真言密教の伝持の八祖

インドで生まれた真言密教の教えが、中国に伝わり、そして弘法大師に伝えられるまでに、現われた偉大な阿闍梨と密教の歴史を、学びたいと思います。

第1祖(龍猛菩薩)

南インドの鉄塔の中に入って、金剛頂経を授かった龍猛菩薩は南インドに誕生し、仏の教えを全インドにひろめました。  龍猛菩薩は若いときバラモン教を習い、欲望が苦のもとであることをさとり、欲愛を捨離して、ヒマラヤ山中に行き、出家した。そしてあらゆる教えを受けて記憶したと言われます。そして南インドの鉄塔の中に入り、大日如来の直弟子である金剛サッタから灌頂を授かり、秘密にして最上なる曼荼羅の教えを受け、現世に伝えたのです。    

第2祖(龍智菩薩)

上記の龍猛菩薩から密経を伝授された高弟で、修行の結果、高い境地(十地)に達し、その不可思議な力は想像もできないと言われる。徳は全インドにあまねく、名声は十万に聞こえた。超自然的能力をもって天に昇ることも地に潜ることも自由自在であった。超能力は八祖の中でも 一番優れていた様です。   

第3祖(金剛智)

 金剛頂経を中国へ伝える 金剛智は、南インドマラヤコクの婆羅門の家に生まれ、十歳のときナーランダー寺で出家した。  小乗と大乗の教理を身につけた金剛智三蔵は、三十一歳ではじめて南インドに赴いて、龍智から『金剛頂瑜伽経』など密経の法燈を伝授され、阿闍梨になった。また呪法にたくみで、観想すれば金剛サッタがつねに眼前に出現したという。    ある日、観自在菩薩が現われて、次のように告げた。  「大唐国に行ってそこで仏法を弘め、人びとを導きなさい。」と。  航海で大嵐にあい、金剛智の船だけがやっと広州の港に到着できたという。また、この嵐で携えていた『金剛頂経』の梵本を海に投げ込まれたという伝説も伝えられてる。  玄宗皇帝の開元八年(七二〇)、金剛智三蔵は東都洛陽に入り、皇帝に入国の事情を奏上した。『金剛頂瑜伽略出念誦経』四巻、『金剛頂瑜伽修習毘盧遮那三摩地法』などを翻訳した。   


第4祖(不空三蔵)

 不空三蔵は南インドの出身で、大広智不空金剛と号した。  三蔵は、早く両親と死別し、幼い時から出家の志があり、剃髪して袈裟を身につけていたという。十四歳の折、金剛智にめぐりあって、弟子となる。  金剛智は弟子となった不空に、ためしに『悉曇章』を教え、梵語経典を読ませたところ、一度聞いただけで音韻を間違えることがなかった。そこで得度の壇を設けて、十五歳で正式に出家を許した。  数年後、金剛智三蔵と不空三蔵の師弟は、危険な南シナ海に船出し、荒波に耐えて航海した。  その後、密教を学びたいと金剛智三蔵に申し出たが、師はなかなか許可しなかった。  ところがある夜、金剛智三蔵は、仏・菩薩の像が大挙して不空に従って東行する夢を見て、不空に密教を授けよとの仏の知らせであるとさとり、手に印契を結び、口に真言を誦え、心は三摩地に住する三密修行の法を授け、五智すなわち金剛界系密教の奥義を教えた」。    不空は、開元二十九年(七四一)に金剛智が示寂するとすぐに、その遺言により『金剛頂経』の完本を求めてインドへ旅立った。  勅命により『金剛頂経』ならびに『大日経』等の密経経典を請来するために、南インドの龍智阿闍梨のもとに派遣され、それらの両部にわたる伝法灌頂すなわち五部灌頂を伝授された。  


第5祖(善無畏 )

大日経をインドから中国に伝えた。  中インドのマガダ国の王であったが、王位を捨てて仏道に入り、龍智菩薩の弟子で、金剛智三蔵とは同門の間柄である。やがて達摩掬多阿闍梨についた。  善無畏は、陸路にて中国へ向った。ガンダーラの国王が『大日経』の念誦法を尋ねた時に、善無畏が祈ったところ、空中に文字が現れたという。  開元四年、多くの梵語経典とともに長安に到着した。 虚空蔵求聞持法』を翻訳  善無畏は、西明寺の塔頭菩提院において、『虚空蔵求聞持法』一巻を翻訳したが、これは入唐していた大安寺の道寺によってすぐさま日本に請来された。これは、奈良時代から広く実修され、若き日の弘法大師もこの法を修行したことは有名である。  善無畏の請来した梵本はすべて朝廷に献上させられ、みずから翻訳することができなくなり、その後『大日経』の梵本を手に入れ、翻訳に着手した。  『大日経』一部七巻、『蘇婆呼童子経』三巻、『蘇悉地羯羅経』三巻を翻訳した。  


第6祖(一行禅師 )

善無畏三蔵に従って『大日経』七巻の翻訳に従事  一行禅師は金剛智三蔵に師事して、陀羅尼や印契の伝授を受け、伝法灌頂の壇に入って、阿闍梨位を授かり、その後、善無畏三蔵に従って『大日経』七巻の翻訳に従事した。  『金剛頂経』系の密経を伝えた金剛智三蔵の弟子でもあり、二人からの密経を相承した。 一行は天文暦数の専門家として有名であり、易学・数学にすぐれていました。


第7祖(恵果阿闍梨 )


恵果阿闍梨 、俗姓は馬氏、長安の昭応で生まれ、大興善寺の(故)不空三蔵について密教を伝え受けて弟子となった。 恵果和尚は八歳のとき、初めて青龍寺の曇貞和尚に伴われて大興善寺の不空三蔵に会った。  不空は、恵果を一目見て「この子供は立派な密教の阿闍梨となる器量をもっている」と讃嘆し恵果を実子のようにいつくしんで教育した。  不空は三十余年の長きにわたって灌頂の壇を開き、入壇した弟子の数は多く二千余名になるが、しかし修行が成満して金剛界の伝法灌頂を受け阿闍梨位についたものはたった八人しかいなかった。恵果和尚は、唐の代宗・徳宗・順宗から尊崇され、三朝の国師と称される。    



第8祖(弘法大師・空海 )

 遣唐船に乗った空海 (弘法大師) は、(804)年に、暴風雨に流されながらやっとの思いで、唐の都の長安に辿り着きました。  そして都の長安で、幸運にも青龍寺に数千人の弟子を持つ、恵果阿闍梨から短期間で密教の全てを伝授されました。  不思議なことに、恵果和尚は、初めて会った空海 (弘法大師) を見るや・・・ 「我汝の来るを知り、待つこと久し。 今日相見えて大いに好し。」 と、唐突に告げられたので、空海は大変驚いたと記されています。インドで生まれた真言密教の教えが、中国に伝わり、そして空海によって日本に真言密教が伝えられたのです。