商の文官。商王朝3代に仕えた老臣である。
帝乙の時代に首相を務め、帝乙の3男・紂王を後継者に推薦した。帝乙が死ぬと、引き続き首相として紂王を補佐した。
ある日、紂王に女カ宮を詣でるよう上奏した。紂王が女カ宮に淫らな詩を書きつけると、詩を洗い落とすように言ったが、聞き入れられなかった(1)。
この参詣の後、紂王はどんどんおかしくなってゆく。
商容は、紂王が美女を集めるのを止めたり(2)、蘇護を処刑せよというのを取りなしたり(4)、また酒色に耽っているのを諫めるなど(5)、日々すさんでゆく紂王を抑えようとした。
だが、紂王に諫言した杜元銑は殺され、梅伯が炮烙にかけられてしまう。絶望した商容は、辞職して故郷に帰った(6)。
その後、朝歌では姜皇后の惨殺騒ぎがおこる。皇太子の殷郊は命を狙われ、朝歌を脱出した。その途中、偶然にも商容邸に宿を求める。殷郊から紂王の無道ぶりを聞くと、おおいに憤り、再び諫言することにした(8)。
朝歌に向かい、紂王に上奏文を提出した。この文面をみて怒った紂王は、商容を金爪で叩き割るように命じる。最後の諫言も聞き入れられないことを悟ると、声をあげて罵り、石柱に頭を打ちつけて自殺した。享年は75歳である。屍は城外に捨てられた(9)。
姜子牙により、群星正神玉堂星に封神された(99)。
『伐紂平話』には登場しない。また『列国志伝』では、商容は紂王に諫言して怒りを買い、庶人に落とされている。その後、あえて紂王を諫めようとする人物はいなくなったという。
『史記』殷本紀には、「商容は賢人であって、人々がみな愛していたのに紂はやめさせた。」とある。作家の宮城谷昌光氏は、商容とは箕子のことではないかと推測されているが(『王家の風日』)、本当かどうかはよく分からない。
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