その朝、スカーフェイスが目を覚ました時、ジェイドは彼の頬に前髪が触れるくらいの位置に頭を置いていまだ夢の中にいた。 まあ、いつものことである。まず、ジェイドが自分より先に目を覚ましている事など百パーセントない。 これは、言い切っても良いだろう。 右肘を突いて頭を支え、半身を起こしてその寝顔を見下ろしてみる。 その気配にすら反応せず、金色の睫を緩く閉ざしたまま無心に眠っている顔に、ほんとにこいつは、自分を信じきっているんだなと 不思議なような、腹立たしいような気分が体に湧き上る。 あれほどこっぴどく傷つけ、嘘を突き倒し、挙句に師匠を取り上げようとした男を許し、あまつさえその腕に体を預けるなんて、 何だってそんなことができるんだろう。 いっそ、もっともっと傷つけ、いたぶり倒せば、こいつのこの無条件の信頼は消えてなくなるのだろうか。 しかしどうやら、その方法が思い付かなくなってきている自分の脳が、これまた信じられない。今のジェイドは、 たとえもう一度腕をもぎ取ろうと、一寸刻みに体を傷つけようと、その心臓を素手で握り潰そうと、屁でもないという顔で 睨み返してきそうな気がする。 『なんでお前が、こんな事するんだよ?』 と。 そこまで考えたスカーフェイスは、盛大に溜息をひとつ吐いて髪を手荒く掻き散らした。 相手の精神にダメージのない暴力なんて、まさにエネルギーの浪費である。馬鹿馬鹿しくて、はなっからやる気が起きない。 ひとつだけ、いや二つばかりその方法に心当たりがないではないのだが、それはなんだか気乗りがしない。どうも、 一瞬にして勝負がつくようなやり方は性に合わないらしい。それは、バッファローマンをして『意外だ』と言わせた事でも あるのだが──どちらかといえば、こちらの圧倒的優位性を見せ付けつつ、じわじわと相手の生命力を削いでいく戦いの方が 好みなのだ。 ま、取り敢えず今の所はそういう殺伐とした考えはあっちに置いておくことにして。 スカーフェイスはベッドを降りると、シャワーを浴びようとバスルームに向かった。 髪を拭きながらベッドルームに戻ると、まだジェイドは眠っている。 よほど安心しているとしか思えない。つくづくバカだねこいつは、と呟きながらベッドサイドに座った時、ふと、 枕元に置いてあった携帯電話に目が行った。 珍しい事に、メール着信のサインが出ている。 誰だ一体、と確認のボタンを押せば、受信ボックスに2通のメールが入っていた。 一つ目の送り主を見た途端、スカーフェイスの顔が歪む。 ケビンだった。 そのまま消去してやろうか、と一瞬思ったのだが、なんとなく嫌な予感がして表示を選択する。 液晶画面に、メッセージが浮かんだ。 『おはよう。これを見ているのは多分朝だろう。 昨夜はお疲れさまだったな。お前の珍しくとっ散らかった姿を見せてもらえて、実に面白 かったよ。』 ここで切ってしまおうかと思った瞬間、次の言葉が目に飛び込んできた。 『それから、ジェイドだが、本当に可愛い奴だな、あれは。 味見はさせてもらったが、なかなか悪くない。 おまえにしちゃ珍しくまだ原石≠セな? 師匠の目が厳しくて、手入れしてる暇もないのか?気の毒に。』 この言葉に、ぴしっ、と音を立ててスカーフェイスの動きが固まった。 続いて、次のメッセージを開く。 ナンバーはケビンのものだったが、差出人はキリコだった。 『おはよう。御気分は如何? 昨夜はゆっくりしていただけなくて残念だったわ。今度は、翡翠坊やと一緒にいらっしゃ い。サービスしてあげるから。 それから、余計なお世話ですけど、あんまり坊やの体に跡残すようなコトしちゃだめよ、 うそつきさん (意外に目立ちましたわよ。あそこ。)』 軽い電子音が耳についたのか、ふとジェイドが目を覚まし、まだどこか気だるそうな動きで腕を上げて、目元を擦るような 仕草をしながら呼びかけてきた。 「ん…なに、してるんだ?」 スカーフェイスはゆっくり顔を上げ、ジェイドを見た。 その目つきの物凄さに、ジェイドの眠気はいっぺんで吹っ飛んだようである。 「な、なんだ!?どうした!?」 「…ケビンに、何された?」 「は!?」 目覚めの混乱の中でジェイドが寝乱れた金髪のまま頭を上げると、スカーフェイスは携帯を放り出して、彼の襟首を掴むと その体の上に馬乗りになった。 「『味見』ってどういう事だ。ケビンに何されたんだ、昨夜!?」 「え!?」 大混乱の中で蘇ったのは、あの、掠めるような口付けとも言えないような、一瞬の接触。 は、と小さく息を呑んで、口元を手で覆ったのが致命傷になった。 この瞬間、スカーフェイスの形相が見事に『変わった』。 「…てめえ…」 「違う、誤解だ、絶対何もしてない!!」 「じゃあ何だ、今の反応は!」 ったく、とジェイドは舌打ちして思い切りブリッジをかけるとその拘束を振りもぎり、スカーフェイスの下から脱出して、 ベッドサイドの床に降り立った。 「…逃げやがったな」 全ての指の関節を鳴らしながら、スカーフェイスが近づいてくる。 「どーも、お仕置きして欲しいらしいなあ、ジェイド」 「馬鹿野郎、だから、昨夜の内に話をちゃんとさせろってあれほど…」 言う間もなく、物凄い勢いで蹴りが腰を狙って飛んできた。跳躍してこれをかわしながら、彼の首狙いでローリングソバットを放つ。 「言ったろうが!」 だがこれは、微妙な高さの目測違いで、スカーフェイスの肩に食い込んだ。厚い筋肉でガードされた肩にそんな攻撃が効く訳もなく、 逆に足首を掴んで床に叩き付けられる。 苦鳴を放って転がったジェイドを、すかさず床に膝を突いて背後から自分の腿の上へと抱え込み、その膝裏に両肘を掛けると、 スカーフェイスはジェイドの両肩を力任せに掴み上げ、思いきり肘を締め上げた。 頚骨と膝裏の靭帯に激痛が走り、ジェイドの口から悲鳴に似た絶叫が上がる。 「痛ぇか?痛ぇよなあ。」 スカーフェイスの、まるで人が変わった──いや、人が「戻った」ような、この状況を楽しんでいるとしか思えない声が耳元で笑う。 「お前、首と脚が細えからなあ。それで、こんなことされたらもう大変だろ?」 胡座を組むように座り直したスカーフェイスの膝が、思い切り胴の一番細い部分を両側から締め上げてくる。ジェイドの口から、 ごっと苦い水が溢れた。 「あっ…がっ…」 「横隔膜外側筋ってのはそれでなくても鍛えるのが難しいとこなのに、お前のここって、シャレにならねえほど華奢だからな。 胆嚢直撃、楽勝だ」 スカーフェイスはそれは楽しそうに笑い声を上げた。 「昨夜、じっくりお体拝見させてもらった甲斐が早速あるとはねえ」 「この…馬鹿野郎…っ!」 目の前に、壁に嵌め込まれた巨大な鏡がある。 昨日、スカーフェイスが閉め忘れた数センチの隙間から零れた朝日が部屋に明るさをもたらし、その光の中に今の自分達の姿勢が ほんの少し斜め横から見た、ほぼ真正面の角度で映っている。 その瞬間。 どうも、二人の頭には同時に同じ言葉が走ってしまったらしい。 ──何か、この格好って下手すると、かなり── その為だったのかどうか。 ほんの少しスカーフェイスの手のロックが緩み、その所為でジェイドの体は彼の膝の間にそのまま落下した。 「痛って……!!」 落下の勢いで腰を打ったのと、そして締め上げられていた部分の痛みとで、思わずジェイドが腹を抱えるようにして前屈みに蹲る。 どうにも手をつけかねるという顔で腕を組んだままそれを見下ろすスカーフェイスに、暫く黙っていたジェイドは、 ほんの少しだけ体を起こし、呟いた。 「なあ…確か昨夜、『ケビンは俺より嘘吐きだから、信じるな』って言ったの、お前じゃなかったっけ…?」 顔を顰めたスカーフェイスへ、非難するように緑色の目が向く。 「なのに、俺の言う事より、ケビンさんの言う事の方を信じる訳…?やっぱり、そうなのか?」 こんどはスカーフェイスの方の顔色にしまった、という色が走った。ジェイドは両手を床に突いたまま、ぽつんと呟いた。 「…まあ…仕方ない、事、なんだろうけどな…」 「…そういう訳じゃねえ…」 「だって、そうなんだろう?」 ああ畜生、それでなくてもややこしいのに、とスカーフェイスが横を向いてケビンを呪詛せんばかりの、特大の溜息をついた時、 ジェイドがまるで囁くような声で呟いた。 「それとも、少しは──」 「あ?」 聞き返されて、ジェイドの顔は耳まで赤くなる。 「何だって?聞こえなかったんだけど」 「…聞こえなかったならそれでいいよ」 「何だよ、はっきり言えよ」 「もういいって言ってんだろ!」 怒鳴りながら放った右手での裏拳が思い切り顔面に決まっている。鼻を抑えて蹲ったスカーフェイスに、 ジェイドは真っ青になってにじり寄った。 「ご、ごめん…大丈夫か?!」 「…大丈夫…」 言いざまに、スカーフェイスの両腕がジェイドを抱え上げ、左肩の上でバックブリーカーの形を作る。 「なワケ、ねえだろう!こないだ顔面骨折してんだぞ俺は!!ちったあ前後を考えてやれ、このバカが!」 「分かった分かった、俺が悪かった、ギブ、ギブ!!」 そうやって二人が、頼むから勘弁してくれいいや誰が許すかの大騒ぎをぶち広げている、ちょうどその直中にブロッケンJr.が 帰ってきて、目を丸くして言った。 「…朝っぱらから、何をやっとるんだお前等は…」 二人は思わず声を揃えて応えていた。 「リハビリです。」 今週の教訓:「対岸の火事ほど面白いものはない」人は大勢います。恋愛初期の方々は、くれぐ れもそういう人の餌食にならない様に気を付けましょう。 それから、リハビリ、トレーニングなどはきちんとした専門設備のある所でやりま しょう。 痴話喧嘩のついでにやるものではありません。 おしまい。 |