朝から降り出した雨は昼を過ぎても一向にやむ気配をみせない。 雨は、ばらばらと激しく音をたて、病院の庭木達の上に降りかかる。 病室の窓越しに空を見上げると、黒い雲が今にも下界を覆いつくしてしまうような雰囲気で、空一面に広がっている。 スカーフェイスは、雨の日が嫌いであった。 「病院」という殺風景で無機質な空間の中に閉じ込められ、それでなくとも気が滅入るというのに、雨の日の、この鬱陶しい暗さが 更に彼の気分を不快なものにする。 陰鬱な風景から少しでも逃れようと、スカーはベッドから立ちあがると、右手を伸ばし、窓のカーテンを閉めようとした。 「つっ…!」 右腕の付け根の部分に、ぎりりと重い痛みがはしる。カーテンを閉めることもかなわず、彼は右肩を押さえ、唇を強く噛み締めた。 スカーが万太郎との闘いで負った傷は、四ヶ月たった今でも彼を苦しめていた。 全身に負った傷はスカーを再起不能にしたと思われたが、闘いの後運び込まれた病院の適切な処置とスカー自身の強運により、 なんとか一命を取りとめることができた。その後、日にちを重ねるにつれ、スカーの体は徐々に快方へと向かっていったが、 この右肩だけは一向に回復の兆しをみせない。むしろ、早急な回復を望み、焦れば焦るほど、右肩は持ち主の意思に反し以前のように 動くことを拒んだ。 ベッドサイドに置いた腕時計のアラームが、ニ時を告げた。 スカーは時計に目をやると、ジェイドが、今日はまだこの病室を訪れていないことに気付いた。 入替戦で負傷したジェイドも、スカーと同じ病院に入院している。 そして、ジェイドは、一日に必ず一度はスカーの病室を訪れるのを日課としていた。 スカーにより引きちぎられた右腕の手術も成功を収め、ジェイドは現在リハビリに取り組んでいる。当初は長期のリハビリが必要と 診断されていたが、ジェイド自身の体力と、そして何よりも地道な努力により、医師も驚くほどの回復をみせていた。 この調子でいけば、退院の日も間近であろう。 ―――何か、検査でも受けているのだろうか? スカーは、ジェイドが姿をみせない理由について、ぼんやりと考えた。 毎日のように訪れるジェイドに対し、スカーは、最初、疑念しか抱かなかった。自らがジェイドに対して行ったことを考えると、 ジェイドがヘラクレス・ファクトリー在籍時と変わらぬ友好的な態度を取るとは到底思えなかった。ジェイドの右腕ばかりか、 彼の最も敬愛する師匠との絆まで断ち切ろうとしたのだ。もしも自分がジェイドの立場ならば、決して相手を許すはずはない。 しかしジェイドは毎日病室にやってきては、スカーに楽しそうに話しかける。その明るい表情は、H・Fにいた頃と何ら変わりはない。 一度、スカーは己がジェイドへ行った仕打ちについて、責めないのか、と問うたことがある。それに対するジェイドの答えは簡潔であった。 「怒るわけないだろ?」 明朗な声で即答した後、何事もなかったかのように、その日に起こった出来事について身振り手振りを交えながら話しはじめた ジェイドの姿に、スカーはそれ以上質問するのを止めた。 いつまでも動かない右腕。 スカーは、それを「罰」だと考えたこともあった。 奇しくもジェイドと同じ個所に負ったこの傷は、ジェイドの心を引き裂こうとした自分へ与えられた罰なのでないか――。 普段ならば決して考えないような陰鬱な思いに支配されつつあったスカーの心は、毎日のジェイドの訪問に、徐々に癒されていった。 雨の音が一層強くなった。 窓を見ると、激しさを増した雨がガラスを濡らしている。 その音を聞いていると右肩の痛みが一層強くなるようで、スカーは僅かに苛立ちを感じた。 熱い痛みに眉根を寄せながら、スカーはカーテンを一気にひくと、ベッドへと戻った。 室内は途端に薄暗さを増したが、雨に濡れた風景を見続けているよりは、ずっと良かった。 その時、ドアをノックする音がした。 「誰だ?」 スカーの問いかけと同時にドアが開き、ジェイドが姿を現した。 「よっ!!今日の調子はどうだ?」 ジェイドは、傷を負っているとは全く思えないほどの軽やかな足取りでベッドの側に近寄ると、部屋中をぐるりと見まわした。 「スカー、この部屋なんでこんなに暗いんだよ?カーテンぐらい開けろよ。」 「このままでいいんだよ。」 「どうして?」 ジェイドの問いに、「雨が嫌いだから」という子供のような答えを正直に言うのも抵抗があるので、スカーは話題を変えた。 「今日は検査でもあったのか?」 「ああ。定期の検査があったんだ。先生に言われたぜ。順調な経過だって――。」 そこまで言いかけて、ジェイドははっとして口をつぐんだ。ジェイドはスカーの傷の状態、特に右腕がなかなか快方へと向かって いないことを知っていた。 明らかに「しまった」という表情で話を中断したジェイドに向かって、スカーは口を開いた。 「俺のことは気にしなくてもいいぜ。それよりもお前、その様子なら、退院も近いんじゃね―か?」 「…ああ。先生が、この調子なら退院の日も随分早くなるだろう、って言っていた。」 「それはよかったな。」 「スカーだって、きっと早く退院できると思うぜ。」 ジェイドはベッドに腰掛けると、スカーの顔を覗きこんだ。間近で見るジェイドの碧玉の瞳は、力強い輝きを放っていた。 「でも、この部屋、本当に暗いなあ。カーテン開けろよ。」 ジェイドは窓の方向に目を向けた。 「開けなくていいんだよ。」 「どうして?こんなに暗い部屋にいちゃ、治るものも治らないだろ?」 「別に…、理由なんかねーよ。」 「それなら、開けるぜ!」 「あ、おい…、待て―――」 制止の声も聞かず、ジェイドは窓際へ向かうと一気にカーテンを引き開けた。 そこにあったのは、先程と変わらない、雨の世界であった。勢いはやや弱まったものの、外は薄暗いままである。 「ああ、まだ雨が降っているんだな。今日はよく降るな。」 ジェイドは窓をがらりと開けた。 部屋に、ひんやりとした、湿気を帯びた外気が流れ込む。 ジェイドは外の世界を見渡し、ゆっくりと、深呼吸した。 「俺、晴れた日もいいんだけど、雨の日も結構好きなんだ。」 「ふん、変わっているな。雨なんて、鬱陶しいだけだ。」 明らかに不機嫌そうな表情を浮かべ、スカーは言った。 スカーはジェイドに気取られぬよう、そっと右肩を押さえた。無理に動かしたというわけでもないのに、じわりと、痛みが広がっていく。 「俺は鬱陶しいとは思わないな。だって、『恵の雨』っていうだろう?雨が降ると、なんだか全てのものが生き生きとしてくるような 気がするんだ。」 「そういうのって、全てお前の『敬愛する』師匠の受売りなのか?」 スカーは、冷やかな視線をジェイドの横顔に向けた。ジェイドは、空の雨雲を見上げている。 「そうだな…。そういえば、師匠も雨が好きだって言っていたな…。でも、俺が雨の日を好きなのは、昔からだぜ。だって、ほら―――。」 ジェイドは、濡れるのを構わず、左手を窓の外にかざした。 「雨のこの冷たさが好きなんだ。ひんやりとして、すごく、気持ちいいぜ。」 「ばっかじゃねーの?ずぶ濡れになって、何がそんなにいいっていうんだよ。」 「何がって…。じゃあさ、雨が好きなのってヘンなことなのか?」 「ヘンに決まってるだろ。雨なんて体は冷えるし、鬱陶しいし、ろくなことねーからな。」 いまだ手をかざしたままのジェイドを見つめながら、スカーは苦々しげに言った。忌々しい雨の音に加え、無邪気に雨を喜ぶ ジェイドの姿が、彼の右肩に悲鳴をあげさせる。痛みから逃れるように、スカーはジェイドから目をそらした。部屋の片隅、 ぼんやりと薄暗い影をみつめる。 気がつくと、ジェイドが、スカーの傍らに立っていた。 「なんだ、ジェイド?」 ジェイドは悪戯な笑みを浮かべると、スカーの不意をついて、彼の頬に雨に濡れた手を添えた。 「つめた…!な、なんだよ?」 スカーの頬を、しっとりと雨に濡れた手が滑った。その手の平の感触はひどく柔らかくて、それでいて、心地よい冷たさであった。 スカーは、唐突なジェイドの行動よりも、今まで知ることのなかったその手の感触に驚いた。 「ほら、冷たくて、気持ちいいだろう?」 誇らしそうにジェイドが言う。その姿に嫌味は一切なく、幼子が、自分の一番大切な宝物を自慢しているような清々しさすら 感じさせた。 「なあ、スカー、そこから空が見えるだろう?ちょっと見てみろよ。綺麗だぞ。」 綺麗なはずはない,そう思いながらも,スカーはジェイドに促され、ゆっくりと窓から見える、空をみつめた。 空には、相変わらず、暗い色をした雲がたれこめていた。 雨粒は,空のずっと高いところから,次々に落ちてくる。 細い銀の軌跡を残しながら,地上へと降りかかる。 そのいつまでも途切れることのない銀の軌跡が、地上を、墨絵のような静かな色の世界に染め上げていく。 広がる、穏やかな世界―――。 雨の中に潜む、今まで意識することのなかった新鮮な光景は、スカーの心を揺さぶった。 「どうだ、スカー?」 ジェイドが、スカーに向けて微笑んだ。 灰色の世界のなかで、彼の柔らかな色をした金の髪だけが、ほのかに輝いているように見えた。 「綺麗なはず、ないだろ…。」 スカーは自身の感じた動揺を隠すかのように、抑揚をおさえた口調で言った。 ジェイドに触れたい―――。 ふと、スカーの中に、強い衝動が起こった。 スカーは、ジェイドに触れてみたかった。触れて、ジェイドの心の中を知りたいと思った。 普段、彼が何を考えているか、何に怒るのか。 何に、笑うのか―――。 スカーが、H・Fにおいて、ジェイドと共に過ごした時間は長かった。だがその間、今の瞬間のように、強烈に「ジェイド」という 人物に興味を抱くことはなかった。 己のみで構成されていたスカーの世界に、ジェイドという他者がはじめて入り込んできたのだ。 「ジェイド。」 「ん?どこか、痛むのか?」 通常と異なるスカーの様子に心配そうに表情を曇らせ、ジェイドが近寄った。 そのジェイドの左手を、スカーは掴み、ぐい、と怪我人とは思えぬ強さで引き寄せた。バランスを失ったジェイドが、 スカーの胸の中に倒れこむ。 「ス、スカー?」 あわてふためくジェイドの体を、スカーは片腕で、優しく抱きしめた。 そして、ジェイドの髪に顔を寄せる。髪からは、ジェイドの匂いと、優しい、雨の匂いがかんじられるようであった。 「おい、一体どうしたんだよ…。」 ジェイドが問いかける。スカーはその腕の力を緩めると、ジェイドの左手をとった。雨にうたれて冷たかった手も、今では、すっかり 体温を取り戻している。スカーは、ジェイドの暖かさを楽しむかのように、そっと目を閉じた。 「ジェイド…。」 「ん?」 「お前のことが、もっと知りたい。」 「俺のこと…?」 スカーの言葉に、ジェイドは不思議そうな顔をした。 「どうして今さら…?俺達、H・Fから、もう随分長い付き合いになるだろ。」 「知りたいんだ。」 いつになく静かなスカーの表情を見ながら、ジェイドは、くすり、と笑った。 「―――、仕方ない奴だな。しょうがない、なんでも聞けよ。」 「そうだな、なにから、聞こうか…?」 スカーは、ジェイドの重みを感じつつ、雨の音を聞いていた。 不思議に、あれほど忌々しかった雨音が気にならなくなっていた。それどころか、あれほど彼を悩ませた肩の痛みすら、徐々に 落ち着いてきている。 その原因が何であるか、スカーには分かっていた。 この腕の中にあるもの。 暖かな息遣いの人物。 はじめて感じる他人への興味に、彼は戸惑いながらも、その穏やかな感覚に身を委ねた。 雨の降る、外の世界に目を向ける。 雨は、いまだ、降り止まない。 終 |