過ぎ去った時間は、誰が望もうと、戻ることは ない。
川のせせらぎが聞こえる。闇夜を照らす月は明るく、辺り一面昼間のようだ。
草の茂みから聞こえてくる色々な虫の音。風に吹かれ擦れあう木々の葉。
自然が生み出した美しい演奏会は、1人の観客の為に行われていた。
「…はぁ…」
手にした石を放り投げ、それが水へ飲み込まれるのを見つめる。
小さな音をたてて石は沈んでいった。いくつもの円が大きく広がり、水面を揺らす。
「…はぁ〜ぁ…」
再びため息が漏れる。
言葉に表せないほど辛い、寂しい、苦しい、悲しい。いくつもの感情が心の中で混ざり合う。
両頬に手を当て、らしくない自分にふてくされる。水に映る寂しげな自分の顔を見ると、何故か悲しくなってきた。
「…みんな、おらんようになってもうたんやな…」
その言葉にいつもの元気は感じられない。
「1人に…なってもうたんやな」
その場に寝転がる。
いつもと何1つ変わらない空は、綺麗な月や星々を彼の瞳に映した。
朱雀七星士が1人、翼宿。元気がとりえといわんばかりの関西弁は、いつもみんなに明るさを振りまいていた。
しかし、今の彼にはそんな力すら残っていない。
「…柳宿…」
凍てつく雪山、新たな道を作るために。
「…張宿…」
敵陣で彼らを守るために。
「…軫宿…」
人々を救うために。
「…星宿…」
民、国、皇帝の名、そして朱雀七星士の名のために。
「…美朱…タマ…」
自分たちの夢が叶う世界へ。
皆、彼の前から姿を消した。2度と会うことのできない、この世界とはまた別の世界へ。
攻児たちとまた生活をともにするのは嬉しい。また昔に戻ったのだから。しかし、今まで全てをともにしてきたあいつらは、翼宿の側
にはいない。そう思うと、楽しいはずの生活が、すごく辛いものに感じられてきた。
「らしくねーけどよ…寂しい、な」
「本当なのだ。静かな翼宿は、翼宿らしくないのだ」
「なっ!?」
突然夜空が闇で覆われ、明るさを失う。
空と翼宿の間に入り込んだのは、一人の青年だった。寝ている翼宿の顔を覗き込むように、逆光ではっきりとしない笑みを向けている。
「……ちっ……」
その顔と口調、そして声には覚えがあった。
「井宿やないかっ!」
飛び上がり、その場に立つ。
別れた時と何一つ変わっていない。戦いの間ずっとともにしていた錫を手にし、突然姿を消す笠をかぶっているお面もまだ健在で、
あの笑みは昔のままだ。
「久しぶりなのだ、翼宿」
「ほんまやっ。最後に会ったんはいつやったかいな」
「…美朱ちゃんと鬼宿を見送った、あの日以来…なのだ」
声のトーンが一気に落ちる。
お面の笑顔も何処か悲しくなる。
「……っと。久しぶりの再会なんや。ほれ、ここにでも座って話ししよやんか」
さっきまでいじけていた場所にもう一度腰を下ろし、隣りを軽く叩く。
井宿は言われるがままに、錫を横に置き、彼の隣りに座った。
揺れることすらしない湖。何も生き物は生息していないのか、遠くから聞こえる川とは違い、何か物足りない感じがする。
「にしても、井宿。あれからどないしとったんや?」
「また放浪の旅に戻ったのだ。目的もなく、ただ点々と町や村を歩き回って…そういう翼宿は何してたのだ?」
「オレか?また至t山戻って、山賊や」
「じゃあ、何故ここに居るのだ?」
鋭いツッコミに言葉をなくす。
ここは至t山ではない。もっと離れた、そして紅南国の国境近く。
ここからは見えないが、高い塀の奥にはつい前までみんなと一緒にした宮殿がある。
皇帝であり朱雀七星士が1人星宿が治めていた国。忘れることのできない、全ての思い出が詰まった町。
誤魔化すように目線を井宿からずらす。
「…まだ、みんながここにおるような気がしてさ。せやから、暇になるといつもここに来るんや」
手を組み、上半身を倒す。
「けど、もうみんなはここにいないのだ…」
「……知っとるに決まっとるやろ……」
厳しい現実を叩きつけられる。
信じたくなくても、これは夢ではない。現実そのものだ。
もう昔に戻ることはできない。
「オレらだけに…なってもうたんやな」
重い口をゆっくりと開ける。
「みんな先逝ってもうて、残されてもうた…はぁ。美朱とタマは今ごろべたべたしとるんやろうな。むこうの世界で一緒になっとるんやでさ」
「……何が言いたいのだ……」
冷たい言葉から彼の口から漏れる。
「何を言っても、みんなは戻ってこないのだ」
「…それぐらい、オレでも分かっとる」
絶えられない沈黙が2人を包み込む。
夜空の星が無言で光る。そっと2人を照らし出し、表向きだけでも明るくする。
空の湖。波打たない水面は、凍ったように動きを止めている。
「おいらも、最初はショックだったのだ」
お面をはずし、本当の顔を月光に照らす。
「ついさっきまでおいらの横に立っていた人がいなくなるのは、とても悲しかったのだ。1人1人いなくなって、最終的においらたち2人
だけになってしまったのだ。まるで、昔飛皋たちを失った時みたいに」
俯き、水面に目線を移す。
「でもっ」
顔をあげ、翼宿に笑みを向ける。
「今は1人じゃないのだ。翼宿がこうやって、おいらの側にいるのだ。だから、翼宿も1人じゃないのだ。おいらと一緒なのだ」
「…井宿…」
心の奥で、何か温かいモノが生まれた気がした。美朱たちといた時とはまた違う、別のモノが。
こみ上げてくる嬉しさを押さえ、無意味に笑う。
上半身をあげ、力いっぱい井宿の背中を叩く。
「せやな。井宿のゆう通りやっ!」
「あっ!!」
間の抜けた声が漏れ、一瞬にして翼宿の視界から消える。
そして、次の瞬間。大きな何かが湖に飛び込む音が、静かな夜に響いた。
「すっ…すまん、井宿」
両手を合わせ、笑えてくる顔をひきつらせつつ謝る。
「別にいいのだ…その代わり」
翼宿の手を掴み、勢いよく自分側に引っ張る。彼をこっちに引き寄せるのに、そう力はいらなかった。
予想外の行動に受け身をとる暇もなく水の中に飛び込む。
水柱が立ち、頭のてっぺんまで濡れる。
「翼宿も濡れるのだぁぁぁぁ♪」
「何しやがるんやっ、われっ!!」
「仕返しなのだ。それに、ここなら溺れる心配もないのだ」
「井宿。それはオレに対しての嫌がらせか?」
「気のせいなのだ」
「くっそぉぉぉっ。ゆいてぇこと、ゆいやがってっ!!」
しばしの間。にらみ合ったまま、言葉がぷつんと途切れる。
しかし、その表情はすぐに笑みに変わり、突然壊れたように笑い出した。
「よっしゃぁぁぁっ。こうなったら、徹底的に濡らしたるっ」
「おいらも負けないのだっ」
まるで子供に戻ったように水をかけあう。
静かだった湖に波ができ、生命が宿る。
彼らを見つめる月は静かに照らし続けている。雲ひとつない晴天。
夜でははっきりとそれは分からないが、朱雀七星は光を失うことなく光り続けている。
「オレらは、いつまでも一緒やで」
「ずっとずっと、いつまでもなのだ」