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◆ Body & Soul

 一日のうちで、朝が一番、好きだ。
 何かが新しくなるような気がして、不思議と、胸がときめく。
 朝の光を浴びるたび、忘れたいことが少しずつ遠のいて行くようで…
 俺は、朝が好きだ。
「マルス。ご飯だよ」
 引き換え、マルスは宵っ張りの朝寝坊。
 典型的な夜型の生活をしている。
「…う…ん…」
 半分眠ったままの、返事なのかただの唸り声なのか、判然としない声。
「ほら、冷めないうちに」
 そもそも、刑務所の独房と何処に違いがあるのかわからないdMpの宿舎は、二人で暮らすには狭すぎる。
 物を置くスペースもないので、俺がいつも行く『外』の店からもらってきたビールのケースをひっくり返し、
 テーブルの代わりにしている。
 当然、マルスのためにこの食卓をしつらえてやれば、俺の朝飯は後回しとなる。
「マルス…マルス」
 何度も呼ぶのに、一向に起き上がろうとしないマルス。
 傍によって、ゆすり起こそうとする手を、ひょいと伸ばした手に、掴まれた。
「あ…マルス、ご飯…」
「朝飯なんか、食えるかよ」
「朝ご飯は重要なんだぞ」
「知ったこっちゃねぇよ、そんなこと」
「あ…ダメだ…マルス」
 エプロンのまま、その腕の中。
「朝飯なんかより、ずっと美味そうだな」
「や…なにが…」
「オマエがだよ」
 朝なのに…の、抗議は口の中。
 そう…
 もう、いいかげん、日は高いのに、気がつくと、俺はマルスの動きに翻弄されて、無我夢中…
 この身体の中に眠る快楽を、マルスは巧みに引きずり出して、弄ぶ。
 しだいしだいに追い詰められて、脳細胞が漂白されていく。
 なにも考えられない。
 背筋を、痛みにも似た戦慄が走り抜けて行く。
 だめ…だ…
 そんなに俺を…
「どうする…?ケビン、このままずっと…こうしていたいか?」
 耳もとの囁きが、遠い。 
 深く。
 俺の中に身を沈めたマルスが、その動きを停止する。
 熱い…
 俺の中のマルスは、ひどく、熱い。
「俺に、動いて欲しいか?動いて、欲しくないか?」
「あ…ぅ…」
「はっきり、云えよ。お願い…ってよ」
 こうして繋がったまま、ゆっくりと、叫び出したくなるような時間が流れて行く。
 甘く…残酷な罰を受けているかの、錯覚。
「目を開けて、俺にお願いしてみろよ」
「…もう…赦してくれ…」
 どうにもならない…
「赦す?いやだね。科白が違うだろ」
 !
 俺自身に指を絡められ、ほんのわずかな湿気に砂糖が溶けていくような緩慢さで、嬲られる。
 この、無骨に見える長い指が、どうしてこれほどの繊細な動きをするのか、熱さを増していく頭の片隅で考える。
「目を開けて、俺を見ろ」
 おそるおそる、薄く目を開けてみる。
「…綺麗な色だな」
 あいた方の手で、頬に乱れかかる髪を撫で付けてくれる。
 …俺の瞳の中を、心の底まで見透かすように、のぞき込む。
「忘れな草の色だ」
 俺には…
 マルスの琥珀の瞳のほうが、遥かに魅惑的だった。
 あまり、まっすぐ見詰められるから、つい、また目を閉じてしまう。
「淋しい色だ…」
 閉じた目蓋に乾いた吐息を感じる。
「いいか?」
「え…」
「俺、おまえを無茶苦茶にしちまいたい」

 真実の愛だと云う…
 遠い昔、家の裏庭で、ダディに教えられた、あの青い花の、花言葉。

 dMpの資金源のひとつが、非合法に行われている「賭けレスリング」だということに、最近気がついた。
 マルスは強すぎて、対戦相手がなかなか決まらない、となかば自慢げに話して聞かせてくれた。
 強さも、日ごろの鍛錬があってはじめて発揮できるものだと、マルスは知っている。
 今ごろは…
 何処かでトレーニングに汗を流しているはず。
 帰ってくれば、お腹を空かした鳥のヒナみたいに、なにか食べさせろ…早く…早く!大騒ぎするのが目に見える。
 誰かに何かをしてあげられる、ということは、とても幸せなことだ。
 そのなにか…が、せいぜい食事を作ってやることくらいないのが、情けないけど。
 『外』への買出しの帰り道、晩御飯、なににしようかな、などと考えながら、俺は先を急いでいた。
「まだマルスとつるんでやがったのかよ」
 …MAX…マルスとは、ワケありの…つまり、愛人だった…ここでは古株の超人。
「目障りなんだよ、てめェはよ」
 しばらく、試合のためにdMpの宿舎から姿を消していたMAXが、宿舎の玄関先で俺を待ち構えていた。
「通してくれ」
 玄関の扉に背中をもたせて、腕組したままのMAXが、よく光る爬虫めいた三白眼で俺を見上げる。
「…マルスが、トマト嫌いなの、知らないのかよ」
 嫌い?
「魚も嫌いだぜ。味にうるさいから、ドレッシングにも好みの銘柄がある」
 半透明の買い物袋に入ったものに視線を走らせ、MAXが、俺の無知をあざけるように、口許を歪めて言い捨てる。
「イギリスの料理ってのは、まずいんだってな」
「…」
 こんなヤツ…わざわざ本気になって、相手するほどのものじゃない。
 そう、自分に言い聞かせようとするけれど。
 過去の経緯はどうあれ、自分の故郷の悪口を云われるのは、あまり楽しいものではない。
「家畜のエサみたいなもんだってよ」
「…」
「ホントのことだから、云い返せねぇんだろ。マルスも気の毒だな。
 牛や馬でさえろくに食えないようなもの食わされてよ」
 すう…っと、身体中の血の気が引いていき、ある一点に達すると、今度は逆に、全身が、火のついたように熱くなった。
 手から、買い物の袋が、落ちる。
「やろうってのか!」
 云っていいことと悪いことの区別もつかないようなやつに、何を云っても無駄だろう。
 固く握り締めた拳。
 喧嘩や私怨のために、覚えた技術を使わないと、ダディに、約束した。
 だけど。
 譲れないプライドを守るためには、これしかないことも、ある。
 一撃必殺。
 最も狙いやすいのは、的の大きい、胴体部。
 つまり、鳩尾だ。
 体重を乗せて、十分に計った間合いを詰め、ボディブローを叩き込む。
「!?」
 それを、簡単にはじき返された。
「ばぁか!」
 なんだ…?こいつ。
 反撃され、間一髪、見切り、かわす。
「MAX、見つけてきたぜ」
 ケータイ野郎。
 MAXの取り巻きで、いつも行動をともにしているテルテルボーイが、片手に何か、ひらひらしたものを持って、
 玄関の奥の階段から降りてきた。
 あれは。
「マルスが気に入ってる、リングコスチュームだよな」
「返せよ!」
 取り戻そうとして、MAXを押し退け、ケータイ野郎に近寄ろうとした。
 スキの出来たところを、MAXに足払いをかけられ、たたらを踏む。
 体勢を崩し、背中を蹴り上げられた。
 コンクリートを打ちっぱなしにした玄関。
 無様にうつ伏せに転がった俺に、さらにMAXが追い討ちをかける。
 仮面に足を掛け、そのまま、踏みにじられた。
「ゲンのいいコスチュームだからって、マルスが大事にしてるの、知ってるよな」
 スポーツ選手の中には、存外、傍から見れば他愛もないようなジンクスを信じている者が多い。
 マルスの『お守り』は、ケータイ野郎が手にしているリングコスチュームだった。
「返せ…よ」
「てめェの返事ひとつだよ」
「なにが望みだ」
 仮面に掛けられた足が外れ、次の瞬間。
 したたか、背骨に踵を振り下ろされた。
「出て行けよ。ここから、さっさと」
 息が、止まる。
「出て行け。薄汚ねぇ男妾のくせに」
 二度、三度。
「MAX、ほどほどにしとかねぇと、死んじまうぜ。後片付けの面倒なゴミは、出さないでくれよ」
「返事しねぇと、マルスのお宝がただの布切れになっちまうぜ」
 マルスが大切にしているものを、俺のために台無しにするわけにはいかないよな…
 そんなことしたら、せっかく拾ってくれた恩を、仇で返すことになるよな。
 なにより俺は…
 マルスの悲しい顔は、見たくない。
「……判った…出て…」  
「行かせるわけ、ねェだろ!MAX、どうでも俺を怒らせたいらしいな」
 痛む背中をだましだまし、何とか半身を起こす。
「マルス…ありがとう…」
 立ち上がるのに手を貸してくれ、服についたほこりを払ってくれる。
「俺が本気にならねェうちに、さっさと消えちまいな」
 琥珀の瞳が金色に輝くとき…
 マルスはこの世で最も美しいケモノになる…
 その野生に、魅了される。
 危険を承知で、見惚れてしまう。
 その爪に切り裂かれ、血を流し、傷口に牙を立てられ、この身の肉を啖らい尽くされたなら…
 恐怖と快楽は…表裏一体。
「ケビン、覚えてやがれ!」
 負け犬の捨て科白。
 ケータイ野郎が、リングコスチュームを放り投げて、MAXの後を追っていった。

「大丈夫か?」
 肯くのが、やっとだった。
「ちょっと、見せてみろ」
「わ…!よせよ、なんでもないよ。こんなところで、ヒトの着ているものを捲り上げるなよ」
 抵抗も虚しく、上着の下のTシャツを捲り上げられた。
「内出血してる。冷やさねぇと」
「大丈夫だよ、このくらい」
 玄関先に置き忘れられた買い物袋のことを思い出す。
「マルス…トマト、嫌いなのか?」
「…あまりスキとは、云えねぇな」

 夕暮れがやがて夜となり、南の中空に、月が架かった。

 俺の知ってる料理の数など、たかが知れている。
 しかも、MAXじゃないが、マズイモノの世界的代表イギリス料理だ。
 ベーコンフロディ、スコッチウッドコック、ウェルシュレアビット、コーニッシュパスティ、トッドインザホール…
 母さんの手伝いをしながら、覚えた。
 そんなのが、マルスの口に合うかどうか、判らないけど、出来るものはそれくらいしかないから。
「はい、どうぞ」
 ローストポテトと、ホワイトデビル。
 ターメリック、カイエンペッパー、マスタードをつかって作ったソースを『デビルソース』と云うんだけど、
 鶏肉にこのソースを掛けて食べる料理はホワイトデビルと名づけられている。
 それから、もう一つ、昨日から煮込んでおいたアイリッシュシチュー。
 美味しいのか、美味しくないのか、マルスは黙々と箸を口に運ぶ。
 だから、云ってみたくなる。
 俺の料理は美味いか?
 それとも、美味くないか?
「…食った」
 ご馳走さま、と、云ってみろ。
 
 久し振りに、思い出しながら作ったものだから、手順ばかりが気になって味見するのを忘れてた…
「マルス!」
「ん?」
 床に、雑誌を広げながら腹ばいになっているマルス。
「ごめん…アイリッシュシチューに塩、入れるの忘れてた」
「そうか。あんなもんなのかと思って食ってたけどな」
 もしかして、マルスって、味音痴…?
 な、わけない。
 マルスは判ってて、一言もなにも云わなかったんだ。
 優しいから…
 何にも云わない気遣いが、嬉しくて、少し、悲しい。
「気にするな」
「え…?」
「MAXの云ったことなんか、気にする必要ないからな」
 軽い動作で立ち上がったマルスが、ビールケースのお膳を前にして自己嫌悪している俺の背中に手を回すと、
 そのまま、抱き上げた。
「あ…マルス!?」
「覚えておけ、ケビン」
「…?」
「おまえの作ったものなら、何でも食う。いつだって、美味いと思って食う。…わかったか?」
 マルスの肩に、頭を預け、小さく、肯いた。
「さてと。なんか、デザートなんてモノ、ないのか?」
「マルス、甘いもの、好きだったっけ?」
「飯食った後は、甘いものが欲しくなるんだよ。渋茶に羊羹とか、ほうじ茶にどら焼きとか」
 ……。
「パンケーキでも、焼こうか?」
「わざわざ作るくらいなら、要らねぇけどよ」
「…マルス、降ろしてくれよ」
「何処に降ろして欲しい?」
 さっきとは違う熱さで、身体が火照った…
「決めた。デザートは、おまえ」 

 無機質な、蛍光灯が、消えた。
 そのあとで、青白く冴えた月明かりが、部屋の中をひたひたと満たしていく。
「いた…」
「あ、すまねー。まだ痛むか?」
 そっと、さすってくれる手が、心地いい。
「大丈夫…だよ」
 きっと、その夜が初めてだった。
 自分から、躰を開いてマルスを受け入れたのは。
 初めてだった…

 マルスの広い背中に回した腕。
 微かな力をこめて立てた爪。
 指先で、マルスを誘う。
 媚びている…と思われても、かまわない。 膝の上を掴む手のひら。
 わけもなく閉じてしまいそうになる足。
 青い光に満たされた部屋の中。
 百億にも千億にも、波間に砕けて散った月の光がさざめくような…
 マルスの動きにつれて、いつしか…
 夢とうつつの境は消えていく。 
 Body and Soul
 …身も心も。
 すべてをマルスにゆだね、それと同じだけ、マルスを包みこむ。
 身も心も…
 重ねた肌のぬくもりだけが、真実。

That's all over.