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◆ 乾いた水槽の中の知りたがりの仔猫

 雑踏の中で拾った恋人は。
 時に…
 得体の知れない『生き物』に、なる。

 おまえの中に、幾つものオマエがいるのか。
 それとも。
 幾つものオマエが重なって、ひとつに見えるものが、おまえなのか。
 俺にはわからない。
 けれど。
「…金魚、ねんね?」
 境界線の向こう側に、ケビンが行ってしまうのを見るのは、これが初めてではなかった。
 あどけない瞳と、いとけない口調で、ケビンは尋ねる。
 水底に、暗い色の小石をひいただけの、水槽の中、わずかばかり、濁った水面に、腹を上にして、浮かび上がった金魚。
 そうすることが出来るなら、おそらくおまえは、空色のリボンを結わえて、可愛がっただろう。
 ……赤い鱗の可愛い金魚。

 これまでにも、いろいろな『人格』が、この、忘れな草と同じ色をした瞳を持つ『肉体』のなかで
  めまぐるしく交代していくところを、見た。
 ある者は破滅を望み、ある者は暴虐を尽くし、ある者は……
 まるでおまえは、パンドラの匣。
 乾ききった、水槽。
 あるべき場所に、あるべきものが、欠落している、空漠の容れ物。
 見捨てることもできた。
 拒絶することもできた。
 それでも。
 俺はおまえを手放すことができなかった。
「…死んじまったんだよ」
「しんだ?」
 整った顔立ちは、どちらかといえば、母親譲りのものだと、云った。
 何処で踏み間違えたものか、道を誤りさえしなければ、今ごろは、キン肉星だかの王子様と対等か、
  それ以上の待遇で正義超人の「新世代」として、前途を約束されていたはずなのに。
 狂い、ひずみ、堕ちるところまで落ちて、今は俺の傍らにいる。
「生きていないんだ」
「いない、の?」
「そうだ。
 遠くへ、行っちまったんだ」
「ここにいるのに?」
「死ぬというのは、な。
 こころとからだが別々になることだ」
「わからないよ」
 そうだな。
 ほんとのこと云うと、俺にだって、わからない。
「とにかく……」
 俺は、手近なところに転がっていたマッチ箱の中箱を引っ張り出し、中身をあけてカラにすると、
 忘れな草と同じ色の瞳が見詰めている水槽に浮んだ金魚をすくいあげ、箱の中に入れた。
「金魚、ねんね……」
 何番目の誰…かは、もう、数えるのを、やめた。
 ただ、いつになく、ケビンの中に入れ替わり立ち代り顕れる『生き物』にしては、穏やかで、物静かだ。
 みっつか…よっつ。
 生きていく過程の中で、おまえが無理に心の奥底にしまいこんだか押し殺した、おまえの中の、小さな子供が、
  今、死んだ金魚と同じように、おまえの精神という水槽の表面に浮かび上がってきたのだろう。
「おいで」

 お葬式を、してやろう……

 あの街の雑踏の中には、埋めてやるべき場所も、還してやる土も、魂の戻ってゆく空さえもなかった。
 土に還り、寄せ返す波に揺られ、肉体という名の牢獄から切り離された魂は、遠く、空のかなたで微塵になれば、いい。
 死んだあとまで窮屈なのは、ごめんだ。
「どうして、埋めるの」
「死んだものが眠るのは、土の下だからさ」
「眠るの?
 いつ、目が醒める?」
「醒めないんだよ。
 永遠に」
「醒めないのに、寝ているの?」
「…醒めない夢をみるために、金魚はねんねしているんだよ」
 dMpの宿舎から、少し離れたところに、いったい誰の所有している土地なのか知らないが、
  やたらと丈の長い草の生えた原っぱが、あった。
 いまどきの子供は、家の中でテレビゲームが通り相場だから、こんな場所で遊ぶようなガキは、誰ひとりいない。
 居たとしても、悪行超人の巣窟みたいな場所の近くにある草っ原で、子供を遊ばせようだなんて親が、いるはずもないか。
 日の落ちる少し前の、蒼い草いきれの匂いがするこの場所には、少し、肌に冷たくなった風が吹き抜けてゆくばかり。
 斜めにさした夕陽が、ざわめく草の波打ち際を、茜色に浸している。
「そして、いつか、土になる」
「金魚が、土になるの」
「そうだ」
「赤い色の?」
 赤い金魚は赤い土。
 青い小鳥は青い土。
 もしそうだとしたら、地上はとりどりの色にくるまれて、今よりもっと、綺麗かもしれないな。
「さよならを、云いな」
「さよなら?」
「金魚には、もう二度と逢えない」
 二度と逢えないということが、どれほどの悲しさなのか、おまえは、知っているだろう…
「やだ。
 金魚とさよなら、したくない」
「いやでもどうでも、金魚はもう、遠いところに行ってしまったんだよ。
 おまえの手には…届かないところに」

 届かないところに行ってしまったものを、幾つ、数えることができるか、試したことが、あるか?

「何処へいってしまったの?」
「ん…?」
「金魚、遠くへ行ったって」
「そうだな……金魚の魂は、あの星よりも、ずっと高いところ、かな」
 いつしか、西の空に暮れなずんでいた夕焼けの色は、夜の帳に覆い隠され、訪れた夕闇は、
  蒼から藍へといたるこまやかなグラデーションとなって、空の一面を染め上げていた。
 一番星を指差して、言い聞かせると、小さくひとつ、肯いた。

「マルスも、行くの?」
「何処に?」
「あの星よりも、遠いところ」
「俺は…あんなところまで行けないかも知れないな」
 ケビンの中のこの『生き物』たちは…ケビンの心のカケラなんだろう。
 生きていくのにどうしても、捨ててしまわなくてはならなかった、心のあちこちが、いまになって、
  ガラスよりも透明で、水晶の結晶よりも尖った針となって、おまえの心を苛むから……
 おまえはおまえの心から、自分の居場所を見失ってしまった。
「じゃあ、何処へ、行くの?
 マルスも、土に、なるの?
 おれを、おいて、いくの?」
 
 おまえを置いて、何処にも、行かない。

 そう、答えるかわりに、俺を見詰めるおまえの頬を両手に挟み、それから、KISSした。
 夕闇から宵闇の中に沈みゆくあたりの景色は、何処までが草の波で、何処からが空なのか、
  はっきりと見て取ることはできなくなっていた。

 どのオマエが本当のおまえなのか。
 それとも。
 残忍や、残酷や、残虐や…自己懲罰や自己破壊や、自己否定のすべてが重なり合って俺の目の前に見える『生き物たち』が
  真実のおまえなのか。
 答えのない疑問。
 俺とおまえのあいだに横たわる、混沌。
 抱き寄せて、こんなにも。
 舐めるように慈しんでも、俺の思いは届かない。
 遠い、手の届かないところにおまえの心があるのだとしたら。
 ややもすると、おまえは本当は死んでいるのかも知れず、万が一そうだとしたら、
  俺は魂のある人形に恋をしたとでも云うのだろうか。

 手のひらと、柔らかな頬のあいだに、熱く濡れた感触が、広がった。
 …涙?
「何故、泣く?」
「悲しいから」
「何故、悲しい?」
「何処か、わからないところが、痛いから」
「何故、痛い?」
「マルスが…俺を置いて行ってしまうのが、怖いから」
「置いていかない。
 おまえを置いて、何処にも行かない」
 仔猫のように頼りなげなこの生き物を、誰が置き去りにできようか。

 涙が胸に沁みるのは…
 心に傷があるからだろう。

 ひそやかに。
 おまえの瞳に雨が降る。

「抱いて」
「…?」
「…今すぐここで、抱いて」
「ケビン?」
「はやく」

 風に乱れた髪をゆっくり払いのける。
 …おまえは……だれだ………

 日のあるうちの暑さに、少し汗をかいた肌をまさぐると、おまえは咽喉の奥で、小さく悲鳴を上げた。
 胸の、ありなしの尖りの縁で、指先が、ゆるく円を描く。
「…ん」
 痛苦に耐えるときも、悦楽を堪えるときも、何故ひとは、こんなにもかたく目を閉じるのだろう。
 風に吹き流される草の葉は、こすれあうさなかに波の音をたてる。
「……あ」
 おまえが何者であっても、構わない。
 耳朶に歯を当て、甘く噛んだ。
 何か、説明のつかない『もの』から逃れようと、腕の中で、おまえが撥ねる。
 それ以上の強さで、抱きしめた。
「俺が何になるのか、と…おまえは訊いた」
 その問いに、俺は答えられないけれど。
 俺とおまえが何になるのかは、今、わかった。
「……マルス…ぁ…何に…なる……の…」

 こうして。
 溶けて…融けて…解けて。
 ひとつに、なるのさ。

「金魚…
 今ごろあの星にたどり着いたかな」

 夜が深まり、ひときわ星の光がさやかになった。
  
「迷子になってなけりゃいいけど」

 おまえはオマエの心の何処で、迷子になって、泣いている。
 オマエの涙は、俺の胸にも沁みるんだ。

 だから。
 俺はおまえを置いて、何処にも行かない。

「帰るぞ」
「…うん」