全てが終わった。 ジェイド達二期生と、一期生の一部は、ヘラクレス・ファクトリーに戻され、再度教育を受け直す事になり、 南の陽光を照り返す宇宙港から、彼らを乗せた宇宙船は遥かな星空を目指して地球を離れた。 「分かっていると思うが、これからの諸君の訓練メニューは今までのものを更に強化したものになる」 初日、全員を講堂に集めて行われた訓辞で、ロビンマスクの第一声がこれだった。 「基本的な技術を全て教授し終わった君たちに、全てのやり直しを求めるつもりはない。各々の弱点を検討し、それを 強化していく形での訓練を行う。従って、三期生以下とは全くコースが異なるし、時には指導の立場に立ってもらう事も 在るだろう。実際のファクトリーの防衛にも、君達に当たってもらう。これは実戦訓練の一部と考えてもらいたい」 はい、と一斉に声が上がる。 その中で、ジェイドは唇だけを動かし、声を出す事はしなかった。 何も終わっていない、自分にとっては。 むしろ、これからが始まりなのだ。 そういう意味では、自分は三期生同様の立場、いや、それ以下なのかもしれない。 誰よりも激しいトレーニングと、厳しい訓練こそが自分には必要なのだ。 そう呟いて、胸元をぐっと掴んだその時、背後から呼ばれた。 「ジェイド。」 振り返れば、そこには共に入替戦を闘ったクリオネとデッドシグナルがいる。 ジェイドは目を細め、微笑みを浮かべた。 「久しぶりだな」 「お前、ずっと病院に詰めてたって?」 と、デッドが言った。 「まだ本調子じゃないのか」 「いや。そういう訳じゃない」 ジェイドは軽く右腕を上げて見せた。 「こいつの所為で、上半身の筋力が落ちてたからな。そいつをここに戻る前になんとかしたかったんだ。それだけさ」 クリオネが何か言いかけて──止めた。 それが分かっていて、あえてジェイドはその唇の動きを黙殺した。 聞き返せば、あの名を聞く事になるのは分かりきっている。 「そうか。それを聞いて安心した」 デッドは相変わらず、明快である。 「直前に病院に戻ったと聞いて、どこかに新しい異常が発見されたのかと思った」 「それはない。大丈夫だ」 その時、唐突にクリオネが呟いた。 「…本当に、大丈夫なのか?」 ジェイドの緑色の瞳が、一瞬クリオネの上で凍結したように止まった。 クリオネの赤い瞳が、あらゆる問いを含んで、ジェイドの瞳を見詰め返した、その時。 「馬鹿だなお前は。非論理的この上ない」 情け容赦のない手つきでクリオネを張り倒しておいて、デッドはからからと笑い声を上げた。 「ジェイドが大丈夫だと言っているのに、それ以上の大丈夫もないもんだろう。なあ、ジェイド?」 後頭部を押えて立ち上がるクリオネを見ながら、ジェイドは小さく笑いを漏らし、そして、小さく何度も肯いた。 「…そうだな。その通りだよ、デッド。」 「少しクリオネは神経質過ぎるんだな。もう少し呑気になった方が良い」 「呑気にって」 「物事には常にセオリーってものがある。それに沿っていた方が間違いがない。考え過ぎはえてして間違った解答しか もたらさんのだぞ」 そんな二人のやり取りを、ジェイドは柔らかい微笑みを浮かべたまま見詰めている。 一方的にデッドにやり込められながら、クリオネはふとその笑顔に気付いて、どこかほっとしたように表情を緩めた。 「とにかく」 と、デッドがその場を纏めるように手を差し出した。 「またこうして一緒に学ぶ事になった訳だしな。宜しく頼む」 ジェイドは一段と笑みを深めて、その手を握り返した。 「ああ。こちらこそ、だ」 クリオネの手がそこに重なり、三人の手が改めての同期生活に向かい、固い握手を交わす。 そこから欠けてしまったもう一つの手の事は、誰一人として口にしようとはしなかった。 基本的に、ファクトリーは「何年で卒業」という性質のものではない。 最終試験にさえ通れば、数ヶ月で出ていくものもいるし、何年も修行の日々を必要とするものもいる。 ただそれは、必ずしも本人の能力の優劣で決まるものではない。即戦型に生まれ付いたものもあれば、能力の開花までに 非常に長い熟成期間を必要とするものもある。 だから、ジェイド達が戻ってきたときにも、既に教官補佐の任務に就いている一期生が何人かいた。やがてジェイド達も 彼ら同様、自分の訓練の合間に後続の指導に当たる機会が増えてきた。 そんな中、概してジェイドの指導は、下級生からの受けが良い。 担当するのが自分と同じ、「人類型」である事もあるのだろうが、彼の指導には、自分よりも体の大きい亜人類型や、 特殊能力を持つタイプの敵に対する対処法が適確に含まれているからだ。 そして、ジェイドは決して声を荒げる事がない。 どちらかと言えば激し易い性格だった彼が、人が変わったように穏やかな顔つきになったのに、昔からの付き合いのある 誰もが気付いている。 そして、その頬から微かな笑みが消える事が、決してなくなった。 以前のジェイドを知らない三期生以下にとって、そんなジェイドが『良い先輩』であると同時に、ある意味 『組し易しげな可愛い系』に見えたのは、当然と言えば当然の成り行きだったかもしれない。 そんなある日、事件は起こった。 リング上で、関節技を掛けられた場合の外し方と反撃のタイミングに付いて実戦講義を行っていたジェイドに、 三期生の一人が笑いを零しながら言い放ったのだ。 「そういうかったるいこと言ってるから、入替戦準決勝まで行ってて、負ける破目になるんじゃねえの、先輩」 はっと辺りの空気が凍り付いた。 ジェイドの緑色の瞳は、全く感情を動かさずにこの言葉を発した後輩を見遣った。 身長は目測で2メートル強と言うところだろうか。固い鎧のような筋肉で覆われた体躯を持つ、典型的即戦闘士型だ。 この男、確か、最終試験まで後1ケ月を切ったと聞いた。 その自信が、彼に今の言葉を吐かせたのだろう。 「そうか」 ジェイドはシミュレーションの相手をしてくれていた三期生を立ち上がらせると、礼を言ってリングから下がらせ、 軽く体に付いた埃を払った。 「じゃ、君ならどうする」 「はあ?」 「今と同じ状況で、俺に関節技を掛けられたら、君ならどう対処するつもりだと聞いている」 すると、その三期生は声を立てて笑った。 「冗談でしょう?先輩と俺のウェイトがどんだけ違うと思ってる訳?腕ひしぎ掛けたって、持ち上がっちゃうに 決まってるじゃないですか、先輩の体重じゃ」 しん、と沈黙だけが満ちてきた練習闘技場に、ジェイドの無表情な声が響いた。 「そう思うなら、上がってこい」 は?と耳を疑ったように聞き返した相手に、ジェイドは静かに手を挙げて招くように指を動かした。 「ここに上がって来ればいい。そして、その言葉通り俺の関節技を破ってみせてくれ」 相手がにいっと笑ったのが分かった。 この機会を狙っていたのは明らかだった。どこにでもいるのだな、こういう、意味もなく流血したがる奴と言うのは、 とジェイドは現在の状況とは全く関係なく、どこかぼんやりとした頭でそう思った。 正義超人だろうと、悪行超人だろうと。 ヘラクレス・ファクトリーだろうと、d.M.pだろうと。 何の変わりもない。どこにも違いがない。 同じじゃないか。どこも。 相手が飛び込んで、腰を捉えに来る。それを跳躍でかわし、飛び込むように体を前転させざま、延髄を踵で蹴り上げる。 足の裏がマットに付くやいなや、背後から襲い掛かる太い幹のような腕の払いを体を沈めて避け、がら空きになった 下半身へ、左腕一本を軸に体全体をばねにしたソバットを叩き込む。 延髄への蹴りが効いていたのだろう。バランスを失った巨体がマットに倒れ込んだ。 それを見た途端、胸を突き上げられるような感覚が襲ってきた。 なあ。 お前なら、ここで俺を小馬鹿にしたみたいな顔で軽く躱して、次に俺の顔面に蹴りを入れて くるんだろう? 『どこに目ェつけてんだ、ジェイド。』 そう言って、笑って─── ジェイドは、情け容赦なくその腕を捕らえると足を絡めて肩の付け根を押さえつけ、低いがはっきりとした声で告げた。 「まずは『腕ひしぎ』だ。俺の体重なら楽に外せる筈だったな。さあ、やってみせてくれ」 ギッ、と何かが軋んだような音がして、ジェイドに囚われた男は、悲鳴と言うには余りにも悲惨な声で絶叫した。 「この技は一見地味に見えるが、利き腕を破壊するには最適だ。技を掛けられている側としても、自分の腕と相手の 肉体が平行に存在する為に反撃が非常にしにくい」 ぎりぎりと力を掛けていきながら、ジェイドは酷く平坦な声で技の説明を続けた。その間も、男の悲鳴は途切れる事がない。 巨体が激痛を逃れようと、醜くのた打ち回る。 「ポイントは尺骨神経を肘の内側で完全に押える事と、肩を支えている靭帯の中で、一番脆い腋下靭帯をなるべく 手早く引き伸ばすか断ち切るかしてしまう事だ。その時、一緒に腋下神経を傷つけてしまえば一層効果的だ。 その上で背中の、ここ」 と、肩甲骨のやや下の辺りに爪先を掛けてそこを思い切り突き刺すように押した。 「肋骨と肩甲骨の隙間。数少ない、筋繊維と靭帯、神経束だけで肉体が構成されている個所だ。 ここを上手く攻めれば、腰と肩の連動を物理的に断ち切る事が出来る。下半身が弱い相手なら立ち上がれなくなる事もある。」 周囲の三期生達は殆ど恐ろしいものでも見ているかのような目になって、この穏やかで、決してラフファイトに 言及する事がなかった先輩超人の姿を見詰めている。 その視線にすら構わずに、ジェイドは淡々と解説を続けた。 「関節技と言うと、関節そのものにダメージを与える技だと思っている奴が多い様だが、それは違う。一時的にせよ 相手の動きを封じ込めて、急所を突くチャンスを創り出すものと考えないと、自分よりパワーやウェイトで勝っている 相手には永久に太刀打ちできない」 ジェイドはそう言うなり、先程示した個所を思いきり蹴上げた。 ごっ、という篭った呻きが男の口から漏れる。 それを確認するかのように眺めた後、男の腕を解放してジェイドは静かに立ち上がり、蹲るように転がった姿を見下ろした。 「…どうした。立てないのか」 男の顔には脂汗が浮かんでいる。その血走った目が、ジェイドを睨み上げた。 が、ジェイドはふっと鼻先でその目線を笑った。 「技を掛けられたらパワーで押し返す。それも結構だが、もう少し頭を使えるようにしておいた方がいい」 「…ちっく…しょう…」 掴まれかけた足首を荒く払いのけ、厳とした言葉は続いた。 「それが出来ないなら、相手の拘束を弾き飛ばすだけの肉体を作り上げろ!中途半端な自分に自信を持つな!死ぬだけだぞ!」 声もなく静まり返ったそこに、パンパンパン、といきなり軽い拍手の音が響いた。 流石のジェイドも、これには驚いた顔で振り返る。 そこには、青く輝く仮面で表情を隠した、学府最高責任者の姿があった。 「…ロビン先生…」 「見事な講習だった。敬意を表しよう」 一斉に三期生達が最敬礼で迎えるのを手で止めて、ロビンはリングに近付くと苦鳴に喘いでいる生徒を見遣り、 周囲の生徒に手まねで指示を出した。 「早く医務室に連れていってやりなさい。大背筋を傷めている筈だ。痛みが酷くて一人では立ち上がれないだろう。 きちんと手当てしなければ下半身の重みで脊髄を傷める」 抱え起こされて連れて行かれる三期生の姿を見送り、ロビンはさて、とジェイドを見た。 ジェイドは両手を体の両脇で拳にしたまま押し黙っている。 「ジェイド」 ロビンが呼びかけると、まるでそれから先を遮るかのように、ジェイドは深く頭を下げた。 「すみません。限度を超えた指導でした。処分はお受けします」 「いや…」 ロビンは一瞬その剣幕に圧倒されたように絶句し、軽く咳払いをすると首を振った。 「別に行き過ぎだったとは思っていないよ。大体、あの程度の疑似攻撃で立ち上がれなくなってしまうような スーパーヘヴィ級なぞ、まず最終試験でバッファの格好のオモチャになって終わるのが落ちだ。いい薬になった事だろう」 ジェイドは床に目を落としたまま押し黙った。こうするとヘッドガードの影に目が隠れ、彼の表情を覗う事が殆ど 出来ない事に、ロビンは気付いた。 そう言えば、昔のJr.も同じだった。 目深に被った軍帽の所為で、彼の瞳に過ぎる怒りも絶望も、涙でさえ、限界を超えて爆発するまで気付く事が出来なかったのだ。 「でも、…俺が言うのも何なんですけど」 ふと気付くと、ジェイドは顔を上げ、搬出された生徒の姿を追う様に扉の方に顔を向けている。 そこには、翳りも暗さもない。以前と少しも変わらない、真っ直ぐな眼差しのままの『ジェイド』の表情がある。 「下の連中は絞りが少し甘い…見たままの体、見たままの能力なんですよ。底があっという間に見えるんです。 これは、正義超人同士の模擬戦ならともかく、実戦では致命的でしょう」 「そうか」 ロビンは腕を組んで、誰もいなくなった闘技場を見渡した。 「それは…『超人』の血が薄まってきていると言う事と、関係があると思うか?ジェイド」 「さあ…俺は、自分の出自自体が不明ですから、血の濃さの問題は良く分かりません。」 ジェイドはただ、と前置きして少し考えるように顎の先に指を当てた。 「…奴等には『諦め』っていうのか…変な自己過信を感じる時があります」 「自己過信…?」 「自信過剰じゃないんです。自分の超人としての『特殊性』に対する自信、これはいいんですが… その先の『変化』を求めないと言うのか…自分にはここまで出来るんだからもう努力なんかしなくたっていいだろう、 っていう考えの裏側に、『所詮自分はここまでだ』っていう物凄く矛盾した感情が張り付いているような気がするんです。」 ロビンはまじまじとジェイドの横顔に見入ってしまった。 いつからこの子は、こんな風に物事を見るようになったのだろう。 「でもそれは、物凄く危険な考え方だと思います」 ジェイドは深く考え込むように、口元に当てた拳に顎を埋めた。 「『進歩』と『変化』を追いかける事を止めたら、俺達はどうなってしまうんでしょうか?ロビン先生」 ロビンは思わず真剣に唸りを上げて考え込んだ。 「…それは、非常に難しく、しかも恐ろしい質問だな、ジェイド」 ぱっとジェイドの顔に紅が散った。 「…申し訳ありません。変な質問でした」 「いや違う。今のお前の問いは、多分私達『超人』の存在意義に関わってくる命題に非常に近い所から出たものだと思うからだ」 ロビンはそう言って、ジェイドの肩に軽く手を置いた。 「…『進歩』と『変化』か…なるほどな」 「先生…?」 「強くなったな、ジェイド」 え、とジェイドの目が見開かれる。ロビンは微かに吐息交じりの笑いを零した。 「実は『あの日』、ケビンに言われたのさ…『あんたは俺の大事なものを全部取り上げる』ってね」 「……」 「それから、ここに戻る直前にも一度だけ電話があってね。くれぐれもお前の様子に気を付けるように、 しつこいほど念を押されたよ。」 ジェイドは沈黙したままだ。 ただ、その手が上がり、胸の辺りを押えるような動きをした。 「お前にも、息子にも恨まれて、私は相当の悪者だな」 ロビンは苦笑している声で言ったが、次の瞬間、厳然とした言葉を放った。 「だが、これだけははっきり言っておく。 あの段階では、『マルス』はどうしても排斥せざるを得ない存在だった。他の悪行超人を放置しておきながら 何故奴だけが、などという感情論では片づけられん問題だったのだ」 ロビンの青い瞳が、マスクの影からジェイドを見詰めた。 「いらぬ苦しみを味合わせているとは思う。しかし、詫びる事は出来ん。私は、あの時に為し得た、最適な処置をしたと 思っているからだ」 ジェイドはその目を真っ直ぐに見詰めた。 翡翠色の瞳に微かに煙るような色合いが漂ったように見えたのは、ロビンの錯覚だったのだろうか。 柔らかい線の唇が微かに開かれ、そこから吐息が零れるのかと思った一瞬に、それはそのまま軽く引き結ばれて、 微笑みに変わった。 「ロビン先生の御判断に、異論を挟むつもりはありません」 「…ジェイド…」 「それに、俺は先生に恨みなんか持っていません。」 にこ、と笑みがその顔に浮かぶ。 「その辺りは心配なさらなくても大丈夫です。俺は、今まで通り先生を尊敬しています」 ジェイドが、泣かない。 そんな風にバッファローマンがぼやいていた事をふと思い出した。 そして、地球を立つ直前にやってきたJr.が呟いていた言葉も。 『ジェイドは、スカーフェイスが死んだ事を、絶対に信じないと言っている』 張り詰めた一本のピアノ線が、今のこのジェイドの笑顔を支えているのか? 言葉を無くしたロビンの前で、では、次の時間は講義がありますので、と一礼すると、ジェイドは扉の向こうに 消えて行った。 |