たびねこ綺譚 〜にわねこ〜


 僕の家の庭は、畑だった。一年中、きゅうりだのなっぱだの何らかの緑が居座るその片隅に、申し訳なさそうに、れんがで囲われた花壇があり、すみれや菊の眷属が暖色を彩っていた。それがせいぜいのアクセントで、あとは柿の木、南天とさるすべりもあったろうか。
 裏庭には、物置小屋と、ネギがせいぜい育つ暗い畑があり、あと、風が強い土地なら防風林なんだろうけど、僕の家の場合は一本だけやけに高い木が立っていた。その木が何という種類のものなのか、僕は知らない。たぶんけやきだと思う。
 あと、犬とチャボがいた。犬は柴犬で、なぜだかちっとも吠えなかった。小屋の中で、いつも寝ていた。代わりにチャボが、庭の支配者のような面構えで、ちっぽけな体のくせに表庭裏庭ところかまわず、のっし、のっしと歩くのだった。
 それが僕の庭だ。
 庭とは、それ以上のものじゃあない。日常にあるその価値を、僕は見いださなかった。それは必ず僕のそばにあったし、自分の家という枠に収める必要なく、旅の途でも落ち着いて辺りを見回せば、等価値あるいはそれ以上のものを、必ず見つけることができた。
 逆に、岩だの池だのを配し、敷き詰められた小石に縞模様を描いたりして丁寧に造りこまれた庭園が、宇宙を表現しているといわれても、僕にはさっぱり解らないし解りたいとも思わない。
 庭は、誰かのわがままでできるちっぽけな枠に過ぎない。それでいいのだ。


 その庭を『見る』彼女の瞳は、灰色に濁っていた。めしいだ。
 「よい天気ですね。陽射しの中で、舞い落ちる木の葉がとてもきれい……」
 「……解るのですか?」
 「えぇ、もちろん」
 「そうですか……」
 旅に出れば恥はかき捨てなんてことをいう。でも、今回ばかりは、僕はすっかりかしこまりながら会話をしていた。正座なんてしているから、よけい居住まいが悪い。
 僕の向かいでやはり正座して、お茶を上品にすすっているそのめしいの女性は、いわゆる旧家のご令嬢である(若いが、年齢を訊いたら今の粛々とした雰囲気がだいなしになるだろう)。昨今の体を締め付けるばかりの装いからは及びもつかない、とてもゆったりとした旧来の服装だ。床まで届く緑の黒髪とは対照的な白の小袖、下半身は緋の袴に白足袋。それぞれ一枚ずつしか着ていないらしく、襟元からはつややかな肌がこぼれていた。―――淑女と呼ぶにしては、ずいぶんとラフな格好だが、目が見えないとそういう点気を使わないのだろうか。それに、もうだいぶん秋も深まっている。見た目に寒そうなのだが、当人はどこ吹く風だった。


 僕と、相棒のちび黒猫トントンが、その蒼然としたおやしきにやってきたのは、今朝がたのことだ。そう、邸宅とかあるいは住居とかいうよりは、おやしきというのがいちばんしっくりくる。
 古くからの城下町でありながら、この町は戦乱に巻き込まれることがなかった。それで、古色の濃い町並みと、入り組んだ堀が、今も落ち着いたたたずまいを残している。その中でもひときわ古びていたのがそのおやしきで、離れの庭を散策路として公開していた。前夜泊まった宿の親父は、今やこの町の観光の目玉だ、とてもいいところだからぜひ見ておくように、としきりに勧めてくれたものだ。
 ならばと入ってはみたものの、せいぜいよく表現して、巨人の盆栽といった風情だった。お年寄りにはおさまりのつくものかもしれないが、僕には剪定ばさみを持つ趣味はまだない。ゆっくり歩いて通過することに意義を感じよというのなら、それこそ旅烏には退屈なだけだ。さっさと出て、歴史情緒あふれるこの町からも、とっととおいとまするつもりだった。
 が、トントンが、突然気まぐれに走り出して、深く高い生け垣の下をくぐっていってしまったのだ。そして戻ってこない。
 枝と枝の間から覗いてみると、生け垣の向こう側にはさらに広い庭だった。その向こうに、比較的今風の建物が建っていて、どうやらこのおやしきの本宅と思われた。だが、生け垣の中に格子竹垣が組まれているので、猫はともかく人はそこまで行けそうにない。離れと本宅を結ぶ通路らしき木戸は、ここが名所になったためだろう、大きな錠でかたく閉ざされていた。
 しかたないので、いったん敷地の外に出て、門番にさんざ頭を下げて、本宅に入れてもらった。おそらくはめったに開かないばかでかい正門の横の、使用人用の木戸をくぐると、そこからおやしきまでの間にずっと庭が広がっていた。ぽつんと浮島のように潅木が植わっている他は、白い小石が敷き詰められ、さんさんと当たる日が照り返してひどくまぶしかった。小鳥も下りてくる様子がないそこは、先ほどの離れの庭同様、僕には何の感慨も及ぼさなかった。感慨があるとすれば、広さにだ。
 しかし、トントンを探しながらぐるりおやしきを半周した後に僕が見たのは、ちび黒猫を抱え上げるめしいのお嬢さんと、そして、表とは正反対に『雑然と調えられた』庭だった。


 土塀に囲まれた、表とは比べものにならない狭い敷地に、ほとんど裸になった雑木が何カ所かに固まって数本ずつ。いくらか綺麗にされている部分は花壇のようだが、囲っているはずの丸石かれんがは、落ち葉に覆われて見えなかった。その内側も、花はもうすっかり終わり、しぼんで枯れ色をさらすばかりだ。そうでなければ、春咲きか夏咲きか、草花の植えられていた跡。
 岩をいくつか埋め込んで作ったらしい池は、小さいうえに藻で濁っていて、鯉が泳いでいるようなのだがぱしゃりとも音がしない。池の周りに植わっている、やつでや水仙といった常緑のものも、今はどこか茶色がかって、苔のようにちぢこまって見える。庭という存在にとって、晩秋の今は、一番寂しくうらぶれるときなのかもしれなかった。
 「庭がお気に召しまして?」
 「いや……表とはえらい違いだと思って」
 「表庭は父の趣味ですの」
 お嬢さんは、茶碗をそっと茶托に戻し、手を膝で丸くなるトントンに移した。黒い毛並みを撫でる指先の繊細な動きがよほど心地よいのか、現金なことに、トントンはすっかりなついて、ごろごろ、とのどを鳴らしていた。
 「……あなたは、ずいぶんと遠いところからおいでになったようですね」
 お嬢さんは、その濁った瞳で、僕をじっと見据えて言った。
 「……よく、解りますね」
 「光を失ってからもうだいぶ経ちますから……およその雰囲気で、人となりくらいは解るようになりましたわ」
 人となりですむなら幸いかもしれなかった。お茶をいただきながら、僕は旅の話などお嬢さんにしてさしあげたわけだが、なんというか、つっこみが鋭いのだ。
 「その町は、山から吹き颪す風が寒くて辛かったでしょう」とか、
 「赤い一等星と金銀の三連星の間にあるなら、それは煙草型ガス星雲ですわ」とか、
 まるで見てきたように言う。
 「風景が見えるようですわ、あなたのおはなしがお上手ですから」
 お嬢さんはそんなふうに持ち上げてくれるが、もう何年もめしいであるはずの彼女の目には、いったい何がどのように見えているというのだろう。
 僕は逆に尋ねてみた。
 「あなたは、旅をなさらないのですか」
 お嬢さんは伏し目がちに答えた。
 「えぇ、父が、女は家におれとうるさいものですから。この屋敷から出たことさえほとんどありませんの……庭が折々に奏でる調べを、こうして静かに聞くことだけが、たったひとつの楽しみですのよ」
 一度目を閉じ、それから、ふっと顔を上げて目を開けた。濁った瞳に、吸い込まれそうな気がした。
 そして彼女は、突然耳に手を当てた。
 「ほら……こおろぎの声が聞こえてきますでしょう?」
 くりり……こるるるるる……あぁ、本当だ、とうなずきかけて、……僕はびっくりして背筋を伸ばした。僕が今朝ここに来て、どれくらいが経ったっけ?
 はっと庭を見た。空は朱に染まっていた。たなびく紫色の雲。カラスの声までが、ぁあ、ぁあ、と聞こえてくる。そんなに話し込んでいたろうか。いや、そんなはずはない! 僕は思わず縁側に飛び出しかけて、
 「どちらに行かれるのです?」
 お嬢さんの、こともなげなのどかな声に、僕はあぜんとしたまま座布団の上に引き戻された。お嬢さんは再び、上品に、じゅっとお茶をすすった。その膝の上で、トントンは丸くなって、からだをほわほわと小さく上下させていた。完全に眠ってしまったようだ。
 「えぇ……いまどきは、もうすっかり葉も落ちて、景色はさぞ殺風景なのでしょうけれど、虫の音はせつなさを増して美しくなるんですのよ」
 「そんな……ものですか」
 紫色の宵闇、響きわたる虫の音の中で、僕は再び、ひたすらかしこまって座った。お嬢さんは幸せそうな笑みを浮かべた。こうやって『自らの楽しみ』について聞く人が、さぞかし少なかったのだろう。
 「でも、意外にお思いになるかもしれませんけど、冬の方が良い音が聞こえてきますのよ……解ります? 雪の降る音。しんしぃん……しぃぃんって」
 部屋が急に灰色になった。庭を見ると、そこは雪に包まれていた。僕は、しばし無言でその光景を眺めた……今度はもう、立ち上がらなかった。湯飲みを取り上げて、ひとくちすすった。お茶は、すっかりぬるくなっていた。
 お嬢さんは静かに語った。
 「神の降臨って、もしもあるなら、そんなふうじゃないのかしら……鈴の音も讃美歌も、きっとふさわしくはないのですわ」
 鈍色に曇る、空から空から、とめどなく粉雪が落ちてくる。白い軌跡は、風に吹かれて、斜めになったり渦を描いたりした。そうして積もって、池まわりの岩にかぶさる大きな綿帽子、枝の上のねじれ蛇。すべての音を吸い込んで、汚れてゆくのだろうか。
 お嬢さんの言葉は、いよいよ滑らかになっていく。
 「だから春にこそいのちの息吹と讃歌……私、冬のうちに、花の種や球根を植えておきますの。どんな種類かはあまり気にしません。花の香りがして、虫の羽音が伝わってくるなら、それでいいんです。今年は菜の花をいっぱいに咲かせました。花の放つ香りに絡みながら、連れだって飛ぶ蝶が暖かな陽射しを乱しますわ。その揺れ具合は、木漏れ日よりも美しいんですのよ。えぇ、それは私の目にも解ります……」
 夢見がちに語るお嬢さんの瞳にとらわれているうちに、今度は部屋が急に明るくなり、庭はその言葉通りに変わっていた。いっぱいといっても、狭い花壇には、せいぜい数十株というところだろうか。黄色の菜の花が、森林のように揃い立っている。天に向かう黄色の花弁は、蝶たちを招いているようなのだが、どこ吹く風でデートするもんしろちょう。
 「でも春は、音や光より香りが楽しめる季節ですわ。花ではなく……なんといえばいいのかしら、萌えいずる匂いというのは、何にもまして気高いものです」
 いずれの木からも芽が吹いていた。あぁ、あの木はこぶしだったのか。枝の先に、紫の飾りをつけた長い花柱の白い花。仕事中の蜂がさまよっている。
 「夏は、蝉ですわ。熱気と、蝉の声だけで、何もかもがかき消されるような気がします。私、暑さに弱いものですから、それでもう十分参ってしまいますの。手入れは庭師に任せて、私は部屋の中でおとなしくしておりますのよ」
 部屋は高い陽射しとよしずの陰で暗くなった。よしずの向こう側は、逆にぎらぎらと輝いていた。
 みぃんぃんぅぃんぃんじじじじ。背筋が急に熱を帯びて、汗ばんでくる。暑い。やはり蝉の発する音波にはそういう作用があるのだろう。外の堀から忍び込んでくるのだろうか、池から、かえるのわめき声もする。蝉取りの子供の声も通りすぎていった。ノイズに満ちてなおけだるくなる。
 お嬢さんが胸元をわずかにはだけて、手で風を送り込んだ。首筋から汗がひとしずくその中に転がってゆく。少々目のやり場に困る。そっぽを向くと、大輪のひまわりがよしずの隙間から覗き込んでいた。
 「はやく夜にならないかといつも思いますわ……聞こえますか?虫の大合唱。かえるもね、夜の方がうるさいんですのよ」
 宵の涼風が出番とばかりに吹き込んできて、背中の汗を乾かした。よしずは取り払われて、よそに立てかけられていた。星ぼしのさざめきに気づきもせず、虫と蛙は蝉並みの大騒ぎを繰り広げる。ついには、はるかかなたに花火が打ち上がった。どん……ぱららぱらぱらぱら。はかなく消えていく夏の夜の……。
 ことここにいたって、僕は、立ち上がった。お嬢さん、もう、やめましょう、とは言えなかった。
 二歩、三歩、縁側に向かって足を進めた。敷居を越えた瞬間、……秋の昼下がり、うらぶれた庭がそこに広がっていた。申し訳なさそうに、池の鯉が一匹、ぺしゃっと小さく水しぶきを上げた。
 「何事かございました?」
 お嬢さんが僕を見上げる。濁った、灰色の瞳で、頼りなげな微笑みを浮かべながら。
 そして、確かめるように、トントンの背をすうっと撫でた。すると、ずっとその膝の上で丸くなっていて、眠っていたかに見えたトントンが、急に目を覚ました。トントンは、何事もなかったかのように、お嬢さんの膝を下りて僕の体を例の調子でとんとんと駆け上ってきた。
 お嬢さんも、つと立ち上がって縁側に出てきて、僕の隣に立った。立ち居振る舞いがしゃんとしていたせいか、それとも長い黒髪に気を取られていたせいかまるで気づかなかったが、お嬢さんは僕よりずっと背が低かった。見下ろしてしまうと、彼女の濁った瞳は、いっそう頼りなくみえた。
 「いかがです?丹精込めて作った、私の庭ですわ。私の」
 「えぇ、まぁ」
 僕はそれ以上に答えることができなかった。
 「気に入っていただけて、何よりです。……それでも」
 めしいのお嬢さんは言った。
 「自由に旅のできるあなたが、うらやましくてなりませんわ」


 僕は、丁寧にお礼を言って、そのおやしきを辞した。
 幾度も頭を下げる僕の見る先で、いかめしい顔の庭番が、開くことのない正門の、その横の木戸を、ぴしゃっと閉じた。お嬢さんには申し訳ないような気もするけれど、それで僕とこのおやしきとの関係はしまいだ。
 僕はその場で、トントンを肩に乗せたまま、はるか空を見上げた。あぁ、なんて広い空なんだろう。
 胸を張って旅を続けられる、そんな気がした。



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