SCAR FACE SITE

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◆ わたしに汚い言葉を言って

 どうして。
 こうなってしまったものか、悦楽に沸騰していく脳細胞では、もはや…ことのいきさつをたどりなおす余力などなく…
 目を閉じて。
 自身を苛む痛苦に耐えて、その先に、何があるのか、確かめるすべを捜している。

「よくそんななりで、ここに来る気になったものだな」
 冷たい声があきれるほどに、その部屋の訪問者の着衣は所々ほころび、胸の前を止める釦がいくつか、千切れ飛んでいた。
 何をされたのか、一目瞭然だった。
「そんな格好でいきなり押しかけてきて、あいつに…ああよしよしって、慰めてもらいたかったのか?」
 ネフライトと同じ色をした瞳が、足許に視線を落とした。
「ケビン…」
 知っていたのに。
 ここに来れば、あいつに会える。
 だけど。
 その側に、影のように寄り添う誰かが居ることも。
 知っていたのに。
「入れよ」
 す…っと、ドアの前から身を引き、訪問者を、室内に迎え入れる仕草をしてみせる。
 おずおずと、誘われるまま、訪問者は足を踏み入れた。
「誰にやられた?」
「……」
 直截的で、情け容赦のない質問の仕方に、口許が硬く引き締まるのを感じた。
「……クリオネ、だな」
 きれいに磨き上げられた編み上げの靴に残る、何か固いもので擦られたような傷と、爪の中に残る赤黒く半ば乾燥した血液、
 それが好みなのか、それとも彼が育てられた家の伝統なのか、アーミーグリーンの軍服を模してデザインされた服は、
 たっぷりと埃を吸って、白く毛羽立っていた。
 一体どんな種類の液体が染み込んだのか、気味の悪い染みが服地のあちこちをまだらに染め上げていた。
「おまえから…潮風の匂いがする」
「違う!
 あいつはそんな匂いなんか…」
「語るに落ちたな」
「……」
「お上品に…『シャワーを浴びてから、清潔なシーツを敷いたベッドの上で』されたわけじゃないだろ」
 的確に、事情を言い当てる視線の鋭さに、訪問者は、いっそう、身をすくめた。
「おおかた。
 どこかの雑居ビルの裏側の、ゴミバケツの陰の薄暗いところで」
「やめてくれよ!」
「いや、と…云ったか?
 それとも…いい、と?」
 捕らえた子ネズミの腹に、猫がゆっくりと爪を埋め込むように、ケビンは続ける。
「おまえが誘ったんだろ?」
「俺はそんなつもりなんか」
 それまでうつむき加減だった翡翠の瞳が、怒りを込めて、ケビンを見つめ返した。
 受け止め、受け流し、勿忘草の色をした双眸は、静まり返った湖面のように森閑と相手を見おろしている。
「慰めてもらいに来た」
 あどけなさが、そこここに残ったままの、ビスクドールめいた、顔立ち。
「甘やかして欲しくて、ここに来た」
 こどもから、少年に…いや、何か別の存在に変貌していくあやうい階梯の途中に、途方に暮れて立ち尽くしているかの、
 たよりなさが、ひどく…情欲をそそることに、当人は、気がついていない。
 嫉妬とは。
 自分が持っていない「何か」を、潤沢に…或いは、僅少にでも持ち合わせている誰かを見たとき、呼び覚まされる、
 人の最も根源的な負の感情のひとつだ。
 すべては、独占欲から生じる。
 誰かを、何かを、独り占めしたいと思わないものなど、人以上か人以下の存在だ。
「おまえが悪いわけじゃないと云ってもらいたくて、ここに来た」
 信じていたものに裏切られれば、誰だって、傷つく。
 ましてあんな…
 あんなこと…
 夢にも思わなかった、望みもしない行為で、傷つけられた。
「俺がいることを知ってて、おまえはここに来た。
 俺の立場は、どうなるんだろうな?
 俺を差し置いて、おまえ、あいつと何をする気でここに来た?
 ジェイド」
 
 誰にも、何も、くれてなど、やらない。
 爪一枚だって、髪一筋だって。

「!?
 なに…するんだよ!?」
 好きだ、と囁く。
 きっと、同じことをジェイドにも、囁く。
 愛してる、と。
 多分、同じ声音で、ジェイドにも。
 おまえのほうが…いい…とも云うのに、何故。
 どうしてあいつは、俺だけを見ていてくれないのだろうか。
 いつか…日も夜もなく睦みあったあの日のように、淫楽の、蜜に溺れるように、相手を喰らい尽くすまでに貪りあった
 あの夜のように。
 恋愛は、ひとの心を地図にして、その領土の何パーセントを支配することができるかを競う、ゲーム。
 大昔、フランス人が、云った。
 戦争と恋愛においては、どれほど卑怯な手段を使っても、許される、と。
「あれで、あいつは潔癖なところがあるから」
 ジェイドの手首を掴み、ケビンは後ろ手にねじり上げるようにして、その背後に立った。
 おとなしく歩くように促し、バスルームへとつづく扉の前まで、歩かせた。
「汚いと、嫌がる」
「…俺は」
「汚れてなど、いない?」
 空いた手で扉を開き、中へとジェイドを突き飛ばす。
「あ…なに……何を」
「洗い流せよ。
 ほかの男の匂いをさせて、あいつに抱かれに来るなんて、おまえ少し、図々しくないか?」
 シャワーの栓をひねる。
 金色の霧雨のような、柔らかに光の輪を描く髪に、肌を刺す冷水が降り注いだ。
「!!」
 見る間に、シャワーの水は、ジェイドの着衣を濡らしていった。
「ほんの少し…」
 感情を押し殺した声が、ジェイドの唇から、零れ落ちた。
「オレより、ほんの少し、あんたのほうが先に出逢ったってだけじゃないか」
「そうさ、だから、俺としては、既得権を主張したいくらいだね」
「スカーはあんたのモノじゃない!」
「マルスは俺のものさ」
 ゆっくりと…ゆっくりと。
 視線の先が変わっていくのを、誰も、止められはしない。
 心の離れていくのを、引き戻すすべなど、誰も知らない。
 人の寿命が判らないように、恋の命もどれほどの長さをもつものか、それも…誰にもわからない。
「おまえ、云えるか?」
 大切なものを、誰にも取られたくないと思うのは、罪じゃない。
「マルスに、俺は今日、ほかの男と寝ました、ってさ」
「オレはそんなこと!」
 自分もまた、濡れることを顧みず、ケビンは降り注ぐ水の中に立ち尽くすジェイドの胸元を、大きくはだけた。
「これでも?」
 艶のある白い肌に…赤い烙印。
 抵抗したときに出来たであろう打撲傷や擦過傷による痣のほかに、明らかに、ある行為の途上で焼き付けられたと
 思わしき、言い逃れの出来ない証が、無数に肌膚の上に散っていた。
「いやだって…いやだって云ったんだ。
 なのに…」
「脱げよ」
「……」
 翠の瞳が哀願するように、ケビンを見上げる。
「誰かの手垢のついたような躰で、マルスに触れようだなんて、よくも思い立ったものだよ」
 嫉妬は…
 七つの大罪のうちのひとつだそうだ。
 そして。
 心と体に傷を負ったものを…『おまえが悪い』『おまえにも責任がある』『おまえが誘ったんだろう』などと言葉で
 追い詰めるのも、セカンドレイプと云う、犯罪だ。
 犯罪行為にまでエスカレートしていく加虐は、歪んでしまった愛情のためだと判っていながら…幾ばくかの後ろめたさを
 感じながらも、止めることが出来ない。
「脱いで、洗えよ。
 マルスには、黙っていてやる」
 水を吸い重くなり、外し辛くなった釦を、冷え切った指先で苦労しつつ、外してゆく。
 表われたのは、クリオネでなくとも欲しくなる、均整の取れた、肢体。
「オレは、汚れてなんか、いない」
「薄汚いよ」
 ケビンは、足許に転がっていた石鹸とスポンジを、ジェイドに投げつけた。
「舐めて咥えて、しゃぶられた。
 違うか?」
「やめろ!
 おまえのほうが、ずっと…
 腐りきってる」
 
 知られることは、怖くなかった。
 けれど、相当の抵抗をしながら、それでも受けざるを得なかった仕打ちに対する羞恥の念は、あった。
 一時とはいえ、同意しなかったとはいえ、躰を自由にされ、欲しいままに蹂躙されたことを、進んで曝け出すことは、
 したくなかった。
 それは…スカーフェイスに対する秘密であり、秘密であるなら、十分恐喝のタネになるものだった。
「四つん這いになってこっちを向け。
 俺がいいと云うまで、自分で、擦れ」
「……下衆」
「どうとでも。
 云うことを聞かないなら、おまえが誰と何をした後にここにきたか、マルスに事細かにしゃべるだけさ」
 これまでに何度か、顔を合わせる機会はあった。
 言葉を交わしたことはなく、ただ、たがいの存在を、マルスを…あるいはスカーフェイスを通して知っている…
 というほどのものだった。
 洗い場に、緩慢な動作で膝をついたジェイドが、泡立てた石鹸を自分の中心に塗りつけた。
「いい格好だ。
 サカリのついたオスネコみたいだぜ」
 言葉に嬲られ、嫌悪を露わにするジェイドに、ケビンはさらに追い討ちをかける。
「欲しがって…おねだりしてるぜ。
 おまえの……」
「あんた、ほんとに、クズだ」
「口答えできる立場なのか?
 手がお留守になってる。
 綺麗になるまで、続けろよ」
 機械的で単調な刺激でも、執拗に繰り返されれば、自明の反応を引き起こす。
「淫乱だな。
 誰も、自分で慰めろ、とは云ってない」
 冷え切ったのは、指先だけではなく、冷水に体温を奪われ、ジェイドの唇は、紫色に、変わっていた。
 ただ一点だけが…熱い。

 誰にも触らせない。
 誰にも取られたくない。

 いちばん汚いのは…俺だ……

「出しちまうところを、俺に見られていいのか?」
「あんた…最低だ…!」
 思わず体を起こし、立ち上がりかけたジェイドに、厳しい命令が飛んだ。
「続けろ!
 姿勢を崩すな」
 明らかな侮蔑の視線をまともに受けて、それを逸らすこともせず、ケビンは、流れつづけるシャワーの下に近づいた。
「あんた…オレに嫉妬してるんだ」
 ふるえながら、いつでも反攻に転じる気概を崩さず、ジェイドはケビンを睨め上げる。
「だったらどうだ、と?」
「可哀想なひとだね。
 心が離れてしまった相手にすがりつくのは、見苦しくないか?」
 ケビンの右手が空を切り、したたかに、ジェイドの横面を張った。
 不思議に乾いた音が、浴室に響いた。
「俺とマルスがどんな風に生きてきたか、知りもしないで」
 打擲され、仰向くように洗い場に倒れたジェイドは、急所を隠すような仕草をした。
 ケビンが思い切り手を払うと、いままでてのひらにくるみ込まれていたそれは、何か、そこだけが独立した別の生き物のように、
 跳ね返った。
「あ…!?」
 掴み、しだく。
 容赦なく。
 欲望を引きずり出す手口は、巧妙なものだった。
 変幻自在にからみつき、蠢く指は、無数の蛇が這うようで。
 与えられる自涜の営為は、一瞬先すらも予測できない動きかたを見せて、昏い色の何とも知れない液体で濡れそぼった
 粘膜をあやなした。
「いやだ…いや…だ……いや…」
 死命を制するほどの急所を押さえられ、ジェイドは優雅なラインを描く眉根を寄せて、硬く目を閉じた。
 脈打つものが、狂熱と淫娃を孕んで遥かな高みに昇り詰めてゆく。
 喘ぎにさらに煽られて、弄ぶ指にはさらなる淫虐が加えられてゆく。
「あ……ぁ………」
 耐えもならない屈辱と、羞恥。
 頬を流れ落ちるのは、銀色の矢のように降り注ぐシャワーの水だけではなく。
「駄目…」
 
「もう、それくらいにしておけ」
 二人が、同時に声のした方向を見上げた。
「スカー…」
「マルス」
 いつから…の、問いに、二つの名前を持つ男は、薄く笑っただけだった。
「いい見ものだったぜ?」
 なぜ…
 色合いの違う二組の瞳が、不意の中断をもたらした姿をおぼろに霞む眼差しで見つめつづけている。
「いい加減にしないと、風邪引くぜ。
 二人とも、こっちに来い」

 バスタオルで体を包んだジェイドと、バスローブを羽織ったケビンが、マルスの待っている居間に戻ってきた。
 一人掛けのソファに、片膝を立ててくつろいだ格好で身を預けているマルスは、いつもの皮肉な翳のよぎる笑い方を
 しながら、二人を眺めやる。
「おまえたち二人に、区別なんか、ないさ」
 この男の何処に、苛立ちに近いほどの魅惑があるのか、わからない。
 けれど。
 …誰かを好きに…誰かを所有したいと望んだときに、確固たる理由が必要であるのなら、この世からは恋の歌も物語も
 半数以上が消滅してしまうだろう。
 巡りあい、惹かれあう。
 …人生は、偶然の積み重ねなのさ。
「おまえたちは、俺に奉仕すればいいんだ」
 ソファの縁から足を下ろし、見せつけるように、おおきく展いた。
「どっちだ?
 どっちから来る?
 それとも、二人一緒でも、俺はかまわない」
 誘いかける声。
 戦慄が、背筋を疾り抜けていった。
 燃え立つ炎にみずから身を投げる鱗紛に彩られた昆虫のように、ふたり、二人ながら、ともに立ち上がった。
「俺を、悦がらせてみろよ。
 おまえらは…
 俺専用の淫売さ」
 
 
 わたしに汚い言葉を言って。


「モノ欲しそうに、涎を垂らしてる、薄汚い街娼だ。
 俺が欲しければ…俺を満足させてみろ」


 そうして、プライドだの規範だの矜持だの尊厳だのを剥ぎ取られて初めて、めくるめく、快楽の淵へ、溺れてゆける。
 どちらのものともつかない腕が、マルスの首に絡みつき、どちらのものとも判別できない足が、マルスの足のあわいに
 差し入れられる。


 わたしに汚い言葉を言って。


 まさぐる指が、自分のものなのか、誰かのものなのか、硬いのか柔らかいのか判らない肉塊を咥える口から押し出される
 階調の定かではない音の切れ切れが何を意味するのか…


 どうして。
 こうなってしまったものか、悦楽に沸騰していく脳細胞では、もはや…ことのいきさつをたどりなおす余力などなく…
 目を閉じて。
 自身を苛む痛苦に耐えて、その先に、何があるのか、確かめるすべを捜している。


 わたしに……