言ってしまうと、ジェイドの意識がああしてお師匠の方に向いていてくれるのは、こちらにしても有難い話なのだ。 そう、あれはまだブロッケンJr.が客員教授に就任する前の事。 実技訓練の時、教授陣の配慮もあってか、自分とジェイドが当たることは全くといっていいほどない。なのに、 どういう訳かトーナメントでお互いが勝ち上がって行った結果、三回戦辺りでぶつかってしまった事があったのだ。 流石に嫌なざわめきが流れた場内に、スカーフェイスが顔を顰めながらロープをまたぐと、ジェイドの方はまるで 平然とリングに飛び込んできた。 そして、「始め!」の声と共にがっと手を組み合った一瞬、ジェイドの緑色の瞳がヘッドガードの下から彼を見上げ── 心底嬉し気に、そしてあの、二人きりの時にだけ見せる安心しきった眼差しで彼を見つめて微笑んだのである。 しかも間の悪い事に、その笑みは、「つい先程(詳しく言えば授業開始数分前)」も彼に向けられたばかりで── まさか実戦で当たるなんて思わなかったから、闘技場への地下通路に人気がなかったのをこれ幸い、ちょっと悪戯心を 起こしただけの事である。 散々甘いセリフを浴びせ掛け、両腕の中に閉じ込めた時、一応怒った風は見せながらも桜色に上気した顔に浮かんだ笑みと 同じものを、リングの上で見せられると誰が想像し得たでありましょうか。 その瞬間、思わず掴んだ手を突き放し、「仕切り直し!」と絶叫してしまった自分には当然警告1のペナルティが課された。 周囲は何が起こったんだと言いたげに目を丸くし、当のジェイドはと言えば、ロープに凭れてくすくすと笑いを噛み殺している。 小悪魔、である。 しかも、自覚がない。と言うより、自分のしている事の意味が、まるで分かっていないのだ。 恐ろしくて一人歩きはさせられない、そう思ってしまう師匠の気持ちが最近骨身に染みて分かるようになってきた。 でもね、噂によると、なんですかお師匠も若かりし頃、今のジェイド君同様非常に無防備かつ有害な、 「危険人物」だったそうじゃないですか。 なんでそんな所まで似るんだ、実の親子でもあるまいに。 そんな四方山をスカーフェイスがつらつらと考えていると、チェックメイトが声を掛けてきた。 「あのう、スカーフェイス。」 「うっわびっくりした、あーそうか、お前いたんだな」 完璧に忘れ去られていたチェックメイトなのだが、むっとした風も見せず、今度は上手に微笑みを浮かべた。 「考え事の最中に申し訳ありませんが、これ以上あなたの時間をお邪魔したくありませんので、質問をすませて部屋に 戻りたいのです。よろしいでしょうか?」 馬鹿丁寧といった方がいいような前置きに、スカーフェイスは彼の訪問が何か質問を抱えた為だった事を思い出した。 「ああ。なんだ」 軽く受けたスカーフェイスに、チェックメイトの白い顔は真顔で尋ねた。 「セックスとは、一体何ですか?スカーフェイス」 |