一日のうちで、朝が一番、好きだ。 何かが新しくなるような気がして、不思議と、胸がときめく。 朝の光を浴びるたび、忘れたいことが少しずつ遠のいて行くようで… 俺は、朝が好きだ。 「マルス。ご飯だよ」 引き換え、マルスは宵っ張りの朝寝坊。 典型的な夜型の生活をしている。 「…う…ん…」 半分眠ったままの、返事なのかただの唸り声なのか、判然としない声。 「ほら、冷めないうちに」 そもそも、刑務所の独房と何処に違いがあるのかわからないdMpの宿舎は、二人で暮らすには狭すぎる。 物を置くスペースもないので、俺がいつも行く『外』の店からもらってきたビールのケースをひっくり返し、 テーブルの代わりにしている。 当然、マルスのためにこの食卓をしつらえてやれば、俺の朝飯は後回しとなる。 「マルス…マルス」 何度も呼ぶのに、一向に起き上がろうとしないマルス。 傍によって、ゆすり起こそうとする手を、ひょいと伸ばした手に、掴まれた。 「あ…マルス、ご飯…」 「朝飯なんか、食えるかよ」 「朝ご飯は重要なんだぞ」 「知ったこっちゃねぇよ、そんなこと」 「あ…ダメだ…マルス」 エプロンのまま、その腕の中。 「朝飯なんかより、ずっと美味そうだな」 「や…なにが…」 「オマエがだよ」 朝なのに…の、抗議は口の中。 そう… もう、いいかげん、日は高いのに、気がつくと、俺はマルスの動きに翻弄されて、無我夢中… この身体の中に眠る快楽を、マルスは巧みに引きずり出して、弄ぶ。 しだいしだいに追い詰められて、脳細胞が漂白されていく。 なにも考えられない。 背筋を、痛みにも似た戦慄が走り抜けて行く。 だめ…だ… そんなに俺を… 「どうする…?ケビン、このままずっと…こうしていたいか?」 耳もとの囁きが、遠い。 深く。 俺の中に身を沈めたマルスが、その動きを停止する。 熱い… 俺の中のマルスは、ひどく、熱い。 「俺に、動いて欲しいか?動いて、欲しくないか?」 「あ…ぅ…」 「はっきり、云えよ。お願い…ってよ」 こうして繋がったまま、ゆっくりと、叫び出したくなるような時間が流れて行く。 甘く…残酷な罰を受けているかの、錯覚。 「目を開けて、俺にお願いしてみろよ」 「…もう…赦してくれ…」 どうにもならない… 「赦す?いやだね。科白が違うだろ」 ! 俺自身に指を絡められ、ほんのわずかな湿気に砂糖が溶けていくような緩慢さで、嬲られる。 この、無骨に見える長い指が、どうしてこれほどの繊細な動きをするのか、熱さを増していく頭の片隅で考える。 「目を開けて、俺を見ろ」 おそるおそる、薄く目を開けてみる。 「…綺麗な色だな」 あいた方の手で、頬に乱れかかる髪を撫で付けてくれる。 …俺の瞳の中を、心の底まで見透かすように、のぞき込む。 「忘れな草の色だ」 俺には… マルスの琥珀の瞳のほうが、遥かに魅惑的だった。 あまり、まっすぐ見詰められるから、つい、また目を閉じてしまう。 「淋しい色だ…」 閉じた目蓋に乾いた吐息を感じる。 「いいか?」 「え…」 「俺、おまえを無茶苦茶にしちまいたい」 真実の愛だと云う… 遠い昔、家の裏庭で、ダディに教えられた、あの青い花の、花言葉。 dMpの資金源のひとつが、非合法に行われている「賭けレスリング」だということに、最近気がついた。 マルスは強すぎて、対戦相手がなかなか決まらない、となかば自慢げに話して聞かせてくれた。 強さも、日ごろの鍛錬があってはじめて発揮できるものだと、マルスは知っている。 今ごろは… 何処かでトレーニングに汗を流しているはず。 帰ってくれば、お腹を空かした鳥のヒナみたいに、なにか食べさせろ…早く…早く!大騒ぎするのが目に見える。 誰かに何かをしてあげられる、ということは、とても幸せなことだ。 そのなにか…が、せいぜい食事を作ってやることくらいないのが、情けないけど。 『外』への買出しの帰り道、晩御飯、なににしようかな、などと考えながら、俺は先を急いでいた。 「まだマルスとつるんでやがったのかよ」 …MAX…マルスとは、ワケありの…つまり、愛人だった…ここでは古株の超人。 「目障りなんだよ、てめェはよ」 しばらく、試合のためにdMpの宿舎から姿を消していたMAXが、宿舎の玄関先で俺を待ち構えていた。 「通してくれ」 玄関の扉に背中をもたせて、腕組したままのMAXが、よく光る爬虫めいた三白眼で俺を見上げる。 「…マルスが、トマト嫌いなの、知らないのかよ」 嫌い? 「魚も嫌いだぜ。味にうるさいから、ドレッシングにも好みの銘柄がある」 半透明の買い物袋に入ったものに視線を走らせ、MAXが、俺の無知をあざけるように、口許を歪めて言い捨てる。 「イギリスの料理ってのは、まずいんだってな」 「…」 こんなヤツ…わざわざ本気になって、相手するほどのものじゃない。 そう、自分に言い聞かせようとするけれど。 過去の経緯はどうあれ、自分の故郷の悪口を云われるのは、あまり楽しいものではない。 「家畜のエサみたいなもんだってよ」 「…」 「ホントのことだから、云い返せねぇんだろ。マルスも気の毒だな。 牛や馬でさえろくに食えないようなもの食わされてよ」 すう…っと、身体中の血の気が引いていき、ある一点に達すると、今度は逆に、全身が、火のついたように熱くなった。 手から、買い物の袋が、落ちる。 「やろうってのか!」 云っていいことと悪いことの区別もつかないようなやつに、何を云っても無駄だろう。 固く握り締めた拳。 喧嘩や私怨のために、覚えた技術を使わないと、ダディに、約束した。 だけど。 譲れないプライドを守るためには、これしかないことも、ある。 一撃必殺。 最も狙いやすいのは、的の大きい、胴体部。 つまり、鳩尾だ。 体重を乗せて、十分に計った間合いを詰め、ボディブローを叩き込む。 「!?」 それを、簡単にはじき返された。 「ばぁか!」 なんだ…?こいつ。 反撃され、間一髪、見切り、かわす。 「MAX、見つけてきたぜ」 ケータイ野郎。 MAXの取り巻きで、いつも行動をともにしているテルテルボーイが、片手に何か、ひらひらしたものを持って、 玄関の奥の階段から降りてきた。 あれは。 「マルスが気に入ってる、リングコスチュームだよな」 「返せよ!」 取り戻そうとして、MAXを押し退け、ケータイ野郎に近寄ろうとした。 スキの出来たところを、MAXに足払いをかけられ、たたらを踏む。 体勢を崩し、背中を蹴り上げられた。 コンクリートを打ちっぱなしにした玄関。 無様にうつ伏せに転がった俺に、さらにMAXが追い討ちをかける。 仮面に足を掛け、そのまま、踏みにじられた。 「ゲンのいいコスチュームだからって、マルスが大事にしてるの、知ってるよな」 スポーツ選手の中には、存外、傍から見れば他愛もないようなジンクスを信じている者が多い。 マルスの『お守り』は、ケータイ野郎が手にしているリングコスチュームだった。 「返せ…よ」 「てめェの返事ひとつだよ」 「なにが望みだ」 仮面に掛けられた足が外れ、次の瞬間。 したたか、背骨に踵を振り下ろされた。 「出て行けよ。ここから、さっさと」 息が、止まる。 「出て行け。薄汚ねぇ男妾のくせに」 二度、三度。 「MAX、ほどほどにしとかねぇと、死んじまうぜ。後片付けの面倒なゴミは、出さないでくれよ」 「返事しねぇと、マルスのお宝がただの布切れになっちまうぜ」 マルスが大切にしているものを、俺のために台無しにするわけにはいかないよな… そんなことしたら、せっかく拾ってくれた恩を、仇で返すことになるよな。 なにより俺は… マルスの悲しい顔は、見たくない。 「……判った…出て…」 「行かせるわけ、ねェだろ!MAX、どうでも俺を怒らせたいらしいな」 痛む背中をだましだまし、何とか半身を起こす。 「マルス…ありがとう…」 立ち上がるのに手を貸してくれ、服についたほこりを払ってくれる。 「俺が本気にならねェうちに、さっさと消えちまいな」 琥珀の瞳が金色に輝くとき… マルスはこの世で最も美しいケモノになる… その野生に、魅了される。 危険を承知で、見惚れてしまう。 その爪に切り裂かれ、血を流し、傷口に牙を立てられ、この身の肉を啖らい尽くされたなら… 恐怖と快楽は…表裏一体。 「ケビン、覚えてやがれ!」 負け犬の捨て科白。 ケータイ野郎が、リングコスチュームを放り投げて、MAXの後を追っていった。 「大丈夫か?」 肯くのが、やっとだった。 「ちょっと、見せてみろ」 「わ…!よせよ、なんでもないよ。こんなところで、ヒトの着ているものを捲り上げるなよ」 抵抗も虚しく、上着の下のTシャツを捲り上げられた。 「内出血してる。冷やさねぇと」 「大丈夫だよ、このくらい」 玄関先に置き忘れられた買い物袋のことを思い出す。 「マルス…トマト、嫌いなのか?」 「…あまりスキとは、云えねぇな」 夕暮れがやがて夜となり、南の中空に、月が架かった。 俺の知ってる料理の数など、たかが知れている。 しかも、MAXじゃないが、マズイモノの世界的代表イギリス料理だ。 ベーコンフロディ、スコッチウッドコック、ウェルシュレアビット、コーニッシュパスティ、トッドインザホール… 母さんの手伝いをしながら、覚えた。 そんなのが、マルスの口に合うかどうか、判らないけど、出来るものはそれくらいしかないから。 「はい、どうぞ」 ローストポテトと、ホワイトデビル。 ターメリック、カイエンペッパー、マスタードをつかって作ったソースを『デビルソース』と云うんだけど、 鶏肉にこのソースを掛けて食べる料理はホワイトデビルと名づけられている。 それから、もう一つ、昨日から煮込んでおいたアイリッシュシチュー。 美味しいのか、美味しくないのか、マルスは黙々と箸を口に運ぶ。 だから、云ってみたくなる。 俺の料理は美味いか? それとも、美味くないか? 「…食った」 ご馳走さま、と、云ってみろ。 久し振りに、思い出しながら作ったものだから、手順ばかりが気になって味見するのを忘れてた… 「マルス!」 「ん?」 床に、雑誌を広げながら腹ばいになっているマルス。 「ごめん…アイリッシュシチューに塩、入れるの忘れてた」 「そうか。あんなもんなのかと思って食ってたけどな」 もしかして、マルスって、味音痴…? な、わけない。 マルスは判ってて、一言もなにも云わなかったんだ。 優しいから… 何にも云わない気遣いが、嬉しくて、少し、悲しい。 「気にするな」 「え…?」 「MAXの云ったことなんか、気にする必要ないからな」 軽い動作で立ち上がったマルスが、ビールケースのお膳を前にして自己嫌悪している俺の背中に手を回すと、 そのまま、抱き上げた。 「あ…マルス!?」 「覚えておけ、ケビン」 「…?」 「おまえの作ったものなら、何でも食う。いつだって、美味いと思って食う。…わかったか?」 マルスの肩に、頭を預け、小さく、肯いた。 「さてと。なんか、デザートなんてモノ、ないのか?」 「マルス、甘いもの、好きだったっけ?」 「飯食った後は、甘いものが欲しくなるんだよ。渋茶に羊羹とか、ほうじ茶にどら焼きとか」 ……。 「パンケーキでも、焼こうか?」 「わざわざ作るくらいなら、要らねぇけどよ」 「…マルス、降ろしてくれよ」 「何処に降ろして欲しい?」 さっきとは違う熱さで、身体が火照った… 「決めた。デザートは、おまえ」 無機質な、蛍光灯が、消えた。 そのあとで、青白く冴えた月明かりが、部屋の中をひたひたと満たしていく。 「いた…」 「あ、すまねー。まだ痛むか?」 そっと、さすってくれる手が、心地いい。 「大丈夫…だよ」 きっと、その夜が初めてだった。 自分から、躰を開いてマルスを受け入れたのは。 初めてだった… マルスの広い背中に回した腕。 微かな力をこめて立てた爪。 指先で、マルスを誘う。 媚びている…と思われても、かまわない。 膝の上を掴む手のひら。 わけもなく閉じてしまいそうになる足。 青い光に満たされた部屋の中。 百億にも千億にも、波間に砕けて散った月の光がさざめくような… マルスの動きにつれて、いつしか… 夢とうつつの境は消えていく。 Body and Soul …身も心も。 すべてをマルスにゆだね、それと同じだけ、マルスを包みこむ。 身も心も… 重ねた肌のぬくもりだけが、真実。 That's all over. |