うみたま


 気がついたら海の底にいた。
 えっと。
 気がついたら海の底にいたというのは、いったいどういうことなんだろう。
 ぐるっと、首を回してみた。
 やっぱり、僕がいるのは海の底だった。
 悠然と僕の周りを魚たちがすり抜けていく。これはなんという魚だろう、銀色のうろこや、揺れる海草がはっきりと輝いて見えるから、そんなに深い場所じゃないらしい。
 僕の、海底に関する知識はそんなものだけれど。
 確かに僕は溺れて沈んで。
 で、気がついたら海の底に横たわっていたのだ。


 確かに海の底のはずだったけれど、苦しくもなんともなかった。
 苦しくなければ、冷たくもなく、濡れているという感覚すらなかった。……僕は、魚になってしまったのだろうか。
 体を起こして、立ってみた。
 手を見た。指が五本あった。
 足を見た。指が五本あった。
 股ぐらを見た。海水パンツのままだった。
 自分は人間の姿をしているような気がするけれど、もしかしたら幻なのかもしれない。
 ものすごい水流に引き込まれ、波の下に飲み込まれ、水をがばがば飲んで、空気をごぼごぼ吐いて、うすらぼんやりしていく意識の中で、波の向こうの太陽がきらきら輝いていたのを覚えている。そのまま僕は沈んで、……気がついたら海の底にいた。
 岩がごろごろ、海草がゆらゆら、碧と透明と光の混ざった世界だった。名前はわからないけど、細っこいのや太いのや、いろんな色かたちの魚が列をなし、輝いたり陰になったりして泳いでいく。ただ、水はどこまでも透き通るとはいかず、魚たちは遠ざかると灰色になって消えた。やっぱり、海の底だ。
 ここで僕はぽんと手を叩いた。
 何か変だと思ったら、体が浮かないのだ。
 空気中にいるときと同じように、僕は重力に支配されている。水圧も感じない。海底に足をつけたまま、突っ立っている。
 浮いてみようと思った。立ち上がって、平泳ぎの要領で、水面に向かって、一心に水をかいてみた。……さっぱり進まなかった。沈むばっかりだ。
 浮き上がれないとすると。どうやったら、陸地に戻れるのかな。
 このまま海の底を歩いていけば、いつか陸地にたどり着くだろうか。でも、目印も何もない海底で、いったいどっちへ向かって歩いていけばいいんだろう。変な方向へ歩いていって、迷ったらいやだな。うっかりすると、海溝に落ちてしまうかもしれない。ぶるぶる、それは絶対いやだ。深い深い海溝の底へ、落ちてしまうなんて。
 どうしたものかな、と思案していると、くすくす、と背後から笑い声がした。
 「おめざめになりまして?」
 若い女性の声だった。
 ずっと僕の背後で見ていたらしい。あの変な平泳ぎを見ていたのかな。なんか、恥ずかしい。
 「ごめんなさいね、笑ってしまって」
 海の色のワンピースを着て、海の色の髪の女性だった。色白で、唇も白かった。ただ黒真珠の瞳と、優しげな笑みだけが、海ではない普遍的な色合いをたたえていた。
 彼女も、苦しがってもいなければ、濡れてもいなかった。海底に足をつけて、ずっとここにいたようで、違和感なくそこに立っていた。
 「……あなたは?」
 訊くだけ野暮な気がした。
 「私ですか? ……さぁ……私は、誰なんでしょう」彼女は答えた。「なにぶん、自分が誰かなんて、一度も考えたことがなかったものですから」
 「はぁ」困った人だ。「せめて、名前はないですか」
 「なまえ……ですか」女性は答えた。「すみません、そういったことに興味がなくて」
 「いや、興味の問題じゃなくて」
 否定してみたが、彼女にとっては、ほんとうに興味があるかないかの問題のようだった。
 しかたない。海の中にいる女の人なんだから、オトヒメと呼ぼう。竜宮と呼ぶには、あまりに殺風景ではあったけれど、他に思いつかない。オトヒメと呼ぶにしても、あまりに頼りなくて、ほっておくと海に溶けていきそうだ。
 僕は急いで次の質問をオトヒメに浴びせた。
 「ここは、どこでしょう」
 「それなら、わかります」彼女はにっこりした。「ここは、海が生まれる場所です」
 「……海が」
 「ええ。私、そのためにここにいるのですから。海が生まれる、そのお手伝いをするんです」
 オトヒメは、その仕事をすることがほんとうに楽しいらしかった。
 その笑顔を見ていたら、すべてが些細に思われた。矢継ぎ早に続けたかったさまざまな質問を、きれいさっぱり忘れてしまった。
 「海が生まれるところ、ごらんになりたいですか」
 「はぁ」他にすることがない。「ごらんになりたい、です」
 「それはよかった」オトヒメは手を合わせ、なおうれしそうに微笑んだ。「あなたがおめざめになってから始めようか、おめざめになる前にすませてしまおうか、少し迷ったものですから」
 「でも、海って、生まれるものなんですか」
 「そうですよ、ご存じなかったですか」
 「はぁ、恥ずかしながら、初耳です。どういうふうに、生まれるんですか」
 「卵から、生まれるんです」
 僕は首をひねった。冗談を言っているのではないらしい。
 オトヒメはいつの間にか竹細工のかごをひじからぶら下げていた。
 「さぁ、卵を集めましょう」
 まるで花を摘むように、あるいは四つ葉のクローバーを探すように、オトヒメは下を見ながら、とんとんとつま先で軽く跳ねていった。あ、とうれしそうな表情を見せてしゃがみ込むと、手を伸ばして岩陰から丸いものを拾い上げた。驚いて、エビが逃げ出していく。
 拾い上げたのは白い卵で、ニワトリのそれとまったく見た目は同じだった。
 「……卵が、あっちこっちに、落ちてるんですか」
 「そうです。手伝っていただけますか」
 「手伝ってといわれても、……どこにあるのやら」
 「あなたの足下にも、あるじゃありませんか」
 言われて僕は足下をまじまじと見た。何もなかった。
 「目がお悪いのですね」
 オトヒメは僕のそばに近づいてきて、足下にしゃがみ込んだ。そして丸いものを拾い上げた。海の色をしていたそれは、彼女が拾うと彼女の白い手の色に染まるのだった。
 彼女はあっちへとびこっちへはね、次から次に卵を拾っていった。
 たちまちかごは、いっぱいになっていく。
 僕もしゃがみ込んで、僕にはどうしても見えない海色卵を探してみた。目隠しされたときみたいに、ぐるぐるとあてもなく手探りしたら、左手の小指に、こつりと何かが当たった。その先に、少しだけ空間の歪みのようなもの。左手をずらしてみたら、まぁるいものをひとつだけつかむことができた。それはすぐに、僕の手の色に変わる。卵だ。産み立てで、ほんのり温かい。
 それをオトヒメのかごの中に入れながら、僕は尋ねた。
 「この卵から、海が生まれるんですか」
 「えぇ、まぁ」
 「じゃあ、やっぱし、あたためて孵すんですか」
 「は?」
 彼女には『孵す』という言葉がよくわからなかったらしかった。
 彼女の手の中にはいつの間にかステンレス製のボウルがあった。
 彼女は岩に座り込むと、卵のたくさん入ったかごを脇に置いて、おもむろに中から卵を一個取り上げると、ボウルの縁にかかっと打ちつけ、黄身と白身をボウルの中にぱかっと割り入れた。
 「……割るんですか」
 「そうです」
 彼女がぽいっと投げ捨てると、殻はまた海色になって見えなくなった。
 かかっ、ぱかっ、ぽいっ、かかっ、ぱかっ、ぽいっ、目にも止まらぬ速さで、オトヒメは卵を割っていく。いつか見たケーキ屋より、ずっと速い、あざやかなわざだった。
 たちまちかごは、空っぽになった。
 空っぽのかごの中に、いつの間にか、泡立て器があった。彼女は泡立て器を取り上げると、たくさんの黄身とたくさんの白身がいっぱいたまったボウルにそいつを突っ込み、しゃかしゃかとかき回し始めた。
 「……泡立てるんですか」
 「そうです」
 黄身が砕け、白身と混じり、表面にどんどん泡が立っていく。
 そういえばボウルの中には、卵を入れる前から、すでに何か白い液体が入っていたような気がする。牛乳と砂糖と卵で、カスタードクリームかしらん。
 オトヒメはしばらくしゃかしゃかやっていたが、やがて、眉間にしわが寄り始めた。
 「これ、疲れるんですよぉ……」オトヒメが言った。「少し、手伝っていただけますか?」
 「はぁ、かまいませんけど」
 僕はボウルを受け取った。オトヒメが立ち上がり、僕は彼女のいたところに座った。
 泡立て器で、しゃかしゃかとかき回してみた。泡がだんだん細かくなり、濃い黄色がだんだん薄くなっていくのが見て取れる。
 その間にオトヒメは、僕からちょっと離れた岩の上に立って、ふぅ、と息をついた。ん〜、と伸びをした。
 すると海面から差し込む太陽の光が、彼女だけをスポットライトのように明るく照らし出した。
 ワンピの裾をちょいと持ち上げて、くるりと、一回転した。
 くるりくるりともう二回転した。
 海色の髪をかき上げると、きらきらと何かが光った。彼女のまとう海色が、いっそう輝いて見えた。彼女は、ずっと、この海の底にひとりきりでいたのだろうか。なのにあんなに、輝いていられるのだろうか。
 僕はぼうっと見つめながら、でも、手は休めなかった。しゃかしゃかしゃかと、海の卵を泡立て続けた。力を入れると、泡立て器がボウルの縁や底に当たって、きんきんきんと音を立てる。
 しゃかしゃか、きんきん、しゃかしゃかきん。
 「それくらいで、いいかしら」
 我に返ると、オトヒメが僕のそばまで戻ってきていた。
 「ちょっと泡立て器を、持ち上げてもらえます?」
 言われるままに持ち上げると、泡立て器の針金の間から、とろぅりと、クリームが垂れた。クリームの表面は角のように突き立って、なかなか元に戻らなかった。よく混ざった証拠だ。
 「それくらい混ぜれば、いいでしょう。どうもごくろうさま」
 とろとろのクリームに満たされたボウルを、オトヒメに返した。
 彼女はボウルを抱えて、先ほど彼女が踊っていた、太陽の光がいっとうよく届く明るい場所に立った。
 すると、海面から、何かが下りてきた。
 それは棒だった。
 長い細長い棒が、縦に下りてきた。海上から、突き立てられているのだ。
 棒は揺れていた。あっちへふらふら、こっちへゆらゆらしながら、ゆっくり下りてきた。オトヒメも、ボウルを持ったまま、あっちへふらふら、こっちへゆらゆらと動き回った。
 やがて棒の先端が、ボウルの中に、ちょん、と突き立った。棒は、ボウルの中で、ぐるぅりと一回転すると、引き上げられた。先端から、クリームをとろりまたとろりとしずくをこぼしながら。
 棒は、海の中にクリームを少しずつ溶かしながら、はるか海面へと登って、はるか遠く点になって、消えていく。
 オトヒメは、満足そうな笑みを浮かべた。
 「これで、終わりです」
 「海が、できたんですか」
 「いいえ、今ので、島ができます」
 「海を作るんじゃなかったんですか。ここは、海が生まれる場所じゃ、なかったんですか」
 「おっしゃるとおりですよ」
 光差す海の底の、オトヒメの笑み。やはり普遍的な、誰をも幸福に包み込むはずの、力。
 「島の残りの、すべてのしずくが、海になるのです」
 オトヒメは、ボウルを高く頭の上に差し上げた。
 「さいわい、在れ」
 彼女の言葉とともに、ボウルが輝き始めた。太陽の光が、銀色のボウルに反射して、僕の目を射たのだった。とてもまぶしくて、僕は思わず目を閉じた。
 優しい光に包まれたような気がした。


 気がついたら浜辺に寝そべっていた。
 ひとりっきりだった。
 水平線の向こうに、もくもくと煙が立ち昇っていた。海底火山のようだ。
 立ち上がって、波打ち際まで歩いてみた。
 右足、左足、右足、左足。足跡がつく。足跡はすぐ波にさらわれる。
 足が動くということは、どういうことなんだろう。
 人間として、まだ生きているということなんだろうか。
 僕は生きている。
 僕は生きていて、僕が卵をかき混ぜて作った海がそこにあって、ざざぁ、ざざぁ、と波が寄せては返し、寄せては返していた。



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