商の文官。トウ九公が周に投降すると、中諌大夫として登場し、征伐軍の後任に蘇護を提案した(56)。また張山が戦死し洪錦が周に降ると、今度は中大夫として現れ、孔宣を後任に用いるよう推薦している(68)。
周軍がメン池県に至ると、「重賞の下に必ず勇夫あり」として朝歌で人材を募ることを薦め、梅山七怪の袁洪・呉竜・常昊を紂王に取り次いだ(87)。のち袁洪が周側の諸侯を討ち取ると、その旨を紂王に奏上し、紂王の命に従い袁洪に金品を届けている。また高明・高覚がやってくると、その奇怪な容貌に恐れをなしつつ紂王に引き合わせた(89)。
梅山七怪が破れると、再度「重賞の下に勇夫あり」と説き、周将を殺した者に官職を与えよと主張する。また魯仁傑に朝歌の守りを固めさせ、持久戦に持ち込むことを提案した(93)。朝歌に周軍が迫ると、講和論を唱える魯仁傑に反対し、あくまで人材募集による主戦論を展開。董忠と会い、丁策ら3人を紂王に推挙した(94)。
紂王が周軍に敗れ、負傷して帰ってくると、悪来とともに慰めた。そして悪来に万策尽きたことを嘆くと、悪来は「いっそ周に帰順せよ」といいだす。飛廉はそれを聞き、伝国の璽符を盗んで武王への手みやげにすることを思いついた(96)。武王が商を滅ぼし、西岐城に戻ると、玉符金冊を献上して中大夫に任ぜられた(98)。
封神の翌日、文武百官が封神台に集まると、突然姜子牙に捕らえられて斬首を命じられる(99)。旗門官により轅門の外に連れ出され、首をはねられた。そしてその場で姜子牙により、冰銷瓦解之神に封神された(100)。
『史記』秦本紀には「蜚廉は走るのが速かったので、…殷の紂王に仕えた。周の武王が紂王を伐った時、…蜚廉は紂王のために北方に使いしていたが、還ると紂王が死んで報告するところがないので、霍太山に壇を作って報告した。…蜚廉は自殺し、霍太山に葬られた(小竹文夫・武夫/訳 ちくま学芸文庫)」とある。また同本紀によれば、悪来は蜚廉の子であり、また蜚廉は秦王家の祖先である。
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