よしなしごと(歌丸)



いわゆる日記です。でも毎日は書きません。下に行くほど古くなっています。
2002-09-02 に「小枝」と「歌丸」に分割しました。
歌丸には大ネタ(感想や意見表明など)を書いていきます。ネタバレ上等でよろしく。

2005-04-19
 それでは、移行しまーす。
 今後は
こちらへどうぞ。

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2005-04-17 「アニメインプレッション春の最終回総括」
 やっと種デスの正しい楽しみ方がわかってきたDA☆です。あれはアーサー君のヘタレっぷりを堪能する作品であり、なんかやたらいっぱい出てくる美形にたいした意味はないのです。
 ほら、あのヘタレがどうやったらあの艦長の補佐役にまで上り詰めることができるのか、世の理不尽を想像するとどきどきしてきませんか。

 てなわけで、日記を移行することはすでに決めておりますが、「旧コンテンツ」としてお蔵入りになる部分の掉尾を飾るのは、久々のアニメインプレッションです。この春終了分。ヲタネタ・ネタバレ上等。


厳窟王
 1月終了のプラネテスはもう別格として、ベストはコレ。異論はありますまい。
 原作は小学生の頃に思いっきりなダイジェスト版を読んだことがあるきりだけれど、骨のある原作にしっかり肉付けした感がありました。最初は主人公アルベールの無力っぷりが鼻につくんだけど、それが少しずつ、しかし彼らしさを失わずに解消されていく展開が見事。
 色の代わりにパターンを当てはめる手法には素直に感心。こういう手の抜き方もあるのね。初回のカーニバルが派手すぎてかえって引いた人も多いのではないかと思われるのが残念。
 また、この作品の最も優れている点は、あれだけの群像劇を描きながら、全員にきちんと各々にしかできない役目が与えられ、投げ捨てられたキャラがひとりもいないこと。メガネのメカフェチ君が再登場して「役目」を与えられたときは感心しちゃいましたよ。
 唯一エロイーズ・エドワール親子の行く末が気になりますが、アリによる救出は描写されているのだし、彼女らの場合「その後」が描かれているだけですごいわけで。
 難点は、映像的なクライマックスが24話中の18話に来てしまい、ユージェニー救出後はかなりダレたことと、視聴者を甚だしく魅了し先の展開にあらぬ期待を抱かせる挿話が第7話にブチ込まれてしまったことでしょうな。何って、ギロロ伍長(伯爵)とケロロ軍曹(エロイーズ)のガチなカラミ(爆
 あと、……第2話のそれもラスト1分を見逃した人は、この作品最大級の萌えを振りまくメイドキャラ、エロカワイくって小悪魔でけなげでしっかり者で、アルベールくんスキスキオーラ立ち上るベッポたんが、なぜ一顧だにされぬまま身を引いてしまい、かつ最終話でバティスタンに「えぇっ、あいつが?」な顔をされるのか、理解できないことでしょうなぁ。
 元々コメディ要素が少ない作品だけに、あの「えぇっ、男ォ?!」は後からじわじわ来る名シーンです。


舞HiME
 まぁ、広げすぎた風呂敷を閉じられなかった(ていうか、静留会長の「かんにんな(はぁと」でムリヤリ閉じた)典型的な失敗作、といってしまえば楽なんでしょうが……。
 前半で萌え路線を突っ走りつつ、「ゲームのルール」を提示するときの見事などんでん返し、それ以降の鬼気迫る展開には見所があっただけに、ちょっと残念。
 ちなみに、ストーリー的には理事長視点で見るときれいに収まるということが、
ここで考察されています。なるほど。


スターシップオペレーターズ
ファンタジックチルドレン
 なぜこの二作品が並んでいるかって? まぁ、聞け。

 やっぱ昨今の週アニメ業界は、DVDで売るっていうのが前提になっているせいか、「シリーズ構成」が甘く見られてるんじゃないかと思います。1話1殺の特撮やタイムボカンシステムが懐かしい。そういう意味でも、そのシステムでもきちんと全体のストーリーが進んでいく「陰陽大戦記」や古くは「ヒートガイJ」はきちんと評価されるべきだと思うのですが。

 で。
 この二作品には、以下のような式が成立すると思います。
 スターシップオペレーターズの第一話の物語密度≒ファンタジックチルドレン全二十六話の物語密度。
 極端なんだよ、密度の差がっ!!

 スターシップオペレーターズ初回は、「15人を超える主要キャラのプロフィール紹介、世界設定と候補生だけの戦艦が成立する顛末の説明、さらに初戦を完遂して勝利に至る」までを、ほとんどセリフの応酬でもって30分で済ませてしまうという剛速球展開。
 逆にファンタジックチルドレンはハエが止まるチンタラぶり。何しろ、オープニングに登場する「メカ同士のバトル」が、全編中ただの1イベント、それも20話過ぎてから始まるという、悪意さえ感じる展開ののろさ。
 「傷ついたセスがティナの名を呼びながらさまよう」だけのシーンで5分近く引っ張った荒業は、エヴァの「エレベーター音のみで1分間」に匹敵するぞ。

 スターシップオペレーターズは、その初回を除けば、ツッコみどころや視聴者無視のタメなし豪速展開は数々あったものの、「戦艦という空間の緊張感を保つ」ことには成功していてけっこう真剣に見てました。てゆーかほんとうに渡部高志なん、コレ?


スクールランブル
 この作品はもう、自分ごときがうんぬん言っちゃダメでしょう。コアな人がたくさんいるんだろうから。ともかく、おもしろかった。
 ある話でオチのために繰り出したとしか思えないテキトーなネタが、次の回には基幹設定になっているこの暴走力というべきパワーは、いったいどこから出てきているのやら。
 あと、沢近愛理ってたぶん初期設定では「近江愛理」だったんだろうなと想像。


BECK
 いいの、真帆ちゃんさえいれば後は全部チャラ。


レジェンズ
 大地丙太郎には、1年なんて長丁場はムリです。……本人がいちばんよくわかってたんでしょうなぁ。いやもう、前代未聞の最後っ屁をぶちかましてくれました。
 まあかまわんと思うのでネタバレすっと、あとラスト3話! もう話はこじれにこじれてもはや収拾つかない! という状況になったとき、突然新キャラが登場し(このときちゃんと「この期に及んで新キャラかよ!」というセリフが出る)、「ここまでの展開は、数ある可能性のひとつに過ぎない」と言って時間の巻き戻しが始まるのです。まぁ、ここまではありそうな展開。しかし巻き戻した量がハンパじゃない。
 「6コマ(6話分)戻っちまったぜ!」はアニメ史に残る怪セリフだと思います。


ゾイドフューザーズ
 小室哲哉がなんでここにいるんだ? 音楽監督を豪華にするより先に、お願いだから加戸誉夫を監督に呼び戻してください。助けてロックマン。


月詠
 いやまー、ネコミミや、キディグレイドみたいな同人の内輪ウケ的ノリはどうでもいいとして、
・超強力霊能力少女と、まったく霊能力が通じない超鈍感男の組み合わせ
・背景をドリフのセットに見立てることによる、「タライを落とすだけで違和感なく組み立てられるコメディ路線」と「ちゃぶ台囲んで漫才させればいくらでも減らせるアニメーション枚数」
・エルフリーデさん☆
 という斬新かつ使い勝手のいい数々の長所を、何一つ生かせないどころか自らの手ですべて踏みにじり、その代わりに挿入されたのが、アニメーションはおろか一枚絵の色塗りにさえ手を抜いた(あれが演出だなんて断じて認めねぇぞ)バトルシーンという、これが役所仕事なら予算の使途について徹底糾弾したくなる一品。
 スタッフ連中、本業の予算と時間で冬コミ用の同人誌を作ってたんじゃねぇの? そう言われてもまったく驚かないよ僕は。


JINKI EXTEND
 原作読んでるの前提、ってパターンかしらんけど、ともかくも甚だしい自己満足的展開・視聴者無視ぶりにあきれはてました。
 どこがどうって、……もう説明すんのも時間のムダなのでやめときますが、見ていた人に「この作品で一番気に入ったところは?」と聞いたら、100人が100人こう答えるでしょう───「提供画面」


Get Ride! アムドライバー
 さてラストは世紀の問題作?アムドラ。はっきり書いておきますが、この作品、僕は大好きです。ただ、可能性を可能性のままで終わらせてしまった、本当に残念な作品です。
 おもしろい話を描きたいという意志があるなら、脚本やらデザインやら作画やらのデキには目をつぶれるのが僕のアニメ評価の特徴です。そういや、「バストフレモン」がいかに面白かったか語ったことってあったっけ?

 なんちゅーか、「可能性だけ感じさせる」ってのはすごい話で、表現したいという衝動に突然めざめて、中学生が初めて書いたファンタジー小説を読んだ後のような感覚に近いですね。L/R/S を多用するキャラネーミングからもそんな印象を受けます。
 虎田功という名前は初見ですが、この監督、本当に現役の中学生か高校生なんじゃないでしょうか。コナミがゲーム購入者を対象に「夢を叶えるキャンペーン」みたいなのをやって、その当選者が「週アニメ作ってみたい」とか言い出したんだったりして。


 冗談はさておき、この作品にあるのは、「迷走に迷走を重ねた」というイメージ。
 「想定外の変更」を重ねつつ、けれど新たなおもちゃは次々企画されるのでそのスケジュールにも合わせねばならない。ツギハギされた脚本の完成度は総じて低いものでした。

 そもそも僕がこの作品を見続けたのは、第一話から第三話にかけての、アピール力を求められる「芸能人のようなヒーロー」にはなりきれないジェナスに、自覚と自信を与えて再起させる展開がホント気に入ったからです。
 各キャラに対して挫折→再起が適度に繰り返され、その挫折とは必ずしも「敵」が一方的に押しつけていくものではない───社会のしがらみであったり、悪しき経験であったりする成長物語をバトル中心のストーリーに織り込んでいく。
 そうした全体的な構成は秀逸でありながら、多くの場合「挫折」を与えるだけ与えておいて、「再起」には結局、取ってつけた設定を駆使して無難な路線に落とし込む、というパターンが多かったように思います。

 それから、より問題視されるべきは、アムジャケットやバイザーの表現でしょう。
 おもちゃとして売られるアクションドールとしては正しいデザインなのかも知れませんが、アニメ上は、顔を隠したまま同じ形状のコスチュームで集団戦闘するわけです。「誰が戦ってるのかまったくわからない」戦隊ものとしては致命的な欠陥を放置し続けたのはいったい誰のせいなのでしょう(たぶんスポンサーのコナミだろうな)。

 素直に見ていた子供たちの( ゚д゚)な顔が目に浮かぶようですが、そこで一点あげておきたいのがタフト・クレマーの処遇です。これはおもしろい迷走でした。

 初期のOP・EDにはタフトが出てきません。「ジェナス・ラグナ・セラ・シーン・ダークの五人で戦隊もの」という表現でした。
 賭けてもいいですが、ディグラーズの襲来によって基地が破壊された一連の展開で、タフトは死ぬはずだったのです。
 無名のアムドライバーが死んで、「アムドライバーが死ぬなんて」とジェナスが恐怖に震えるシーンがありましたね? それと前後して、ダークとタフトが、ジェナスらを守るために無謀に敵に突っ込むシーンがありましたね? でも数話後に何食わぬ顔して二人して戻ってきたじゃないですか。

 なんでタフトは生き残ったのでしょうか? それはきっと、彼が子供たちにウケたからです。
 タフトはトリガージャンキーで、戦闘に出るや常時ブチギレ状態で「ブットベブットベブットベ〜」と叫び続けるキャラです。それゆえ、彼だけは戦闘中でも区別がつき、存在感がありました。
 今いちばん子供に受けるキャラは、「マジでバカをやることで存在感を生み出すオヤジ」です(とりあえず「かいけつゾロリ」と「でんじゃらすじーさん」を例にあげとけば文句ないですね)。タフトはまさしくここにカテゴライズされるキャラです。そもそも他のキャラがいるのかいないのかいても何してるのかわからない作品で、げっとらいどだのあーろんじーだのよくわからん横文字より、「ブットベブットベ」がキメゼリフとしてどれだけ際立ったことか。かくしてタフトは一番の人気キャラにのし上がり、制作側は殺すに殺せなくなったに違いありません。
 このことは、タフトにその後(コメディリリーフとしての)女装癖がついたり、「実は子供好き」という設定がついたり、逆に凶暴性が影を潜めたことからも推察できます。

 その他細々。

・この作品に登場する全キャラ中、最強なのは誰でしょうか。
 もちろん、「こんなこともあろうかと!」のひとことであらゆるものを作り出せるジョイに決まってます。ジャパニメーションの伝統芸能がこんなところで復活するとは。

・非常に奇妙に思うのは、戦闘に加わる悪役の少なさです。誰ですか、ロシェとディグラーズの事実上2人だけで(いや、KKて別に何にもしてねーじゃん?)中盤の戦闘をひたすら引っ張ろうなんて考えたのは?
 この作品の場合、「社会情勢」が最大の敵なので、「力こそ正義」なディグラーズが端役に回るのはしかたないですが、でも週に一回はバトルするって決まってるわけですから……もう少し何とかならんかったのですかねぇ。味方9人敵2人って、そりゃあいじめですよ。
 え? ジン? そんなんいたっけ(爆

・「憧れの大人」だったガン・ザルディが、オトナであるがゆえに道を誤り、ラスボスと化して主人公の前に立ちはだかる……という展開は見事なのに、全然その見事さが伝わってこなかったのは、「乗り超えるべき壁」とかいうレベルをはるかに超えたパワーのインフレぶりのせいかも知れません。初期はバグシーン一匹倒すのでさえ大騒ぎだったのに……。

・ラグナもセナもカノジョ/カレシが殺されてる以上、ジェナスだけくっつけるわけにはいかないとはいえ、最終回のシャシャの去りっぷりはあんまりです。てか、シャシャはきっと宇宙人か何かで、「今まで地球人に正義と勇気があるか試していた」とか言い出すものだとばっかり思っていたのに、ホントにフツーに人間ですか。あの脳みそ蝶々娘がレジスタンスとして活動してたことのほうが、宇宙人より奇跡的だと思うのですが。

・そしてセラ・メイ! 愛すべきツンデレキャラ! ツンデレ系バトルヒロインといえば最強なのは武装錬金の斗貴子さん、ここに世間様の異論はありますまいが、しかし斗貴子さんは人形ダッコして寝てくれたりしません! まひろの位置にまひろより脳みそ蝶々なシャシャがいるので補完(何の?)もばっちりです。
 しかし、このアニメは男の子向けですから、ヒロインなんてしょせん飾りです。えらい人にはそれしかわかっとらんのです。彼女の薄幸っぷりの根元はそこにあります。
 実はこの話がジェナスxセラではなく、ジェナスxシャシャ、シーンxセラであることはずいぶん早くからわかっていて、二組ともじっくり愛を育んでいるようにみえたのですが、つまるところ一番深かったのはジェナスxシーンの愛だったってことです。嗚呼!


 小学生向けのヒーローアニメに、オトナの事情を少しずつ、ハッタリもコミで組み込みながら、「少年の青臭さこそが正しい」と定義する基本理念にはなんら誤りはありません。
 自由な発想でリメイクしてもらいたいと、心から思います。


 とまぁそういうことで、長々失礼しました。結論としてはつまり、自分がずいぶんツンデレに偏りつつあるな、と、そういうことです。いや、むかしっからそうか(爆

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2005-02-21 「笑いの大学」
 去年の秋から年末にかけてはローズフォースにかかりっきりで、映画をほとんど見なかったのですが、その頃見損ねて悔しい思いをした作品を、ありがたいことに
下高井戸シネマがことごとくかけてくれるみたいです。さすが下高井戸シネマ。
 「笑いの大学」
 「オールドボーイ」
 「ニュースの天才」
 「戦争のはじめかた」
 ここはあと一声、「ターンレフト・ターンライト」と「is A.」をかけていただけるとたいへんありがたいのですが。
 あ、「ベルヴィル・ランデブー」もやるみたいなので、興味のある方はどうぞ。


 先頭切って「笑いの大学」を見てきました。ぼろぼろ泣きました。映画で泣いたの久しぶりです。やっぱ三谷幸喜はスゴい人ですよ。
 最後の「知恵比べ」なんですけど、つまり、あれは「椿一が心ならずも勝利した」という理解でいいんですよね。「笑いのない喜劇を書け」という向坂の要求に対し、椿は向坂が83回も笑ってしまう喜劇を書き上げて渡しました。要求を受けたその夜に、椿は召集令状を受け取り、その時点で上演不可能になったため、彼は自らの才能のすべてをつぎ込んだ最高の喜劇の台本を完成させることを選んだのです。
 それはつまり、椿の勝利でした。かれは「笑いのない喜劇」を書き上げてしまったのです。「笑いのない喜劇」それは「上演されない喜劇」です。「世情が上演を許さない喜劇」です。
それに思い至ったとき僕はぼろぼろ泣いていました。

 よく書くことなんですけど、僕は表現の自由を信じていないんですよ。声高に表現の自由を叫ぶ人が嫌いなんです。
 でもこの作品は、表現の自由の本質を確実に貫いて人の心に届けるという、(僕が勝手に決めていいことではないけど)作品の意図と目的を正しく伝えることに成功しているのではないかと思います。

 表現の自由はあるべきなんです。
 ただ、憲法第9条の「戦力」という単語が、集団的自衛権という言葉で簡単にねじ曲げられたように、憲法第21条の「表現」という単語もいつか簡単にねじ曲げられてしまう日が来るでしょう。
 僕はそうなっても、表現の自由なんて与えられなくても、自分の書いたものに責任を取れる人間でありたいと思います。あの憲法の意図した「表現者」とはそもそも、そういう人間のことだと信じています。


 でも、この監督は決してうまくはないですね。
 向坂が警官に扮して走るシーンで、「三回も同じことをやったらつまらないだろう」というセリフの直後に、同じシーンを五回以上繰り返すというのはさすがに引いた。この作品は良質の脚本におんぶにだっこしてるなぁと思ったものです。

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2005-02-19 「書いててさみしくなるけど」
 寝屋川の事件についての報道を聞けば聞くほど、この事件がきわめて平凡な感情の発露によって引き起こされた不幸であると知らしめられ、少しだけ救われた気分になる。それなのに、これをあの宅間守や小林薫と同列視して警戒する人間がいるようだ。恐ろしいことではないか。小学校を「危険な領域」に定義して何の解決になるんだ。

 一方で、「強盗の自白」を公共の電波に流すことに一顧のためらいのない人間が、社会人として大手を振っているわけさ。───これと同じことが起きた番組を、僕は7年前に見たことがある。あまりに衝撃的だったのでメモしてある。1998年6月1日の日付になっている。盗みを告白したのがアイドルじゃなく町の女子高生だったので何の騒ぎにもならなかったけどね。今回のも含めて、決して特別な事例ではなく、社会に歪んで根を張ったインモラル性の証左であると邪推する。
 番組に携わったスタッフは二桁以上いるはずだ。その全員が、無反省な犯罪の自白が公共の娯楽になると信じて疑わなかったのだ。なんか、おかしいよ。やっぱり。

 こいつらに比べれば、攻撃的な感情の具現化として刃物を持ち、自らより強い立場の存在に恐怖してそれをふるう、その方がよほど自然で正常な精神の持ち主だと心から思う。

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2005-02-06 「プラネテス」
 「プラネテス」の地上波放送が終わりました。
 はぁ。えがった。
 原作も今取り揃え中。
 はぁ。えぇのう。


 まず真っ先に出てくる感想が何かというと。
 曲がりなりにも僕は理系を志して大学まで出た人間だから。
 どきどきするんですよ。「宇宙で働く」ってことがひたすらリアルで、手の届く未来として、人間が生きる世界として描かれていること。
 「船外活動(EVA)するときはオムツしなきゃならない」とか、「月面は重力が小さいのですがるく運動できるけれど、質量が同じである以上足への衝撃は軽くならない」とか、「知識を伝達する」ための作品や教本は数々あって、僕はそれらの知識は確かに得ていて。けれど、実際にそうしている人間を近接して「見る」ための作品は今まで存在しなかったと思うのです───現実には、こうして作品世界にインサイドすることによってのみそれはなしうるわけです。
 この作品は何より、インサイドして彼らとともに宇宙生活を実感できることに極上の悦びがあるのです。


 そして心から望んで全面的に依拠してその悦びを受け入れている視聴者に、この作品はド本気でぶつけてきます───その世界に生きる者が、どうしても直面しなければならない、けれどフィクションやエンターテインメントという皮をかぶっていたいなら、あえて避けてお茶を濁すことを選択するであろう「宇宙の孤独」というものを。
 後から思えば、ストーリーにアラはいくらでもあるんです───テロ実行の安易さなんて、拍子抜けするくらい!───でも彼らは、描くべきテーマを一点に絞って荒波を作り出します。その世界にとどまろうと欲する限り、避けることは不可能。
 客観的に見られない、というか……これくらい物語に「飲み込まれた」のは、久々だったように思います。


 この作品で見出される「宇宙とは何か」という結論の描写について、僕はこの場で感想を述べることはしません。
 なぜかというと、じくさんも書いてらっしゃるとおりのことじゃないかと思うのです。

>もしかしたら、物書きが何で書くのかと言ったら、孤独で不安で闇の心底まで落ちていきそうな自分が、つながりたくて愛したくて、届くとも分からない信号を送っているのじゃないのかな。

 物書きに限らず、人間がそういう信号を発していること、そしてそれを受け止めようとするセンサーを伸ばしてほしいという願いを他者に伝えるには、「時間軸」と「生活感」をともなう「物語」というスタイルを取らないと、実は困難なのではないでしょうか。そして「プラネテス」は、僕の知る限り、最もよくその困難を成し遂げた作品です。
 どんな論評も、哲学書も、カウンセリングも───あるいは、生活感を失った突飛な物語も、「そのときどきに」「非日常で特別なもの」であると、人の心の中で単なる瞬間最大風速で吹きぬけてしまい、とどまることがない。
 だとしたら、そのことに対して何かを返すにも、「物語」というスタイルが自然なのではないかな。
 
 似たようなことは僕もずっと考えていて、で、僕なりにそれを整理してみたのが実は「ローズフォース」だったりします。スケールの差は歴然ですが、それでも、一定の答えは導いたつもりです。ぜひ読んでみてください。最後は宣伝でした(笑。

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2005-02-06 「雲の向こう、約束の場所」
 今さらですが、見てきましたよ。まだ渋谷のライズエックスや下北沢のトリウッドで上映してますよ。未見の方はお早めに。


 いやー。すげー。おもろかったー。
 とにかく、前半の「切ない青春の思い出」パートが、これ以上ないってくらい、ベタ甘。
 オレもこういうの書きたいよ。サユリかわゆいよ。いまどきここまでヒロインを「ケガレなきカワイさ」でぶち上げた作品、そうめったに見られないよ。
 ほんとに、これ、DVDで見ちゃダメですよ。ピュアピュアなプリンセスをめぐるピュアピュアなボーイズのサワヤカセーシュンっぷりに、こっぱずかしくなってポーズボタンを連打すること請け合いだから。強制的に連続で見るハメに陥って、映画館の中で悶絶しなさい。それが正しい。

 そんでさ。
 この映画、中盤の構成に難があって、グダグダになるんですよ。さらに、この中盤で主人公の片方が「オメェそりゃねぇだろ」レベルの思考停止を長期間ぶっ続けるんですよ。見てらんねぇレベルに落ち込みます。

 そんでさ。
 ラスト前から、心理的なところやストーリー的なところを整理していき、クライマックスに向けてヴェラシーラ(飛行機)を飛ばそうとする過程で、また畳み込むようなスムーズな展開に戻るんです(結論が受け入れられるかは観客次第として)。ヴェラシーラは素直にカッチョエェって思った。


 なんちゅーかさ。監督の考えてることがよくわかります。
 「ほしのこえ」見たときに、「僕はその一歩先に進んでほしかったんだ」って感想を書いた記憶があるんですけど、
 この人、その先に進むつもりなんて微塵もないから。
 この人、ベタ青春ストーリーとメカだけが描ければそれでいいって思ってるから。ゼッタイ。
 ちなみに、ストーリーのツッコミどころの多さは「ほしのこえ」の比ではありません。

 それでもいい。オレはこの開き直りにクリエーターの神髄を見た。
 つまり彼は、この作品を作るにあたって、最初のベタ甘と、最後にヒコーキをいかに飛ばすか、以外のことをほんとうにまるっきり考えずに手をつけたに違いないです(ちなみに、こういうスタンスで始めると、僕の小説の場合は間違いなく書き上がらずに挫折します)。
 「ストーリー」にはもっといろんなものをくっつけなくちゃいけなくって、その過程に苦しんで、中盤の絵コンテ切りながら、「オレ、なんでこんなつまんねーコトやってんだろ」と自問しながら仕事してたんです。間違いない。
 そういうところまで伝わってくるんです。耐えろ。耐えて構成力と演出力をつけてくれ。そんでもってまた甘ったるい赤面ストーリーで悶死させてください。


 はー。それにしても。
 新海誠って、同い年なんだなぁ、びっくりだなぁ……。

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2004-11-14 「文学フリマ3」

 ゆんべ夜中の2時頃だったか。
 まぁ、ローズフォースがβのままってのはしゃあない。でも文学フリマだから「本」にしとかないと辛いだろうなぁ。とりあえず、A5サイズにできるようにA4で刷って裁断して、背にノリ塗って、手製本で見本誌だけは作っておこう。ってことで、プリンタがしゃこんがしゃこん。
 ぴー。
 ん?
 ぴー。ぴー。
 ……用紙切れ???
 ……。
 ただでさえほとんどなかったやる気がその瞬間ゼロとなりました。

 そんなわけで、今日文学フリマに行った目的は「SKIPJackの古川さんにお礼を言うこと」でした。いやかなりマジで。

 そのお礼が済んで、あぁやることなくなったなぁってとこで(笑、主催者の「今日この日を無事迎えられたことをもって勝利宣言したい」という印象的な開会宣言の後、開場。青山ブックセンター倒産騒ぎのあおりを食って会場変更などいろいろ大変だったんでしょうから、さもありなんてとこです。

 さて。斜め前が大塚英志御大のスペースだったから、よけいにそう思ったのかもしれないけど、人が多い多い。ABCでやってたときのように、「人がいる部屋といない部屋にばっさり分かれる」という弊害もなく、まんべんなく人が流れて即売会らしい感じでした。そうしてみると、去年感じた『本屋の品定め感』も薄れた印象。場所変われば態度も変わる?
 本屋に併設の会場だったABCとは違うのだから、一時間もすれば一般参加者は一巡して閑散とするだろう……の予想もまた、見事に外れ。むしろ一時間経ったら人増えてました。てゆぅか終了直前でも一般参加者らしき人が歩いてました。すげー。ってか、僕は、チラシスペースに途切れず人が集まるイベントを初めて見たかもしれません!
 チラシスペースだけでなく、見本誌スペースもあるし、1スペースの空間が断然広くなったし、会場としての雰囲気もいいし。当分はこの秋葉原が定宿だとありがたいですね。そこそこ即売会慣れした身には、これくらいのマターリがもう最高。

 ただ文学フリマの本質からいえば、今風にいえば「エッジな」っちゅうのか、もっと先鋭的でチャレンジャーな全員参加イベントの一つ二つ組み込まれても、バチ当たらなそうな気はしてます。
 減りつつあるようにみえる高齢参加者をさらに減らすことになるかもしれませんが、若い表現者の集まる場所、とだけ考えると、文章表現という行為を「趣味、娯楽、エモーション、楽しむもの語らうもの」と考えるライトノベル層と、「文化、芸術、ロジック、学ぶもの論じるもの」ととらえるサブカルチャー層(←いや、こんな簡単に二極化しちゃいけないってのもわかってはいるんですけどね……)が微妙にバランスしてる感覚があります。僕は個人的にはこの感覚が好きなのですが、「バランス」ではなく「混濁」になるとどうなるのだろう? とも思うのです。

 運営面では、サークル受付、見本誌受付がともにおそろしくトロかったのだけ気になりました。同時にやればいいじゃん。まぁ、今回はともかく開催するだけで手いっぱいだったでしょう。来年の改善や新企画を期待します。期待ができるのはいいことです。自分も、もう少し気合入れて参加したいものです。
 ときに、今後も文学フリマがこんな安定開催なイベントとして継続するとなると……あやうし「ぶんぶん!」? 住み分けは、できてそうな気もするが、さてどうなる?


 最後に、ローズフォース印刷に向けいろいろ知恵を貸してくださった白河さんひめのさんありがとうございました。参考にします。

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2004-09-20 「いずれの森か青き海」
 四日市を舞台にした映画である。

 三重県四日市市といえば、社会の教科書にまで載る公害病によって知名度のほとんどが成立しているわけだが、この映画では公害の話はほとんど出てこない(監督さん自身出す気はなかったろうけど、出してたら四日市市の後援はつかなかったろうなと思う)。中心街や産業集積地の空洞化が進んでさびれつつある一地方都市という表現になっている。


 僕が四日市を離れ、横浜〜東京と生活の場を変えてから、もう13年が経つ。2歳から5歳の頃にも関東に住んでいた時期があるので(僕にあまりなまりがないのはそういうわけだが)、故郷と呼ぶべき都市以外の場所で暮らした時期のほうが長くなった計算だ。
 しかし東京の方がなじみ深い場所になったわけでもない。
 日本を訪れたアメリカ人同士の恋愛を描いて、その「日本文化」の描き方が話題になった「ロスト・イン・トランスレーション」という映画がある。その作品を見て、それから「国辱モノ」なんぞと謳う批評を見て、「何がやねん」と思ったことを思い出す。端的な描写だけを見ればそうなるのかもしれないが、かの映画が本当に「辱」ならば、辱められているのは日本ではなく東京、あるいはこの上もないファンタジーに歪められた京都だけだ。
 なぜなら、大都会トーキョーに存在する間断のない雑踏、そこから抜け出せないことを受け入れてひとつのオブジェクトたらんとする人々に対する違和を、地方出身者なら例外なく感じているはずだからだ。どこまで行ってもヒトとビルが在るこの街から抜け出す方法を、「故郷」を持つ人たちは知っている。それを知らないよりは知っている方が、ちょっとはマシなのだと信じたい。
 ここでいう「故郷」とは、日本人が憧憬する、人工物のないピュアで輝かしい理想郷のことではなく、「好きじゃないけど、キライになれない」というキャッチコピーが示す、「いずれの森か青き海」が描き出す小さな世界だ。ただ自分が生まれ育ったというだけの街に対する独特な精神世界は、確かに存在している。


 さて。
 「いずれの森か青き海」は、四日市の臨港地区おそらくは塩浜か磯津あたりを中心にした物語だ。ほとんどのシーンの背景に、コンビナートの煙突か埋め立てによってできた運河が登場する。
 その背景の中で、主人公の女子高生(四日市南高校の制服)田中アオイを中心に、

・アオイの家庭のやや複雑な事情。
・アオイはオーストラリアのメール友達に、四日市がきれいな森や海がある街だと嘘をついていた。その友人が来日することになってさぁたいへん、という話。
・アオイが四日市のドキュメンタリー映画の主人公に抜擢されて、その撮影の話。

以上の三つの話が絡み合いながら進んでいく……のだが、はっきり言ってこの話、物語はどうでもいい。

 とにかく地方出身者のメンタリティにずばずばねじ込んでくる。
 自分の居場所に見栄を張りたいのに、でも自信がなくて、その自信のなさを、見栄を張ろうとするものの価値を自分の中でだけは貶めてそれのせいにする。そして、「東京」という絶対価値を信じていて、その絶対性を作り出せない自分の「居場所」に、さらに自信をなくす。そして、今ここにいることが何となくイヤ、でも抜け出せない感覚が、心理全体を覆い尽くす……。
 拙い説明で申し訳ないが、これはまさに映像、つまりカメラによって切り出される主役の西村美紅嬢のアンニュイな表情と、背景に広がる美しくも汚れすぎてもいないサエない風景が相まって、こと細かく伝えてくることなのだ。だからうまく言葉にできない。ホントにこれは、映像作家にプロの仕事を見せつけられたとしか言いようがない。

 あと、スタッフロールに「方言指導」がいなかったんだけど、まぁ現地人の西村嬢はともかくとして(「来やんやんか」とか、映画で聞ける日が来るとは思わんかった……)、他の役者さんも、三重県人として違和感のない関西弁を使ってらしたのがちょっと嬉しかったかな。


 ……ただ、なぁ。ストーリーがホントにどうでもいいっつーかありえねーっつーか、正直邪魔だった。
 主人公は喫茶店を経営している若い叔父(高野八誠=仮面ライダーライア)と二人暮らし。その若い叔父が趣味と実益をかねてやっているのがギター作り。主人公の母親は事故死。事故の意外な真実とは! ……少女マンガじゃないんだからさ。
 オーストラリアの友人来日のエピソードはまぁ見られたけど、アオイがついてる嘘って、「水平線に美しい夕日が沈む」までイッちゃってるんだよ。四日市は伊勢湾の奥にあって、海岸線は東側で、しかも全部埋め立て地なんだけど、オーストラリアには日本地図がないのか?
 このあたり、うがった見方をすると「不幸な環境で育った女性が虚言癖で周囲を困らす」だけの話になりかねない危険性をはらんでいる。もう少しうまく描けなかったものか。

 他にも、臨港地域の最寄り駅が河原田で、わざわざ伊勢鉄道を使うとか(四日市の人間しかわからん話だがとにかく現実にはあり得ないのだ)、明らかに人が出過ぎの清掃シーンとか、「地域の人々」に対する意識が強すぎて、そのために構成や物語をねじ曲げていると見られる部分多数。
 そして何より、四日市という都市を臨港地域だけで切り取ってしまったら、それは日本を東京だけで切り取ってしまうことと同じではないのかと。それではどうしてもフィクションの比重が大きくなってしまい、その土地に生きる人を真摯に捕らえるという意識から遠ざかってしまうのではないかと。

 だからこの映画は、四日市の人々よりも、四日市は工場と公害の街だという表層的な知識だけを知っている、閉塞感に悩む別の地方都市の人々に、ごく普通のフィクションとして見てもらうと、最も感動をもたらすのではないかと思う。
 ホントに、アオイが見せるあのイライラ感は、関東以外全地域の日本の若者に共通の独特な感覚のはずで、そしてそれがテーマになると見定めてきちっと描ききった映像というのは、もしかしたら日本初の快挙ではないのか。
 シンパシーを感じてくれる人がひとりでも多いことを祈る。

 ……もっとも出身者たる自分としては、「アオイが主人公をしている劇中劇のドキュメンタリー映画」だけを見せてもらった方が、納得のいくものになったんではないかと思えてしょうがないのだが。


 シネマアートン下北沢で、24日まで、モーニングショー(11:40〜)一回のみ。この文章をアップするのが20日夜だから、この紹介を運良く読んでいただいたとしてもまっとうな社会人では23日の朝しかチャンスがないと思うがぜひどうぞ。

 ところで、こんなローカルでマイナーな映画を見る人がどれほどいるのかとちょっとびくびくしながら映画館に入ったのだが、80席くらいの観客席は何と満員で補助席まで出ていた。
 それもそのはずで、関係者舞台挨拶があったのだ。……えーっと、公開初日ではなかったのだけれど、これも営業努力? その関係者さんたちが呼びかけたことが多分にあったと思われる。
 舞台挨拶に来ていたのは監督の瀬木直貴氏と主役の西村美紅嬢と端役の人(笑)。で、映画が終わった後ロビーに出てみると、この主役の西村嬢が目の前にいたのだ。出てきた観客にお辞儀をするというでもなくホントにただ立ってて、劇場に呼んだ友人を待ってたという雰囲気。でも、何しろロビーっても下北沢のミニシアターだし、幅一メートルくらいしかないところなのよ。
 映画の主演女優という存在をそんな至近距離で見たのはむろん初めてで───いやぁ、フィルムの中よりパンフの中より、実物の方がめっちゃカワイかったのです。眼福ー。

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2004-09-06 「NIN×NIN
 いやー。

 クソつまんなかった。


 ↑猛烈な褒め言葉。(激マジ)

 なんちゅーか、ずーっとニヤニヤ笑いながら、つまんねーなーと思いながら、そうしてじーっとスクリーン見ているのが、けっこう快感だったりしたのですよ。
 藤子漫画の実写化・香取慎吾主演・フジテレビのあけすけな露出・等々のキーワードから、「本気で見ちゃバカを見るだろう」っていう感覚、あるじゃない? その感覚にド直球でブチ込んでくれた、ていうか。僕らこどもの頃、くっだんねーマンガにげらげら笑ってたりしたでしょ、あの感覚を呼び覚ますというか。
 見てないけど、フジテレビの映画夏休み路線って、リターナーとか、マジメにやって失敗するのが多かったみたいだから、その反省に立って作られてるのかもしれない。


 「新撰組!」がどうにもこうにもしまらないのは、むろん香取慎吾がミスキャストだからだ。というより、NHKが何を間違えたのか三谷幸喜にシナリオを頼んだのが間違いで、コメディー畑の上に、はじめからどの役に誰を当てるか考えるタイプの三谷氏にとって、むろんジャニーズの営業力もあろうが、「三谷氏の手駒」の中でNHKが主役として納得する大物が香取慎吾しかいなかったのだろうと推察する。しかし、「マジメな好青年」はともかく、やっぱり「シカツメらしく考え込む」という仕草は、香取慎吾には合わないと思うのだ。できてないワケじゃないが、もっと深みのある演技のできる人はいくらでもいるだろう。
 あんまりドラマを見るわけではないが、その香取慎吾が「役者」として演じた作品の中で、最も優れていたのは「HR」の轟先生ではなかったろうか。香取慎吾っていう人は、あのルックスで、しまったガタイで、だけど誰かに振り回されてあたふたして、困ってしまうんだけどニクめないにっかり笑いで雰囲気を丸くしてしまう、「気は優しくて力持ち」みたいな、そういう人情コメディー路線に入っていって真価を発揮する、俳優としてはそういうキャラだと思う。
 「NIN×NIN」はまさしくその本領を発揮する場所だった。「香取慎吾の父親役が伊東四朗」という配役はやっぱすばらしい。で、「冒頭、親子で壮絶なバトルをした後に、超絶安っぽいセットの中でどーでもいーよーなコントを絡めながら、親から子への『最終試練』が伝えられる」という展開。うまい。


 しかし、香取慎吾がその路線なら名優かっていうとそうではない。
 じゃあこの映画はどうしたか。
 「香取慎吾が熱演・名演」といえるレベルまで、他の部分のレベルを下げたのだ。どう考えても、「こんな配慮を加えたら面白くなってしまうじゃないか!」と本来とは逆方向のブレーキをかけ、つまらなくなるように作られているからだ。しかしその結果、香取ハットリはきちんと物語のど真ん中に居座って失笑を買い続け、それはそれでけっこうバランスが取れてしまっているのも事実だろう。

・あるじ以外の人間に姿を見られてはいけない設定なのだが、「忍者には見られてもいい」。そこを説明するセリフ、描写が何もない。その説明を入れないことの方がありえない。とすると、これは、映画をつまらなくするためにそうしたとしか考えられない。
・ケムマキ(=ガレッジセールのゴリ)が教師役なのだが、彼は教師として子供たちのことをとても気にかけているのが、セリフがなくても伝わってくる。しかし、ここで「オレは子供たちのためを思えばこそ何かできる」ということを示せるシーンで、まったくとんちんかんなことをいう。どう考えても、映画をつまらなくするためである。
・田中麗奈が盲人の役である。目が見えないので、彼女には存在が知られてもかまわない。という設定の奇妙さはともかく、田中麗奈本人はそれなりに盲人の演技をこなしているのだが、盲人なのに「絵が描ける」ことに始まり、「シナリオ含む周辺状況のあらゆるものが彼女を盲人として扱っていない」ので駄演に見える。もちろん、映画をつまらなくするために違いない。
・悪人が悪事をはたらき、警察が捜査をするシーンがあるのだが、警察の存在理由がない。「ハットリくんと最終的に対決する悪人がいる」ことを示すだけの存在で、少なくとも、警察官個人に個性を与える理由は、これっぽっちもない。ここに、宇梶剛士、東幹久、西村雅彦がぶち込まれている。俳優の無駄遣いである。実につまらない。
・CMなどでさんざん流れた「掟より大事なものを見つけたでござる」のセリフは、これ以上あり得ないくらいつまらない展開&映像とともに流れる。いやもう、これを本気で作った人たちがいるのである。

 そして特筆はバトルシーンだ。
 そもそも「ハットリくん」なのである。「敵」や「対立」の概念自体が本質的に邪魔なのだ。それゆえ、悪役の存在意義は皆無で、意志主張にもたいしたことがなく、実に中途半端である。で、悪役は「ハットリくんを呼び出す」ためだけにケンイチ氏を誘拐するというのだからもう何をかいわんやである。
 しかも、彼とのラストバトルは、信じがたく情けない形で終わる。これは、映画史上最もつまらないシーンとして後世に残るのではないかと思うくらい、クライマックスとしてはありえないのである。だって、ハットリくんが小1分の間、なーんにもしないで突っ立ったままなのだ(なぜそうなるかは見てのお楽しみ……その突っ立ち状態が終わるシーンに漏れる失笑は、もう筆舌に尽くしがたい。あそこまでくると本当に感動ものだから)。

 だがしかし、だ。そこに至るまでの隠密戦、剣劇、格闘、まぁボディダブルであることは一目瞭然で、このアクションがスゴイといえるほどのものではないが、斬り結ぶシーンのひとつひとつにしまりがあってカッコいい。ていうか、他のシーンにしまりがないので、動きのあるシーンがめちゃくちゃ引き締まるのだ。まさか、ガレッジセールのゴリがちゃんばらをやって、あんなにカッコいいことになるなんて、誰も夢にも思っていないはずである。

 ふっと思ったのだが、これは期せずして「キャシャーン」のアンチテーゼになっていないだろうか。
 ここ、キャシャーンとまるっきり逆だ。何だかものすごく壮大な概念の中に、何だかものすごく壮大な対立軸を持ち込んでおいて、イケメン同士が戦ってもまったく痛みの感じられない無様なもので、意味ありげに見せて何一つ意味を持たせられず、意味を持たせるためにむりやりラストでセリフの応酬、何が何だかわからなかったあの作品。
 「NIN×NIN」は、どうせつまらない映画作るんならこうやれよ! とでも言わんとしているかにさえ見えた。

 「NIN×NIN」には意味なんかない。でも、僕らは何か意味を求めて藤子マンガを読んだか? 僕の知っているハットリくんは、シャシャーと言って手裏剣を投げる、でも水とんの術の夢を見ておねしょする、そんなキャラだ。「子供たちに夢を与える」なんておためごかしはいらない。
 藤子マンガを、どこか矛盾とか違和とかをうすうす感じつつ、それでもむさぼるように読む感覚と、香取慎吾のあのにっかり笑いから放たれるオーラが融合して、この独特の「つまらなさ」に仕立てていこうという方向性が、制作時に自然と生まれてきたのだろう、と思う。どんなにつまらなくとも、幸せな形で完成をみた、幸せな作品ではないだろうか。

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2004-08-22 「真鍋博展」
 美術展なんてものに行ったのは何年ぶりでしょうか。
 
東京ステーションギャラリーで「真鍋博展」を見てきました。
 このサイトに来る人で真鍋博の絵を一度も見たことがないという人はいないでしょう、星新一の書籍のイラスト・装丁でよく知られた方です。そうでなきゃ、ハヤカワミステリのアガサ・クリスティ。
 SFや未来予想のイラストの他に、1960年代の全国各地の俯瞰図とか(四日市もあったのにびっくり、ジャスコじゃなくって「オカダヤデパート」だったり、磯津町に「公害がひどい」と書いてあったり)、スピッツの「夢じゃない」のジャケットが実は氏の作品とかいろいろあったのですが、、困ったことに、僕はある作品に、本人とはあまり関係ないところでぶっ飛ばされてしまいました。おかげで残りのことよく覚えてません。

 それは、「僕は神様」と題された30分ほどの「実験的アニメ」です。「刺激が強いのでお子様にはお見せにならないでください」とあったのは、内容のキツさと画質の悪さ、多分両方の意味。
 真鍋博の描いたアニメーションなわけですが(真鍋博はアニメの黎明期にも強い影響を与えたのだそうです)、美術的価値がどれほどあるものか僕は知りません。ていうか、あのダダクサな線画紙芝居はやっつけ仕事に見えたんですけど。
 びびったのは、台本を手がけたのが安部公房ってトコです。(安部公房は……無解説で大丈夫だよね?)
 で、その内容が、「相手の顔を見て『死んじまえ』というだけで人を殺せる子供の話」。
 話の構成としてはシンプルなんですけど……シュールっていうか……40年前ですよ(いやぁ、デスノートってここから進化したのね)? シンプルな中に、ラストを納得させるための伏線としての挿話がほんとうにさりげなく織り込まれていたりして、やっぱ安部公房ってスッゲェ人なんやなぁとそっちに感心。ちゃんと読まないとなぁ。

 さらに、「21世紀のこどもの歌」と題された、未来論華やかなりし頃に出たLPの復刻CD(ジャケットと一部の曲の作詞が真鍋博)が売られていたので衝動買い。
 ここも真鍋博本人じゃなくって、「日本で初めてシンセサイザーを楽曲に導入した歴史的作品」という事実に驚かされ、それから、筒井康隆作詞/山下洋輔作曲の「アンタレス星人のうた」がサイコーによかった。♪カンジョレビッチョレアンターレース、ってそれ、「熊の木本線」の熊の木節はジャズだったのか?!

 戦後日本で「イラストレーター」という職業を確立したのが氏だったのだそうです。様々な先駆者がひしめいていたあの時代に、美術分野に一本ぬきんでた存在であったことには違いなく、集まるところに人は集まる、ってことなのでしょう。

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2004-05-31 「ライ麦畑でつかまえて」
 ちょっと必要に迫られたため、「ライ麦畑でつかまえて」を読んだ。意外に思われるかもしれないが未読だったのだ。アルジャーノンもそうだけど、実は僕は海外の近現代小説をほとんど読んでいない。まぁ、日本の近現代小説もほとんど読んでいないのだが、重きを置いてきたのが日本人の文章であることは確かだ。なお、野崎訳なので念のため。

 あれだけの自己中心的な文章を特につっかえもせず読めたのだからすさまじい文章力だし、表現にはところどころオッと思う部分もあれど、ぶっちゃけつまらんかった。たとえ16歳のときに読んでいてもつまらんかったはずだ。それは確信できる。
 理由は単純だ。僕という人間が、自覚できるだけの反抗期を経験せずにここまで生きてきたからだ。僕の精神的成長はまだその手前にあり、僕がこの社会に対して本当に反抗的になるとすればこれからなのだ。そのとき厚い壁のようなものに弾かれて、その瞬間にこの本を手に取ったならば、ここにある「何もかもがイヤでインチキだ」の感覚もわかるのかもしれない。

 ただ、範にしているのかどうか知らないが、この本が世に出てから50年の間に「人間は誰でも10代には何もかもに反抗したくなるときが来て、その一時期こそが大事なんだ」という手合いの文章、歌、人間、が、それらがいつどこで誰の目に触れるかをわきまえずに見境なくパブリッシュされた。若者というものを一からげにして扱うそのやり口を、インチキなオトナの所業と言わずしてなんと言おう?
 それらにイヤというほど囲まれて育ってきた僕らには、「ライ麦畑でつかまえて」というインチキ宗教のイカレ教祖がどんなことを言ってこようとたいして感動をもたらすものにはなりえない───あるいは、これこそがインチキなのだから、僕らはそれを拒否し自分の生き方に即した別の「反抗」を探さなくてはいけない。


 そして何より、
 処世のために自在に嘘をつき、それに何の良心の呵責も感じない人間が、「生きにくい」だとか、「へどが出そうな世の中だ」だとかほざくことを、僕は断じて認めない。

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2004-05-22 「花嫁はギャングスター

 このタイトルですよ。

 渋谷駅前の大画面広告で映像が流れてタイトルバックが出た瞬間に、「オレが見ずして誰が見る」って思いましたからね。
 天才だよこの邦題つけた人。もしパンフの表紙にある「レジェンド・オブ・ウンジン」なんてタイトルだったら、絶対見に行ってないもん。
 韓国映画が最近イイ! っていいますけど、日本人誰もハングルなんてわかんないから、「邦題を自分たちでつけなきゃいけない」っていう時点で、宣伝スタッフの意気込みが違ってくるってのもあるんじゃないですかね。ホント、いいかげんあの洋画の横文字タイトル何とかならんもんですかねぇ。
 まぁ、英語タイトルが「My Wife is a Gangster」だそうなんでそこから引っ張ってきたのだとは思いますが、それでも「奥様」ではなく「花嫁」にしたのは正解。日本には「極妻」という女ヤクザものの強力なタイトルがあるので、「配偶者」イメージの単語を使うとそっちに引っ張られてしまう。

 ただ、宣伝の方向が「ヒロインがカッコいいスタイリッシュな格闘アクション」なのはどうだったのかなと。映像見る分にも、アクションとしてはたいしたことがないのは読めたからなー……(実際、素人の自分でもスタントなのが一目でわかるイマイチなデキ)。
 いいんだ。オレはヒロインの、ヤクザなこと以外はからっきしなダメ子ちゃんぶりを堪能しに行くんだ。

 ときに、渋谷で大宣伝打ったんだから渋谷で上映しろよな。
 会社帰りにまともに行ける上映館が新宿だけで、しかも18:30が最終って、行くのが大変だったよ。


 で、どうにか見てきました。前評判がイマイチな映画ですが、このダメ子ちゃんぶりさえちゃんと見せてくれたら他人がどうあれ大プッシュしようと思ってたんですが。
 結論から言うと、オレは楽しかったけどプッシュはようせんなぁ。

 ヒロインはヤクザの女組長ウンジン。過去の抗争で、ハサミを分割したシザーナイフという武器で50人斬りをやってのけ伝説となり、多数の手下を抱える会のナンバー2まで上りつめた。あるとき生き別れだった最愛の姉と再会したが、ガンで余命いくばくもない姉がウンジンの花嫁姿が見たいと言い出したため、ウンジンは「誰でもいいから相手見つけてこい」と手下に命じる。それで選ばれたのが、モテない公務員ソイル。
 ふたりは無事?結婚するが、ウンジンが極道とは知らないソイルは振り回されっぱなし。さらに姉は子供を見たいとまで言い出して、……と、まぁ、そういう話。
 これは、「妻は夫に尽くす」が正常であろう韓国人の感覚では超異常なファンタジー設定であることは容易に想像がつきます(「猟奇的な彼女」って見てないんですけどこんな感じだったんですかね)。実際劇中でも女は男に従ってりゃいいんだ的なセリフがバンバン出てきます。

 ただ、予想通りというかなんというか、この映画は「スタイリッシュな格闘アクション」ではありませんで。正しくは下世話なギャグとバイオレンスでほとんどが占められた香港コメディーです。そこがわかってればそこそこ面白いです。何しろヒロインの格闘シーンよりチンピラどもが意味もなくケンカするシーンの方が多いんだから。
 何しろ小市民のソイルだけでなく、ウンジンの周りを固める手下どもがヘタレぞろい。中心となる手下三人を日本人でキャスティングするならピエール瀧と雨上がり決死隊。特にいちばん下っ端はモロに蛍原ですから。蛍原の兄貴分はけっこう色男の役者さんですが、蛍原どつき回してんだからやっぱ宮迫でしょ。


 香港コメディーですから、ストーリーはムチャクチャ。話の体をなしてません。特に、ヤクザの組同士の抗争回りはなんでそうなってんだかさっぱり。その上に話とどう関連しているのかよくわからんチンピラ集団とのイサカイも混じるんです。
 最終的に、ピエール瀧と蛍原が敵対組織に殴り込みを掛けて捕まってしまうためにウンジン組長御自ら出動、の運びになるわけですが、きっかけは、チンピラ集団による宮迫殺害を、どう考えたらその理屈が成立するのかまったくわからないインスピレーションでもって「敵対組織の仕業」と蛍原が思い込んでしまうために発生します。
 その抗争の結果、ウンジンが流産するんだから、この映画でいちばんの悪人は蛍原、おまえだ、決定。


 で、肝心のウンジンのダメ子ちゃんぶりは、ちょっと想像とは違ったけどなかなか面白かったです。思考回路が全部ヤクザ論理でマイウェイ一直線なのです。そもそも小顔でベリーショート髪で颯爽とした美人が、いっつも無愛想で悪態つきっぱなしって時点でカワイイじゃないですか。僕は好きです。いいぞもっとやれ。
 ただ、この手の話にはにゃーんと溶けるには、最終的には女の子的にダメじゃないところを見せてくれなくちゃいけないわけです。それが手料理作るではトドメとしては弱いし、それもソイルに惚れ直したからというよりは姉さんの遺言が影響大というのでは、1男性観客としてはどうもこうも……。


 韓国女性には大受けだったらしいです。でも新宿ジョイシネマ3の観客は5人しかいなくてしかも全員男性でした。カルチャーギャップって奴ですか。不入りのせいか?公開ももうすぐ終わっちゃうようです。見るならお早めに。
 ハリウッドが映画化権を買い取ったそうですが、あのまま持ってったらアメリカではなおさら受けないだろうなぁ。どうアレンジされるのか、まんまキル・ビルの亜流にされるんでねぇかとちと不安。


 ちょっと小ネタ。
 このウンジン、プログラムには年齢が「30代前半」と書いてあるのね。でも、とても30を超えているようには見えない。
 で、劇中では「26歳」とはっきり言っているのですよ。プログラム作ってる奴ら何考えてんだボケ、と思ったんですが、考えてみると、「26歳」と言ったシーンって「お見合い中」なんだよね。てことはサバ読んだ可能性もある?
 さーて正しいのはどっち?

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2004-05-19 「キャシャーン」
 観る前から散々叩かれまくってたので、どんなもんかと怖いもの見たさで見に行ったのですが、聞きしに勝るヒドイ出来でした。リンクする気にもなんねーや。
 「4年のときを経て! 映画版ファイナルファンタジーはここまで進化した!」というのが正直なところ。
 いや、むしろ自分は、誉めるところ探しに行ったつもりだったんだけど、最後まで見てみて思う。ダメだ、これは。

 いちおう誉めるところをリストアップしておこう。
・映像はいい。コレはほんとにイイ。個人的にはイノセンスより上と感じた。こっちの方が動きのある映像だったからかもしれないが。それでもバカバカしいほどコテコテに飾り上げられるエフェクトは、これは個性と認めるべきものだ。
・役者はいずれもいい味を出している。ほとんどがカオ決めてせりふを熱弁するだけなので演技も何もあったものではないが、それでも、テキトーにやってる人はひとりもいない。個人的に、いちばん味が出てると思ったのが及川ミッチー、いちばん味がないのが主人公のヒロスエの元彼。
・せいぜい3分ほどだったろうが対メカ戦闘シーンはイイ! 砲弾を受け止めて投げ返すとか、ロボットの腕掴んでぶん回すとか、チョップ一撃でぶったぎるとか、アニメでしかやれないことを実写並みの映像でやってる迫力はなかなか見ごたえがあった。


 そうなんだ。
 誉めるところはいくつもある。
 でも、「0に何を掛けても0」というヤツです。ていうか、およそ掛け算ができる状態になっていない。計算不能で何もかもが噛み合わない。
 構成、設定、ストーリーすべてにおいて、ぐちゃぐちゃでまとまっておらず、だらだらしていてメリハリがない。個々のポイントはカッコよくても、「なんでそーなるの?!」という意味不明のつぎはぎ展開ばかりで、もう、笑うしかない。


 一万歩譲りまくって、あのよくわかんない反戦メッセージを、きちんとしたストーリーとして認めよう。とにかく言いたいメッセージがあって、制作者はそれを可能な限り伝えようとして、いろんなセリフ、いろんなイメージを組み合わせてとにかく形にしようと試みたが、荒削りなままに世に出たのだと、よい方向へ理解してみよう。

 けど、そうすると、絶対に赦せないことが一つ出てくるんだ、僕には。
 監督は、「アニメのキャシャーンを見ていた」のだそうだ。ゼッタイ嘘だ。リップサービスだ。この監督は、幼い頃、「戦争アニメなんか見ちゃいけません」とお母様に言われて、「はいわかりました」と粛々とお従いになられていたとってもお上品なお坊ちゃんだ。
 あるいは、この作品を見てくれるターゲットの観客たちはみんな、そんなお上品な人たちなのだと決めつけ、キッツいのを見せると引かれるとでも思ったのだ。
 そうでなければ、ヒカルちゃんが「イタイのイヤ!」とダダこねたりしたんだろう。

 最初の女新造人間との戦闘がいちばんはっきりしている。斬り結んでいるシーンはそこそこ見栄えがするのだが、攻撃のモーションに入る、次の瞬間吹っ飛んでいる。どうやらその間に攻撃が当たったらしい。キャシャーンと敵が交錯する、次の瞬間腹に武器が刺さっている。え、いつの間に?
 驚いたことに、すべての対人戦闘において、攻撃がインパクトしないのである。あるいは、インパクトの瞬間はなぜか存在しなかったり、遠くから撮影されていたり、ストップモーションだったりする。斬られて血が吹き出すとか、殴られて顔がダイズみたいに歪むような痛ましく汚いシーンは「すべてカットされている」。とにかく不自然な映像の連続で、この不自然さは、意図的にカットしたとしか考えられないのだ。まさかあの内容で PG-12 を意識したわけでもあるまい。ちなみにこの作品、「編集」が監督本人な。

 人を銃で撃つシーンもしかり。引き金を引いた後、弾が当たったのかどうかわからないが人は倒れている。
 いくつか出てくる死体は全部とってもキレイ。ちょっと血がついている程度。何しろ爆死体が五体満足。
 さらに、キタナそうなシーンは全部白黒にして、「過去の歴史」然とさせてしまっている。

 人が傷つけあうあらゆるシーンが、痛くないのだ。でもメカを壊すシーンはサイコーにカッコイイから始末が悪い。
 マジメに戦いを語ろうとするとき、痛みの感じられない戦闘シーンがどんなに無様か。それは戦闘というものを賛美する立場であろうが否定する立場であろうが、絶対に理解しなければいけないことだ。
 痛みが「表現できていない」作品はいくらでもある。それは力量の問題や、テーマの軽重の問題だろう。しかし、この作品でははっきりと「痛い映像をすべて切り捨てた」のだ。そんなヤツが争いだとか憎しみだとか語るな。ふざけるな。思いっきり逃げておいて赦すも赦さないもないもんだ。

 紀里谷という人はつまり、「戦闘」という行為を描いてはいけない作家なのだ。
 キレイでセンシティブな映像に、自分なりのテーマを乗せたいという欲求を持つ人であり、それに関してはピカイチなのかもしれない。
 この映画の最大の失敗は、監督にキャシャーンという題材が与えられたその瞬間にある。どこでこの二者が結びついたのか、僕には不思議でならない。


 ところで、この映画、定価で見る気にならなかったのでわざわざレイトショーの池袋まで行ったのね。ま、それは正解だったのだが。
 行った「シネマ・ロサ」という映画館、2スクリーンある両方をキャシャーンにしてしまっている。本当は1スクリーンだったのだが、GW明けから2スクリーン体制になったのだという。この近辺じゃあ大評判だとかいうのならわかるが、観客10人いなかった。
……この映画に押し出された「ゴッド・ディーバ」って、かなりマニアックだというが、いったいどんな出来なんだ……?

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2004-05-10 「文芸リローデッド@コミティア68」5/4
 コミティアである。
 コミティアといえば11:00にスタートと昔っから決まっている。サークル入場時間は9:00〜10:00となっているが、実際には入退場停止となるスタートベースタイムの10:50までに入り、11:00までに受付をすませれば問題はない。ただし、受付が間に合わないと、遅刻扱いになる。
 そして遅刻すると、次回の申し込みで抽選になったとき、まず100%落選する。

 コミティアにはビッグサイト(キャパ2000サークル)と東京流通センター(キャパ1000サークル)で交互に開催されていた一時期がある。DA☆RK'n SIGHT はその頃ビッグサイトのコミティアにしか参加しなかった。選んでいたわけではない。「ビッグサイトのコミティアに遅刻→TRCの抽選に落選」というサイクルを懲りずに繰り返していただけである。
 (当時のコミティアは申し込み自体が1300サークルくらいで、ビッグサイト開催にはまず抽選はなかった。今はどうだろうな?)

 独りで参加する同人誌即売会は、まして新刊も出ない昨今では、誰に迷惑をかけるでもないので、ま、そんなものである。いや、スタッフに迷惑かけているのかもしれないけど、身に染みついたルーズさはそうそう消えるものではない。

 で。5/4。
 その日私は、きっちり9:15に国際展示場駅に降り立った。昼食を買うため若干回り道したので、正確なところは記憶にないが、9:30時点で少なくともビッグサイトの中にはいたはずである。
 ともかく、時間遵守を事実上強制されるコミケ以外のイベントで、開場1時間以上前に入ったことなどこれが初めてのことであった。それはつまり、「独りで参加する」とは勝手が違うことの証明だったかもしれない。


 頼まれていたオビカードを主催者の石井女史に渡し、自分のスペースを準備した後展示スペースに戻る。細々かつちゃきちゃきと準備作業を手伝う。何か自分より自分の供出した文房具の方がよく働いていたような気がしないでもないが。
 んで、開場。

 新刊の出ない最近では、多数の方に目撃されているとおり、自分はスペースの中で、借り物カシオペアを駆使して粛々と文章を打っていることが多い。
 が、今回は人通りが非常に多かった。で、呼びかけられて打つ手を止めることも多かった。これは文リロ効果であろう。
 あー、その大半が黄色いリーフレット兼スタンプラリーの台紙を差し出してきたけどね。「文リロ参加サークルが全部スタンプラリーに参加してるわけじゃなくって、参加してるのはあっち」と道楽さんとこ指差すのがほとんどだったかもしれない。

 これは、うちがWの配置で一番最初の文リロ参加サークルだった上に、売る本が少ないんでテーブルの上にも「文芸リローデッド参加中」のポスターを貼っていたので(机の下じゃ見えないんだ。本の表紙もそうだけど、歩く視線から見えるってことはすごく重要なことなんだぞ、諸兄諸姉)すぐ気づかれたってこともある。
 サークル参加者が、一般参加者に呼び止められるってのはホントいいことなので、自分的には全然問題なかったんだけど、うちと道楽さんの間に挟まれた、無関係で初コミティアな氷花さんになんとなく申し訳ない気分。申し訳ないのでリンクしておく。普段は有栖川二次らしい。

 つーか、スタンプラリーの参加者のみなさん、ことごとく台紙に書いてあるはずのスペースナンバー見てなかったよな。まぁ、ぶらぶらと散策って感じで参加サークル探してくれてた方が、文リロの意義的には良かったんでしょう。

 ただ、スタンプラリーが一段落するといつもコミティアに戻ってしまった印象は否めない。売り上げはいつものコミティアに比べれば段違いだったのは事実だが(てか道楽の光さんには既にお持ちの作品をムリしてご購入いただいた。「全サークルから買う」という意地があったご様子)。
 展示スペースをずっと観察してたわけじゃないけど、入りは今ひとつだったような気が……。見本誌、どれくらい手にとってもらえていたんだろう。
 今さらではあるが、運営面でちっと指摘させてもらうと、「感想を書くスペース/用紙」等を準備できなかったのは失敗だった。感想は読んだ直後に書くのがいちばんだと思うから。それなしに、検索シートの裏に感想貼ってもらう、というシステムはどこまで成立するか?


 打ち上げは「銀座クルーズ・クルーズ」。
 あんなとこでやっていいのかと思うほど豪華なとこ。ま、ビッグサイトに近くて50人入れて、話しやすいように立食、となるとどうしてもあのグレードに落ち着くか。食事はおいしかったが、たいしたことはないしたいした量でもなかった。
 何より、白ワインのクソまずさは、すみませんが私の味覚を超えてました。自分で注いだ分を全部飲まずに、グラス放置して逃亡。食べ物残すのは主義に反するがあれは人の口に入れるものではない。最終的には例によって日本酒に走ったよ僕は。

 姐さんの旦那さんに名刺をいただく。えらいところに勤めてらっしゃる。こちらの名刺(同人用のじゃなくって社会人用の)はこないだの準備会のときに姐さんにぶんどられた差し上げたんだっけ。
 ご夫婦から揃って「おかみ戦闘」は「おかみ戦闘」でいいのだと激励を賜る。よし、(仮)を取ろう。

 んで最終的にお隣になってじっくり話し込んだのはこの方。ご本人です。いや、ファンの方とかいらっしゃったら申し訳ないんだけど、私ゃ名前以外に存じ上げませんで。ただまぁやっぱり、少年キャプテンといえば「GRAY」だ。
 何より、イギリス旅行歴十回以上、という話に興味津々。「はたらくお姫さま」のお城でモデルとしたコンウィ城に実際に行ったことがあるそうな。イギリス古城巡りか。いいな。海外行くなら、そうしたいな。


 二次会と三次会は……道楽の光さん、Welfa の義忠さん、カレイドスコープのすらさんあたりと激論……というのか? 小説のこととか、運営のこととか。
 とりあえず、私の話したことは忘れてくださいってのが正直なところだなぁ……特に後夜祭幹事の広海さんは突き上げちゃって申し訳なかった。偉そうなことを言ったのは覚えてる。それは、自分にしちゃまっとうな意見をまっとうに吐き出したと言うことも覚えてる。問題は、自分という人間がそれを言えるほどのことをちゃんとやってるかということだな。
 まぁ、今回は、カレイドスコープの絵描き藤池さんの「とりあえず飲め」攻勢に完全に敗北したってことにしておいてください。えぇい秋田県人め(笑)

 自分の作品については、いろいろ評価いただいてありがとうございました。
 このレポートを書き上げたんで、そろそろ原稿再開します。自分の納得いく文章書き上げなきゃしょうがないんだ。

 もうちょいきちんとまとまった文章にしたかったのですが力尽きました。これ以上遅くなってもしょうがないんで、このへんで。

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2004-05-10 「スクール・オブ・ロック
 5月7日22:20、ほぼ満員の渋東シネタワー4にて、上映終了後、時ならぬ拍手が沸き起こった。
 定期的に映画を見るようになって日が浅い人間だが、正直いって初めての経験だった。
 まして場所は渋谷の金曜夜である。公開直後というわけでもなく、この映画館では最終日だった。始まる前には映画館のスタッフが道玄坂に出て呼び込みをやっていた。たまーに映画を見に来たカップルとかがほとんどだったと思うわけだ。
 ロックに詳しい人も(ロックに詳しい人が見るとディテールに感動できるらしいが、僕にはよくわからん)、映画に詳しい人も、さしていたわけではなかったろう。面白いのである。単純に、誰が見ても面白いのである。最高に。だから自然に拍手が起きたのだ。


 ストーリーは至って陳腐。
 ロック以外に何も知らない自分勝手なダメ男が、カネのために偽教師になりすまして、規律に厳しい小学校でこっそりロックを教えるうちに、教え子たちは自由と協調性を学んでいき、自分自身も人格者に育っていく……。
 て、ホントにこんだけ。この後どういうピンチが起きて、そんでどういうエンディングになるか、だいたい想像つくでしょ? 想像どおりの展開になります。


 何が面白いのか。主演のジャック・ブラックの個性に負うところも大きいが、僕は100%脚本の勝利だと思う。
 まったく違和感なく、物語が進むのだ。アップルシードの時書いたストーリーのリズムが普遍的に完成している。スクリーンと観客の間でキャッチボールができる、とでもいえばいいか、イベントが始まると、期待通りに小気味よく話が進む。いっときたりとも間を違えない。
 ふつうに考えれば、「期待通りに話が進むなんてつまらない、良い意味で裏切って欲しい」のが観客のエゴだが、この話でいえば、「こんな陳腐な話に何のヒネリも入らない」ことが良い意味の裏切りといえる。本気で、丁寧に作り込まれているから、余計なヒネリなど要らなかったのだ。

 そして脚本のマイク・ホワイトは大きな決断を下した。こういう成長ものでは「定石」ともいえる、「挫折」というイベントをほとんど切り捨てたのだ。しかも、わずかにある挫折シーンでも、挫折するのは偽教師の男の方で、それを子供たちが救う。つまり、子供たちは一切挫折しない。
 子供たちはただ、自由を抑えつけられ、与えられたものを享受するだけで育ったため、「自分の才能を信じていない」のだ。子供たちの成長は、この自分自身に対する不信感を、「ロックの魂」が打ち破ることだけにフォーカスする。
 だから、イベントが終わるごとに、子供たち、偽教師、両方が少しずつ成長していくことがはっきりとわかる。教師の男は自分の信じたロックが人間を育てうることに誇りを抱き、子供たちもそれぞれに自分の才能を信じ、バンドとしてひとつにまとまり完成していく、その流れだけを丹念に描き出していく。

 もちろんその過程で繰り出される、ロックしかわかんないバカ大人と、こまっしゃくれたガキンチョどもとの容赦ない掛け合いは絶品だ。笑った笑った。しかも、演奏に加わる子役は全員、本当に大人顔負けで活躍するミュージシャンなのだそうだ。個性は溢れているけれど、スレた子役という感じはなく自然体だ。唯一スレた感じの子役は、バンドマネージャーというハマり役が用意されていて、これがカワイイのなんのって。
 唯一気になるのは、偽教師に怒り心頭だったはずの親たちが、演奏を見た瞬間手のひらを返して子供たちを認め出すというシーンだが、ここは「親バカとはこんなもの」ということでスルーすることにしよう。


 とにかく、ロックは全然わからなくて問題ない。「子役がカワイイ」くらいの認識でいいので見なさい。見ないと損をする。
 ストーリーってのはこういうものだ。余計なものは要らないのだ。


 もう一つ肝心なことを書いておきたい。
 最初に、「拍手が沸き起こった」と書いた。これは、作品がすばらしかったこともあるが、最後の最後、エンドクレジットの終わるその瞬間まで、「観客の誰ひとりとして席を立たなかったし、帰る準備すら始めていなかった」からでもある。
 つまり、ふつうの映画なら、クレジットが流れ始めるとさっさと帰る人(ましてレイトショーなら!)がいるし、最後まで見るとしても、もう作品は終わった、さぁ帰ろうかという気分でそれを眺めていることが多いだろう。しかし、この映画では、全観客が席を立つことなく 「映画が終わった瞬間」をはっきりと知り、物語の終幕を共有する。演劇で、俳優全員がステージに並び幕が下りるのにも近い、工夫されたラストシーンだ。だから拍手も自然に起きようものだ。これはぜひ映画館で!


 ところで、この映画を語るサイトのどこを見ても、主演のジャック・ブラック、脚本のマイク・ホワイトについては語られるのだが、肝心の監督について語られない。めちゃくちゃ、影が薄い。何しろプログラムですら1ページの半分も割かれずに紹介されている。
 監督、リチャード・リンクレイター。リンクレイター。……どこかで聞いたことがあるような……えーっと……。

 あ。
 2時間の拷問「ウェイキング・ライフ」の監督だ。

 つまりなんだ、
 キミはムツカしいことを考えるな、と。

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2004-05-01 「アップルシード
 えーと。まず前提として、設定はかなり原作に沿っています。
 で、第一印象。「話がわかりにくいなこりゃ」と。
 ……あたし、原作全部読んでるんですけど。そりゃ、今回のために読み直したワケじゃないんですけど、その人間をしてわかりにくいってことになったら、初めてこの世界に触れる人にはどうなんだろう。まぁ、結局のところなーんも話がなかったも同然のイノセンスに比べりゃ、ストーリーもアクションも数万倍キマってて面白かったのは事実です。
 あ。そうそう、マジでラブロマンスでした。でもそれは、ブリアレオスをかなりわかりにくい立場に置いた、ということ以外では、けっこう面白い話になっていたんじゃないかと思います。少なくとも、デュナンという芯の通ったキャラクターを凡庸な造形に貶めるものではないので、その点はご安心いただければと。むしろアクションシーンよりも、ギリアム博士のイベントなど、デュナンの心理に迫る部分の方がよほど引き込まれましたよ。


 もう一つ印象として。
 自分が最近行くようになった映画評論のサイトがありまして、すごく辛口なので気に入ってるんですけど(東京原発はそこで褒めてたので見に行った。行ってよかったと思うし)、邦画の実写映画がことごとくだらしなく、業界を背負っているのがアニメという現実があるせいか、アニメの評価が甘いのが難点。ていうか「初めて見る映像表現」に甘い点をつけていると見えます。しかし、3Dにセルの色塗ってるあの表現を「映像の新たな挑戦」とか言い切られてはたまったものではない。ゲームだったらもうなんぼも出てるでしょ、あんなの。

 僕の印象では、あれは桁違いにクオリティの高いFLASHです。
 FLASHのゲームとかアニメとか大好きで、貶める気は毛頭ないです。むしろFLASHならFLASHで、ブラウザで見ることを想定したような仕掛けを組み込んでいても良かったんじゃないかなぁと思いましたね。
 2時間ぶっ続けで映像だけを見せられるFLASHなんてないじゃない? 士郎正宗の世界なんですから、FLASHアニメ的に途中でフォントがだらだら流れて解説するくらいのことをやっても、バチは当たらなかったし表現を殺すこともなかったと思うのですが。それよりは「わかりにくい」の方がつらかったなぁと。


 ただ、そのわかりにくさをさしおいても(これはデッドリーヴス同様僕の受け手としての資質の問題もあると思うのですが)、どうも全体的なストーリーのリズムになじめず楽しみきれなかったなぁというのが正直なところです。

 たとえば、映画の冒頭、デュナンのアクションシーンから始まるワケなんですが、この最初のシークェンスが飽きるほど長く、しかもデュナンがはっきりと活躍する見せ場、対人戦闘が最初に来てしまいます。この対人戦闘が終わり戦車が登場した段階で、僕の感覚ではもう「動」から「静」に切り替わってしまいました。何せそこからは、戦車に追われてデュナン逃げ回るだけですから。逃げ回って追いつめられて捕まって……このあたりで既にものすごくかったるかった。
 しかも、これが終わってから世界の説明なんかに入ってごらんなさいよ。説明不足の「わかりにくい」がさらに重なるもんですから、のっけからかなりストレスがたまりました。
 しかし、制作意図ではあの戦車の爆走とレーザー照準ガトリング砲でエキサイトして欲しかったんだと思うのです。実際、原作のこのシークェンス面白かった記憶があるし。

 そのほかにも、たとえばランドメイトの説明なんて、映画のストーリーの一部として考えれば、「乗り手の動きをトレースする機構」であることがわかれば十分じゃないですか。でも、ディテールを見せるシーンがやたら長い。もうアラートの赤ランプがついてて、何か起きたんだな、次のシーンへ進むぞ、進むぞ……というところで妙にもたもたする。でもディテールを見せてぐーっと「静」を引っ張ってアクションシーンに入ることこそ制作意図なんだろうな、とも思うわけです。
 しかし、小説やマンガなら、その行やコマに目を留める時間を調節することで、ある程度速度を自己管理できるのですが、映像はそうはいかなくて、自分としては少し厳しかったなと。


 総括して、アニメ好きなら見ないと損です。ただ、見る人を選ぶかもしれない。イノセンスが「あまりに見る人を選ぶ」だったものですから、「一般人でもそこそこ見られる作品」というイメージを持って見に行ってしまったのが失敗だったのかもしれません。メカアクションアニメなんて、ふつう、見る人を選ぶものなのにね。


 えーと。あと、テレビCMでも流れてますけど「スチームボーイ」が予告やってますね。
 ……あたしはあの「メモリーズ」でやってた作風で制作されるものだとばかり思っておりましたので、なんかフッツーのアニメになっていて首をかしげてしまいました。ていうか、予告編の限りでは「どこかで見たような」というイメージが拭えません。映像がどんなにスゴイか知りませんが、ストーリー的には「スチームパンクラピュタ+アニメ版ロケッティア(笑)÷2」でオシマイのようなんです。見に行きたくなくなる予告編てのはなぁ……。

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2004-04-17 「東京原発
 最近単館系の映画によく行くようになったわけだけども、その一つの目的は、「テレビでは見られないものを見たい」ということにある。その意味では、これほど満足のいく映画は初めて見た。向こう数十年、公共放送でこの映画を放送する勇気のある局などありはしないだろう。隅から隅まで反原発である。

 すべてに肯んじてはいない。僕なんぞはむしろ原発は賛成な方だ。少なくとも、原子力という物理エネルギーについて研究していく義務は被爆国にこそあると思う。その利用法が発電しかないというならば原発はあるべき存在だ。この映画はチェルノブイリ原発と浜岡原発を同列に並べたりすることをしているわけだし(チェルノブイリと日本の原発は発電原理が違うので危険性を等価で論じてはいけない……はず。大学時代に受けた講義に間違いがなければ)、「原子力安全委員会の松岡氏」のイカしたアホッぷりには、さすがにそれはこき下ろしすぎだろうとかわいそうになる。

 しかし、問題はこの国のエネルギー政策がイカレて欺瞞的かつ閉鎖的なことにあり、その点についてはまったく同感で、今までになかった知識を多く得られた。この映画の言うとおり、絶対安全だと言い切るなら原発は東京にこそあるべきだ。そうでないから原子力は研究されなくてはならず、また人里離れた場所になければならないのだ。推進派は素直にそう言わなくてはいけない。


 さて、政治的な話はここでおしまい。
 この映画のスゴいところは何より、そういうキッツい話題を扱いつつも説教臭くなるところへうまくブレーキをかけ、それどころかエンターテインメントとしてゾクゾクするほどおもしろいものに仕上がっていることにある。「十二人の優しい日本人」も好きだし、オレこういうの好きなんだなぁとちょっと思った。もしかして映画より演劇の方が向いてるのかな。
 しかし、これが面白いのは僕だけじゃないはず。原発賛成反対まったく関係なく誰にでも勧められる快作だ。単純な反原発プロパガンダと思われてしまったらこんなもったいないことはない。ていうか、これからのプロパガンダはこういう方向を目指さなくてはいけない。
 「ボウリング・フォー・コロンバイン」はアカデミー賞を獲ったが、この作品が日本アカデミー賞を獲るようなことがあれば、日本映画界は───いや、日本全体が、まだ救われる余地があるかもしれない。そう思いさえする。

 内容はつまり、「東京に原発を作ろう」と東京都知事が突然言い出しててんやわんやになるっていうだけの話。
 前半は、それに関する討論劇。というより、途中からは反原発論の集大成といった様相になる。
 後半は、引きこもりっぽい少年が爆弾携えプルトニウムを積んだトラックを乗っ取り、パニック寸前、というドラマ。
 こう書いてしまうと前半と後半が乖離しているようにみえるが、実にうまくリンクしている。
 そして最後に、少年が仕掛けた時限爆弾を解除するというシークェンスが入る。古典的なアイディアで、僕も「うらかたサスペンデッド」を書いたとき使って、自分なりにうまくヒネったとちょっと自信があったものだが、この作品におけるその使い方には絶対にかなわない。すばらしいの一言に尽きる。


 あと二点。
 この映画には演技派の俳優が揃っていてそれだけでおもしろいのだけれど、個人的に出色と感じたのはトラックを乗っ取る少年役(後藤昴……って、検索かけてもこの作品しか出てこない。新人?)。
 引きこもりとかいじめられっ子の少年少女が映像に出てくると、なぜかそいつらは美少年美少女で、なんか妙な才能があって救われちゃったりたりして、非現実さに気分が悪くなったりするが、この「少年」はうまい。カワイイ顔立ちなのだが、縮こまっているけど何か言いたげな振る舞いや、尊大にしてたどたどしいしゃべり方が、実際にこういう事件を引き起こしそうな感じがして実に自然だった。悪く言えば素人っぽいだけなんだけど、これが計算された演技だとしたら大物になりそう。

 それから、この作品で僕がゲラゲラ笑ったポイントがひとつある。いちおう消しておくと、「6時半」だ。話自体にはあまり関わらないが、仕掛けた伏線が鮮やかに生きる瞬間というのはこんなにも面白いのである。


 失敗だったのは、これを公開最終週に見に行ってしまったということだ。もっと吹聴したかった。イノセンスなんかより先に見とくんだった。4/23まで、新宿武蔵野館。
 何しろ、エンディングロールの最後に出てくるテロップには「2002」とある。上映映画館が決まるまでに一年かかったのだそうだ。これから公開する場所が増えていくという話だが、ビデオ化できるかどうかも知らんし、見るなら今しかないかもしれませんぞ。

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2004-03-26 「イノセンス
 いやぁすごい。想像はしてたけど想像以上でした。
 テツガク性が。
 2時間の拷問だった「ウェイキング・ライフ」に匹敵するコムズカシさです。
 クライマックスのバトルシーンを見ながら「ブラックマジックM-66」のことを思い出してました。娯楽としてのアニメのキレ、迫力なら、ブラックマジックのほうが上です。20年近く前の作品だぜ?
 士郎正宗作品は、小難しいギミックをたくさん取り込んでも、面白く魅せようとする娯楽の本質を見失ないません。だからいいんです。5年前のもそうだったような気がするけど、押井守の手にかかると、何でその肝心のところが壊れるのですか。
 つーわけで娯楽を期待する方は絶対見に行ってはいけません。退屈で死にます。上質のCGを見たい人と(キレイはキレイ。これはもう比類なきクオリティ)、何か箴言並べてもらうと俗世間超えてるっぽーい、な哲学ヲタだけが、DVDになってから見ればいい作品です。生命哲学おおいにけっこう、それを映画館という巻き戻しのきかない世界で整理つけて理解できる人がこの世にいるんならね。
 レイトショーの1200円でつくづくよかった。

 帰りで同じ電車になった人たちが漏らしてた感想。「アニメはほどほどにね、って映画だったねー」言い得て妙。

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2004-02-05 「デッドリーヴス
 見てきました。

 総じて……なんか足りないんだよね。
 この映画の制作者たちに、彼らが『認められた』と感じるであろう最もふさわしい言葉は、「カッコイイ」でも「おもしろい」でもなく、「ツキヌケテル」だと思うんですよ。
 でも、この映画は、カッコイイしおもしろいんだけど、お世辞にも「ツキヌケテ」いない。その評価は、下せない。
 悪くはなかった。ってゆーか10人見たら9人まではめんたまと脳みそぶっ飛ばされると思う。1秒たりとも目が離せないすんげーハイスピードですんげー動画の枚数使っててテカテカにカラフルでテクノでアニメで下ネタで超絶に圧縮されててあれで52分とは信じられん。
 でも、僕は10人のうちのひとりにあたってしまったらしく、なんか脳内弾けられなかったんです。
 制作スタッフが推奨するように酒を飲んでいなかったから? NO、あんなの酒飲んで見たら吐く。
 8年前だとか復讐だとか芋虫だとかいらねーストーリーをわざわざくっつけてたから? んー、それは少なからずあると思うんだが、こーゆー映像主義の人たちの「なぜか意味深なストーリーをつけたがる病」は今さらわかりきってる話で、それにしては、この作品は必要最低限に抑えられていて良心的だったと思う。
 
 何でかなぁって考えて、マジで30分くらい考えて、ひとつだけぴんと来た答えがある。

 この作品は、単純にいうと宇宙空間にある刑務所からの集団脱走を試みる、ってだけの話。しかし、出てくるキャラは全部クローンなのだそうで、ハッキリ言って主人公+ち○こドリル以外はみんなザコ。ザコは肉塊になり血飛沫になり金属屑になるのが定め。
 最初、囚人たちが主人公らの周りに集まってきたときには、どう見ても仲間になったメンバーは30人がトコなのね。でも、たぶんやられたザコの数は1000を超えると思う。
 やられればやられるほど敵も味方もオヤクソク的にどんどん補充されていって、どんどん薬莢があふれてどんどん血と肉と屑と化していく、前半戦はそこらへんの破壊殱滅のカタルシスに、うひょううひょうだったわけですよ。

 僕はこの勢いで突っ走って欲しかったんだ。
 でも、オヤクソクで進んだからにはオヤクソクで終わってしまったわけだ。
 ザコ戦の後にはボス戦があるのですよ。
 それが素直な流れであるのはわかるのだけれど、あの破壊殱滅の後に、サシのバトルなんか見せられたってしょーがなかったんです。物語としては、中ボス大ボスラスボスと、だんだん話は大きくなり盛り上がっていくわけですが、見せられる映像はどんどん細かくなりしょぼくなっていくのです。で、ボス連中は結局、こんなところで何が配慮されているのか、(この映画としては)とてもキレイにお亡くなりになられるのです。
 それまで常時スクリーンからはみ出す勢いの映像だったのに、最後はきっちりスクリーンという枠の中に収まっちゃうんですよ。何つーか、この人たちも「型破りという型」から抜けきれてないんだな、と。
 惜しいというかなんというか、おもしろくないわけじゃないんだけど、うーん……と首をかしげてしまう、爽快感に向かおうとする気分にブレーキがかかってしまう、その時点で、この作品は僕的には駄作であったと言わざるを得ません。


 あとね。この映画、音楽がすごくいいのね。
 そんで、見終わってプログラム買おうと思ってカウンター行ったらCDが置いてあるのね。「音源瓦盤」つって。500円で。
 サントラがこの値段で買えるんなら儲けもんと思って買ったんですよ。
 そしたら、ジャケットよく見たら、「完全版サウンドトラック5月発売」になってるんですよ。
 なんだー全曲入ってるんじゃないのかー、まぁ500円やし、2、3曲くらいで上等なんかなーと思いましたわね。まーしゃーねーか、と。
 そんで家帰ってCDプレーヤーに入れてみますわな。

 1曲しか入っとらんかった。サギ。

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2003-11-29 「東京ゴッドファーザーズ
 見てきました。
 他愛もない話です。日本中のストーリーテラーに、「命」をテーマにネタを十本ひねり出しなさいと宿題を出したら、全員が大なり小なりこれと似た話を提出します。本当に、物語の大筋を知りたければチラシのあらすじを見れば十分、どんでん返しもはぁそうですかってなもんで、食い飽きたと形容してもいいくらい、野暮ったいストーリーです。
 前作「千年女優」も見ましたが、この今敏という監督の魅力は、それでも一分のスキもない、目を引いてやまない、直球な題材を前にして野暮なんてまるで感じさせない、そんな演出ができる点にあるのだと思います。
 さらに、話だけ見ればアニメにする必然性なんかこれっぱかしもないんですが、仮に俳優を使ってドラマにするとしたら、ワンクールあっても足りないかもしれない。アニメのひとつの特徴であるスピード感で、ひたすら物語を圧縮して詰め込んで破綻をきたさない、そのことをもって「奇跡」といえる作品です。
 ただ、逆にややごちゃつき過ぎの印象を持つ人もいるかもしれないし、そんなごちゃつき気味のまま多くの部分はケリをきっちりつけられず、考えオチ的に残されて終わります。ここは意図的なもののようですが難点と受け取る人もいるかも。特に、ハナちゃんの行く先は想像つけにくいですね。

 あと、この作品を見に行った理由の大部分は、「江守徹が声優をしている」ってとこにあったのですが(個人的にちょっと思い入れがあるもので)、むしろ彼は浮いてて、それよりは梅垣義明のハナちゃんがよかった(素を出しただけかもしれませんが)。彼女が歌を歌うシーンでは、なんでピーナツが飛ばないのか不思議でしょうがなかったです(笑)。

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2003-11-08 「文学フリマ2」
 11/3 に行われた文学フリマに参加してきました。今回は売り手としてです。

 世代が大幅に若返っておりました。タソガレオヤジ部屋はタソガレていませんでした。ていうかタソガレてたの、オレ。逆に、前回も元気だった、タソガレてないオヤジ陽気な壮年の方が一冊五円で売ってる隣になっちゃって、オレ立場なし。
 安保世代らしき彼の本を読んでみましたら、自分のと違って確かに文学。決してつまらないものじゃない。彼自身『山椒魚』にも比するような宣伝文句を並べていたとおり、……ていうかこれ『山椒魚』そのもので、岩窟を水槽に変えて凡庸にキャラ増やしてみただけのような……。あぁいう「情念を含んだ文章形態=文学」って式が脳内で作られているみたい。

 さて、若返ったのはいいことだけではなく、一般参加者の数がかなり減っていた感じでした。学生中心に実行されたとおぼしき今回は、告知の範囲が前回に比べて段違いに狭かったであろうことは容易に推測できます。前回の混みすぎ+ブンガクブンガクな雰囲気に比べると、普通の小規模即売会に雰囲気が近くなっていました。もっとも、他の即売会と比較するなら、(会場の立地的に)途切れず一般参加が入ってくるっていう時点で万々歳なわけですが。

 ただし、その一般参加者、隣のオヤジ壮年の方も嘆息されてましたが、なんつーか無機質な感じが否めませんでした。客層が明確に違うっていったらそれまでなんですが……去年一般参加で歩いてた自分もそうだったんかな。
 見本誌ない空間なのに、表紙も見ていかないってのはちょっと恐いね。ものすごく狭い空間なのに、1メートル離れたところをそろーっと通過されてもなぁ。
 何しろこっちから呼ばないと絶対本を手に取らない。フリマというより、どうやら「本屋で陳列されている本を眺めている」んですね、彼らは。手ごたえのなさはコミティア以上だった気がする。
 そして、もし手に取ってもらえて、かなり時間をかけてじっくり眺めてもらったとしても、置いて去っていく人が多かった。それは、立ち読み感覚の人が多かったと同時に、プロの本と比較されていたのだと思います。レベルの違いです。ファンタジー書きにはやや辛い空間だったのは事実(姫リバースはほとんど手にとってもらえなかった)ですが、やはり、自分の到達しているラインがこれだけの文章書きの中に入るとまだまだ低いといわざるをえないんでしょう。

 辛い空間という意味ではハード的にも辛かった。出入りするのが困難なスペースに押し込まれたから思うのかもしれないけれど、とにかく狭くて通行しにくい。あれ、コミケみたく防火基準にきっちり準拠したら開催不能でしょうね。青山ブックセンター(ABC)という会場では限界がありそうですから、来年はどうなることやら。
 それでもぐるり一回りだけはして、「翼人世界記」やっと買いました。いつかは読みたいと思っていた一冊です。読むのはしばらく先になりそうと思いつつ、少しだけ読んでみましたが、相当に広いワールドを作り上げていながら、不要な世界説明をばっさり切り捨てつつ、物語には不要なちょっとした描写が想像力をぐんと広げてくれる、好感度の高い作品です。ていうかシルクラセン萌え。

 閑話をひとつ。
 途中でスタッフが各部屋を回って出店者にしていた注意。
 「ABC本店で、両替目的で一万円札を使って買い物をするのは止めてください!」
 みんな即売会に慣れてないのね……。こちとら、周囲が慣れてないだろうと踏んで、つり銭二万円分持ってったのに(通常は一万円分しか持っていきません)。

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2003-10-05 「秋の総括」
恒例・アニメインプレッション秋の最終回総括。
ヲタネタ・ネタバレ上等。

宇宙のステルヴィア
 なんか……締まらない終わり方だったな。
 なんでそう思うのかな、と考えると、おおよそ見当はついてます。こうたくんの処遇がよくない。登場時からジェネシスミッションが始まるまでのこうたくんは非常に魅力的でした。なぜなら不思議なほど「安定」していたから。終わってから考えると、「だから」こうたくんはDLSが扱え、しーぽんは扱えないためにこうたくんにコンプレックスっちゅうかアイデンティティの危機ちゅうかプレッシャーを感じて、ともかく二人はうまくシンクロできないってとこがドラマになったわけですが。
 はっきりいって、ジェネシスミッション後半はこうたくんも相当「不安定」になってしまっていました。しーぽんは、もともと「不安定」が魅力で、その振幅が大きくなっても、これからどうなるんだろうって見ていられるんですけど、それまでのこうたくんは「安定」が魅力だったので、彼が不安定になると「悪人」「甲斐性無し」のレベルまで落ちちゃって見てらんないって感じでした。
 最終回でようやくキメとなって、DLSこそが彼の不安定の要因であることもはっきりするわけですが、そのキメがこうたくんの失墜した魅力を回復させるにはいたらなかったというのが本音です。そうするとこのふたりの仲自体どうしても「うまくいった」と思えなくて。ぶっちゃけ、これはふたりが別れて別の道を行くんだよってラストに進めるんかと思ったもん。

 でねぇ。なんでここまでこうたくんが転落したか、と考えたとき、たぶんこの話ってシリーズ構成自体に何らかの失敗があったと思うんですよ。
 グレートミッション終了までのダイナミックな展開に比べ、それ以降って妙に展開がちまちましてとろかったような気がするのです。ストーリーも、地球の危機や学園生活よりしーぽんこうたくんらぶらぶ話やその周縁にフォーカスしてしまって、まぁそれはそれで楽しめた人もいるでしょうが、グレートミッション時の人類全員団結して危機を乗り越えろ! の文字通りのグレートさに比べるとあまりにちっちゃなことです。
 つまりね。
 本来の構想では、グレートミッションの後、明確に「ファウンデーション間の抗争が起きる」という段階が用意されていたと思うのです。その上でウルティマ危機が起きて再びファウンデーションは団結、ジェネシスミッションになって大団円という流れだったのではないかと。「抗争」という話は実際にもちょろっと出てきたんですけど、「緊張」にとどまり実際に戦闘機が飛び交う事態には至らなかった。
 むろん推測です。しかし、ウルティマ危機からジェネシスミッションまでの異様な間延び感はそうでもいわんと説明できない。で、全体の話の大きさよりキャラクタ個々のお話でむりやりつないだのでしょう。しかもぎりぎりまで崩れた話を乱麻断って解決するのはグレートミッションと同じくおかーさんでした。
 きちんと一本の線につないだことは評価したいけれど、どーなんかなこれ。グレートミッションを観点変えて2回やっただけにしか思えん。

 そんな中で、話が間延びしてキャラクタ個々の話が濃くなったがゆえに、すばらしい活躍の場を与えられたキャラがおります。ジョジョとあきらちゃん。どうしてもとんがってしまうあきらちゃんと、どうしてもおちゃらけてしまうジョジョと、この凸凹コンビのケンカするほど仲がいい進展っぷりにはホント年甲斐もなくどきどきしました。
 恋愛ものとしては、しーぽんとこうたくんの組み合わせはどこか似たもの同士で、紆余曲折含めてもすんなり収まりそうでした。その陰で、全然異なる性格のふたりがお互いの欠けたピースを補い合う、っていう展開を実らせていったのはスゴイの一言でした。それどころか主役同士の恋愛のアドバイスまでしてしまうという。理屈じゃないねー、こういうとこ。
 だから、手をつなぐだけで終わりにしやがってコンチクショーです。


ラストエグザイル
 コレもぶっちゃけ締まらない終わりだったなぁっていうかなんていうのか、艦長死ぬのかよ! ディーオ死ぬのかよ! そんで、モラン死んだんじゃなかったのかヨ!
 そもそも、この作品にエグザイルって必要でしたか。ギルドとの戦闘さえ収拾つけばいい話になっちゃったんですから、キレーな宇宙船が出てきてもソレが何? って感じですがな。
 ホント、何だったんだろうねこの話。
 個人的には、画面にスーパーが出て、ここはどこです今はいつです今映ってるのは誰ですっていう説明をいちいちされるのは嫌いです。この作品の制作者もそれが醜い処置だと思ったんでしょうが、この作品に限っていえば、どうやってそれなしに理解せぇというのでしょう。
 ほとんどの専門用語について無説明。後から説明されんのかなーと思ってずっと待ってたのにノーケア。「ユニット」が何なのかわかった人、視聴者の10%以下だったんじゃないんですか(各国の戦艦のエンジン部分がギルドに支配されていた、という理解で合ってる)?
 その攻略という後方支援がなぜ行われているのかまったく意味不明だったから、ドゥーニャとモランの小さなロマンスもまったく無意味に落ちました。ていうか、アナトレーとデュシスが対立してるって話はいったいどこら辺から出てきたんでしたっけ? それがわからんかったからエンプレスソフィアの立ち位置も無惨。
 結局、「話がどんなでかくなったところで本質的にキャラもの」ということで、やっぱりこの話はファイナルファンタジーアンリミテッド2に認定。ウィナって、最初から萌えキャラとして前面に出してくれればよかったのにぃ……。


ガンダムSeed
 最後のキラのセリフ、「どうして僕たちはこんなところに来てしまったんだろう」に、めちゃくちゃ救われた気がします。これが、終わったぜイェーイだったら、どうクソミソに書いてやろうかと手ぐすね引いていたんですが。……彼氏を一瞬で殺されてそれっきりのマリューさんには気の毒ですが、後日談一切無しのこの切り落としは正解。
 というより、制作側はおそらく、ブルーになるからはっきり書かなかったものの、「クルーゼの主張が正しい」を基本的な結論としているのでしょう。キラとアスランによって直接的な破滅からは一時的に逃れたものの、「クルーゼが示した醜い人類像を、この作品で描かれた若者たちは今後打破しうるのか?」という答えを一切出さずに終わらせつつ、しかし入門少年ズには「それでも世界は変えられる」とか淡い希望を抱かせるに十分なラストシーンだったと思います。
 偉いです。それならこの不愉快極まりない無茶苦茶な話も納得がいきます。

 どれくらい無茶苦茶か?
 つまりこの戦争ってこうでしょ→真珠湾攻撃(血のバレンタイン)で始まってカミカゼ(ピースメーカー)と原爆(ジェネシス)が交錯して終わり。本土(地球)さえ救えれば沖縄(アラスカ、月)がどうなってもいい。スゲー!
 そんでもって、そういう不毛な戦争を終わらせるんだといって「対立軸から外れた第三者が軍事介入」したわけじゃないですか、結果的には。しかも彼らの持つ強力な武装自体が戦争エスカレートの火種になってるんですから、最低ですよね。ブッシュがのさばるわけですよそりゃ。
 この世は同じことを繰り返し、憎しみの渦を滅びへ向かっているんです、若者たちはそれに巻き込まれていくだけです、そういう答えなら万事OK。

 個々の展開は、青少年入門用と割り切って見ればそれなりに面白かったと思います。そのほとんどに答えを出さずにほったらかして終わったのは、マジ同人需要喚起のような気がします。アナザーストーリーとかアフターストーリーとか書きやすそう。
 だからフレイごときがラストにお立ち台に上がるハメに陥ったのかもしれません。だってフレイって同人的には18禁専用のよーな気がするもん(笑)。今後キラがらみで何か書く人が混乱しないように、こいつだけは制作側できっちりカタをつけたんじゃないかと。
 あと、個人的には、アズラエルとザラ議長の死に方は逆じゃないかと思います。戦闘で艦砲の直撃を受けて死ぬのが議長、味方だった者の銃弾を受けて死ぬのがアズラエル。つーかアズラエルが「即死」で納得できる? あのヘタレヤク中三人組って、「アズラエルを可能な限り屈辱的に殺す」ために登場したんだとばかり思ってたのに。

 でもねぇ。
 ファーストガンダムの最終話に感動できるのは、すべてのストーリーテラーが一度は口にするあまりに単純な真理(ひとことでいえば、「僕には、帰る場所があるんだ」)に、一年かけて丁寧に魂を入れた結晶として挿話されているからです。あくまで主眼はアムロの成長であり、そのための「戦争」というファクターであって、あの話(ていうか当時の戦争アニメすべて)は戦争の是非など問うていない。小中学生に戦争の是非だの人殺しに赴く心情だの確認させてどーすんのよ。
 彼らにはそれ以前のセンシティブな世界がある。彼らは、兵士であること、人間であること、自由であること正義を考えること、そんなことはすべて差し置いて、『ニュータイプ』だから価値があるんでしょう。そこんとこを自由なタマゴとして認めない文化が日本をダメにする。否、もうダメになった。今はそこからのリカバリを目指す作品が求められている(と僕は思う)のに、クリエイターの知能や時代感覚は1979年の富野を超えられないのか。なめんなよ。
 もう一回書くぞ。バンダイはこれからの上得意を下僕に染める前に、まず経済力のある一人前の大人に育てる努力をした方がいいんじゃないのか。


テクノライズ
 第一話にセリフがほとんどないという、「コレがザ・映像表現」みたいなカンチガイ演出にいったいどうなることかと心配しておりましたが、サイバー極道モノ、としてみれば、吉井のおっさん死亡の前後までは、意外にきちんとしっとり話を進めてくれた佳作。
 でも、結局オルガノを中心とした対立構造は全部崩壊して「巨悪」の登場に収斂させてしまったうえ、義理は血より重くてナンボのストーリーで実の父親がどーのこーのなんてコトまで持ち出してしまい、超のつく駄作に転落しました。アホらしい。だからナースウィッチ小麦ちゃんのCMにまでバカにされるんだ。
 自分的な見所は最終的に、「大西さんスキスキ秘書姉ちゃんが本懐を遂げられるか」の一点しか残りませんでした。しかし、別の意味で本懐を遂げちゃってあぼーんです。声優陣の中で異彩を放った古波蔵さん=大塚芳忠の好演まで、無様なシェイプス化で台無しです。
 で、この作品、主役の名前が結局覚えられなかったんですが、誰だっけ。

 あと、フジテレビは深夜にアニメやるのもう禁止。馬鹿にしやがって。


ガドガード いいの、アラシたんさえいればそれで全部チャラ。
ディアボーイズ いいの、さとみちゃんさえいればそれで全部チャラ。

アソボット戦記五九
 ふっつーに見れば、ダメダメでグダグダだったこいつがよく一年続いたものだと思いますが、それを踏まえてけっこう好きでした。自分の場合荒野モノってだけで評価が一点上がりはするのですが、グダグダだったわりに、構成とかキャラの立ち位置はきちんとツボを押さえていて、進むべきところで進めるべきキャラが話を進めたので、安定株マイナスアルファって感じでしたね。
 ……即再放送すんのかよ!

カレイドスター
 見てない人は絶対損した新世紀スポ根。控えおろうスポ根であるぞ。スポ根にしては、主人公の才能が最初から異常に高いのは現代風? 「課題」のクリアが異常にあっさりしてることが多かったのが難点かも。でもスポ根という平成ではもはや絶滅しかかったジャンルを、題材とストーリーの工夫できちんと料理した手腕に素直に「最高の喝采」。
 ……て、え、まだ続くのこの話?! どーやって?! 素直に幻の大技の完成で終わりにしておけばいいのに……。メダロット魂みたいにヘタレなきゃいいけど。

 もうひとつ、この作品でオッと思ったことがあって。準レギュラーで、大森玲子、あびる優っていういわゆるアイドルが声あててるんですけど、これがけっこうよかった。乙葉みたくもともとが癒し声というのでなく、完全に素人で、普通にセリフ言わせたら目も当てられない始末になったのは火を見るより明らかだったんですが、うまかったのは役柄のセレクト。
 「ライバル(レイラ)の取り巻き」なんですよ。現状にぶぅぶぅ不満を言うだけ。加えてライバルに主人公がやってることをチクるだけの役回り。こんなキャラに感情移入したくないんで、逆に素人声がうまくはまるという。で、ライバルが主人公の実力を認め融和していく過程で、このふたりも物語にすきっと収まっていくのです。考えたね。

 しかし、女の子がタイツ姿で股おっぴろげるのがデフォルトだったこの作品、テレ東基準の盲点?


 総じて、
 なんかホント、今回はすんなり納得がいって素直に感動できる作品がひとつもなかった。つまらん。混乱を起こすだけ起こして収拾のつけられないってゆーのはナシにしてくれよプロなんだったら。わんこ(ウルフズレイン)も何じゃソレだったし。エアマスターがいちばんマシだったかも?

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2003-08-28 「宅間守を死刑にするな」
 たぶん一般的にはとても不謹慎で短絡的で眉をひそめたくなるようなことを書きます。OK?
 でも、自分にとっての重要なテーマでもあるんだよ。


 宅間守が死刑判決だそうです。このまま死刑になるでしょう。日本の法制度はそういうことになってます。
 どうしてこうなるんでしょうね。現在の日本では「罰」を与えるというシステムが正常に機能していないという話がありますが、死刑になりたいと言っている奴を死刑にしたら「刑」にはなるかもしれないが「罰」にならないでしょうに。
 なんでも、死刑囚は「死刑にしなければならない」のだそうで、つまり死刑執行までに発狂したり自殺したりしないように、他の囚人とは異なる腫れ物に触るような特別扱いを、刑務官側が強いられるのだそうです。
 宅間守、幸せでしょうね。まさしく本望でしょう。彼の精神状況はなんとなくわかります。彼は事件を起こし騒動を起こすことで周囲の目が「特別な存在」として自分に向くことを理解しているのでしょう。彼は殺人鬼ではないのです。自分が注目を浴びるための手段として殺人が適切だと考え、8つの命は単なる道具です。ていうか、8つの命に関わり彼に関わって、ぎゃあぎゃあ非難の声を浴びせる人たちが道具です。
 その選択の重さについて、彼が彼自身に課した覚悟はたぶん、ミラクルおじさんがヒシミラクルの単勝馬券1200万円を買うような行為と同等だったのではないでしょうか。あるいはそれより軽かったかもしれません。
 端的にいえば、アンチヒーローこそが自分の使命と信じているのでしょう。アンチヒーローの結末ったら死刑しかない。彼は彼にとってよりよい人生を選び取ることに成功しました。その人生のクライマックスに向けて、たとえようもない高揚と快楽を感じているに違いありません。
 トリスを飲んでハワイへ行こう、8人殺して死刑になろう。ねぇ、この世からおさらばしたくなったとき、自殺するのと死刑になるのとどっちが幸せ?


 僕は死刑容認です。死に処する刑罰はあるべきです。ただし、「国が殺人を認めてよいのか」という議論には参加できない、根底の違う容認です。
 死刑は「命を奪う」刑だと考えるから何やら宗教くさくなるのです。最高刑は「基本的人権を奪う刑」と定義づければよい。その刑を宣告された時点で、あらゆる権利が認められなくなる。生きる権利はなく、文字通り畜生にも劣る存在としていかように扱ってもかまわない存在になる、そんな刑を制定すればいい(憲法から変えなきゃいけないのでまずムリですが)。
 その場合、安楽死に処すというのがいちばんラクチンです、生かしておくのもひとつの手です。そこでどうするかが裁判のしどころです。そう考えると昔の刑罰というのはバラエティに富んでますよね。さらし者にしたっていいし、拷問にかけたっていい。
 いちばんいいのは何もしない/させないことかもしれないです。五感への刺激を完全に絶つように、色がなく空調された何もない部屋に閉じこめておくと、人間は2日で発狂するそうですよ。

 むごいですね。
 でもそうじゃないでしょうか。そういう刑が実現するかは別として、「その社会が受け入れうる、対象者にとって最もむごい仕打ち」が、法治社会が与える最高刑罰の真意でなくてはならない。違いますか。日本という国において、たとえ子を殺されたとしても、その刑が課されるならば納得しなければならない、最もむごい仕打ちって何なのでしょうか。それはまったく一律に定めるものですか。
 死刑に関する議論って、そこから始まるのでしょうに、この国の法律は硬直的なままその前の段階でけつまずいているようです。死刑になるための言動を繰り返す人間が死刑になるのが「むごいこと」ですか。年間の自殺者が三万人いる国で、強制的に死を与えることを単純に重刑と決めつけていいのですか。
 しかも今の日本の死刑は、誰にも見えないところで完全に隠蔽された状態で、決まりきった方法にのっとってひっそりと行うだけ。老衰の大往生と何が違うんでしょう。いやぁ宅間に言わせれば湿っぽいのはいやだからもう少し賑やかにやってほしいなんてことになるかもしれませんが、それはちょっと贅沢じゃないですかね。


 いいんじゃないですか、衆人環視の中で石抱きとか。磔にして鳥に内臓食わせるとか。むごいことを考えるのって、人間、意外と得意だったりするもんですから、冷静に現実を見据えて議論すればきっといい考えが浮かぶんじゃないかと思いますけどね。

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2003-04-06 「魔法描きに大切なことアフターケア」
 イラク戦争の余波で肝心の12話を見損ねました。だから正当でないかもしれません。
 しかしそれをふまえても、この話は結局、

 魔法を使わなくても100%同じ趣旨の話が書けたと思います。

 単純に人情モノとして考えれば、絵のきれいさも相まってまぁまぁのアニメだったと思うんです。
 魔法を使わない回の方がおもしろかったもんな、実際。
 サイレントメビウスのおとなしめアレンジではなくて、それはまぁ幸いでした。

 しかしそれ以前に、使えないキャラ、使わないキャラ、浮いてるキャラばかりあんなにたいそうに期待させまくりで取りそろえて何をしたかったのか。まともに「使って」もらっていたのがユメ、雅美ちゃん、アンジェラ、百歩譲ってケラの四人だけ。
 マジ言っていい? 第一話と第二話があまりに意味不明で苦情殺到したから、つじつま合わせるために、本来他のキャラと絡める予定だった構成ねじ曲げて、善之助ラストに出したんじゃない?(でも、あのときどういう魔法を使ったのかは説明なし)

 ついでに、なぜおジャ魔女どれみが「人の心を変える魔法」を禁じていたのか、制作陣は小一時間自身を問いつめるべきでしょう。あのクライマックスは事実上の反則です。つーかそれは『指導官』である雅美ちゃんがいちばん危惧すべき魔法です、喜んで受け入れてどーすんだ。
 数多くの書き手が、『現実に、人の心を揺り動かすための言葉』を、どんなに苦労して紡いでいることか。魔法って便利でいいね、まったく。
 期待しすぎだったなぁ。

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2003-03-22 「ロード・オブ・ザ・リング〜二つの塔」
 ちょいと縁あって、
WeLFAの義忠さんと映画館。
 いちおうネタバレ……になるかな? やばそうな所は字色を変えてあります。


 見て、最大の感想。
 サルマンの軍勢が1万で? ヘルム峡谷の手勢が300で? エオメルの率いていた軍勢が数千??

 てめぇら、算数ができねぇのか(笑

 これはむろん誉め言葉であります。
 桁ひとつ違うよ。いや、たぶんふたつ違うよ。すげぇよ。うじゃうじゃいるよ。良くここまで細かいザコどもを動かすよな。
 この桁の違いはまさしく桁違いというものであってなんの瑕疵でもございません。サイコー!
 戦争とはこういうものなんだよ。Heyジョージ、聞いてるかい?

 しかも視点は一点に絞られず、乱戦の全体像をバードビューで描きつつ、局地戦へもていねいに目を配る。アラゴルンは剣を振り、レゴラスは弓を打ち、そしてギムリは、投げられる。……ギムリは狂言回しってわけじゃあないはずなんだが、ま、いーや。
 個人的にいちばん気に入ったのは、「石橋上を突進してくるファランクス部隊を騎馬勢が蹴散らしてことごとく石橋から叩き落としていくシーン」これを上空から見下ろすっていうのはなかなかすさまじい光景でした。

 今回は作劇的にも、三方向に分かれた物語が、ヘルム攻防戦・エント突撃・対ナズグル(inオスギリアス...原作って、オスギリアスに入ったことなんてないよなぁ、一度も?)と、それぞれのクライマックスを持っており、かちっと締まっていたのではないかと思います。

 ゴクリは個人的にあの原作イラストの半魚人イメージが強いせいか、イマイチぱっと受け入れづらかったのですが、エントも含めてとうていCGとは思えない溶け込みようで、素晴らしいとしかいいようがありません。生きてます。彼らは確実に生きています。ただ、限られた会話の中で、サムがゴクリをすぐに「信頼できない奴だ、嘘つきだ」と決めつけたこと(まぁ不快な見栄えですけど、サムとゴクリはここが初対面のはずだから、あれだけで嘘つき呼ばわりはちょっとなぁ。むしろあの展開なら、死者の沼地で主人を助けたゴクリには、嫌悪ではなく嫉妬を見せるべきでは?)や、ゴクリ=二重人格という簡単な表現になってしまったことがちょっと気になりました。ゴクリはどこまでもどこまでも「指輪に一途」であるからこそ、いろんな感情、いろんな表現を見せるのであって、二重人格なんかにしちゃったら、火口のシーン、どう話をまとめる気でしょうか。
 予告でやってたマトリックスの続編が、ここらへんの「虚構の生命観」を超えられるのかどうか、ちょっと思ってしまいました。

 ものすごく気になったこと。
 原作の区切りからみて、かなり早い時点で終わるという話は聞いてましたが、せめてオルサンクでのサルマンvs.ガンダルフの掛け合い+グリマのパランティア攻撃まで話を進めなくて良かったんでしょうか。ていうか、今回がヘルム峡谷の戦闘一本で、アレとアレを次に回すとして、……どうやって「王の帰還」を3時間で終わらせる気でしょうか。はっきり言って、全イベントをやっていたら、ムリです。ていうかそもそも、ヘルム峡谷であそこまでやってしまったら、ミナス・ティリスの決戦どーすんのよ。
 てことは、本当に「王の帰還」で終わりということでしょうね。あのとても優しい、真のラストシーンの分まで、サムは今回演説をしてしまったということかもしれませんね。残念ながら。

 余談。
>関係ないが、ダムから流れてきた水でどさくさにまぎれて火を消してるエントの人がウケた。
 オレも〜。

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2003-02-20 「ボウリング・フォー・コロンバイン」
 僕はしがない同人物書きに過ぎないが、それでも表現に携わることへの自負はある。表現するという行為を、愛し、称え、尊重したいと思う。
 けれども、ひとつ譲れないポリシーとして、僕は『表現の自由』を信じていない。少なくとも、『憲法で表現の自由が認められているから』という理由で、憲法がなぜそれを自由とするのかその手前で思考を停止したまま、『何を書いても自由だ』という論調を肯んじる輩と手を取り合うことはできない。
 なんとなれば。
 極論であることは承知している。根差す土台が違うことは承知している。
 しかし僕はこう思う。
 表現であれ何であれ、憲法を盾にして自由を謳歌する者は、アメリカが核兵器を持つことを当然認めなければならない。服部剛史さんのような犠牲者をしかたのないこととあきらめなければならない。
 なぜなら、アメリカは憲法で武装が認められているからだ。

 (注・ほんとうは認めていないそうだ。民兵の存在を認める条項を、個人の武装自由と拡大解釈しているだけ。日本の第九条と自衛隊みたいなものかな)。

 「ボウリング・フォー・コロンバイン」は、コロンバイン高校の銃乱射事件を軸に、アメリカの銃蔓延の状況について詳説し、どう対処すべきかについて一定の結論を導いた意欲的なドキュメンタリー映画である。その結論へかなり恣意的に引っ張っていった感も強いが、それ以上に編集や作り込みがリズム良くおもしろかった。なるほど映画監督の魂というモノはここにあるのかも知れぬ。

 アメリカでは一年に一万人を超える銃の犠牲者がいるそうである。
 この映画ではおもしろい対比を行っている。カナダである。カナダはもともと狩猟が盛んな国であり、銃の普及率も高く、アメリカと同じように銃がどこでも買える。人種もアメリカ並みに入り交じっているし、失業率はアメリカより高い。
 しかし、カナダでは一年間に射殺された人数は165人。デトロイトの川を挟んで向かいにあるウィンザー市でも、三年間で銃による殺人事件が一件、それも犯人はデトロイトの人間だったそうだ。
 それどころか、カナダの人間は家に鍵をかけない。監督はマジで抜き打ちで家の扉をばんばん開けていき、中の家人に挨拶をして回る。カナダ人は言う、「閉じこもることの方がよほど恐ろしい」と。
 では、アメリカでは銃による殺人がなぜ起きるのだろうか? そして、悪意から自分を守り家族を守るためには当然のことと、家に鍵をかけ枕の下に銃を置くのはなぜなのだろうか?

 その答えは比較的シンプルだ。僕は納得した。映画を観て是非その回答を確かめてほしい。恵比寿ガーデンシネマで3月上旬までやっている。
 けれど、それがアメリカにおいてのみ極端であるというのは、不思議にも思えるし、イラクや北朝鮮への態度を鑑みると、当然のことのようにも思える。


 僕には人が人の死を悼む感情がまだよく理解できない。けれど、人が人を傷つける痛みならわかるつもりだ。「苦痛を与える行為」について表現するものは、それが事実であれ虚構であれその重みを常に意識しなければいけないし、そこにある加害、被害どちらにもあるはずの感情の揺動を、機微の段階から斟酌し、表現という行為によって得られるさまざまな喜びや利益と釣り合うものかどうか、自問する努力を怠ってはならない。
 そしてそれを怠った結果その表現が生み出し、受け手や社会に与える恐怖や不快や悲痛の感情に、表現者は責任を持つべきなのだ。『表現の自由』とは、その怠慢に対する免責ではない。

 アメリカと銃の関係だけではあるまいよ?
 そして人間は結局のところ、"ボウリング・フォー・コロンバイン" から目をそらすようにできているんだろう。

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2003-02-07 「古き良きあの時代の」
 今日の帰り道。とーとつにゲームがしたくなった。しかし金はあんまり使いたくない。
 行きつけの、笹塚近くのゲーセン。ドリラーとかコラムスとかワンコインでもそこそこ遊べるゲームがあるので助かる。
 確か、こないだ行ったときには「タンブルポップ」が置いてあった。しかも100円2ゲームだ。あれなら2クレジットあれば僕ぁエンディングまで行ける。
 しかしあそこはホントにみょーな品揃えするよなぁ。エアバスターとか大魔界村とかサンダーゾーンとか海底大戦争とかトライゴンとか豪血寺一族とか通好みのばっかり、思い出したようにひょっこり置いてくれるんだよなぁ。
 うん。ほな、タンブルポップでもやりにいこか。
 いそいそ。地下へ。
 あれ、ここに置いてあったアウトフォクシーズが消えてる。何に替わったのかな??
 ……。
 ……。
 ……!
 ……!!

 ザ・グレート・ラグタイム・ショー!!!


「ザ・グレート・ラグタイムショー」1992 データイースト。
 今はなきゲーム会社データイースト通称デコ。硬派で知られたデコが打ち上げた、シューティングゲームというジャンルにおけるひとつの終着点。同時に、コアなファンの多いデコゲーの中でも、伝説度の高い作品。市場への出回りが悪かった上に、未だにコンシューマ機に移植されていない。
 古き良き時代のアメリカを舞台にして、複葉機に乗って戦う横スクロールシューティングだが、機体尾翼にフックがぶら下がっていて、何でもかんでも引っかけて敵に投げつけることができることが特徴。
 さらに、機体が破壊された後はパイロットが地上を走る。引っかけて投げつけられるもののほとんどは、パイロット状態の時は持ち上げて投げつけることができる。しかも、それらの一部は乗り物で、次々乗り換えながら戦闘を継続することもできるのだ。このあたりは「ウルフファング」を彷彿とさせ、また、今をときめく「メタルスラッグ」の原型ではないかと思えるシステムであるが、メタスラなど鼻毛で蹴飛ばせるユニークさを誇る。
 戦車、車、バイク、ロボット、ここらへんはまだいい。馬、キリン、象にも乗れる。そして何たって君、ホッピングに乗って戦えるゲームは後にも先にもこのゲームだけだろう。
 ついでに言うと、たぶん攻撃力が最強なのは、なぜかミサイルを積んでいる消防車だ。

 こまごまな演出は、ドッターが発狂したまま作ったんじゃないかと思うくらい緻密で、笑えて楽しい。
 たとえば雪だるまを撃つとだんだん崩れていく。木を撃つと、何かの型に刈り込んでしまう。観覧車の支柱を破壊すると、地面をぐるんぐるん転がっていく。寝ている兵隊はちゃんと着替えてから起きてくる。犬がずっと追っかけてきてきゃんきゃん吠える。その犬もつかんで投げられる。etc.
 しかし、このゲーム、ゲームバランスとしては、連打によって出せる電撃攻撃(敵弾を消せる)を永遠に出し続けていられる人以外は、コンティニュー必須のサギゲーなのである。
 電撃が狙って出せないと、飛行機はデクノボーですぐ壊されてしまうから、ウルフファングをずっとパイロットでやってくれというのと大差ないキチガイ沙汰の難易度となる。

 とはいえ、コンティニューしまくりでもいいから、いちどは最後までプレイしてみたかったゲームなのだ。
 タイトルだけパクった小説を書いてるくらいで、とにかく印象だけは強烈で、一度見たら忘れられない、そういう作品なのだ。
 このゲーセン、いろいろ入れてくれるのはいいが、一度消えたらいつ復活するかがまたわからないのだ。今やるしかない。


 挑む。
 何度かプレイして、コツがいくつかわかる。
・このゲームでは、自分が死んだらパイロット状態になるのは敵も同じ。落ちた敵パイロットをはじめとする地上の敵兵を放っておくと、けっこう邪魔くさい弾をよく打ってくる。そうなる前に一掃しておくこと。
・見るからにブルースブラザーズな黒服は、歌っているだけで敵でないときもあるが、地上にいると背景に紛れてしまって見落としやすいので、いると思ったらとりあえず撃っとけ。
・敵の地上戦車が打ってくる真正面への弾は、飛行機でも接地ぎりぎりを飛んでいればほとんど当たらない(一種類だけ当たる戦車がいる。形でわかるので、そいつの時だけはひたすら連射)。クリスマス面はこれがわからないと厳しい。
 そこまでわかっても、1面につき1クレジットは使った。行き当たりばったりではたぶんこれが限界だろう。
 このゲームがゲームとしてきちんと評価されなかった理由がよくわかる。根本的に、「判定のある敵・構造物」と「判定のない敵・構造物」との見分けが、実際弾を当てたり自分が当たったり敵が当たったりしないとわからないのだ。さらに、緻密過ぎるドットの描き込みが逆に、当たってんのか当たってないのかすらわからない、という現実を作り出してしまっている。
 まっとうな評論家なら、「ゲームとして成立していない」という評価を下すだろう。純粋に、さまざまな演出をショーとして楽しむ、そういう「ひたすら楽しめる」という意味では、むしろゲーム史上最もゲームらしいゲームであるかもしれないのに。

 敵の配置も極端で、トランスポーター面の道中や、クリスマス面ボスのように殺すことが目的としか思えない攻撃があるかと思えば、遊園地面・博物館面のボスは攻撃を自機に届かせることすらできない(遊園地面はザコが飛んでくるし突進もしてくるのでそれなりに難しいが、博物館面のボスは何のためにいるのかわからない)し、デトロイト面の道中は工場に入りさえしなければ死ぬことの方が珍しい。
 あと、最終面の最後の歯車って壊せるのかしらん? 壊せないと、その後の展開で確実に一機殺されるんですが。


 そして苦労して到達したラストボス。……そっか、こーゆーはなしだったのか、ふむふむ、深いな……
 ……。
 ……。
 マルチエンディングでーすかぁー?!
 そーして私は見事、ラスボスと戦えないまま二周目に入るという悲惨な方向をわざわざ選択し。
 もっかい最初っからやり直すハメに。
 しかも二回目は、最終面に到達してから、ラスボス直前でのコンティニューでコインを飲まれ、むなしく10秒経過。
 三回目でやっと1周クリアしましたとさ。むろん、ラストボスとの戦闘はサギの骨頂。あれを初見でノーミスで倒せる人はこの世にいません。断言。
 ……いったい今日一日で何円使ったろう? 今日は100円で切り上げる予定が……。うううう財布が……。
 でもさすがに今回ばかりは、見逃すわけにはいかなかったよ。
 思わず勢いで長文を書き上げてしまった……。

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2002-02-02 「魔法描きに大切なこと」
 「魔法遣いに大切なこと」が四話まで終わったわけですが、だいたい話の構造が見えてきて、自分の理想が高かったのか期待に届いてなくて大いにげんなりしています。キャラいいし、絵も綺麗なんですけどね、ホントに。困った。このままだとユメたんハァハァのレベルで終わっちまいます。
 シナリオに善意の解釈を求められる(普通に見ると信じがたく雑で短絡的な内容だが、伏線や描写を良い方に解釈して初めて、あ、そうなんだな、でなんとかまとまった展開として理解できる)のがいちばん気に入らないのですが、それ以前に肝心要の世界設定がもう。

 舞台が東京である必然性がない。主人公が東北出身である必然性がない。都会と地方の違いを出したいくらいでそうしてしまうと、東北弁ってただ聞きづらいだけのものになってしまいます。演技がうまいと、なおさら。
 また、使われる魔法が職業のレベルをとことん逸脱している(ていうか職業として制限されているはずの設定を、ごくごく当然のようにぶち壊す)ので魔法士という設定の意味がない。
 さらに、魔法の能力が「遺伝オンリー」であることが今回示されてしまいました。遺伝でしか伝わらないはずなのに、薄ら寒くなるほど魔法の歴史が見えません。それに、遺伝による特異体質に国家が介入するんですか? いやまぁ、魔法ってのは影響力大きいからそれはそうとしていいんですけど、現代日本の法意識から遠ざかっているのは確かでしょう。てゆぅかこないだまでウィッチハンターロビンだった渡辺明乃の身にもなれよ(いやこれホント、ロビンはとてもいい対比です)。
 第四話までの時点で「現代社会」を意識したとはっきりいえるのは、第一話第三話で「オカネ」を持ち込んだことくらいで、その持ち込み方もきわめてずさんです(ネタバレ・第一話で魔法で金銭を出して失敗したユメに対し、第三話では小山田が自身の当選した宝くじを魔法でこっそり譲るという方法を問題の解決にしている)。

 現時点、この物語で問題を解決するものは「魔法」ではなく、「ファンタジーのセオリー」に過ぎません。
 どうも制作の意図は、ファンタジーに特化することで癒し効果みたいなものを期待しているぽいですが、僕としては、これではなんのために現代の東京が舞台なのかさっぱりわからないというのがホンネです。少なくとも現代社会に生きる一員として、カタルシスを呼び起こされるものではありませんでした。

 そもそも、ノンペナルティで「天気を操作する魔法」を使うというだけで、現実なんかはもう彼岸のかなたに離れた破壊的ファンタジーなんですが、どうやら話はもっと広がっていく様相です。
 この物語にとって必要だったのは、「管理したい国家と、精神論でその範疇を逸脱する主人公との、大がかりかつフィクションにはありがちな対立構造を作ること」であり、社会でも魔法士という職業でもなかったのかもしれません。悲しいです。なーんだって感じです。
 先週まで、この話は「魔法少女モノのちょっとおとなしめアレンジ」くらいの印象だったのですが、下手をするとサイレントメビウスのちょっとおとなしめアレンジになりゃしないかと不安で不安で不安で不安でたまりません。
 今さらながらに、「キャラや設定はデフォルメでファンタジック」なのに「ストーリーや人間関係がリアル」という、従来のリアル指向とはまったく逆方向に突き進み、社会問題や人間関係の構築に踏み込みまくった「オジャ魔女どれみ」シリーズの偉大さが伺えます。「クラス替え」が壮大なイベントになったという、空前絶後の作品でした。


 魔法を描く表現者が気をつけなくてはいけないのは、「魔法」というフィーチャーが決して「自由」を意味しないということです。むしろ常に束縛です。魔法という行為が生活に近づけば近づくほど、その束縛は強力になります。
 魔法使いが、その能力に制限を受け、かつ人格者であることを求められるのは、その能力が高いからではありません。「魔法で解決できない境界線」を適切に設定できないと、魔法使い自身が立脚する常識が崩れるからです。いちばんわかりやすい例を挙げれば、「死者をよみがえらせる魔法が使えたら、命の価値とはなんぞや」です。

 ファンタジーは超自然を実現するための安易な方法ではなく、適切な世界構築によって初めて描き手と受け手がつながれます。まして、「今までにない設定」であればあるほど、受け手の予備知識が少ないのですから、より基礎から組み上げていかなければなりません。
 社会基盤からほぼすべて独自の世界を組み上げていた「灰羽連盟」(この作品は魔法ではないが)でさえ、完璧とはいえませんでした。というのは、かの作品において、グリの街の灰羽ではない人たちが塀の中だけで経済を成立させているとは考えにくいからです。ただし、「灰羽連盟」では、それはあまり意識すべき設定ではなく、実際意識しなくていいように徹底的に灰羽だけで物語が進んだから、最後まで感情移入が途切れることなく世界を受容することができました。
 しかし、「魔法遣いに大切なこと」では、受け手は現代の常識をいやおうなく持っています。意識せずにこの作品を受け入れることは不可能です。

 最初に出会った魔法がホイミやケアルだった人は、魔法が単なる道具や手段にしか見えず、リスクはMP消費だけなのかもしれません。悲しいですが、「魔法遣いに大切なこと」からは、そんな意識さえ透けています。

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2002-11-04 「文学フリマ
 ブンガクやシュッパンに携わる人が、何やらギョーカイに危機感を抱いて思いつきで主催した文芸オンリー同人誌即売会というと、即座に「復活祭」を思い出すんですよ、僕は。復活祭が行われた当時、同人サークルとしてはぺーぺーのサンピンの身分で内情もよく知りませんで、かのイベントについてどうコメントしていいのかよくわからないんですが、知らない方のために可能な限り控えめで差し障りのない表現をさせていただくと大失敗だったわけです。

 そういうわけで、この文学フリマにもあまり期待はしていなかったのです。
 当日朝11時、いかに閑散かを笑い飛ばしてやろうと、KSRさんと連れだって、青山ブックセンターの地下へ。
 びっくりしたよ。一般参加の行列できてんだもん。あれ、ぶんぶん! の開場前行列より多いよ絶対。てゆーかそのぶんぶん! の主催が一生懸命営業活動をしてらっしゃる。後述するけれども、同人誌即売会が初めてという参加者が非常に多かったようなので、かなり有効だったのではと思われます。次回のぶんぶん! は少し雰囲気が変わるのかな? てゆぅかその前にパンフの雰囲気変えた方がいいと思いますけど。
 参加されていたオーダーメイドの光部姉さん曰く、「表紙にイラストがあるだけで引いていく人がいた」ですから。まぁ、そういう傾向の即売会でした。

 さて、一般文芸誌で参加者が募られたため、高齢の参加者が多かったのは復活祭と一緒。一部の部屋(複数の部屋にスペースが分割して配置されていた)は命名タソガレ親父部屋と化し、なまじっか文学などに足を突っ込んでしまったために人生半分くらい棒に振ったとおぼしき初老の人々が、見なくても中身がイタイタしいとわかる煽り文句でスペースを飾って哀愁を誘っていました。トシヨリワラウナユクミチダモノ はうッ。
 しかし、その部屋も含めて活況を呈するほどに人は集まっていました。どうやら主催の大塚氏が、ハッキリと問題提起をしたという責任感もあってか、かなり広範囲の参加勧誘活動を行ったようです。業界関係者や著名人ら(白倉由美って、スペースにいたあの化粧お化けが本人だったのかなぁ……)がスペースを賑わせ、また文学系の学生が触発されてサークル参加したり、ボランティアでスタッフをしたりしていた模様です。さらに一般参加者ともなると、遅い時間まで間断なくやってきていて、会場が狭いことも相まってかなりの熱気とするだけの数の多さでした。
 本を手にとって前書きを読んだり、無料チラシの内容を見ると、「文学フリマをやるんで本作ってみました」というのがけっこうありました。KSRさんによると、同人誌を他では売っていない、売る場所を知らない人が多かったとのことです。

 これをふまえて、なんですが。
 午後になって「討論と銘打つなにがしか」が始まったのです。←持って回った書き方をしたのは、実質は一参加者から主催者に対する言いがかりだったからです。しかもそれが行われた一時間、部屋は聴衆で身動き取れないくらい満杯の状態(他の部屋は閑古鳥)で、会場全体が機能停止になりました。
 内容は説明するのも馬鹿馬鹿しいのだけれど、早い話が、主催者からサークル参加者に対して配られた約款の内容に問題がある、サークル参加者は問題点をきちんと意識して正していかねばならない、と。
 あのぅ、本買いに来た一般参加者の立場はどうなりますか?

 僕の意識としては、主催者が決めたルールに従うのは当然。気に入らないなら参加しなければいいし、あるいは自分がイベンターになればいい。
 でも彼らは───討論ラシキモノを継続した人たちは、文学フリマがコミケを範に大塚氏が提唱し堂々開催された、日本初の画期的なイベントと思っているフシがあるのですよ。だから、「唯一無二の場である文学フリマのルールを、話し合って確定していかなければならない」のだと。
 実際それが終わった後に、言いがかりをつける側だった鎌田氏と少し話をさせていただいたのですが、やはり「他にどんなイベントがあるのか」という意味のことを言っていました(ぶんぶん! があることを伝えておきましたけどね)。
 (逆に僕には、あるイベントをブラッシュアップするためにルールについて議論したり、イベンターの責任について深く思いを寄せたことがあまりないということでもあるわけで……それは反省点、かな? でもたぶん、場が提供されれば無邪気に喜ぶトコは変わりようもない気がする。)

 あぁいうのを見てると、彼らが活字出版業界、文学の現状とかに危機感や問題意識を持っているとは全然思えないのです。そういう意味では、成功したとはとうてい言い難い。
 討論ラシキモノの中で、大塚氏と鎌田氏が事前からその件でやり合っていた事情について、「ふたりでお花畑を作っているようだ」という揶揄がありましたが、文学という枠の中でお花畑を作り続けることが提起された問題の答えでありこのイベントの意味だというのなら、ま、どうにもなんねぇなと。裸の王様のままで溶けていく氷山の上に突っ立っておってくれと。
 いわば文化のごった煮としての価値も持つコミケを知っているはずの人が実施したにしては、いささかお粗末な取り組みだったのではないかと思いますね。

 でもまぁ、活気のあるよいイベントでありました。
 次があるなら、僕は今度はサークル参加しますよ。層の異なる読者様が増えるのは望ましいことです、これは事実ですから。
 まぁでも今回は、何より光部さんやKSRさんと和気藹々お食事というのがよかったっすねー(^^;


 あぁ、えーっと、その後に「TAMALA2010」という映画を見てたんですけどね。
 見終わって最初の感想が「誰がどんな意図で制作費を出したんだろう、アレに」でした。
 映像表現という分野がまだあの程度ならば、文章には十分生き残る余地があるのかもしれませんね。

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2002-11-02 「アルジャーノンに花束を」
 別にドラマになったからというわけではないのだが、「アルジャーノンに花束を」読了。今まで読んだことがなかった。
 もしこれを呼んで感動したという方がおられたら恐縮なのだが、僕の読後の感想は「悪書」である。現代の聖書呼ばわりされているのは、不思議だ。というより、物書きの端くれとして不愉快だ。僕らの生きる時代においては、これは『四十年前に書かれた』という歴史的なインパクトによってのみ価値をもたらすと思う(*)。
 ドラマの方もちらと見てみたがユースケ・サンタマリアの演技を見た瞬間にやめた。「障害者の演技をしている健常者」であることが一発でわかってしまうのにどうして感情移入できよう。
 小説の読後感もこれに近い。ある意味同じで、ある意味真逆だ。
 チャーリィ・ゴードンは良い。冒頭の、障害者から知性持つ人間へと進む過程、そして最終局面はとても面白く興味深い。その間の、知性を持った彼が、読んでいて不愉快なほど倣岸で鼻持ちならない人間になってしまうのは、それはこの話のツボともいえる部分だから耐えてもいい。
 問題は周囲の人間である。
 たとえば「ある財団の娘婿になって、資金をタテに自己満足と地位を得た愚昧で中身の伴わない上役」なんて、仮に実在したとしても、そしてこれがドキュメンタリーだったとしても、僕なら絶対に表に出さないね。こういうのは、痛快で破天荒な一心太助にやりこめられるための人物だ。
 そしてチャーリィの母親がすさまじい。あのぅ、四十年前が障害者にとってより不遇な時代だったろうことはわかりますが、母親って平均的にこんなだったんですか? 僕の感覚だと、彼女がチャーリーをどんどん『嘘っぽさ』へと侵食していく。語られる悲劇的なことどもを、何ひとつ真に受けて捕らえることができなかった。
 その他、脇を固めるキャラがみな小説のために用意されましたという振る舞いを繰り返す。全然先など考えずに読んでいるのに、出てくる新たな展開を見るたびに、スト3のギルばりに「はっはっは、全く私の予想したとおりだよ!」と空虚に叫びたくなる。しかし一カ所だけ実に意外な展開をしたところがあった───ねぇ、ニューヨークって、人生経験が事実上二ヶ月の身元の明らかでない男が、当時にして月95ドルの家具付きアパートを借りられるところですか。
 地に足がついた造形で、現実にいそうだな、と思ったのはバート・セルドンと、妹のノーマくらいだろうか(正直、ノーマとの再会シーンでのみ僕はかなり救われたような気がした)。
 この物語は、リアルであってこそ真価を発揮するはずだ。ウォレン養護学校のシーンに象徴されるような、直接障害者問題に立ち向かう人たちの姿を真摯に絡めてこそのものだと思う。
 しかし、この物語におけるイベント発生は常に、上に示したような、フィクションであって初めて成立するようなキャラクター群との接触による。
 僕にはこの作品が、障害者についての深い洞察を経て書かれた問題提起や啓蒙やひとつの幸福な人生観の提供ではなく、ミステリやバイオレンスものと同様、想像に立脚するフィクションであり、現実とのかかわりは忘れて楽しんだり悲しんだりすればよいと割り切って読むもの、そういう意図で書かれたとしか思えないのだ。事実そうなのだと思う、現代の聖書云々は後付けの評価だ。
 ……だったら、なぜこんな倣岸で不愉快な主人公につきあわされねばならんのだ、えぇ?


* 蛇足であるが、『吾輩は猫である』を大人になって読んだときも同じ感覚がした。あれは明治の風俗や歴史事情を知らないと理解不能なうえに、物語としてはただ出来事を脈絡なく並べているだけで、まともに読める体裁ではない。猫の擬人化など、小説としてのさまざまな手法が歴史的にユニークというだけで、現代となっては名作でもなんでもない。『大家のネームバリュー+猫が主人公なら取っつきやすそうだから』という理由だけでこの本を押しつけられる小学生が哀れだ。

*11/4 追記。やはり読み方が少し間違っていたようです。
この作品には短編版/中編版/長編版とあって、僕が読んだのは長編ですが、短編がいちばん良いらしいですね。
そして何より、小学生くらいのピュアな時期に読むのがいちばん効果的と(^^

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2002-10-14 「サウンドトラックというもの」
 「少林サッカー」のサウンドトラックが出てたので買ってしまいました。「日本独占」とか書いてありましたので要は本国ではサントラという文化自体がないところへ、音楽売る権利だけ買ってきたのでしょう。日本のファンの声が届いて、ようやくリリースの運びになったというなら、それは嬉しいことなんですけどね。

 ビックリしたよ。コピーコントロールCDという「CDプレイヤーでの演奏を保証しない」恐ろしい仕様のCDであることを含め、これがエイベックスのやることかって幻滅しちゃったよ。
 あの永遠でも聞いておれるオープニングが1分半で終わりかよ! あの強烈なダンスシーンがたった1分で終わったのかよ! もしかして、デジタル化した音楽データをただワンループずつ並べただけじゃないの? 映画の「サウンドトラック」って、いつからそんな意味になったんだ?
 さらに、ジャケットとして入ってるのは980円の激安クラシックみたいなペラ紙で、映画の解説だけ載ってて(このCDを買う人間は全員知ってる内容。いらねぇよそんなもん!)作曲者のコメントはおろか音楽解説もない。それどころか作曲者の名前が映画スタッフの一員としてしか書いてない。……洋画のサントラってこういうもの? アニメやゲームのサントラに慣れてると、作品への愛のなさ甚だしく、これで商品として成立させてるのが「狂気の沙汰」のレベルなんですけど。戸田奈津子の指輪物語じゃあるまいし。

 2800円の価値なし。サイトロン1500シリーズ聞いて出直してこい!

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2002-10-12 「詩のボクシング」
 見てました。今日NHK教育で放送してた分を、二時間びっちり。

 谷川俊太郎氏のファンとして、その競技があること自体はずっと知っていたのですが、何しろこれまで詩の朗読にトラウマめいたものがありましたので(あれだよ、Words の!)、あまり近寄ってこなかった分野です。また、以前からあったものは、確か10ラウンドまで闘うような設定だったので、いつまでもだらだら続くという印象があったのも事実です。
 しかし今回見てみて、おもしろいの何のってこれが! 決勝以外は各戦1ラウンドの一発勝負トーナメントというスタイルがハマっていますね(ただ、3分という時間設定は微妙。もう少し長いのも聞いてみたい。競技が広がって、時間別の階級制を導入できると、なおおもしろいかもしれません)。

 ワケわからないのあり、パフォーマンスをめざしたものあり、純粋に詩を突き詰めているものあり、しかしやはり最強だったのは「何が何やらわからないホントに意味不明な言葉」をまくしたてて準決勝までいってしまった人でしょう(本職は音楽大学の講師の方で、音楽のメロディ同様にちゃんと『耳で聞いて何か届く音』を追究した結果と思われます)。
 優勝者はパフォーマンス、詩の内容ともどもおもしろく、順当勝ちの感がありましたが、自分としては、準優勝者が決勝の即興詩対決で決めた最後のひとこと「こんにちは」に一票を投じたかったなぁ。


 最後に一点、非常に気になったことを挙げさせていただきますと……ジャッジのメンバーが「オモシロケレバイイ」タイプの人に偏ってませんかねぇ???

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2002-09-30 「Linear」
 「青いバラ」最相葉月、読了。四ヶ月かかった。
 何しろ滅多に買わないハードカバー本で、常に鞄に放り込んであっても、雨で電車通勤したときとか、メシ時に鞄が手元にある日に少しずつ、というペースでしか進まなかったから。最近の読書はいつもこんなもの。
 そもそもこれを買った目的は、「ローズフォース」の資料用で、別にあれはバラの栽培を語る物語ではないので、資料としては巻末のバラ品種索引以外には役に立たなかった。
 内容は、青いバラの話からもほど遠く、事実上は日本のバラの父と呼ばれる鈴木省三氏の伝記である。しかしながらおもしろい。筆致が緻密で読み応えがある。鈴木氏の戦争中の描写など鬼気迫る。一読ではすまない量だが一読を勧める。


 それにしても、こういう理路整然とした筆致を持つ人の頭の中はどうなっているのだろうとつくづく思う。
 こういう、「理路」をもって思考がなされ、物事を順序だててすらすら進めたり理解したりできることを僕は Linear と呼んでいる。
僕にはこれができない。泡沫の連続(というより重複)でしかものを考えられない。そしてつい最近まで誰でもそういうものだと思っていた。「家族八景」とか「僕が地球を救う」みたいなテレパスの存在する余地はないと思っていた。
 ところがそうじゃないらしい。完全にリニアーな人はまだ知らないが、完全にリニアーでなくても、思考のぶれが最低限に抑えられているって人はいる。リニアーな人は論文も小説も次々書けるし、日記などは五分で書けるに違いないのだ。つくづくそういう人がうらやましいと思う。
 一方で、少し不安にもなる。僕がリニアーでないことを当然と思っていたように、リニアーである人はリニアーであることを、理性的な人間が当然めざすべき到達地点と思っているフシがある。他人が感情まかせのことばを外に出すことを毛嫌いしたり、あるいはその感情に対し反応しない。「最近の人は散漫になった」とか「論理的にものを考えない」と批判する。
 リニアーでない人が増えているのは事実だろう。
 理由は、文化が映像中心になったことだと思う。僕はそれが当然だと思う。人間は情報のほとんどを目でとらえるのだ。視覚で情報を伝達できる有用な手段があるなら、人間はそれを選択するに決まっている。それを信頼の軸に置いて行動するに決まっている。文字や文章なんて伝達手段はむしろまどろっこしい部類に入る。
 これからは思考がリニアーでない方向に文明は進むだろう。それによってヒトから論理的思考が欠落していくことが衰退と呼ばれるものならば、早晩に人間は滅亡するのだろう。あるいは、古代には文字というものはなかった。見たものだけが真実だった。そこに回帰していくんだろう。
 リニアーであることは正しいわけでも誉れでもなく、少し生きるのに都合がいいに過ぎない。非主流の度合いを強めていく過程で、特権意識につながったりしないだろうか。少なくとも、未来を恐れるあまりにリニアーであることを優先させて育てられる子供がいるとしたら、それはとても哀しいことのように思えてならない。

 どうですか。みなさんの思考は、Linear ですか。

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2002-09-15 「ラーゼフォン最終回他」
 火曜の夜中、本放送を見てました。
 野球延長がなかったのだから、録画だけして寝ておけばいいものを、直で見てそのままちょびっツの裕美ちゃんメロメロ話につないだのは辛かった。ネタバレよろしく。


 以前に書いたときに多少けなしたんですがその内容の浅薄さは、第22楽章を見たときに赤面ものとなったのがホンネです。あれで完全に収束しましたからね。そこからどんな展開に進もうと、自らの殻を受け入れつつ拒んだ白の綾人と自らの殻に従属した黒の久遠で最終対決と決まったわけで、それにひたすら進んでもらえばよかった。
 さまざまな久遠の言動を、そうした対決の伏線とするには、久遠がカワイそうだなと思ったがしかたない。むしろこの巨大な二重構造を、そこにきちんと着地させたことを感動として受け止めるべきだったのです。
 ……なんでそれ以降に、特に最終回、久遠が平気な顔で「誘導者」をしてるんでしょうか(いちおうぽそっとフォローはしてあったけど)。そんでもって白はキレた目をして黒をぶち殺す、何それ?
 黒が勝ったらどういう結末になるのか、その示唆もあるべきだったと思うし。

 あと思うのは、調律の結果をどう作ろうと自由にできるのは解るけど、だったら「邪魔なキャラは死ね」は許されるべきでない。ラス前の殺しっぷり、サブキャラの投げ捨てっぷりは不愉快のひとこと。
 彼らの救いのない犠牲のもとに文字通りの「絵空事」が完成した、というのが最終解だというのは評価しかねる。
 だったらむしろ全部殺してた方が良かったのかなぁ? ……それするとやっぱしエヴァになるってか?


 もうひとつ最終回。
 「バーチャQ」が終わっちゃったよぅ。ロリパワー大爆発でけっこう好きだったのに。あかねタンハァハァってヤツっすよマジで。いやマジで! 蓮沼茜は今後要チェックだ!
 てゆぅか「コドモ番組のフリをしてコドモをダシに大人がただバカ騒ぎする」というある意味開き直った番組でした。土曜の7時半なのに出てくる大人メンバー&つなぎのトークの内容は完全にR指定の深夜番組(戦隊ものの悪役みたいだ、といえば話が早いのか?)。まー、浅草キッドだし。
 で、最終回、「悪くてズルい大人の勝ち」でオシマイ。いやもう、……これが計算ずくでうまくやっていたら斬新な演出として歴史に残ったろうになぁ。
 しかし、ファイナルクイズに入る前からその答えが「しりとり」だと完全にわかっているアンファン(子供たち)に、素でわからなかったようなフリをさせて大逆転に持ち込むという、もともとヤラセっぽい番組をそんなところだけヤラセっぽくなく仕上げてしまった。どう欲目に見ても不愉快な結末。
 急な打ち切りを言い渡された構成作家がブチキレたようにしか見えませんでした。なんかワケありですか、もしかして。

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2002-09-04 「デキッコナイス」
 
内山安二氏が亡くなりました。
 ショックです。僕は学研の科学とひみつシリーズで育ちました。
 「できる・できないのひみつ」や「世界びっくり旅行」にこんぼうが何回出てくるか飽きることなくカウントしたものです。「世界びっくり旅行」は絶版らしいです。そらそうだわ、ソビエト連邦の時代だもの。
 ひみつシリーズのレビューをしているページを見つけました。こまごま懐かしいです。特にこの辺りのくだりが。(引用)

 (1) 何らかの事件をきっかけに、実現不可能そうな事柄に興味を持つやっ太
     「よーし!やったる!」
 (2) 即座に否定するデキッコナイス 「〜なんて できっこないす!」
 (3) フルコンタクトで本気(マジ)に殴り合う二人
 (4) 怒るブウドン 「ヤメレ食っちまうぞふたりとも!」
 
 そう、フルコンタクト! 目の回りのアザとバッテンばんそうこう! いま、こうやってデフォルメを駆使し、ボカスカを擬音にして『殴り合う』をてらいなく表現できるマンガ家さんってどれくらいいるんでしょうね。

 ご冥福をお祈りいたします。

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2002-09-02 「漢字とかなの使い分けの話など」

 読者様をネタにするのは避けるべきであると、それははわかってるんです。
 でも、まぁ、できるだけ穏便に、「
絶対サポセン黙示録」のノリで。

 「ローズフォースα版」をお読みになった方からおハガキを戴きまして。
 どういうおハガキかというとですね。
 「バグの指摘」と銘打って、漢字のミスをずらりと並べてあるんです。いや、そうではない、ミスだったら甘んじて受けますとも。
 いちばん最初に書いてあるのが、
 「さっき がひらがなは執筆好みの文体と見なす。けれど 先刻 に変換をなおせば字数が略す…ひらがなじゃ自分は 殺気 と思い浮かんでしまいます」(原文ママ)
 Σ(゜Д゜)マジっすか!
 要は "さっき" は "先刻" の方がよいぞと。次から次にそういう漢字変換の指摘を、全部が全部難しくなる方へ難しくなる方へ、漢字をもっと使いましょう、みたいな。
 ……なんか基準があって書いてるのかなぁ?
 そういう文章は桐葩さんに頼めって言いたい。僕は書かない。

 で。
 「ローズフォースα版」って、110ページあるんです。で、全体にわたってそういった漢字の使い分けを指摘されたわけです。
 いただいたのはハガキなんです。えぇ。そらもう顕微鏡を使えってなくらいにびっしりと。


 いつもはチェックしてる「表記ゆれ」を、今回はチェックせずに出したのは事実です。だから、いつもより表記が不安定だったのはあるかもしれません。
 しかし自分、漢字の使い分けにはひとことあるんですよ。
 僕はむしろ、漢字はがんがん開きます。ふつうの小説なら漢字にするところも、かなで表記していくタイプです。
 いまの「ふつう」ですと、「比較として上・並・下のうちの並」だったら漢字で書きます。「一般的には・通常では」のような副詞的用法ならひらがなです。僕の場合、副詞・接続詞は、仮に漢字が用意されていても(そのハガキで指摘された部分だと、"所謂" とか "最早" とか)ひらがなに開くことが多いです。

 「行く」「見る」などは、実際に動詞である場合、すなわち移動・視覚やその結果が伴う場合のみ漢字にします。

 「浸る」。「ひたる」とも「つかる」とも読めるので、実際に水に濡れるならどっちでもいいとして、「孤独に〜」のように間違って読まれたくないところでは開きます。「辛い」なんかも、主語がカレーなら漢字にしますが、「つらい」なら開きます。

 かなりばらばらに使うのが「いま」。まず例によって、「時間的現在」を示すものだけ漢字。「場合分けにおける直前ケース」の場合は開く。
 さらに「時間的現在」であっても、「いま」の後に漢字がくる場合は開く。「今僕は○○している」って書いてあると、「今僕」という新しい熟語ができたような感じがするためです。逆に「場合分けの直前」であっても、「いまのようなことがあると」など、ひらがなが過度に続く印象がある場合は、漢字にします。

 そんなこんな、自分の中には、ざっくりとしたものではありますが基準があります。


 はやい話、臆病者なので誤読されるのが怖いんです。漢字は文字単位で意味を持つので、うっかり異なる意味として認識されるとそれだけで話が壊れる場合があります。「誤変換のデータベース」で書いたように、怒っている人が「起こって」いたり、再会する恋人が「再開」したりすると、読み手のモチベーションは下がる、それと同じことです。
 どの表現をすればいちばん確実に文意をとってもらえるか? 何度も読み返して確認するのです。誤読の可能性が少しでも低くなる方へ誘導したいのです。


 余録:ルビを振ってしまえばそんな使い分けなんて意識する必要はないのですが、逆に、読みやすいようになんでもかんでもルビを、という風潮にも懐疑的です(通常テキストエディタで文章を書いているので、後でワープロに落とすときにルビの数は少ない方が面倒がなくてよいと思っているのも事実ですが)。
 「小学生でも読めるように」という意図で、すべての漢字にルビを振っている本がありますが、そういうのに限って結局辞書を引かねばわからない単語を使っていたりします。学生というものはふつう国語辞典と漢和辞典をワンセットで買うんですから、ルビを振って国語辞典を引かせるなら、ルビなしで漢和辞典を引かせればいいだけの話ではないですか。そうでないと、「部首とそうでない部分に漢字を分解して、読みを類推する」という能力が育たず、彼らはルビのない本は永遠に読めないということになりゃしませんか。

 ところでかな・漢字の書き分けといえば、
 「はれときどきぶた」で有名な矢玉四郎氏がこんなに激しい論者だとは知らなかったですよ。
 主張を肯んじるかどうかはともかく(新聞の交ぜ書きが排除されていく方針なので、将来的には教科書の交ぜ書きも消えていくんだろう。てか、これこそルビの出番だろうになぁ)、だからアニメもあんなだったのだなとちょいと思った。


 ちなみに、Initialize (プロローグ) に書いてあるとおり、水沢さおりは1センテンスにつき漢字5個を超えるセリフをしゃべりません。お持ちの方はどうぞカウントしてみてください。いや、ここんとこマジで気を遣って書いてるから。
 第3章の略してるところでようやく例外発生、でもこの人はそういうキャラなので今後も漢字は極力使いません。

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 今月から日記の形態を変えます。
 小枝は例によってどーでもよい小ネタを。歌丸には感想や意見表明などの大ネタを。
 以前大ネタなら長原成樹などと書いたこともあるのですが、歌さんのほうがいいんじゃないかとまったく意味もなくひらめきまして。
 亭号が同じの必然性も何もありませんが、ちなみに小枝(関西)と歌丸(関東)ではぜんぜん系統が異なります。念のため。


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