たびねこ綺譚 〜そらねこ〜


 人間が空を飛べるかどうかについては、いくつかの結論が出ている。
 生身では飛べない。人間には羽がないからだ。
 はばたいては飛べない。人間には羽がないからだ。
 人の知恵と力で羽を作れば飛べる。
 夢の中でなら飛べる。
 けれど、どれもなんだか、嘘くさく感じていた。僕という人間は、やはり、履きつぶしてきた靴の変色を見てしまうのだ。
 いつだったか、僕の相棒のチビ黒猫トントンが、何も考えずにえらく高い木に登ってしまい、どうにもならなくなって、みゃあみゃあ騒いだあげく、飛び降りてきたことがある。一瞬だけ、ふわっ、という浮遊感があった。もちろん、結局はくるんと一回転してすたりと着地した。
 むしろ、あれが『飛ぶ』ということなんじゃないかと、僕は思う。


 食卓を囲んで、四つ椅子が用意されていたけれど、三人しか座っていなかった。
 この家のおやじさんとおかみさん。それから僕。僕の足もとで、ミルクをなめているトントン。
 空席のクリームシチューは、冷めるのを待つばかりだった。おやじさんはむすっとしている。おかみさんは、取り繕うように、にこやかに笑って僕にお代わりを勧めた。
 「本当にごめんなさいねェ、せっかくのお客様なのにねェ、空キチはホントに、やぁねェ」
 ひとり息子がまだ裏の小屋に閉じこもって、『空を飛ぶ』研究を続けていて、出てこないままなのだ。毎日毎日朝から晩まで、ろくに休憩も取らずずっとやっているらしい。僕は彼の本当の名前を知らない。何せ親にすら『空キチ』と呼ばれているのだから恐れ入る。
 「ごはん冷めるわよぅ!」
 「あとで行くー」
 おかみさんが台所の窓から声をかけるが、煮えても焼けてもいないその返事からして、多分来やしないだろう。
 「ほっとけ!」
 おやじさんはいまいましそうにひとことだけ言って、具の鶏肉を口の中に放り込んだ。


 裏の小屋はべらぼうに広かった。
 昔は牛を飼っていた小屋だそうだ。が、すべての牛は、空キチが都会の学校に通うための資金として売られていった。
 おやじさんがいまいましげにしていたのは、牛をみな売り払った結果が、『空キチ』だったからに他ならない。
 僕が今日ここに泊めてもらうことになった理由は単純で、この村に宿屋がなかったからだ。それくらい小さなこの酪農の村では、都会の学校に行ったのは、不必要なまでに頭の良かった彼が初めてのことだった。村人は総出で、彼をバンザイまでして送り出したのである。
 が、新たな酪農のあり方を学んでくるはずだった彼は、機械と力学に目覚めてしまったのだ。
 空キチは昔から空に憧れていて、屋根の上から飛び降りたり、鳥を捕まえてみたりしていたそうだ。空キチというあだ名は相当古いらしい。で、都会の学校で、機械で空を飛ぶという新たな方向性を知って感動し、居ても立ってもいられなくなったのだ。
 そして彼は一年で学校を辞め、あと三年分の学費に充てられるはずだった『牛』を、開発されたばかりの最新式小型ガソリンエンジンと多様な工具や部品に替えて帰ってきて、そのまま空を飛ぶ研究に没頭し始めた。これで納得する親のいるわけがない。
 さて、小屋はべらぼうに広かったが、そのべらぼうな空間を埋めてしまうべらぼうな物体がそこには存在した。はじめ、僕にはそれが何かよく解らなかった。説明されても、何なのかよく解らない。
 『ヒコーキ』なんだそうだ。
 このべらぼうなものが、空を飛ぶという。
 かたちとしては、だいたい、頭と尾っぽがひしゃくの柄のようにまっすぐ前後に突き出ている折り鶴ってとこだろうか。ただし、翼は、二枚の長い板が、胴体を挟んでいるという感じで、その間には、竹か何かでできた細い支えがつらなる。別のたとえをすれば、松葉の虫かごを棒で貫いた感じだが、虫はおろか羊でもとどめておけそうにない大きさだ。
 尾っぽの先には、四枚のしゃもじを軽くねじって、十字を形成するようにつないだかたちの、風車の親戚のようなものが据えつけられている。中心部分、つまりしゃもじの柄をそれぞれ重ねた辺りには、細い軸が通っており、どうやらこの四枚しゃもじ風車構造は、風車同様回転するらしい。逆に、折り鶴の頭の先には、エビの尻尾みたいなものがくっついている。
 折り鶴の胴体部分は、翼の重みを中央で一手に支えるための鋼のワイヤーが何本か張ってあるだけで、ほぼがらんどうだ。その中央に、ガソリンエンジンがえらそうに鎮座ましましている。このガソリンエンジンという機械、見るのは初めてだが、思ったより小さくて、ぴかぴかしている。エンジンからはロープみたいなものが出ていて、風車の親戚につながっている。
 それにしても、この翼だ。整った感じはあるが、少し上にふくらんだ形状をしている。ヒコーキ全体でとらえても、何だかぐらぐらして、安定感がなくて、見た目におっかない。こんなんで、本当に飛べるんだろうか。
 灰色の作業服を着て、同じ生地でできたキャップをかぶった空キチは、胴体の真ん中で、ガソリンエンジンにはりついたままで、こう言った。
 「……まぁ、解らなくていいよ。リュータイリキガクとか、コーゾーリキガクとか、七面倒でムツカシイこと、僕も説明するつもりはないからさ」
 次から次に手に持つ工具を替えて、作業をしている。ドライバー、レンチ、オイル瓶、工具箱から出てくるのだと解っていても、その油脂にまみれた黒い手は、手品師のようだった。
 「それより、今日うちに泊まるなんて、君はラッキーだぜ! こいつのテスト飛行は、いよいよ明日なんだ」
 「へぇ……それって、やっぱりすごいことなのかい?」
 「すごいのすごくないのってさぁ!」
 空キチは腕を伸ばし、僕にびっとレンチを突きつけて言った。
 「こんなふうにエンジンを使って飛んだ人は、まだいないんだ。僕が第一号になるのさ!」
 ホントかな、と僕はひとつ首をひねったが、空キチは顔を上気させ、とても幸せそうだった。
 「みんな、まだ人間が空を飛ぶなんて夢物語だと思ってるけど、飛ぶための力学的な理論はとっくに完成しているんだ。あとは、その理論を実践するために、いかに機体を造るか、なんだ。……君には、機械が空に浮かぶために一番重要なことが何か、わかるかい?」
 七面倒でムツカシイことを、やっぱり彼は並べ立てたいらしい。
 「機械が、かい? そうだね……やっぱり、軽くなきゃいけないと思うんだけど」
 「うん、僕もそう思ってたんだ。でも、最新理論は違うんだ。飛ぶために必要なことは、実は前に進むことなんだ。できるだけ速く、前に走ることなんだ。上に跳ねるんじゃなくて、前なんだ。正しいかたちの翼さえつけてやれば、はばたかなくても、どんな重いものでも、走る速度を上げることで、物体は勝手に空に舞い上がる」
 僕にはやっぱりよくわからない。
 と、にぁー、と間延びした猫の声が聞こえた。翼の上に、太った三毛猫が寝ている。
 「リコシェっていうんだ。僕の相棒だよ」
 「『ヒコーキ』のことが解る猫なのかい?」
 「いや、翼の上で寝てるだけさ。でもきっと、世界で初めて空を飛ぶ猫になるんだぜ。君のその猫は、何か芸当があるのかい?」
 「空は無理だね。だけど、旅好きな猫ってのもそうはいないから、それが芸といえば芸当かな」
 と、トントンが僕の肩から下りて、工具やら金具やらがしこたま収まった棚を踏み台に、翼の上に駆け上った。そして、リコシェと対面した……。
 おや、珍しい。トントンを引き連れて何カ月にもなるが、これは初めて見るパターンだ。リコシェとトントンは、尻尾を立ててなんとにらみ合いを始めたのである。
 「珍しい。リコシェがケンカするなんて」
 空キチも言った。
 お互いうなったり、総毛立てたりはしなかった。静かな対峙が、しばらく続いた。やがて、二匹は、何もなかったかのようにそっぽを向いた。リコシェはまたその場で丸くなり、トントンはちょこちょこと歩いて、リコシェのいる右の翼から離れ、左の翼の上に、ちょこんと座りこんだ。
 二匹はそれっきり、顔を合わせなかった。


 僕には、母屋にベッドが用意されていたけれど、結局空キチといっしょに、牛小屋のわら束の中にぼすんと寝転がった。
 「僕は空を飛ぶんだ」
 空キチは、天井を見つめて、何度もつぶやいた。空を飛んでどうするかは、考えてないようだった。なんで空を飛ぶかも、考えてないようだった。
 「それから―――」
 空キチは窓の外へ視線を移した。満天の星空だった。びっしりと、星という星が、天に白く貼りついていた。……僕には貼りついているようにしか見えないけれど、空キチには、その向こうや手前に広がる空間が、壮大な立体として見えているみたいだった。
 「それから、もっと遠く高く飛ぶ。宇宙へ、星のかなたへ、行くんだ。きっと……」
 行けるのかい、と訊き返そうとしたら、空キチは、もうすでに、素直な寝息を立てていた。


 翌朝。空は青く澄み渡り、わずかなすじ雲だけが、彩りを添えていた。
 空キチは指をなめて、天にかざした。そして大きくうなずいた。
 「いい風だ! 最高の一日になるぞ!」
 どが、ぎーーぅ、と空キチは、小屋の扉を蹴り開けた。そして、うんとこせ、とヒコーキを引っぱり出した。正確にいえば、ヒコーキを載せた台車に、ロープをくくりつけて、それを引っ張っている。ヒコーキ自体を引っ張ると、構造が脆弱なので、壊れてしまうという。
 そうしてヒコーキを、飛行実験場となる小高い丘の上へ、運ぶのだ。
 僕も、台車を後ろから押さえるのを手伝った。坂にかかると、機体がずり落ちてくる。押さえるとめっぽう重い。けれどなぜだかバランスがとれているのは、翼の左端にちびっこのトントン、右端にでぶのリコシェが腰を下ろしているからかもしれない。……とすると、この機体、相当バランス悪いぞ。
 「空キチ!」
 澄んだ声が前から駆けてきた。白いワンピースがよく似合う、おさげの少女だ。空キチの横に並んで、歩き出した。
 「いよいよ、今日なの?」
 「うん、そうだよ」
 「みんないろいろ言ってるけどさ。あたしは、空キチのこと応援してるから。ぜったいぜったい、空、飛んでよね」
 少女は言った。
 「あいつはどうしようもない奴だ、って、父さんも母さんも言うのよ。でも、空キチって、むかしっから空キチだったもんね。しかたないよね」
 「ありがとう!」
 空キチは本当にありがたそうにおさげの少女に言った。あれでも励ましになるものらしい。
 「よぅ空キチ」
 別の、友人らしき人物がやってきて、空キチの肩を叩いた。
 「今度のはまた、でけぇなぁ」
 「だろ?」
 空キチはにこやかに答えた。
 気づくと、ヒコーキの周りは、人でいっぱいになっていた。村中の暇人どもが、空キチの企てる世紀の大偉業を、好奇、賞賛、あるいは侮蔑をこめて、ともかくひとめ見んと、祭り騒ぎで押し寄せてきたのだ。
 見上げれば、丘の上にも、どこから来たやら何人も待ちかまえている。すっかり刈り取られた後の茶色っぽい牧草地の中で、一本だけ生えるにれの木にも、こどもだのおとなだのがでこぼこと取りついていた。
 「いやぁこいつぁたまげたなぁ」
 「本当に飛ぶのかね?」
 「がんばれよ、空キチ」
 「がんばれよぅ」
 無責任な激励が丘への道に満ち満ちる。
 空キチは、とても嬉しそうだった。


 丘の上には、空キチが前もって準備しておいたのだろう、細長い木製のレールがまっすぐに敷かれていた。
 僕と空キチは、ヒコーキの車輪を、このレールの上に乗せた。
 空キチは、みんなに手を振ってから、胴体の中に腹這いになった。
 僕は、このヒコーキをスタートさせる役を仰せつかっている。例の四枚しゃもじに手をかけ、えいやと回した。するとエンジンが、がろんがろんがろろろろろと軽い音を立て、内部で何かが回転を始め、それと連動して、しゃもじもえらい勢いで回り出した。僕はあわてて飛び退いた。
 この音にびっくりして、トントンもあわてて、ひょいこらと翼から飛び降りる。ヒコーキのバランスがほんの少しだけ変わったけれど、倒れてしまうほどじゃない。一方リコシェは、悠然としていた。翼の上をほんの少し移動して、また居住まいを正した。きっと、エンジンの音や振動には、もう慣れっこなんだろう。
 ヒコーキの車輪がゆっくりと動き出す。レールに沿って、速度は、少しずつ上がっていった。
 僕は、トントンといっしょに、進むヒコーキに沿って走り出した。僕だけじゃない。大勢の村人たち、特に子どもが、すすきを手に持ち、帽子を振り、ヒコーキをひたすらに追いかけた。
 「ソラキチィーッ」
 「いけぇーーーっ」
 みなの声を受けながら、わずかに残る緑の草をはね散らして、ヒコーキは軽快に走る。やがて、僕の追いつけない速さになった。僕は立ち止まり、立ち尽くした。
 その目の先で、ついに、空キチとリコシェを乗せたヒコーキは、大地を離れ、ふわりと青い空へ舞い上がった。


 で、どうなったかって。
 しれたことだ。
 たかが学生の身分であった者が、世界を変えかねない一大発明を成し遂げたとするなら、それはそれで面白いことだが、まったく世界中の科学者というものはメシの食い上げである。
 そういうわけで、空キチはいま病院にいる。左鎖骨と手首の骨折、その他切りキズ擦りキズもろもろで、全治二ヶ月半だそうだ。滞空時間は、およそ二秒。その後、翼が突然へしゃげて横転、地面に激突した。翼も胴体も折れ破れ、四枚しゃもじはばらばらだった。
 僕の素人見立てで、あのヒコーキが浮いた時間としては、上出来の部類に入るが、『空を飛んだ』とは、おせじにもいえない、あっけない幕切れだった。
 涙ながらにわめく空キチのおやじさんに完全に共犯者扱いされながら、まぁそう思われてるのならしかたないということで、僕は空キチの事故の後始末をするため、しばらく村にとどまった。
 だいたい始末がすんだあと、僕は病院へ彼を見舞った。
 狭い病室だった。僕が入っていくと、日の当たる窓際に座っていたリコシェが、ふわわと大きくあくびをした。対抗するように、僕の肩のトントンもその小さい口を精いっぱい広げて、ふわわとあくびをしてみせた。リコシェはやっぱり猫だから、あの程度の墜落じゃあ落ちたことにはならないらしい。まったくの無傷だ。
 そんなリコシェの横で、空キチは、あくびもできそうになさそうなほど、体中をましろな包帯で巻かれ、同じくましろなベッドに横たわっていた。
 「エンジンは、きちんと言ったとおりに片づけてくれたかい」
 空キチは、わずかに体を起こして、言った。
 「うん。でも、僕は百姓の出だからさ、何か間違ってても責任持てないよ」
 「燃料が抜いてあれば、とりあえず問題ないよ」
 「それはやった」
 「ありがとう。……エンジンさえ無事なら、いくらでもやり直しはきく」
 僕が後かたづけをみなすませたということは、あれだけ集まった野次馬が、彼が落ちたとたん、あっという間に消え去ったことも意味している。彼の身を案じたいく人かの友人が―――その中には、かのおさげの少女も含まれていたので、僕はどういうわけだか安心したのだが―――彼を医者のもとへかつぎ込んだが、そこまでだ。
 「やり直すのかい?」
 「次こそは絶対うまくいく。この失敗で何かがつかめたような気がするんだ」
 何かって、何がだ。
 「僕はあきらめない。絶対、あきらめないぞ。空を飛んでみせる!」
 無理だろうな、と直感的に僕は思った。それでもかの村人たちは、彼が飛ぼうとするときには、またあんな風に励ましの言葉をかけるのだろう。そして失敗したとみるやすぐさま去る。
 彼がいつの日か成功するときまで、『世界初の偉業』という勲章と、それから彼の家の財産が残っていることを祈るほかはない。
 僕が立ち上がると、空キチが体を少し起こして言った。
 「行ってしまうのかい?」
 「うん」
 「別に急ぎの旅じゃないんだろう? これからも僕の研究を手伝ってくれないかな?」
 僕は肩をすくめた。
 「やなこった」
 空キチも、右肩だけを軽くすくめて、小さくうなずくと、再びベッドに体を横たえた。


 そういうわけだから、僕はまだこうして歩いて旅を続けている。
 いつの日か、空を飛んで旅ができる日が来るのだろうか。それは、はたして旅と呼べるものなのか、そして、トントンはきちんといっしょに操縦席にいてくれるのか、ちょっとだけ心配してみたけど、僕が心配してみてもどうにもならない。
 空を見上げた。抜けるように青い空だった。飛びたいとは思わないけれど、僕も、空が大好きだ。
 トントンが肩からぽぅんと飛び降りて、下り坂をたったか走り出した。僕も、それを追って走る。
 空を飛ぶためには、はばたくんじゃない。前に進むんだ。そうだよね、空キチ。



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