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◆ Makebelieve Lady 

「ほら――今度はそっちの手だ」
 マルスはそう言って俺の左手をとると、楽しげに揃った爪を眺めた。
 そして――真っ赤なマニキュアを塗りはじめた。
 クスクスと思わず俺の口唇からは笑いが零れ――そしてそれは夜の薄闇の中、静かに部屋に響いた。
 思いがけなく神経質に、マルスは俺の爪に赤く悪戯をする。
 すでに彩られた右手の爪――そこには僅かな塗り残しもない。
……まだ……乾いてない、な……
 軽く口唇をとがらせて、俺はそんな爪にそっと息を吹きかける。
 ふとマルスがそんな俺を見て、笑った。
「似合うな。そうやってると本当に――なんか別の生き物みたいだぜ?」
「なんだ、それ……」
 俺もその言葉に妙なおかしさを感じて笑う。
 ベッドの上――俺の立てた両膝の間に体を割りこませ、マルスは楽しそうに俺の爪をおもちゃにしていた。
「――こんなモンか……な」
 そんな言葉とともに、俺の左手を放す。
 見てみると――右手と変わらず、爪はすべて綺麗に塗られていた。
「せっかく塗ったんだから、傷とかつけるなよ。そうやって両手、浮かしてろ」
 そう言いながら、マルスは俺にのしかかるようにして顔を覗きこむ。
「次は――コレな」
 そして見せたのは――マニキュアと同じ、真っ赤な色の口紅と、細い筆だった。
「これで塗ればいいんだろ?」
「本当に――どこから持ってきたんだよ、そんなもの……」
 俺の言葉に答えず、マルスは筆に紅をそっとふくませる。
「そら――黙れよ……。そうだな、口、そのまま開いてろよ」
 言われたとおりに、俺は目をつぶってうすく口唇を開けた。
 口紅の量が多いのか、ぺたりと冷たい感触が俺の口唇を撫でてゆく。
 下唇――それから、上唇。
 最後にマルスの指らしきものが、かるく塗り外したところを拭って――終わった。
「……いいぜ、ケビン。眼ェ開けろよ」
 言われたとおりに瞼をあげると、珍しくも楽しげで機嫌の良さそうなマルスの顔が間近にあった。
 その口唇がどこか淫蕩な笑みを刻む。
「イイぜ、すげェ似合う。……でもな――口は閉じろよ。娼婦みてェだぜ?」
 はっと口を開いたままだったことに気づき、俺は口を閉じてちょっとだけマルスを睨んだ。
「そら――自分でも見たいだろ?」
 そんな俺の表情も気にせず、マルスは俺の顔をぐっと鏡の方に向けた。
 鏡に映った俺の顔は――寝乱れた金髪に、眠っているところを起こされたせいか、どこか澱んだ蒼い瞳をして――
 わざと下唇を厚めに描かれて――女の――それもどこか崩れたような雰囲気を持つ、女の顔になっていた。
……どこかで見た顔……だ……
 ぼんやりとそんなことを思う俺の背から、マルスはぐっと腕をまわした。
 そして肩から肩へとその腕をまわして首から下を隠す。
「……こうすると、本当にオンナみてェだな」
……どこかで……
 記憶の層を睡魔に冒されたまま探るが――わからない。
 しかし、なぜか急に背をはしった不快な感触が、俺の手をタオルにのばさせた。
「……さあ、もう充分だろう? マルス……」
 だが、せめて口紅だけでも落とそうとした俺の手は、そのままマルスに止められる。
「マルス?」
「まだ落とすなよ。せっかくイイ感じなんだから――な」
 口調にかすかに濡れたような艶がある――興奮している。
 そしてマルスはそのまま、俺の耳に口唇をつけて囁いた。
「……今夜はこのまま――しようぜ?」
 さすがにそれを聞いた瞬間には、俺の胸にかっと火がついた。
「俺を女扱いする気か? ふざけるのはたいがいに……」
 苛立つままに告げた言葉が途中で途切れたのは――マルスの手が俺の腕を放して、下の方へとのびたからだ。
「……そんなことねェって。こんなモノつけてるオンナはいねェだろ?」
 キュッと握られ、俺は思わず息をつめていた。
 馴れた体が、マルスの手にたやすく反応する。
 無意識のうちに、まるで縋るように、肩にまわされたマルスのたくましい腕に手をやって――
 俺の身体がふたたびきつくこわばった。
 赤い爪をした白い手――鏡に映ったその手が一瞬、本当に女のものに見えたのだ。
 動揺に、心臓が熱く鼓動を刻み出す。
 俺のその瞬間の表情の変化に気づいたのか――マルスは俺の片手を取って下へと導き、自分の手をかぶせるように
 俺自身を握らせて――擦りはじめた。
「……ふ……うッ……」
 俺がしっかりと反応していることを確かめてから――耳元でマルスがみだらに囁いた。
「……テメェの顔見ながら一発、抜いてみろよ。それくらいの価値は充分にあるぜ?」
「嫌……だ……」
 肩にわたされていた腕は、いまは俺の喉のまわりにしっかりと絡められ――鏡から眼をそらすことを許さない。
 マルスの手は、容赦なく俺の手をも揺すりあげて――熱いぬるみが指と指との間に絡んだ。
 すすり泣くような声をあげて、すでに抵抗もできなくなった俺が鏡の中から俺自身を見返している。
 揺れるくすんだ色の金髪、やるせない快楽に濡れた蒼い瞳、紅潮した頬――。
「あ……」
 かるくそらせた俺の背が、マルスの逞しい肉体にもたれかかる。
 一瞬、顎から頬にかけての線が、ちょうどほの暗い灯りの作り出す陰影で柔らかく見えて――
 ――そのとき、俺の脳裏にある映像がよぎった。
「……!!」
 呼吸を詰めた俺の体が一瞬跳ねたのを、マルスは気づいたのだろうか。
 赤い口唇、柔らかな長い髪、すべてにわたってどことはなしに少女の匂いが残る、柔らかなライン……
……マミー・アリサ……
 似ていた。
 もとから、どちらかといえば母親に似ていると言われてきたが――口唇を紅で彩り、まやかしを誘う薄闇の中にいる
 俺の顔は、明らかに母と同質の何かを湛えているように見えた。
 もちろん、記憶の母はどこまでも優しく柔らかく――こんな毒々しい紅色に口唇を彩ったことなどない。
 だが、そうであるからこそ俺の顔立ちの中のどこかにひそむ、母と同質の何かは恐ろしいほどに歪められ、強調され――……
 気づいたときには恐怖のままに、俺はマルスの腕から逃れていた。
 いくらあの家を捨ててきたと言っても――すべての過去を捨てたと言っても、踏み越えられぬ一線はあるものだ。
 俺にとっては母がそうであったのかもしれない。
 記憶の母が、最後の聖域だったのかもしれない。
 それを汚されるような錯覚に耐えられず、マルスの腕を払いのけ、鏡から逃れ――。
 だが、マルスはそれを許そうとはしなかった。
「なァに逃げてやがるんだよ、ケビン」
 可笑しげに俺の腕を捕らえて自分の胸に再び抱き――だが、俺の体の震えに気づいたか、そこで腕は止まった。
「……なんだ? 何を――震えてるんだ、オマエ……」
「……」
 困惑気味に俺を見つめるマルスに、それを告げることはできなかった。
「ケビン?」 
 しかし、訝しむ声音でマルスが俺の名を呼んだとき――それは起こった。
 奇妙な衝動。
 いまさら――何を聖域だと、自分をあざ笑うかのような自分の声。
 遠い、やさしい記憶をかきまわし、極彩色の悪夢の中に塗り込めたくなるような――突然の禍禍しい苛立ち。
 ふっと一瞬、俺は全身からすべての力を抜いた。
 マルスの腕を感じる。
 その胸のあたたかさも、強さも――今の俺にとって、それは唯一の確かなものだった。
 このひとつの男神の肉体の前では、その他の何もかもが無意味なもののように感じられた。
 だから、俺はその腕のなかでゆるやかに体の向きを変えた。
「……ケビン?」
 黄金色に光を放つ眼を細めて、俺の突然の行動の意味を探ろうとするかのようなマルス。
 ふわりと微笑んで、俺はその薄く尖るような形良い口唇に接吻した。
「……いいよ――今夜は……このまま、しよう……」
 俺の中の、いつわりの女がゆっくりと目覚めてゆく。
 その行動は、きっとどうしようもなく俺自身をも傷つけるというのに――その
甘美な痛みに、俺はどこか酔っていた。
「だから――……」
 わかっているだろう? と言うように、俺は笑った。
 マルスが僅かに逡巡するように俺の顔を見返す。
 恐怖にも似た表情がそこに浮かんだのを、見逃す俺ではなかった。
 小さく口唇が動いて、言葉をつむぐ。
「ケビン。オマエ、いま――凄ェ女の顔してたぜ……?」
 
 それは、奇妙な夜だった。
 俺は自らマルスの手を求め、誘いながら――犯されることを望んでいた。
 どこまでも不安定な夜――
 だがその中で、マルスはどこまでもマルス自身それ以外ではなかった。
 俺にも俺自身すらはっきりと掴めない夜の中、まず自分の位置を確実に捉えたのはマルスで、そして俺の存在はまた、
 そんなマルスによって導き出されたようなものだった。
 そんなマルスの確かさを俺は愛し、求め――自らベッドの上に這って、誘った。 
 だが、愛撫のさなかにも、俺の眼はただ一点にのみそそがれていた。
 シーツを掴みしめる白い手の――赤い爪。
 腰から下はすでに愉悦に蕩け、さらに背から追い上げてくる快楽に揺さぶられながら、俺はじっとその手を見つめていた。
 肘までをベッドの上につき、獣の屈服の姿勢以上に屈辱的な姿で、それでも愉楽にすすり泣く肉体――。
 ただの偽りだったものが――化粧と同じく、かりそめだったはずのものが――次第に真実になってゆく。
 女のように、俺は高く喘ぎ、全身を捩ってマルスに応えていた。
 そしてマルスもまた敏感なほどにそんな俺の幻想を感じ取り――ともに遊ぶことを選び取ったようだった。
 ゆっくりと背後から俺を責めながら、マルスは楽しげに俺の背の刺青を指でなぞりはじめた。
「……コレ、前からなかなかイイと思ってたんだぜ――?」
 みだらな笑いを含む言葉。
「……ひとつ、ふたつ――みっつ……」
 俺の記憶どおりの刻まれた男の姿を数えるように、指が背中で戯れて――そして、マルスは楽しげに囁いた。
「ずいぶんと多いよなァ? 
 ――コレ全部、この体で『昇天』させた男なんだろ? なァ? ――ケビンお嬢さま?」
「やめ……ろ……ッ!」
 叫んだとたん、ズ……と深くまで突かれて、俺の抵抗の言葉は封じられる。
 腰を揺すり、さらに俺の喉から喘ぎしか出ないようにさせて――さらにマルスは続けた。
「俺も――喰われちまいそうだな……」
 ククク……と喉を鳴らして笑う声。
 背を震わせる俺の腰を両手で抱え込むように押さえつけて――マルスはさらに激しく腰を打ちつける。
「……こんなに淫乱なお嬢さま、俺ごときじゃとても太刀打ちできねェなァ? 
 そら……こんなに俺を欲しがって咥えこんで……」
「ふ……うッ……」
 倒錯した快楽が俺の中の何かを呼び起こすような気が――した。
 マルスはまるで若い獣の動きそのもののように前後に激しく腰を揺さぶり、さらに俺の錯覚を煽った。
 まるで俺が――年下の、まだ年端もいかない、SEXにも馴れない少年を咥えこんでいるかのように――。
 そして、そんな行為の快楽に溺れている俺は――俺の顔は……。
「ああ――……っ!」
 長く尾を引く叫びとともに、俺は達していた。
「くぅっ……」
 小さく声を洩らし、マルスも鋭く突きたてて――放つ。
 肉体に深く打ちこまれた楔の痙攣する感触とともに、まるで本当に女のように、俺は自分の体内のうねりを感じた。
 奥深くへと放たれた精液を、さらに肉体の奥へ導こうとするかのような、甘美なうねり――……。
「……凄ェな……ケビン……」
 動きを止めたまま、抜こうともしないマルスが囁く。
 それは俺だけの錯覚ではなく――マルスもそれを感じているのだろうか。
 やがて、そのうねりがおさまった頃、ようやくマルスは俺から離れた。
 そして――ベッドから下りる気配。
 俺はひとり残されたベッドにぐったりと横たわり、味わった快楽の大きさと解放の感触に大きく息をつく。
 気だるい満足感――そして……
 夢うつつの心地のまま、襲ってきた睡魔に抱かれるように睡りにつこうとして瞬きした瞬間、それが俺の眼に捉えられた。
 赤い爪。
 白い手にくっきりと鮮やかな赤い――……。
 ざっと水を浴びせられたように、俺の全身を奇妙な感触が包み込んだ。
 そして同時に――俺の眼からはとめどなく涙が溢れ出していた。
 自ら選んだことなのに――選んで汚し、壊したはずのものなのに。
 後悔では、けっしてない。
 後悔ではないのに――恐ろしいまでの喪失感に、涙が止まらなかった。
 掌で口を塞ぎ、嗚咽の声が洩れないようにしながらも――見開いた俺の眼から溢れる涙は止めることができなかった。
「……おい、ケビン!?」
 俺の様子がおかしいことに気づいたマルスが声をかける。
 なんでもないと首を横に振りながらも、マルスの眼を誤魔化すことはできなかった。
 タオルを手に戻ってきたマルスが、ちょっと乱暴なしぐさで俺の顔を拭う。
 まずは涙を、そして――
 顔を覆われた俺が解放されたときに見たのは、さっとタオルに残った幾筋もの赤いラインだった。
……口紅……
 痛いくらいに口唇を擦り、マルスはどうやら満足するまで俺の口唇からその色をおとしたようだった。
……敏感な奴……
 半ば感心をこめて、俺はマルスの手のタオルを見返した。
 化粧が俺の反応を引き起こしたことを、マルスは感じ取ったのだろう、と――。
 マルスはそのタオルをベッドの端に置くと、俺の腕をとって自分の背にまわさせた。
 そして自分の胸に俺の頭を抱き寄せて――俺の視界はマルスの鍛えあげられた広い胸、それだけになった。
 俺の長い髪を撫でながら、なだめるように囁く声。
「テメェがヤバいくらいに情緒不安定なヤツだってこと……すっかり忘れてたぜ?」
「マルス……」
「いきなり俺を誘いだしたとき――気がつくべきだったな」
「……すまない。もう――大丈夫だ……」
 そう、大丈夫だと思った。
 マルスの胸はどこまでも確かな質感を備えて、俺の前にあった。
 すべてのたわいのない幻想すら打ち消すだけの現実の迫力が、そこにはあった。
 だが、マルスは俺を抱き寄せたまま、囁いた。
「……いいからこのまま眠れよ。朝が来るまでちゃんと抱いててやるから」
「……ん……」
 普段は決して甘えることを許さないマルスは、ときおり気紛れにこんな優しさを見せることがある。
 この夜には、さすがに戯れの度を越した自分にも非があるとも思ったのだろうか――。
 ともかく俺は、そんなマルスの胸に甘えて――眠った。
 涙はいつしか止まっていた。

 そして翌朝目を覚ましたときには――俺の爪には僅かにも、紅い色彩は残され
ていなかった。