夜目にぼんやり白い花。 「ケビン」 ジェイドの見舞いの帰りなのか、病院に続く坂道の途中で、万太郎とすれ違った。 呼びとめられて、ふと、足を止める。 「あの…」 呼び止めたはいいけど、いったい何を云ったらいいのか、逡巡する万太郎。 「スカーフェイスを」 …マルスを? 「見舞ってあげてくれないかな」 「どうして俺がヤツを見舞わなけりゃならないんだ?」 「だって、あのままじゃスカーフェイスが可哀想だから…」 子供じみた口調で、つくづくとこいつは、おっとりしたいいとこの坊ちゃんだ。 こいつ、世の中には自分に向けられる悪意なんかないと思っているんだろうな。 「万太郎」 自分でも驚くほど、低く押し殺した声だった。 「知っているか?」 愛嬌のある、真ん丸い目が見開かれて、俺を見上げる。 「敗者にとって、勝者の同情は最大の屈辱なんだぜ」 「ケビン…だけど」 お優しいね、万太郎。 みんなに甘やかされて大事にされて、何の苦労も挫折もなく育ったコドモだよ。 「スカーフェイスは、誰とも口を利かないし、いつも一人っきりで…ねえ、それ、淋しくないのかな?」 答えず、俺は歩き出す。 「ケビン!スカーのそばに居てあげてよ。誰かが支えてあげなきゃ、スカー、きっと」 莫迦だな。 いまさらどんな顔して、あいつに会えって云うんだよ? 「スカーに会いに行くんだよねーっ!?」 「ガキは早く帰ってママの夢でも見てねんねしな」 足が向いたのは、多分、気にしているからだ。 マルスをそこまで追い詰めた、自分が後ろめたいからだ。 坂の上には、夕暮れの空。 暮れなずんだ空が、急速に茜色から藍色に染め返されていく。 ぽつりぽつりと灯りはじめた街路灯が、急勾配の坂道に斜めに光の帯を投げかけている。 会えない。 けれど。 会いたい。 声が聴きたい。 いま、あいつがどんな気持ちでいるか。 わかる…と云うのは、俺の自惚れだろうか? 何度も、病院の敷地の中を行きつ戻りつして、気がつけば夜空に星が見えるほどの頃合だった。 病院の裏手から、中庭に行くことが出来る。 患者が散歩を楽しめるように、遊歩道の傍らには、整然と花を植え込んだ花壇がある。 ところどころに、木陰を作り出すための、さほど背の高くない木立があり、その枝に…白い花。 この甘い香りのする花は、リラ。 手を伸ばすと、花の咲いている一枝に手が届いた。 軽く手折り、それを持って、あいつの病室の窓辺に向かう。 何度か…そうだ、万太郎に云われなくても、マルスを見舞いにこようと思った。 実際、そうしてここに足を運んだ。 だけど。 そのたび、身が、すくむ… どうしても、顔を見るのが怖かった。 ウラギリモノ。 きっと、あいつは何も云わずに俺を見つめるだけだろう。 視線一つで、俺を責めるだろう。 そして、背を向けて、それっきり。 永遠の拒絶。 裏切ったのは俺だけど、お前の心の中から俺の存在を消し去られることに、耐えられそうもない。 だから。 こうしてお前の窓辺に、立っている。 ささやかな祈りが届くよう。 マルスの病室は、二階の右から三番目。 こんなにも近くに居るのに、遥かな星を見上げるよりも、お前が遠いのは… 自業自得。 初夏の陽光を浴びて咲き乱れる花からも遠いところで独り横たわるマルスの、ほんのわずかな慰めに。 一枝の、花を。 中庭を、矩形に取り囲んでいる病棟の明かりが、一つ一つ、消えていく。 このまま静まり返り、時に、生と死の命の輪廻が繰り返されていくのだろう。 花を、足許に置き、踵を返す。 「待てよ」 ?! ここで立ち止まってしまったら… 俺はマルスに言い訳できない。 「待てってんだよ!」 白いカーテンをひいて、半ば開け放しにしていた窓を開ける。 音で、判った。 「こっち向けよ」 それでも背を向けて、遠ざかる。 「行くな!このまま行っちまったら、一生恨むぞ!憎むぞ! 呪うぞ! 毎晩キタマクラに立ってやる!」 マルスが… 言葉に不自由なヤツだとは、昔から思っていた。 いたけど。 北枕、とは、あんまりだ…。 だから、たまには現代用語の基礎知識くらい読めと云ったのに。 「マルス、それを云うなら夢枕、だ」 振りかえり、見上げる。 そこに、懐かしい顔が、あった。 「てめぇ、そこで待ってろ」 「ま、マルス?」 窓の桟に足を掛けて…止める間もなく… ああ… 翼が見えるよ。 お前には、翼が、あるんだ。 ひとたび羽ばたいてゆけば、俺など… 独り、取り残される。 「何てことするんだよ。怪我人のくせに」 「説教なら、聞かねぇぜ。ケビン」 思ったより、ずっと。 マルスは元気そうだった。 病人じゃなくて、怪我人なんだから、怪我の状態がよくなれば、元気になるのは当然だけど。 これほど病衣の似合わない入院患者ってのも、珍しいかも。 「どうして…どうして俺の来たのが判った?」 「花だよ」 「…?」 「一昨日も、五日前も、その前も、二階の病室に居ると、甘い匂いがした。 窓から下を見てみると、白い花が置いてあった。お前だと思ったから、待っていた」 「待って、いた?」 「冷てェもんだぜ?超人委員会のお情けで治療だけはしてもらったけどよ、誰も見舞いに来やしねぇ。 なあ、おい。俺だってヘラクレスファクトリーの二期生なんだぜ」 「万太郎が来たはずだけど…」 マルスの左目が、わずかに細くなった。 クセ、だよ。 気に入らないコトを思い出したときの、マルスの。 「ケビン、知ってるか?」 「敗者にとって、勝者の同情は最大の屈辱だ、か?」 薄ら闇の中で、マルスがなんとなく、肩を落としたようだった。 「俺、お前が嫌いかも知れねェ」 だから、自惚れたくも、なる。 お前のことが判るのは、俺だけだって、信じたくなる。 「…いて」 小さく呟き、右足の付け根あたりに手をやった。 「大丈夫か?」 「いまので少し、ひねったかも」 「やんちゃするから」 あたりを見まわし、少し離れたところにあるベンチに気がついた。 「歩けるか?少し休めば、落ち着くかもしれない」 それでダメなら、看護婦を呼ぶけど…またマルスの心証が悪くなるな。 「星が見えるぜ」 「ほら、肩貸すから、よそ見しないで歩け」 いつのまにか、俺の背丈を追い越したマルスに、どちらが縋り付いているのやら…それを思うと、少し、可笑しい。 いや。 哀しい。 何故…何故? 自分でも、わからないけど。 「星空といえば…」 「まぁたカビのはえたような昔話か」 何とか目的の場所に辿りつき、手を添えてやりながらマルスをその場に座らせる。 おとなしく、マルスはそれにしたがった。 「いいから聞けよ。昔の中国に、聖人が居た。 あるとき、その聖人に、子供が尋ねた」 お星様と帝の居る都では、どちらが遠いの? 「聖人は、即座に答えた」 それはお星様だろう。 「子供が云った。お星様は、夜になれば見ることが出来るけど、天子さまの都は、見ることが出来ないよ。 お星様より近くにあるなら、見ることが出来るはずなのに」 「イケ好かねぇガキだな」 肩を並べて、星空を眺める。 お前は俺の、遠い星。 見上げることは出来ても、触れることは出来ない。 いま、こうしていたとしても、明日になれば、うたかたの、幻。 「マルス、俺に何か云いたいことがあるんじゃないか?」 「ねぇよ」 「…?」 「ねぇんだよ」 「マルス…」 「お前、こうして俺んとこに来てくれたからな。もう、いいよ。負けは負けだし、過去は、過去だ。 お前が何を云ったって、勝負てえのは、負けるときには、負ける。 いいか?俺は、万太郎との一戦については、もう何の遺恨もねぇ。 あれは、俺と万太郎の、試合だったんだからな」 木々の梢を揺らし、風が吹き抜けていった。 包み込まれるように、リラの香り。 「さ…もう、寒くなってきたから、病室に、帰れ。 体が冷えると、傷に障る」 「一緒に来いよ」 「…え?」 「お前、病室には何があると思う?」 「マルス…」 「ベッドだぜ。べ、ッ、ド」 肩を抱き寄せられ、耳元で囁かれ、それから。 「あ…」 仮面を難なく外されて、まとめておかなかった髪が、背中で波打った。 「相変わらずの、ファニィ・フェイスだな」「ほっとけよ」 どちらかといえば、母親譲りの甘い顔立ちには、コンプレックスがある。 そっぽを向いた俺の頤に指を掛け、自分に向き直らせると、マルスはそっと、上半身を傾けた。 眼を閉じる間もないほどの、ついばむような、軽いKiss。 「続きがしたく、なっただろ?」 金色の瞳に、幻惑される。 「だ…ダメだ…こんなところで…」 「だから病室にはベッドがあるって云ってるだろうに。 口と手と、肝心のトコロは元気だろ。 体力が有り余って、どうしようかと思ってたところなんだ。 こーゆーコトは、てめえヒトリで自己完結してもつまらねえからな」 云いながらはだけられた胸に、夜風が冷たい。 「マルス…!あ…ロクデナシ!」 「そう云うてめェはヒトデナシだろうよ」 「どうして俺が…」 「てめえはどうして俺がお前を必要としているときに限って居ねぇんだよ」 「必要…俺が?」 「ここに連れてこられて、生きてるんだか死んでるんだかわからねえような状態だったとき、 俺はずっとお前のことを考えていた」 ん…。 誰かに見られたら… 「腹が立って、悔しくて、辛くて、殺してやりてぇと思うのに、どうしても」 このまま身体を預けてしまえば、マルスは納得するのだろうか? いつまでも、俺がお前のものであると… 「憎み切れねぇ!」 「いた…っ」 思いっきり、押し倒された弾みで、ベンチの角に、頭をぶつけた。 ほんとに…まったく…こいつは力の加減ってモノを、知らない。 「それぐらい我慢しろ。 俺はもっと痛かった」 「怪我が…?」 「ココロの傷が!」 どうしてこう、マルスの物言いは、つたないんだろう。 「笑うな!」 わずかに強さを増した風が、木立のはざまを吹き抜けていく。 マルスの肩越しに見上げた空に。 花が…リラの、花びらが。 風に、舞う。 夜空に雪の舞う如く。 ワタシノウエニ、フリシキル。 星の欠片が降る如く。 アナタノウエニ、マイオチル。 言葉は、要らない。 くちづけを、交わそう。 あわただしく、互いの存在を確かめ合うその間に、マルスが、云った。 「な?」 「何だよ」 「どうして、いつも白い花だったんだ」 「白い、花?」 「お前が持ってきた、見舞いの花だよ」 「ああ…」 快楽というには、それは… あまりに静かでひそやかに満ちていくものだった、けれど。 「夜になると、白い花がよく目立つ」 「…それだけか?」 「悪かったか?」 「いや…お前のことだから、なんか小難しい理由があるのかと思って」 「ないよ。理由なんか、ないよ」 もう少し。 いまは、もう少し、こうしていよう。 このぬくもりに、泣きたくなるから。 遥かな星と、地上の星を、二つながらに抱きしめながら、悦楽の波に揺れる。 降りしきる雪に見紛う花吹雪の中でふたり… いつか融けあい、時が巡りゆく… 劇終 |