弘法大師空海25箇条   御遺告



「御遺告」とは空海が入定する6日前の835(承和2)年3月15日に弟子・信徒へ後世の為への戒めを25箇条にわたって示された遺言である。遺言と言う性質上、真言密教に関係ない門外の者に公開しても良いものか迷っていましたが要望もありますし、それに空海は宗派を越えて万民に慕われていますので公開にふみきり空海の真情と真言密教の本質を少しでもご理解頂きたく掲載したしだいです。原文は殆んどが漢字で書かれている為、一般には解り難いので解り易い様に現代語に訳して掲載いたしました。ですが、御遺告の特質上、無断でのコピー及び転載は一切禁じます。


{「御遺告」現代語訳}

諸々の弟子達に対する遺告。 東寺の真言宗家において後世、(宗の)内外のことに関して勤め護るべき枢要の事柄25箇条の文書


心静かに考えてみれば、本来、優れて大いなる仏の教え(大法)に優劣はないけれど、その興廃は人の機根(素質能力)による。師から弟子へと代を重ねて法を伝えるのは、

もっぱら人にある。インドの王舎城の近郊の霊鷲山において(仏の弟子達が)観聴きした法(釈尊の説法)は伝えられて中州(インド各地)に流布し南天の鉄塔で相承された法

(真言密教)はすみやかに公布した。仏法の流れを探り、その源泉を尋ね、暗夜に光の所在をよく考えてそのもとを求める。大唐(中国)においては、すでにつぶさに仏法相承の

血脈が存していた。(その流れは我が日本にも連なって今日に至っているから)それゆえに、日本の真言宗の末学とても、この教えを後世に伝えないことがあろうか。


初めに(真言宗)成立の由来を示す縁起第一<真言宗の末学の徒であっても、東寺第一の阿闍梨以外の者は、この遺告を書写し所持してはならない。このことは自分の眼や肝を大切に守る様に厳守せよ。>


そもそも思いめぐらしてみれば、わたくしが昔生まれて、両親の家に住んでいたとき、5,6歳の頃、いつも八葉の蓮華の中に坐って諸々の御仏たちと言葉を交わしている夢を見た。

しかし、そのことは父母にもまったく語ることがなかったし、ましてや、他人に語ることはなかった。この子供の頃、父母の愛情を一身に受け、貴物と呼ばれて育った。12歳に

なったとき、父母は次の様に話した、「わたくしたちの子は、昔、仏弟子だったに相違ない。何故かと言えば、夢の中で天竺国(インド)から聖なる僧がやってき来てわたしたちの

懐に入るのを見た。そして、この様にして懐妊して生まれた子だからである。だから、この子はいずれ仏弟子にしよう」と。わたくしは、子供心にこのことを聞いて喜び、いつも

泥土で仏像を作り、屋敷の近くに(木片を集めては)小さなお堂を造って、その中に仏像を安置して礼拝供養の真似事をするのを遊びとしていた。そのとき、わたくしの父は佐伯氏の

出身で、讃岐の国多度郡の人であった。昔、東国征伐に功があって領地を得た。母は阿刀氏の出身である。ここに母方の親戚で叔父に当たる阿刀大足などが「たとえ(夢で見たように)

いずれ仏の弟子になるかもしれないが、大学に入って世俗の学問の書物を学び、身を立てるようにさせるのが最上である」と勧めた。その勧めに従って世俗の幾らかの書物などや

史伝について教えを受け、同時に文章についても学んだ。この様にして、15歳になったときに都に上り、そこではじめて岩淵の僧正の位を贈られた勤操と言う偉大な師にお目にかかり、

大虚空蔵などの法や能満虚空蔵の究極の法を授かり、一心に真言の念誦、受持につとめた。のちに大学に入って、直講(博士を補佐し経書を講義する者)の味酒浄成について「詩経」や

「春秋左氏伝」「尚書」を読み、「左氏春秋」を岡田牛養と言う博士に学んだ。ひろく儒教の経書や史書を読んではみたが、主に仏教の経典を好んだ。常々、自分が今学んでいる

ところの古い昔からの世俗の教え(儒教)は目前のことについてはなんら役に立つところが無いように思っていた。死後はそれによって影響されるところがないであろう。真の福田

(福徳を生み出す田)である、仏を信仰するのが最高であると。そこで「三教指帰」3巻を著わし、在家の求道者である近士となり、名も無空と改めた。名だたる山、聳え立つ山、

切り立つ断崖の海岸につながる寂しい場所に、世俗を離れて、ただ一人向かい、久しく留まって苦しい(求聞持法の)修行をした。あるいは阿波の大滝嶽に登って修行をし、あるいは

土佐の室戸岬でしばらく静寂の境地に住した。心中に(虚空蔵菩薩を)観想したとき、明星が口中に入った。そして、虚空蔵菩薩から発せられる光明の輝きは、菩薩の威力を顕わし、

仏の教えの比類のないことを示した。その度をこえた苦しい修行のありさまは、すなわち厳しい冬の深い雪の中でも葛衣で作った粗末な衣を着て精進の道を実践し、炎暑の夏には

非常な暑さの中で穀類や飲み物を断って、朝な夕なに懺悔し、それを二十歳のときまで続けた。このころ、偉大な師と仰ぐ石淵の勤操僧正が私を招き導いて、和泉国の槙尾山寺に

おもむき、ここにおいて剃髪し、沙弥(少年僧)が守るべき十戒、72の作法を授けて、名前を教海といい、後に改めて如空と言った。このとき、仏前において誓願をおこして、

「わたくしは御仏の教えに従って、常にその枢要を求め尋ねてきましたが、仏の教えには三乗とか五乗の別があり、十二部経などの数多くの経論がありますが、(どれが肝要の

ものなのか)心中に疑惑が生じていまだに決定することが出来ません。ただお願い申し上げるのは三世にわたる十方の諸仏よ、どうかわたくしに絶対唯一の法門をお示しください」

と心を込めて祈り感得すると、夢枕に人が立ってここに「大毘盧遮那経」と言う経典がある。この経典こそそなたの求めているところのものであると告げられた。聞くやいなや夢

のお告げに喜び従って、その経典の中の最高の経典である「大日経」を求め得る事ができた。それは大日本国高市郡の久米寺の東塔のもとにあったのである。直ちにその経巻を

ひもどいてひとわたり拝読すると、理解できないところが多々あって、それを問いただすところもなかった。そこでさらに真理を求める心を励まして、去る延暦23年5月12日、

(難波から遣唐使船に乗船して)唐に出発した。(先に得た大日経の疑義を)初めて学習する為だったのである。勅命に天が応じて順調に海を渡ることが出来れば、わが国と唐との

海路の距離は三千里である。以前からの例に拠れば、揚州や蘇州に到着し何の問題も無かった。ところが、今回、わたくしの乗った船は、七百里も増して衡州に漂着し、様々な

難関に直面した。その間、遣唐大使の越前国の太守・正三位 藤原朝臣賀能は自ら親書を作って衡州の長官に送った。州の長官は賀能の送った文書を披いて見ただけで捨ててしまった

このように文書を送ることが二度、三度と繰り返された。しかしながら、船は閉じてしまい、一行を追いやって湿った砂辺に居らせた。このとき、大使の藤原賀能が、わたくしに

「いったい今や、事態はきわめて憂うべきときです。貴僧は名文能筆の人であられます。(わたくしに代わって)文書を差し出してください」と申された。そこでわたくしは、文書

らしきものをしたため、大使に代わってかの州の長官に提出した。長官は披いてみて笑みを浮かべ、船を開き、事情の聴取などをした。すぐに都の長安に申し伝えるのに39日間

がすぎて州の役所から世話係の者4人をいただき、あわせて物資や食糧を支給してくれた。州の長官は親切に尋ねられ、宿舎として仮の家屋13棟を作って一行を住まわせた。

58日間がすぎると、遣唐使一行の安否を問う勅使が来てくれた。その礼儀作法は極まりないものであった。これを見る唐側の人もわが国の人も、みなそれぞれ感動の涙を流した。

その次に迎客使が来てくれた。大使は七宝で飾られた鞍をいただき、同行の次々の遣唐使の者達にはみな飾られた鞍がおくられた。長安に入る儀式は筆舌に尽くすことが出来ない

ものであった。この儀式を見ようとする人々が遠くにも近くにもいっぱいであった。しばらくして、大使の賀能大夫たち一行は先に日本へ帰国することになった。時に延暦24年

の仲春である。それは大唐の貞元21年にあたる。このときわたくしと橘逸勢は勅命に従って留学した。すなわち、わたくしは首都長安の青龍寺の大徳で宮中の内道場に出仕する

十禅師の位にある恵果大阿闍梨にお遭いして、五智灌頂を受け、大非胎蔵法と金剛界の両部の秘密の法を学び、あわせて大日経・金剛頂経など二百巻あまりを読んだ。その中には

新訳の経典や論書で、漢訳と梵本がともに存するものもあった。わたくしは大同2(807)年にわが国に帰った。帰国の船の中で日本の天皇が崩御されたと人々が噂しあっていた。

これを聞いてわたくしは噂の真偽の程をを確かめようと、船内の人々に尋ねたがあれこれと論じ争うばかりで、はっきりしたことが判らなかった。船が九州に着岸するとある人が

告げていった、桓武天皇がこれこれの日時に崩御されたと。わたくしは深い悲しみでいっぱいになり、白い衣をいただいて喪に服した。そのようなわけで、以後、四朝を経て、

国家の為に壇わ作って修法すること51度であった。また勅願によって、神泉苑の池のほとりで善如龍王を勧請して雨を祈ったところ、霊験が明らかにあった。その霊験は上は

殿上から下は庶民にまで及んだ。この池の中に龍王が住み、善如と呼んだ。もともと、これは無熱達池に住む龍王の類である。慈悲の心が厚く人の為に害を及ぼすことはなかった。

どうしてこのことがわかるのか。正月の御修法のころ、人に託してこれを示した。すなわち、真言の奥深い趣旨を敬って池の中から姿を現すときに効験が完成された。

善如龍王が現す姿とはたらきは、ちょうど金色のようで、長さは8寸ほどの蛇である。この金色の蛇は長さ9尺ばかりの大蛇の頭頂に居住していた。この蛇の実際の姿を見ることの

できた弟子たちは実慧大徳をはじめ、真済、真雅、真照、堅慧、真暁、真然などであった。他の諸々の弟子たちは見ることが出来なかった。この出来事の次第を事細かに宮中に奏上

した。まもなく淳和天皇は勅使として和気真綱を遣わし、種々の色の御幣を龍王の宝前に捧げたのである。真言道の尊く優れている事が判り、それ以来いっそう盛んになった。

もし龍王が池を離れて別の世界に移ったなら、池の水は減じて枯渇し、世間の幸福は薄く、人民は窮乏するだろう。まさにこのようなときには、朝廷に報告しなくても人民の為に

ひそかに祈願すべきである。また灌頂を授ける者の数も多くなってきた。詳しくは記さない。もし灌頂を受けた者ががあれば、それらはすべて自分のところからはじまったもので

あり、まさにこのときこそ真言密教が世間に確立されたときなのである。真言密教の教えはそもそも師から弟子へと相継いで伝えられ、親しく相承されるべきものである。偉大なる

祖の大毘盧遮那如来はまず金剛サッタ菩薩に法を授けられ、金剛サッタ菩薩はそれを龍猛菩薩に伝えられた。龍猛菩薩より次々と相承され、下は大唐の玄宗・粛宗・代宗の三朝の

皇帝に灌頂を授けられた国師で特進試鴻臚卿と称せられ、大興善寺に住した三蔵沙門、大広智不空阿闍梨に至るまで6代を数える。恵果はこの不空の上位弟子である。およそ付法の

順序をよく考えてみると、わたくしの身に至るまで伝え伝えられて8代となる。わたくしが訪れた日、恵果大阿闍梨は「我が命はもはや尽きようとしている。随分と長いことそなたの

訪れるのを待っていた。あなたは果たしていまやって来られた。わたくしの相承した教えは東方に伝わるであろう」と仰せられた。だから恵果の俗弟子の呉殷が書いた「大唐神都

青龍寺東塔院灌頂国師恵果阿闍梨行状」の中には「いま、大日本国の沙門がやって来て仏の教えを求めた。師より全ての法を学び、さながら一つの瓶の水を他の瓶へうつしかえて

少しも漏らさないようであった。この沙門は並の者ではない、十地のうちの第三段階、発光地に位する菩薩である。内には大乗の心をそなえ、外見には小国の沙門の姿を示す云々」

と記している。恵果大阿闍梨と同学の弟子である、宮中の内道場に出仕する十禅師の位にある順暁阿闍梨の弟子である玉堂寺の僧珍賀が「日本からやって来た座主はたとえ聖人で

あっても恵果一門の人ではない。まずはじめに一般の仏教を学習させるべきである。それなのにどうして最初から密教を授けようとするのだろうか云々」と再三にわたって異議を

申し立てた。ところが珍賀は夢の中で打ち負かされて朝早くわたくしのところへやって来て、三度、礼拝し非礼を謝して次の様に言った云々。また、去る弘仁7年、上表して紀伊国

の南山の地を賜わることを願い、とくに瞑想を行なうところとした。そこに一、二の粗末な庵を作り、もと住していた高雄山寺を去って高野山に移り入いった。その高野の峰峯は

高く険しく遠く人里を離れている。高野山にわたくしが居住していたとき、しばしば明神のご加護があったのである。常に門下の者に語っているが、わたくしは山水の間に住する

のが性に合っており人との付き合いには疎い。また、空を行く雲のように、一定の住処を持たない。やがて老いを迎え終わりを待つのは、この窟の東にしょうと思う。嵯峨天皇の

勅命があって、わたくしを高野山から呼び下して、中務省にとどまらせ、1ヶ月ほど修行して、わたくしはまた高雄山寺に帰って居住した。淳和天皇が即位されるや少僧都に任命

された。再三、固辞申しあげたけれども許されず、公職につくことになった。様々な仕事に追われて暇はなかったが、春と秋には必ず一度は高野山を訪れた。高野山に登る裏道の

あたりに、丹生津姫命と名づけられる女神が祀られていた。その社のめぐりに十町歩ばかりの沢があり、もし人がそこに近づけばたちまちに傷害を受けるのであった。まさに

わたくしが高野山に登る日に神に仕えるものに託して次の様にお告げがあった。「わたくしは神の道にあって長い間すぐれた福徳を願っておりました。ちょうどいま、菩薩(空海)

がこの山に来られたのは、わたくしにとって幸せなことです。そなたの弟子であるわたくしは、昔、人間界に出現したとき、食国皇命が一万町ばかりの領地を下さった。南は南海を

境とし、北は吉野川を境とし、東は宇治丹生川を境とし、西は応神山の谷を境とした。どうか永久にこの地を差し上げて深い信仰の心情を表わしたいと思います」と云々。いま、

この土地の中に開田されている田が三町ばかりある。常庄とよばれるのが、これである。わたくしは、去る天長9年11月12日より穀類を摂る事を全く避け、もっぱら坐禅をこと

とした。これは仏の真理の教えを永く栄えさせるためのすぐれた方法であり、同時に末世後世に生きる弟子や信者達の為である。まさにいま諸々の弟子たちよ、よく聴くがよい、

よく聴くがよい。わたくしの生涯はいくばくもない。そなたたちは正しく住し、身を慎んで仏の教えを守るがよい。わたくしは永遠に高野の山に帰ろうと思う。わたくしが入滅

しようと定めたのは、今年の3月21日の早朝寅の刻である。諸々の弟子達よ、悲しんで泣いてはいけない。わたくしがもし入滅したのちには、金剛界・胎蔵の両部の三宝を帰依、

信仰するがよい。自然に、わたくしに代わって仏は目をかけてくださるであろう。わたくしは生年62歳、法臘41年である。わたくしは最初は百歳までも世に留まって仏の教えを

お守り申し上げようと考えた。しかしながら、いまは諸々の弟子たちに後事を託して、あわただしく永遠の寂滅に入ろうと決めた。さて、嵯峨天皇より東寺を賜った。

このうえない喜びで、それを真言密教の道場とした。決して他宗の者を一緒に住まわせてはならない。これは排他的な心で言うのではない。真実の法を護る為の手立てなので

ある。完全無欠な妙なる法でもそれを理解できない5千人の心が驕った輩がいる。東寺は広いと言っても、顕教を学び真言門でない異なった者の住するところではない。

どうしてこのようなことをいうのか。去る弘仁14年正月19日にわたくしに永久に東寺を賜わり預けられた。そのときの勅使は藤原良房公卿であった。勅書は別にある。

すなわち東寺が真言密教の道場となることが既に決定されたのである。東寺は師から次の師へと相伝して道場となすべきである。どうして真言門以外の者を入れてみだり

がわしく入り乱れることができようか。



実慧大徳を、わたくしの入滅後の弟子たちの依りどころとなる師・長者となすべき縁起第二


そもそも思いめぐらしてみれば、わが真言宗が盛んになったのは、ひとえにこの実慧大徳の信念の力による。こうした理由によって告示するのである。大徳は真言を根本の教義とし、

顕教を周辺の教えとする。他人に慈悲の眼があって顕教と密教の双方が自由自在に障りなく融け合っている。人々の指導者、国の宝と仰がれる者でも、どうしてこの大徳を益することが

あろうか。したがって大経蔵に関する一切のことはひとえにこの大徳にまかせる。ただしかし、もし実慧大徳が不幸に歿するようなことがあれば、その後事は真雅法師にまかせ、大経蔵

を封じたり開いたりするがよい。だから、まだこのことを知らない弟子たちに大経蔵を封じたり開いたりさせてはならない。心がおろかだから、それぞれの師たちの長所や短所、

すぐれているところや足らないところを真言宗以外の者に語るようなことは必ず慎むべきである。また菩提樹の実の数珠は、大唐の皇帝から下賜されたものである。すなわち、皇帝の

お言葉に、「そなたは、これを朕と思って、永く忘れないで欲しい。朕は、そなたを留め置いて師としようと初めにいった。それなのに、いま、そなたははるか東の国に帰ろうと

している。これは当然のことである。後に再び会うときを待とうと思っても朕の歳はもはや人生の半ばを過ぎている。どうか一生が終った後に必ず仏のいますところでお会いしたい

ものである」と。このようなお言葉ばかりでなく、様々な恩賜の品物があったので、さきに誤ってこの数珠を恵果大阿闍梨から賜わったものと記した。だが金剛樹の実で作った数珠は

恵果大阿闍梨からいただいたものである。また諸々の密教の法具も恵果より与え託されたものである。どうして軽々しくみることができようか。



弘福寺は真雅法師に託すことの縁起第三

右の寺は、飛鳥浄三原宮の御代、天武天皇の御願による寺である。ところが天長の淳和天皇が勅命を下して、永久に常に東寺の長者がこの寺を管理すべきこととなった。謹んで考えて

みれば、天子のご恩によって、わたくしが高野山に通って詣でるための途中の宿所として下賜されたのである。これによってわたくしは永久に師から師へと伝え伝えられて管理

しようとするものである。ただし、真雅法師が歿したのちは、諸々の弟子たちのうちで、年齢や受戒の年次を論ずることなく、仏道の成就した者が東寺を司るべきである。年齢の順序

にこだわってはならない。また真言宗のなかで最初に仏道を成就した人を長者とすべきである。東寺の長者となった者は、弘福寺も併せて管理すべきである。弘福寺を仏陀宮と

称する。自分の宿所とするばかりでなく、仏道の修行を厳しくして、真言宗の将来をはかるがよい。



珍皇寺を後の弟子門徒の間で修行によって清らかに保つべき縁起第四

右の寺を創建された偉大な師は、わたくしの祖師の故慶俊僧都である。真言の諸々の門徒が互いに与えたくしているので保持してきた。そうであるから、十分その能力の有る人を

寺の役僧に任じ、主管させるべきである。能力の無い者を起用してはならない。



東寺を教王護国寺と名づけるべき縁起第五

そもそも思いめぐらしてみれば、大唐の恵果という偉大なる師は勅命によって青龍寺を代々の師から受け継いだのである。もとは大官道場と名づけられていたが、大興善寺の不空

三蔵が勅命をいただいて真言秘密の道場とし、青龍寺と名を改めた。まさにいま、かの故事にならって、東寺を教王護国寺と名づくべきである。勅額はすでに賜っている。

この事を秦上すべきである。またわたくしの漢号は遍照金剛である、よく心得ておいてほしい。



東寺灌頂院は真言宗徒の長者である大阿闍梨が寺務を監督し取締るべき縁起第六

灌頂院の建立はまだ完成していないが、密教の法燈を伝えようとする意向は既に始まっていた。以前より幾度も考えてはいたが、早速に高野山にはいって、この志を遂げることは

出来なかった。このようなわけで、実慧大徳が建立に意を注いで完成して欲しい。また灌頂院のさまざまな荘厳については、前々から話しているとおりにしてほしい。ただし、

恒例の灌頂を授ける阿闍梨は真言の門徒のうちで最初に仏道を成就した者に勅願を修めさせるべきである。もしとくに病などの事故がある場合は次の人を頼んで起用すべきである。

もしそれを辞退するようなことがあれば、永久にわたくしの末弟子でもなければ真言宗の門徒でもない。よろしく信じ尊ぶべきである。




食堂の仏前に、大阿闍梨ならびに24人の僧の童子たちを召集して、金剛界の五悔をくりかえし唱えさせる縁起第七

右の標題について、大唐の青龍寺の例を考えてみると、真言宗徒の大阿闍梨の童子や、諸々の名徳たちの童子たちを食堂に集めて、僧たちと童子たちが一対一で一緒に五悔を

学習することをさせ、毎晩、諸衆
の名を記した木札で参不参をみるのである。すなわち人々が得るところの十分の一を割いて諸々の童子たちの使用する紙墨の費用にあてる。

このことが心配なので、ここに示すにすぎない。しかし、将来がおぼつかない者は、寺の中に常に住していても、無理に呼んでこの集まりに出席させてはならない。器量をみ、

人品をはかってから人をうながすべきである。また九方便は大阿闍梨の前において諸々の徳ある者の弟子のうちからとくに優れた僧たちを召集して、毎夕くりかえし唱えさせる

べきである。むかし、恵果大阿闍梨が、次の様に仰せられた「ただ諸々の仏法を守護する天神が、仏法の味わいを享受して道場などを守護するのである」と。このことに準じて

ここに示す。他のことなどにかまけて、自ら中止するようなことがあってはならない。



わたくしが入滅した後の弟子門徒たちは、大安寺を本寺とすべき縁起第八

そもそも思いめぐらしてみれば、大安寺は兜率天の宮殿のような構えであり、インドの祇園精舎のような役割をはたしている。本尊の釈尊像は、すなわち智法身のお姿である。

わたくしがはじめて仏道に菩提を求める心を起こすもととなった、わたくしの祖師である道慈律師が推古天皇の御願を実現した寺である。これによって、わたくしの偉大な師で

ある岩淵の僧正を贈られた勤操が大安寺を本寺としてお弟子たちをみな入住させた。それに随って、わたくしもかの寺を本寺とするのである。ただし、わたくしは勅命によって

東大寺に行き南院を建立した。この間に出家した弟子たちは便宜上、東大寺に入住した。まさしくいま、本来の意趣を考えてみると、わが先師のお寺である大安寺はまさに

優れた土地である。先師がその土地をよく選んで建立されたのである。わたくしの弟子、後々の門徒たちは、大安寺を本寺として本尊の釈迦牟尼如来にお仕え申し上げるべきで

ある。境内の中の西塔院を根本の住所とする。詳しい事情は別の記録にある。また師から弟子へと法を伝え伝えられた密教の系譜である血脈を示した図は別紙にある。一事を

得て万事を知るがよい。



真言の道場を住処としてそれぞれの師について門徒となろうと願う者は、必ずまずよろしく情操をもととすべき縁起第九

そもそも思いめぐらしてみれば、大唐の真言宗の門徒は、もともと他の宗の門徒をまじえない。幼い子のときから人の子を寺に入れ教育して弟子とする。それはあたかも桑虫が

他の子を自分の子として養育するようなものである。そうしてのちに出家させる。このように仏のさとりの門を継承するのである。このようなわけで、即ちそれに随って幼児を

見定めて大事に養育し、子供の気持ちをよく探り、その日頃の行いを見て、もし弟子にふさわしくなければ、早く家に帰すがよい。出家させるのにふさわしいものは、留め保護

して仏道を習わせるがよい。門徒のうちで行いの優れていると思われる者は、自分の師であると、人の弟子であるとをえらぶことなく、引き寄せて密教の真実を伝え継がせる

べきである。たとえ親しくしている弟子であっても、志が調わない者は簡略に扱って、行いの優れた者と同ように扱ってはならない。ましてや、どうして真実の奥義を授ける

ことができようか。



東寺に長者を立てるべき縁起第十

そもそも思いめぐらしてみれば、わが弟子となろうとする者であって末の世に後から生まれた弟子のうちで、僧綱の役に就く者は、戒を受けて出家してからの年数の順による

のではなく、最初に仏道の成就したものを東寺の長者にすべきである。以前から長者と言うのは座主である。唐の法に準拠して、座主の称号を用いる事を上秦しようと思う。

さきざきからこの事を考えていたが山にはいっている間にすでに忘れてしまって、まだこのことを成し遂げていない。よろしく弟子たちよ、必ずこの事を成し遂げて欲しい。

いま述べたことどもにはみな決して不必要な言葉はない。ことごとく密教の教えを永く後世に伝える為のおもんばかりなのである。わが後世の弟子たちよ、このことを非難

してはならない。



諸々の弟子たち、ならびに後々の末の世の弟子となろうとする者は、東寺の長者を敬うべき縁起第十一

そもそも思いめぐらしてみれば、大唐における衆僧の法は、青龍寺の例のとおりである。そのわけは、かのせ青龍寺には、もともと他宗の者が住することはないからである。

僧徒が数千人いても、みな他宗のものではない。その中に一人でも調和しない者がいれば、僧たちはともに情操をなごやかに調えて、さわがしいことがないようにせよ。

ましてや僧の過失などを在家の人にまでおよぼすようなことをしてはならない。まさにいま願うところは、真言一宗の門徒たちは、その人数がたとえ数千万人に及んでも、

おのおのが互いに護りあい大事にして、他宗に走るようなことのないようにせよ。心を一つにし、護法の念を主として、まさに座主官長を敬い尊重すべきである。誹謗し

合って、互いに怨むことがあってはならない。また、自分の師と他の師とを差別するようなことをしてはならない。また弟子を育成する上で分けて自分の弟子とか人の弟子

とかを区別してはならない。しかし、規律に従わず真言宗の本意にたがい、勝手気ままに振舞い邪まな見解を持つならば、決して一緒にしてはならない。それらはすべて

わたくしの弟子の末ではない。この一事から他の全てを知るがよい。



末代の弟子たちに三論・法相の学問を兼学させるべき縁起第十二

そもそも思いめぐらしてみれば、真言宗の道、密教の真理は、あらゆるものが究極において同じく絶対の本性に帰入するから、(全ての存在するものの本源である)阿字の

ただひとつのものにおさまる。しかし、全てのものの意味を考えてみると、みな内と外との別がある。それにならってすなわち、密教を内とし、顕教を外として、それを必ず

兼学すべきである。ただこれによって本宗(真言宗)の方を軽んじて末学(顕教)を重んずるようなことがあってはならない。こうしたわたくしの意とするところを知って兼学

すべきである。ただし、人の素質能力によって兼学することができない者は、まさに本宗のはたらきに任せて精進し修行せよ。詳しい事由はべつにある。青龍寺での例は、

主としてこれだけである。その例にならってここにこれを示す。また真言宗の教えを講読するのは定額僧のうちにあって講師の職を望まない人であっても、智慧と修行の

優れた人を選んであてるがよい。



東寺の供僧(本尊に奉仕する僧)24人を決める縁起第十三

そもそも思いめぐらしてみれば、この東寺の供僧の定まった数は、もともと官符には50人と記されている。いま、上表して24人と定める。まさにいま、後代へのあらゆる

御心を拝察するのに、東寺建立の本来の願主であられた桓武天皇が早く崩御されたので、まだ造営が終了していなかった。そればかりでなく、まだ荘園の耕作地からの

租税なども納まらず、東寺への供養料は少なく、そのために人数を減らして秦上して定めたのである。とりわけて、21人は学を修め行法を修練する者、残りの3人は

すなわち三綱造冶雑預の者である。これにはみな行ないの清らかな人を用いるがよい。定員以外の人と戒律を犯した僧は任用してはならない。ただし、工芸や荘厳の

意匠にみやびやかで、修理や造作、仏具の飾りつけといった仏事に用いることができるであろう者は浄不浄を問わずに、定額寺の奉仕する僧に入らない三綱に順ずる

もとにおくがよい。これによって他宗の汚れた僧たちをみだりに交えることはできない。阿闍梨耶はこの一事をもって他の多くのことをさとるがよい。



24人の定額僧を、宮中の正月の後七日の勅願の修法の修行僧に召し用いるべき縁起第十四

そもそも思いめぐらしてみれば、大唐の青龍寺に住する僧侶の数は数千人にも及ぶ。そのうちから選んで奉仕する僧百人を定めた。これはみな密教の徒ばかりである。

すなわち、宮中の内道場の勅願の正月の修法の僧たちに、これらの者たちのなかから定額僧として召し用いたのである。ただ、いま、この修法の意趣を考えてみると、

わが日本国の修法の僧15人のうちに大阿闍梨耶は一人、入室の弟子は一人、三綱のうちで行事を司る者一人、残りの12人は伴僧として年ごとに召し用いるべきである。

そのときの支度については、みな式文に記してある。決して定額僧以外の僧を召し用いてはならない。修法にあたってはよろしくまず七日以前に修法僧たちの名簿を

記して秦上すべきである。次に修法の僧をすべて宮中に参内させた後に再度、秦上すべきである。もし朝廷の命令で修法の僧の名簿から除かれる者があれば、

しかるべき人であっても、即座に退出させるべきである。これによって真言宗以外の僧徒を請うて補充することはできない。それで大阿闍梨の意に任せて門徒の内の

智慧と修行のすぐれた者を選び、きまってまた天皇に秦上してから召し用いよ云々。




宮中の御願である正月の後七日の修法の修行僧たちが、それぞれの所得の一部分を分かって高野寺の修理や雑用にあてるべき縁起第十五

そもそも思いめぐらしてみれば、大唐青龍寺の祖師、不空三蔵は天台山のふもとに個人用の小さな伽藍を建立された。これを新禅寺と名づけた。宮中の内道場で

行なわれる正月の後七日の修法に対するセ施し物の一部分を、新禅寺の道場の修理にあてた。また青龍寺に住する衆僧の一年中の所得の一部分を新禅寺の所用に

あてる。これは通常一般に行なわれるまつりごとではない。密教が永く師から弟子へと相承されるためのおもんばかりなのである。このことで後々の弟子を嘲笑し、

非難してはならない云々。



真言宗の年分度者を試験をして得度すべき縁起第十六

そもそも思いめぐらしてみれば、真言宗の年分度者は、よろしく最初に考えたとおりに東寺で試験をして得度すべきである。しかし、高野山を荒廃させてはならないと願って、

さらに改めて秦上して、年分度者の官符を金剛峯寺に対して下さるよう願うものである。しいて東寺を軽んじ厭って高野山を引き上げようとするわけではない。いま、よろしく

東寺の座主大阿闍梨耶は、寺務をとりしきって、そのように改め直して欲しいと願う。また諸々の定額の僧につかえる少年のうちの才能ある者たちを選び、きまって高野山で

試験し得度して、東大寺の戒壇で具足戒を受けさせよ。戒を受けたのちに、高野山で三ヶ年間行法を修練して、そののちにおのおの自分の師にしたがって密教を受け学ぶがよい。

詳しいことはさきの文にある。ただし、座主大阿闍梨とはすなわち東寺の大別当の呼び名である。真言宗の門徒のうちで仏道を修め学んで、最初に成就して長者となる者を

いうのである。戒を受けて出家してからの年数による序列を求めてはならない。仏道を修め学ぶことを第一として、最初に成就した者を長者とせよ。




後々の末世の弟子たちが、祖師の恩に報いるべくつとめるべき縁起第十七

そもそも思いめぐらしてみれば、東寺の代々の座主大阿闍梨耶は、わたくしの末世、後々の弟子である。わたくしが滅して以後の弟子が数千万人あろうとも、その間の彼らの

長者である。真言宗の門徒が数千万人いても、すべてわたくしの後々の弟子である。真言宗の祖師やわたくしの顔を直接見なくとも、心ある者は、必ずわたくしの名号を

聞いて恩徳の由来を知るがよい。これは、わたくしが世を去ってもまだ人々のいたわりを望んでいるからではない。密教の生命を護り継いで弥勒菩薩が成道のおり、龍華樹の

もとに3回の法のための集まりを開かせて人々を済度するおもんばかりなのである。わがなき後には、必ずまさに兜率天に往生して、弥勒菩薩のもとにつかえるであろう。

56億7千万年には、必ず弥勒菩薩とともに人間界にくだり、謹んでお側に仕えて、かってわたくしが歩んだ跡を訪ねるであろう。また一方、この世にくだるまでの間は、

兜率天のかすかな雲間から望み見て人々の信仰・不信を観察するであろう。このときに仏道に励むならば、助けを得るであろう。信仰のない者は不幸になるであろう。後の世

になっても決して仏道に精進することをおろそかにしてはならない。また僧尼令を考えてみるのに、僧尼令には、碁や琴は禁止されていない、という。このことはあっては

ならない。その理由は、もしまだ十分修行を積んでいない僧や少年たちにこうした遊びが黙認されるならば、必ずのちのちの世に罪過となるであろう。まして、どうして

囲碁や双六を認めることができようか。全て禁止すべきである。もし、どうしてもこうした遊びが好きな者は、すべてわが末世の弟子ではない。国王のように高貴な生まれ

であろうと劣った子孫であろうと問題ではない。そうした遊びは全て追放せよ。全て許してはならない云々。




東寺の僧房に女性を入れてはならない縁起第十八

そもそも思いめぐらしてみれば、女性は天下万民のもとであり、氏族をひろめ一門を継ぐものである。しかし、仏弟子の場合には、女性に親しみ近づけば諸悪の根源となり

人々からそしられるもととなる。これについて「六波羅蜜多経」にいう、「女人に親しみ近づいてはならない。もし、それでもなお親しみ近づくようなことがあれば、善い

ことはみな尽きる」と云々。だからすなわち僧房のうちに女性を入れて住むようにしてはいけない。もし必要な用事があって、諸家から使いとして女性が僧房に来たならば

戸外に立たせたまますみやかに返事をして帰すがよい。長い時間をかけてはいけない。詳しいことは青龍寺の例に準ずるがよい云々。



僧房の内で酒を飲んではならない縁起第十九

そもそも思いめぐらしてみれば、酒は病いを癒す珍しいものであり、風邪を除ける宝である。しかし、仏教者にとっては大きな過失となるものである。だから「長阿含経」

にいう、「飲酒には六種の過失がある」と。「大智度論」には「35種の過失がある」と。また「梵網経」に説かれるところは非常に深い意味をもっている。ましてや、

どうして真言宗徒が酒を愛し用いてよいことがあろうか。こうした点から酒を禁ずるのである。ただし青龍寺の大師と同学の宮中の内道場に出仕する十禅師の位にある

順暁阿闍梨と、ともに語ってあらかじめ定めて言われるのには「大乗の人々のために説かれた慈悲の教えによって、病を治療する人には塩酒を許可する。これによって

また集まったついでに酒を勧めあってしばしば飲むようなことをしてはならない。もし、どうしても酒を用いなければならないことがあれば、寺外から酒瓶でない別の

器に入れて来て、茶にそえてひそかに用いよ云々」と。




神護寺を真言宗の門徒長者大阿闍梨に施入させる縁起第二十

そもそも思いめぐらしてみれば、神護寺は、和気氏の建立になり、八幡大菩薩のご託宣による寺である。わたくしは、ある時期、和気真縄大夫たちの招請によって年来

ここに修行し住した。ここにおいて和気真縄たちが密教道場を建立しようといって、朝な夕なにさながらに密教の教えを護るかたちを示すかのようであった。これに

よって師僧と壇越とのちぎりが厚く、誠心が通い合った。そればかりでなく、神護寺を永く付与することにして、少しも内外のけがれがなかった。しかし、後の世に

いたって必ず争い憂い騒ぐことがあるであろう。わたくしの弟子たちよ、この遺告にしたがって行動せよ。この一事を知って万事を知るがよい云々。



たやすく伝法灌頂阿闍梨の職位、ならびに両部の大法を授けてはならない縁起第二十一

そもそも思いめぐらしてみれば、密教は大日如来の肝要であり、金剛菩薩のもっともたいせつなものである。ところで、この密教をたやすくその器でない者に授ける

ようなことがあれば、密教の教主である大日如来の御身から血を流す罪となる。だから、むかし大日如来が金剛サッタにお言葉を与えて、「密教の器でない者に法を

授けてはならない。もし器でない者に授かれば、密教は久しからずして滅する。法身大日如来より血を出す罪がおのずと生ずることとなろう」と告げられた。

また、金剛サッタが龍猛菩薩に次のように告げられた。「ひれ伏して思えば、大日如来はすべての生きとし生けるものの為に密教をお説きになられた。すべての

人々で利益を受けないものはない。しかし、この密教の法は、まさに如意宝珠のようなものである。如意宝珠に喩えるわけは大日如来の名号を聞くことはあっても

大日如来は、その実際のおからだを現さない。しんし、あらゆる宝を生み出して、すべての人々に利益を与えてくださる。この宝珠は龍宮の秘密の蔵にあって、龍王

の肝臓にあるけれども、たやすくそのかたちを現さない。秘密の蔵ならびに龍王の肝にあるといっても、この宝珠は龍王たちも取ることができない。この秘密の法も

またそれとおなじである。どうしてかといえば、秘密の法は阿闍梨の心肝、および経蔵にあっても、阿闍梨の意のままにはならない。その名号を聞くことはあっても

その実体を現すことはない。ただその威光でもってすべての人々を利益するのである。密教が最も貴く最も尊いわけはまったくこのようだからである。阿闍梨耶は

慢心して自分はよく真言の秘法を知っていると思い込み、自らの劣った私心に任せて密教の器でない者に法を授けてはならない。もし、極めてすぐれた器の者が

いれば、一尊法のみを授けて彼の心の器を見定め、そうしてのちに金剛界の大法の一部を授けるがよい。それでもまだ十分に修行を積んでいない者に法を授ける

ようなことがあれば、必ず後悔することになるだろう。きしてや、どうして両部の大法を簡単に授けることができようか。ただ両部の大法を授けようと望むならば

まず人として密教の器にふさわしいかどうかをはっきりと見極めてから、本尊を中心とする一座の聖衆たちに祈願をこらし、夢のお告げのなかで本尊のすがたを

みるがよい。もし本尊が感じ応じて、その人の学ぶことを願うならば、3ヶ月間修行に精進させて、そうしてのちに両部の大法をさずけるべきである。ただし、

伝法灌頂阿闍梨の職位の場合には、決してたやすく授与すべきでない。その理由はといえば、密教の器にふさわしくない者に授ければ、金剛サッタや密迹金剛神

がともにきびしいとがめを加え、すぐれた密教の器の者に授ければ、大いに歓喜するからである。これはすなわち法を永くつづかせるための条件である。

伝法灌頂の位、阿闍梨の職を護り大事にすることは、ちょうど自分の肝・魂をたいせつにするようにすべきである。伝法の印契や真言をたやすく他人に教えては

ならない。もし、密教に精進する者がいて、伝法を心から望むならば、ただ大阿闍梨は、言葉のみをもって許可を与え、大日如来の五つの智慧を象徴する五股

金剛杵をもって、伝法を望む人の首に三度不思議なはたらきを加え、瓶の水を頭上に散ずるがよい。これもまた密教の器にふさわしい人を見定めて行なうべきで

ある。ただこうした人は、修行の道場では、諸々の護摩の雑用にあてるべきである。またこうした弟子には、一尊法の一部を許し、授けるべきである。そのうえ

に、両部の大法は決して伝授してはならない。伝法の印契や真言については、よく学習した者のために、素質能力を習練し熟達した弟子に伝授すべきである。

まだ素質が未熟の者には決して授けてはならない。よろしく大阿闍梨耶は、世間の人の赤子を求め得て、よく手立ての説明をして世俗を離れさせて入室するように

するべきである。よく話し合い、彼の志とするところをはかって出家入道させ、得度して比丘となるべく具足戒を受けさせて、生年五十歳となってのちに、伝法

灌頂の阿闍梨耶の職位を授け、密教の血統を継がせるようにすべきである。ああ、哀しいことである、嘆かわしいことである。すぐれたその器の人がなく、この

法を伝えまいとすれば、まさに密教の種子は断絶してしまうであろう。密教の伝授をする時は、ちょうどいとけない赤子に両刃の剣を持たせるようなものである。

十分によくこのむねを理解して、阿闍梨の職位を授けるべきである。密教の器にふさわしくない人の弄する甘言に耐えきれず、伝法灌頂を許し阿闍梨の位を授け

れば、彼らは法要などの集会につらなって、互いに密教の肝心の印契などを披露するであろう。正しい教えの厳しさは失われ、法が滅びる様相が自然に現れよう

とする。この罪は、彼らに法を伝えた伝法の阿闍梨が負うべきである。十もの智慧をそなえた大日如来の御前にひれ伏して、百千劫ものほとんど無限に近い長い

あいだ懺悔を繰り返しても、その罪はすべて滅び除かれない。だから師の室に入り師に仕えて苦労の多かった弟子であっても、密教の器でない者には、決して

阿闍梨の職位を授けてはならない云々。この章句は梵本にあり、経文および儀軌から切り離し、取り出して、秘密に納めてある。それらはわたくしの三衣箱の

なかに納めてある。それはまた室生山の精進ヶ峯の入室の弟子、沙門堅慧法師のところにある云々。



金剛峯寺を東寺に加えて、真言宗の大阿闍梨がかねて務める縁起第二十二

右の金剛峯寺は、わたくしが自分自身で建立したものである。しかし朝廷に上表して勅願による寺とした。どうかこの趣旨を知って欲しい。わたくしの弟子たちの

なかで、さきに就任した長者で東寺の座主大阿闍梨耶が、金剛峯寺の座主も兼ねてひとえに管理し摂めるべきである。この遺告を誤ってはならない。この一事を

しるべきである云々。




室生山堅慧法師が建立した道場で、朔日ごとに避蛇の法を三カ日夜にわたって修する縁起第二十三
                                              <この条文は文書に記して散逸させてはならない。あたかも自分の眼や肝を守護するように大事にせよ云々>


そもそも思いめぐらしてみれば、避蛇の法の枢要は、なみの者が伝えるところではない。仏の秘せられた肝要の法であり、阿闍梨の最もたいせつな口訣である。東寺代々の

阿闍梨は、かの堅慧法師を相起して避蛇の法を修するがよい。すなわち後夜(午前2時から6時頃まで)ごとに避蛇の法を念じ真言を唱えおわって護身(身を守る作法)をせよ。

恵果大阿闍梨より付与された宝珠を精進ヶ峯に埋め、また本尊海会を精進ヶ峯の洞窟に安置した。この秘密の法の肝要は、語らなければ他の者は知らない。それを思い、

いくたびも思い煩った。決してみだりに他に語ってはならない。この一事から万事を知るがよい云々。




東寺の座主大阿闍梨耶が、如意宝珠を護持すべき縁起第二十四
                                            <この条章はただ文書にしるして散乱させてはならない。このきまりを守護することは、あたかも伝法の印契や真言のようにせよ>


そもそも思いめぐらしてみれば、如意宝珠は、その始めもわからない太古より以来、龍王の肝、あるいは鳳凰の脳などにあるのではない。宝珠の実体は自然道理の釈迦牟尼如来

の分身である。あるものは、ひたすら如意宝珠は鳳凰の肝、龍王の脳中にある云々という。これはまったくの虚言である。その理由は何か。宝珠は自然道理の如来の分身で

あるというのが、真実の如意宝珠である。自然道理の如来の分身と呼ぶのは、祖師大阿闍梨の口伝によって生成する玉なのである。秘密の上の秘密、甚深の上の甚深なるもの

である。たやすく儀軌に注解していない。これは大日如来が説かれたことである。生成の玉というのは、これは能作性(あらゆるものの主体となる性質)の如意宝珠である。

九種の物を合わせてこれをつくることができる。その九種とは、一には仏舎利32粒、二にはまだ他のものに用いていない沙金50両の重さ、三には紫檀10両、四には白檀10両

五には百心樹の沈香10両、六には桑木の沈香10両、七には桃木の沈香10両、八には大唐の香木の沈香<すなわち香木の沈とは、名香木の沈である。その色をえらばずただ清浄

なるものを用いる>10両、九には漢桃の木の沈香10両である。これら九種の物のうちの沙金50両と白銀50両を合わせて壺を造り、さきの32粒の舎利を安置し、ずっと久しく

壺の口を閉じ、秘咒を誦えて封印し、堅く結ぶがよい。さきの6種の香木の上等なものを、他のものにまだ用いてない鉄臼に入れて挽き潰し、他のものにまだ用いていない

絹の袋で篩うこと七度、その糟をまた同じように挽き潰して粉末にし、同じ袋にいれて篩うがよい。このようにして篩い出された粉末を、まだ他のものに用いていない真の

漆をもって練り合せ、これを丸い形にして等分に合成し、さきの仏舎利を納めた壺をなかに入れ、方形・円形を合わせてまるくし、上下を等分にしたもの宝珠形にせよ。

このように作るあいだ、大阿闍梨は屏風を立て、心身の清らかな細工人を率いて屏風の中に入れ、そこで練り合わせた丸いものを作らせるべきである。かの細工人の口に

名香を含ませて、雑談することなく、ひたすら丸めさせよ。また大阿闍梨は、同様に名香を口に含んで、不動尊の真言を三百遍誦え、ついで仏眼仏母の真言を一千遍誦えて、


丸いものを作らせるがよい。また他のものに用いない香油でもって五方に明るい燈火をともせ。ただし、真言を誦える数が規定の数に達しても、宝珠作成の事が終了する

まではなお不断に誦え続けるべきである。また同じ門下のうちの智慧も修行もすぐれた僧15人が交替で、すなわち一組4時間を刻限として、5人ずつ3組となり、不断に

法を修すべきである。この15人の僧は屏風から三丈ほど離れ、屏風に近づけず、同じ門下の僧であっても事の真相を知らせてはならない。玉を作りおわっても、事の

最初から七ヵ日夜の間は不断に修法すべきである。この七ヵ日夜の修法の前後には、必ず神供を行なうべきである。そののち、宝珠は檜の深い箱に入れて、立派な台に

安置せよ。その立派な台は、円形の壇を作り、その中に細絹の打敷を敷いて台を立てるべきである。壇のまわりには五色(黄・白・赤・黒・青)の糸を引け。そうして

のち、吉日でなくとも、さらにまた5人の智慧・修行ともにすぐれた僧を率いて、親しく大阿闍梨にしたがって、初夜・後夜・日中の3時に真言を念じ誦えよ。また

5人の僧のうちの一人は毎時芥子を供養せよ。このようにして百ヵ日夜の間、勤めるべきである。十日のあいだ神供をするがよい。またかの宝珠は、百ヵ日夜になる

までは、大阿闍梨も軽々しく見てはならない。ましてや他の人に見せることができようか。百ヵ日に達したのちは、赤色の九条衣でもってこの玉を包むべきである。

そこで大阿闍梨は再拝の真言を誦えよ。口では再拝というけれども、実際は礼拝することを三度し、手に玉を取っていただいて月輪観を行うべきである。そうして

のちに玉を赤色の袈裟に包んで、大阿闍梨は身近に置いて常に帰依し礼拝し行住坐臥いずこにあっても、この宝珠をたのみ仰ぐべきである。また入室の智慧と修行

にすぐれた弟子であっても、見せ、知らせてはならない。たとえ弟子が箱があると見ていても、宝珠の所在は見せ、知らせてはならない。この道理の本意を考えて

みると大海の底の龍宮の宝蔵に無数の玉がある。しかし、そのなかで如意宝珠を皇帝のように最もすぐれたものとする。まさにその実体をうかがえば、自然道理の

釈迦牟尼如来の分身である。どうしてこのことが知られるのかというなら、この宝珠は、宝蔵から大海の龍王の心の上頸の下に通じている。宝蔵と頸とは断絶する

ことがなく永久不変である。あるときには、その宝珠から善い風を出し、雲を四洲に起こして万物を育成し、すべての生けるものに対して利益を与える。水に住み

陸地にいきるすべての生きとし生けるもので、利益をこうむらないものがあるだろうか。ところが、世間のなみの者たちは、おのれの愚かな口にまかせて、如意

宝珠は宝を降らすというのである。かの海の底の玉(双円性海の菩提心)は、常に(仏舎利を収める)能作性の如意宝珠のみもとに通じ、親しく徳性を分かっている。

だから、宝珠を観想して大阿闍梨は「帰命頂礼在大海龍王蔵併肝頸如意宝珠権現大士」などというべきである。三度これを誦え、深く念じ観想して、本尊の真言

を念じ誦えるべきである。およそすべての悪を退け、善なる心にのぼるように努めるべきである。この法呂は「大毘盧遮那経」の文にある。だがこの文は秘密の

上の秘密であり、甚深の上の甚深なるものである。この秘句は現在流布の大日経には欠けていて、ただ阿闍梨の心に留め記すのみである。ひたすら書写し失わない

ようにしなければならない。もしこれをあからさまにすれば、密教の命数は長くはないであろう。親しい弟子たちのうちであっても、かの心の本性が調わない者には

さらに授け知らせるべきでない。代々の座主大阿闍梨耶は、もしくは直門の弟子、もしくは同門のうちの相弟子、および諸々の門徒衆などのうちから才能ある者を

見定めて、全ての者は平等であるという観心の行法をもってこの秘句を伝授し預け護らせるべきである。もし法を授け伝えさせた弟子たちのなかの者を選んでこの

法を伝授して枝々にわたり、大阿闍梨耶の手もとに留めておかなければ、他宗他門の人の間に移って、やがて不信の者にまで披露されることになる。ついには密教

は浅薄となって衰え、自然に隠れてしまうであろう。こうして密教は滅し去るであろう。だから東寺の座主、長者となる人には必ず法を授け伝えさせなければ

ならない。この法呂が授けられ托されると決められた日は、3日前からよく洗浴して金剛界・胎蔵の両部の諸尊を心に観想すべきである。また天上天下全世界の

大小の神祇を心に観じて警覚し、量り知れない人々を導く四つの量り知れない心を起こして法を授け托すべきである。慈愛に満ちた父母といえども、この法を

知らせてはならない。このように秘密にするわけは、身体・言葉・意の秘密の三つのはたらきを説く教え三密教のかなめであるところの本性を護るためなので

ある。ただし、大唐の大師阿闍梨耶が授けられ托された仏舎利を収める能作性の如意宝珠は、うやうやしくいただいてわが大日本国に渡り、すでに名山の勝地

に大事に埋め籠めてある。その勝地とはいわゆる精進ヶ峯で堅慧法師が修行した窟の東の嶺である。決して後人に宝珠を埋蔵したその場所を知らせてはならない。

そうすれば、密教は末長く栄え、真言宗の末徒はますます増えるであろう。
<また、東寺の大経蔵の仏舎利は、大阿闍梨が伝法の印契や真言を守り惜しむようにすべきである。

一粒でも他に散じてはならない。これがすなわち如意宝珠なのである。これが密教を守ることなのである。どうしてこのようなことをいうのかといえば、東寺所蔵の仏舎利も室生の仏舎利も、

その本体は一つのものだからである>




もし末世に凶悪な婆羅門・尊び崇められない者などがあって密華園(密教の花園)を破壊しようとするならば、これに対して修法すべき縁起第二十五

そもそも思いめぐらしてみれば、むかし、南インドの国にひとりの凶悪な婆羅門とひとりの尊び崇められない者などがいて、この密華園を破壊した。そのとき、華園の

門徒のなかにひとりの強い信仰者がいた。彼は奥砂子平の法呂を修すること七ヵ日夜、さらに次から次へと修法の回数を増やしていったところ、かの凶悪な婆羅門たち

は自ら退散し、密華園は無事安穏であったと。だから後世の阿闍梨耶はよくこの由を知って、かの法呂を勤め守るべきである。かの法呂は、入室の弟子、室生山精進

ヶ峯の堅慧法師の箱の底に秘蔵されている。だから大阿闍梨耶がこの法呂を惜しみ護ることは、あたかも伝法灌頂阿闍梨の職位を受けるときの印契のようにすべきで

ある。およそ、伝法の印契や真言ならびに凶悪な婆羅門を調伏する法を、たやすく密教の器にふさわしくなく、そのうえ心が十分に練れていない者に授けるべきでない。


もしこのような法を、得手勝手に、弟子の素質能力を選ぶことなく授け与えるならば、諸尊あるいは護法の諸天はともに決してお許しにならない。大阿闍梨に大きな

災いがもたらされるであろう。すぐれた器の人を選び求めて法を授け許すときは、諸尊諸天はともに大いに歓喜して、法性の種を永続せしめるだろう。だから阿闍梨

は、その法を心の奥に刻みこんで、密教の器にふさわしい人が出るのを待ち求め、密教を相承させる弟子を絶やさないようにすべきである。まさにつぎのことをよく

心得ておくべきである。大阿闍梨の位を得るのはたやすいが、その職をまっとうするのは困難なことである。よく用心をしなければならない。このようにして伝法の

印契や真言を乱雑にすべきでない。




右に述べた遺書を決して違失することのないように。そのために遺告するのである。
                                                                    承和2年3月15日

                                                                          
                                                                   入唐求法沙門空海


以上が御遺告の内容になります。この後の六日後3月21日午前四時に永遠の禅定に入られたのです。