意識はとっくの昔に戻っていた。 だが、万太郎の『マッスル・ミレニアム』で受けた傷は思ったよりも深く、オレは…ただベッドに縛り付けられたままだった。 そう、『縛られて』いた。 白い天井…消毒薬の匂い…そして、上から垂れ下がり、自分に繋がっている無数のチューブ…。 そして、手と足には頑丈な枷がつけられていた。 窓にもドアにも鉄格子がはめられ、ドアにはご丁寧にも電子ロックがかけられていた。 治療は行われた。最低限の…だ。 やってくる医者も看護婦も言葉はほとんどかけることもなかった。 そして、しばらくすると、手についていたチューブもなくなり、オレは、ただベッドに縛られているだけになった。 誰も訪れるものもない。 日に何度か、まるで生きているのを確認するかのように、看護婦がくる。 聞こえてくるのは自分の呼吸音と鼓動だけの部屋の中で、ただ天井を睨む日々が続いた。ただ、そこで転がされて 『生かされている』感じだった。 だが、それでも体の細胞は確実に再生し、力が少しずつよみがえってきていた。 『正義超人からの施しなんざいらねぇ…』 ままならない体も、気が狂いそうな静寂もそれだけで。我慢できるような気がしていた。 窓から差し込む日差しのあしがながくなってきたころ…。 誰も来る時間ではないというのに、不意にドアが開いた。 重厚なドアの閉まる音、そして、電子音。 規則正しく響く靴音…。 それは…看護婦や医者のものではない。 この数ヶ月、よく聴いていた音だった。 その頃に比べれば力がないようにも聞こえるが、その足音の主を間違うことはない。 カツカツカツ……カツン… その足音はオレのベッドの手前で止まった。 そして…そいつが到着したのを確認するかのように、そのあとに、もう一人の軽い足音がしたがっていた。そして、 一瞬の躊躇の後、軽い足音はたどり着いた。 毎日毎日入れ替わり立ち代り看護婦が来ていたが、そいつはその中でも一番年若いヤツだった。脈を取ろうとして、 こわごわと俺の手首に触った。 「さわるんじゃねぇ!」 一喝された看護婦は悲鳴を上げ、床にへたり込み、ガタガタ震え始めた。 ヤツはその女に一言二言声をかけた。 女は部屋から飛び出していった。 「何をしにきやがったんだ?」 答えは返ってこない。 期待もしていなかったが、やはりそれはそれで癪に障る…。 「オイ、何とかいってみろよ」 気配が変わった。 獣が牙をむいた瞬間のような気が出たかと思うと、ヤツはオレのみぞおちを渾身の力で殴りつけた。 「グァ…」 思わず体を折って堪えようとしたが、束縛されている体は自由にならない。 縛られている手首にバンドが皮膚にキリキリと食い込む。 「それだけ元気があるのは……問題だな」 「テメェ……」 その時、初めて俺達は目が合った。 相手と目があったくらいではひるまないオレだが……その時ばかりは一瞬ひるんでしまった。そして…… 反撃も抗議もできないオレにまた再び拳が振り上げられた。 引っ張られる筋肉の部位が違う……。 平面に押さえつけられていたときとはまるで違う痛み…。 目に飛び込んできたのは、絨毯の引かれた床と…灯りのほとんどない部屋だった。 ここのところずっと寝ていた…反動としてはなかなか極端だった。 オレは…両手首を縛られ、膝を床についた格好で天井から吊り下げられていた。 「えらい悪趣味だな」 ヤツは部屋の片隅に置かれている一人がけのソファの上に座っていた。 憎らしいことに、すっかりとくつろいだ様子で。 「……」 「おまえにこんなシュミがあったとは知らなかったぜ」 ヤツはオレに一瞥もくれずに、本に目を落としている。 窓はあることはあるが、ハメ殺しだ。…だが、普通の部屋らしい。 最低限の調度品、椅子や机、電灯やベッドといったものはある。 だが、明らかにこれは監禁を目的とした部屋だった。 「…オイ、この鎖をはずしやがれ。オレは犬じゃねぇんだ」 「…おまえなら、正義超人の犬に成り下がるのはゴメンだって…いうだろうな…」 「何を訳のわからんことを言ってるんだ?」 ようやく本から顔を上げ、ヤツはオレを見た。 「…おまえ…本当にジェイドか?」 かなりやつれてはいるが、顔も体つきも明らかにジェイドだ。 「…オレでなければ、誰だというんだ?」 翡翠の瞳の色には……真冬の月灯りを思い浮かばせるような…冷たさが宿っていた。最後に見たのが、 真夏の太陽の下だったとはいえ……その冷たさにオレが二の句が告げられなくなるほどに。 コイツは…こんな冷たい目ができるヤツだったのか? ヤツはソファから降りると、ゆっくりと近寄ってきた。 そして、オレの手首の鎖を掴み、自分の顔の近くまで持ち上げた。 「…オマエを回復させてやるほど…こっちの事情は甘くないんでね…」 「テメェらの事情なんざオレが知るか!」 「つくづく元気なヤツだな…」 無造作に鎖を離し、ジェイドは再びさっきまで座っていたソファに戻った。 それから奇妙な生活が始まった。 ヤツは一日中そこで本を読んでいる。 オレはシャンデリアのように、鎖で吊り下げられたままだった。 まるでオレがいないかのように…ヤツは平然とその単調な生活を送っていた。 「オイ…おまえはいつまでそうやっているつもりだ?」 何冊目か分からない本から目を離した、ジェイドがこたえた。 「…おまえが冥王星プリズンに収容されるまでだ」 「…冥王星?」 死と氷の星……。そこには、終身刑を言い渡された犯罪者超人が入る監獄があるときいたことがあった。 「…オレぁ冥王星行きかよ」 「…最初のうちはそれだけだったがな…」 「何だ?それは…」 ジェイドはソファから立ち上がり、さっきまで読んでいた本を書棚にしまう。 「おまえの回復があまりにも早いんでな……。冥王星で準備が整うまで…時間稼ぎが必要となった」 「…こうやってオレの体力を削いでおく気か?」 「そうだ…」 ジェイドは本を選んでソファに再び座る。 「てめぇらの好き勝手にさせねぇ……。冥王星に送れば、おとなしくしてると思ってるのかよ?」 「思っていない」 ジェイドは椅子から立ち上がり、オレのところに歩いてきた。 「…フン、拷問でもするのか??それくらいではオレはくたばりはしねぇぜ?」 翡翠色の瞳が揺らめき、湖の深淵を思わせる光を漂わせた。 「…オマエに下された超人委員会の処分は……冥王星プリズンでの冷凍刑だ…。しゃべれるのは今のうちだから、 オレはおまえが今いくらわめいても構わない」 「冷凍刑だと??」 「…d.M.pの残党がいてな。そいつらの見せしめも含め……おまえは冥王星で冷凍刑にされることになった」 ジェイドはそれ以上何も言わなかった。 ヤツは踵を返し、そのまま電灯を消して部屋から立ち去った。 今度こそ…真の暗闇の中にオレは一人で残された。 聞こえてくるのは、己の呼吸音、鎖のずれる音、そして……鼓動だけだった。 ハメ殺しの窓からは光は何も漏れてこない。厳重なロックが施された扉からは何の音も漏れてこない。 時間の感覚もなくなり、それとともに半ば宙ぶらりんにされた体からは力がどんどん抜けていく。 屈辱……孤独…不安…。 そんなもので言い表せない感情がオレの中で生まれていた。 言葉で表すには、あまりにも深すぎる感情…。 それが何であるのか思考はまるでまとまらない。 あまりにも根本的過ぎる…ことが体の奥でくすぶりつづけていた。 電子ロックが解除される音がし、ドアが開いた。 飛び込んできた光のまぶしさに目がくらむ…。 「何をしにきやがったんだ?」 ジェイドはいつものようにソファに座ることもなく、入り口でじっとたっている。 翡翠色の瞳は、長い前髪に隠されて表情は分からない…。 長い沈黙の後、ヤツは下を向いて、消え入りそうな声でつぶやいた。 「…明日おまえは…冥王星に送られる」 オレの中で何かが弾けた。 失われていた力が、体の芯からマグマがほとばしるように湧き上がってくる。 今まで自分の中でくすぶっていた感情が何であるか…理解した。 『…ヤツともう一度戦いてぇ』 ヤツだけでなく、今までに試合や訓練で手合わせした連中の顔までオレの頭のなかで駆け巡った。 オレは…このままやられっぱなしじゃいられねぇんだ! d.M.pの再興や、正義超人との抗争といったことは頭になかった。 拘束していた鎖を引きちぎり、オレはヤツに踊りかかった。 ヤツはあっけなく、オレに押し倒され、俺達は床にそのまま転がっていった。 『…あの本棚にオレを投げつけろ』 ジェイドが本を出し入れしていた書棚だった。 オレは絶対に自分が見張られていると確信していた。だが、隠しカメラの置場が書棚だったとは思いもよらなかった。 オレはヤツを抱え上げると、そのまま書棚に向かって投げつける。 その衝撃で多数の本がヤツの上になだれおちてきた。 ヤツは頭を振りながら立ち上がる。手には握りつぶされた機械の部品があった。 そして、ヤツはもう一度オレに踊りかかった。 オレは肩に担ぎ上げられた。ヤツは…小声でつげた。 『マイクは……ソファの中だ』 そのままブレーンバスターで床にたたきつけられた。 ジェイドはソファの手前に立っている。床をスワロー・テイル・シャベルでえぐり取り、ヤツを目掛けてその破片を投げつけた。 ヤツは難なくそれをかわし…つぶれたソファの中から壊れた機械がはみ出ているのを確認すると、目で合図した。 肩で息をしながら、かろうじて立つ俺を、ジェイドは焦点が定まらない眼差しで見ていた。 「どういうつもりだ?」 ヤツはこたえない。 ヤツの肩を掴み、揺する。 髪の間から見えた翡翠色の瞳には、あの冷たさはない。 「分からないんだ……」 ヤツはオレの手を払いのけた。 「…戦いを経て共感を得たものには友情が生まれる……だが、おまえにはそれはないハズなのに……何故オレはおまえを…」 「情けなんかいらねぇ!おまえがこんな猿芝居をしなくてもオレは逃げ出すことはできる!」 「………委員会の判断は正しい…かもしれない。あれだけ強かったおまえが冥王星で冷凍刑になったと聞けば、 他のd.M.pの残党がおとなしくなる…のは分かる。だが……」 ヤツはオレの胸倉を掴んだ。 「……理屈では分かるのに、何故オレはおまえがいなくなってしまうのが悔しいんだ?おまえは…悪行超人だと分かってるのに…」 胸倉を掴んだままヤツの肩が落ちる…。 右の肩に視線を落とした。筋肉は左に比べてやや衰えてしまっているが、何不自由なく動いてはいる。 指でなぞると、縫合の跡が生々しく指先に触れ、あの夏の狂気がよみがえった。 負けたことを師匠にわびながら…血の海に沈んだジェイド…。 あれだけの残虐さをもってしても、俺の素性を最後まで疑いもしなかった…。 面白いように手の平の上で踊らされ、そしてズタズタになっていったジェイド。 その傷つき欺きつづけたオレを消すのを何故ためらう…。 「…おまえはオレに勝ちたいのか?」 唇をかみ締め、ジェイドは言葉を飲み込んだ。 理屈と本能の葛藤…。 オレの中ではとっくに終わってしまった。 法的に、治安からみれば、オレの処分は正しい…のだろう。ヤツにとっては、それは絶対的なことだ。ヤツの理性の中では。 だが、こいつがその理性と自分の本性の狭間で揺れていることはわかる。 今でもたっているのがやっとのオレに、あの頑丈な鎖を引きちぎらせたのは、再びリングに立ちたい、という気持ちだと今分かった。 「オレを処刑したければ…強いヤツがリングの上でオレを打ちのめせばいい……改心するとか関係ねぇ…オレは」 「勝ちたい……」 ヤツはようやく顔を上げた。 「やっと分かったか…ファクトリーでならった共感とか…そんな理屈はいらねぇんだ…」 「…共感は生まれる…。だが、それがおまえとの間に生まれていないのに、眠らされるのは…我慢できないんだ」 ヤツの目はあくまでもまっすぐだった。それは…どんなに欺かれ、打ちのめされても変わらないのだろう。 「この頭でっかちの優等生が…」 「俺はおまえがそれがわかるまでは…どこまでも追い詰めて、そしてリングに立つ」 それでいいのだろう…。こいつはあくまでも日のあたる場所を歩けばいい。 オレは…地べたに這いつくばってでも…生きていく。 そして…強いヤツとやりたい…。それだけでいい…。 「オレ達にはそういう出会いしかできなかった。それでいい…」 「そうだな…それとだ…オレの右肩を折れ」 ヤツは手にヤツのIDカードを持っていた。 「…おい…せっかく治ったものを…」 「誰ももぎ取れとは言ってない。おまえは、俺を襲い、弱点である右肩を折ってカードを奪って逃げた…。それだけのことだ」 「恩には着ないぜ…」 「……あともう少し争った跡があったほうがいいな…」 俺達はそこいらのものを破壊しまくった。 そして、ヤツの右腕を再び捕らえた。 あのときの苦痛がよみがえったのか、一瞬体中が硬直したジェイドの右肩に渾身の力をいれてパンチをいれた。 骨の折れた手ごたえ…ヤツはうめき声を上げ、そして、床に倒れた。 「…早くいけよ…。暗証番号は……だ。出口は…教えてやらないからな…」 「そんだけの憎まれ口がきけるのなら…まあ心配はいらないか」 「ガラにもないことをするな…。今度捕まっても逃がしてはやらない…か…らな…」 ジェイドは目のあたりを左手で覆い隠している。 馬鹿馬鹿しい感傷だ…と思いながらも、俺はそれは口にしなかった。 久々に目の当たりにした外には、あの真夏の焼け付くような陽光はもうなかった。 冴え冴えとした月もなく、無数の星が、逃げて行く俺を照らしていた。 END |