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◆ 情熱零度(前編)

その時ジェイドは騒乱の中にいた。

 スカーフェイスにもぎ取られた右肩が、炎を押しつけられたように痛む。
 目がくらむほどの激痛。叫びは声にならず、ひゅうひゅうと小さく呼吸がもれるばかりである。
「意識は――…。」
「――早く、止血を――――…救急車へ……!」
「――連絡…――、緊急手術の手配――…。」
 ジェイドの周囲で複数の切羽詰った大声が飛び交う。
 痛みで気を失いそうになる間際に、それらの声によって現実の世界に引き戻される。幾度もそれを繰り返しながら、
 次第に意識は淀み、曖昧になっていく。
(――レーラァは…?)
 寝かされているのか、目の前に薄青の空が広がっている。それを背景にして、白衣を身に着けた大勢の知らない
 人間が、代わる代わるジェイドを覗きこむ。
「ジェイド…!」
 その声が、沈みつつあったジェイドの意識を覚醒させた。
「しっかりしろ!ジェイド!」
「――レー…ラァ…。」
 白衣の人々の間に、唇を噛み締めたブロッケンJr.の顔があった。最も信頼する人の姿を目にして、
 ジェイドは急に体から力が抜けるのを感じた。
「レーラァ、レーラァ…、ご…めん…、なさい…。」
「いいから、ジェイド!今は喋るな!すぐに…、すぐに病院に連れて行ってやるから。だから、おとなしくしていろ!」
 ブロッケンJr.は、血の気を失ったジェイドの手を強く握り締めた。
 握った手の平から伝わる体温に、ジェイドはひどく安心した。血の気を失った顔で微笑み、師匠の手を握り返す。
 その時、彼は師匠の背後、ずっと後ろから己をみつめる視線に気付いた。
 暗闇をまとったような、黒いコートの男。
 無機質な青銀色のマスク。その下から、射るような視線をジェイドに投げかけてくる。
 その姿の主を、ジェイドは知っていた。
(あれは、ケビンマスク――?…どうして――、オレをそんな目で見るんだ?)
 ジェイドがケビンの姿をもう一度よく見ようとした刹那、彼の意識は真っ暗な世界に吸いこまれた。


「キッド先輩!お久しぶりです!」
 ホテルの広いロビーにざわめく人ごみの中から見知った顔をみつけ、ジェイドはにこやかに声をかけた。
 ジェイドに気付いたテリー・ザ・キッドが、片手を軽く上げる。
「ジェイド、お前もこのホテルなのか!」
「はい、今さっき着いたばかりなんです。――それにしても凄い人数ですね。」
「ここだけじゃないぜ。会場付近のホテルはみんな超人やオリンピック関係者で埋まっているそうだ。
 ――ところで、怪我はすっかり回復したみたいだな。」
「おかげさまでもう全快です!あ、予選中継見ましたよ!大活躍でしたね。」
「当然だろ。このオリンピック優勝候補の俺が、予選から手間取ってたまるか。」
「ふふ、すごい自信ですね。――でも、キッド先輩には悪いけど、優勝は俺がいただきますよ。」
「全く、相変わらず生意気な後輩だな。」
 ジェイドがにやりと笑うと、ジェイドもつられて笑みを浮かべた。
 ――超人オリンピックの本選を数日後に控え、会場に近い幾つかのホテルが、参加超人達の臨時の宿舎に指定されていた。
 ジェイド達のいるこのホテルも、そのうちの一つである。各国から続々と到着する超人達を迎え、
 ロビーは様々な言語が飛び交っていた。
「ガゼル先輩や、セイウチン先輩も、このホテルですか?」
「いや、別のところだよ。」
「そうか、残念だな…。」
 ジェイドはぐるりとロビーを見渡した。
 ロビーを埋め尽くす、多くの若き新世代超人達。皆、それぞれの国で過酷な予選を勝ち抜いてきた精鋭達である。
 彼らは皆一様に、自信に満ちた顔つきをしていた。
 これから始まる祭典への期待、興奮。
 ホテルだけでなく、街全体を覆う熱気に、ジェイドもその身が熱くなるのを感じていた。


 ざわり、と、ロビーの一角から一際大きなざわめきが起こった。
 何気なくその方向に振りかえったジェイドの視界に、居並ぶ超人達を全く意に介しないといった風体で歩く男の姿が眼に入った。
「ケビンマスク…。」
 足元まで覆う漆黒のロングコートと、マスクからのぞく長い金髪の対比が、ひどく印象的であった。
 全身から張り詰めた緊張感を漂わせ、玄関のドアに向かって歩いていく。父であるロビンマスクの重厚な雰囲気とは異なり、
 彼のそれは、近寄りがたく、冷たいものであった。
 その姿をみとめ、ジェイドは咄嗟に走り寄った。
 ケビンマスク――、その名前だけは知っていた。
 ヘラクレスファクトリーで教えを受け、尊敬していたロビンマスクの息子である。
 そして、予選中継で見た、彼の闘いの素晴らしさ。
 一度、話をしてみたかった。
 ――そして、ジェイドにはケビンに質問してみたいこともあった。
『入替戦のとき、どうして俺のことを見ていたのですか?』と。
 スカーフェイスとの闘いの後、救急車に乗せられるまでのわずかな間、ジェイドをずっとみつめていたケビンの
 鋭い視線。冷やかさに満ちたそれを、ジェイドは未だに忘れることができない。
「ケビン!」
 背後から声をかける。が、ケビンはそれに気付かないかのように歩き続ける。
「あの…、ケビン!」
 大きな声で呼びかけられ、ようやくケビンは足を止めた。
「なんだ?」
「――あの、俺、ジェイドっていいます。はじめまして。」
 ジェイドはケビンに向かって真っ直ぐな瞳で微笑み、右手を差し出した。
 だが、ケビンは差し出された手を握ろうともせず無視すると、再び歩き始める。
「あ――、ケ、ケビン?」
 戸惑うジェイドを押しのけるようにして、キッドが怒鳴り声を上げた。
「おい、待て!せっかく人が握手しようと手を差し出しているのに、どうして無視すんだよ!?」
 なおも無視するケビンの肩を、キッドが乱暴に掴む。
「何とか言ったらどうなんだ?ケビン!」
「うるさい。」
 静かに言い放つと、ケビンは煩わしそうにキッドの手を払いのけた。
「気に入らない奴と握手なんかしたくない。」
 彼はきっぱりと言うと、マスクの下から鋭くジェイドを見据えた。
 冷やかな視線。入替戦で目にしたのと全く同じ目に、ジェイドは言葉を出すことができなかった。
「お前!その態度はなんだよ!」
「ま、待ってください!キッド先輩!」
 激昂したキッドがケビンに掴みかかろうとするのを、ジェイドは必死で止めた。
 しかし、原因であるケビンは、目の前の騒ぎに全く興味など示さないといった様子で、二人に向かって背を向けた。
 怒鳴り続けるキッドの声を無視し、悠然とドアから外に出る。
「ジェイド!お前もお前だ!あんなこと言われて、なんで怒らないんだ!?」
「そんな、俺だって…、訳がわからないんですよ!」
 興奮するキッドを背後から押さえこんだまま、ジェイドはケビンの後姿に目を向けた。
「――ケビン…?」
 自動ドアが閉まる瞬間、肩越しにケビンがジェイドを見ていた。
 ――敵意であった。
 

 翌日の夜のことであった。
 ジェイドは、ホテルのある一室の扉の前で、座りこんでいた。
 (ケビンの奴、どこをほっつき歩いているんだ?早く帰って来いよ。)
 彼は、この部屋の主であるケビンの帰りを待っていた。
 もう、一時間は待っているだろうか、いつまで経っても、部屋の主が帰る様子はない。
 彼は、前日のケビンの冷たい態度に、どうしても納得することができなかった。
 ケビンと言葉を交わしたのは、昨日が初めてである。にも関わらず、何故あんな敵意に満ちた視線を向けられなければ
 ならないのか?
 ケビンがどうしてそんな態度をとるのか、自分が知らぬ間に、何か彼に悪いことでもしたのか――?
 ジェイドは理由が知りたくて、あれからケビンの姿を見かける度に話しかけた。しかし、それらはことごとく無視された。
(まだ帰らない…。)
 ホテルの廊下は静まり返っている。
 訳もわからず、一方的に嫌われる――、ジェイドはその不快さに耐えきれなくなっていた。
 彼はこの落ちつかない気持ちを抱えたまま、オリンピックの本選に臨むことはしたくなかった。雑念に惑わされていては、
 自分本来の力を全て出しきることはできないと、師匠にも言われたことがある。
 彼は、今すぐにでも、ケビンが自分を嫌う理由をはっきりさせ、もやもやとした気分を消し去ってしまいたかった。


 エレベーターが到着したことを知らせる小さな電子音が微かに聞えた。
 誰かがジェイドのいる方へ向かって歩いてくる。
「……、全く、しつこい奴だ。」
 座りこむジェイドの前にケビンが立っていた。昨日と変わらぬ、黒いコート姿である。
「――俺、どうしてもあなたと話がしたいんです。」
「どけ。」
 ケビンはドアの前に立ち塞がるジェイドを押しのけ、ドアを開ける。
「いい加減に俺のことを無視するのをやめてください!」
 閉じようとするドアを両手で掴み、ジェイドが必死で呼びかける。
「お前と話をすることはない。とっとと帰れ。」
「俺はあるんです!」
 ドアを閉じさせまいと、ジェイドは渾身の力をこめる。
「その手を放せ。」
「イヤです!なんだったら、このドアを蹴破ってやりますからね!」
 ジェイドの必死の言葉に、ケビンはあきれたようにひとつ息をつくと、ドアを持つ手を放した。
「…ったく、これだからガキは困る。」
 冷やかに言い、部屋の奥に入る。ジェイドはその背中を目で追い、一瞬ためらいを見せたが、彼もまた続いて
 部屋の中にと入っていった。
                  
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