たびねこ綺譚 〜やまねこ〜


 入道雲は、海で見るがよいか、山で見るがよいか。難しい命題だ。断然海という人もいるだろうし、どちらにせよ見られれば幸せを感じるという人もいるだろう。嫌いだという人もいるはずだ。だが僕は山を推したい。特に、尾根のフォルムの麗しい、コニーデ型の山の頂付近から、ねりねりねりっと立ち上るさまは、太古の時代において天へ上るために造られた塔を思い起こさせる。
 だが山で入道雲を見るということには、大きなデメリットがある。ただでさえ変わりやすい山の天気、入道雲が生まれるのは、大気の流れが乱れていることそのものに他ならない。
 すなわち、僕と、僕の相棒であるちび黒猫のトントンは、山の頂き近くに建立された古刹に、もう三日も足止めされていた。あの見事であった入道雲は、そのまま空を覆い尽くした。そして、いきなり空を裂く稲妻とともに降り出した雨は、いつまで経ってもやまないのだ。
 高くも険しくもない山だが、僕は別段本格的な登山装備を持っているわけではないから、雨中に山を下りるのは危なっかしい。だが、お斎にもすっかり飽きてしまった。トントンに至っては、もう味噌汁かけご飯には見向きもせず、だが雨に打たれて獲物を探すのもいやと見えて、買い置きが残りわずかしかないという濃い山羊の乳を少しずつなめてしのいでいる。
 「やみませんな」
 「はぁ」
 ここには和尚さんがひとり住んでいるきりだ。和尚さんというとお年寄りで、毎日のお斎も黙々と食べるかと思いきや、この和尚さんは若く筋肉質で、頭は剃っているが艶すらある黒い頬ひげをぼうぼうに伸ばしたままの、豪放きわまりない破戒僧である。だからこそ本山の偉い衆にこんな山奥に押し込められたというのが真相らしい。
 難しい教義はさっぱりの僕だが、和尚さんの修行が足りていないというのはよく解る。少なくとも、毎日毎日お経は読んでも、神明に碧落一洗の願を容れてもらうだけの信心は持ち合わせていない。
 なんとも和尚さん、酒も肉も切れた日に降り出した雨に、口が寂しくてならぬ、不浄のものが食いたいといって閉口しておられる。この様子だと、悟りを開くのは、だいぶ先の話になりそうだ。
 「……猫を食ってよろしいか」
 「よくありません」
 やまぬ雨空を眺めながら、坊の縁側で和尚さんと他愛ないおしゃべりに興じて暇をつぶしてきたが、三日目ともなると話すことがもうない。それどころか、今日はもう先の会話ばかりを繰り返している。
 「以前にも土砂降りの日にな、かような山奥に猫が迷い込んできましてな」
 「はぁ」
 「餌などやっておりましたが、どうにも雨がやまぬのでいらいらして、その猫をふんづかまえて皮を剥いで生で食うてやりましたら」
 「はぁ」
 「途端にからりと晴れましたわ」
 「はぁ、さようで」
 「……そういうことがもう三べんもござってな」
 その話はもう六ぺんは聞いている。
 「そういうわけなのでな」
 「はぁ」
 「その猫を食ってよろしいか」
 「よくありません」
 僕と和尚さんは、縁側に座ってしとしと降り続ける雨を眺め続けていた。トントンは僕から少し離れたところ、僕には近づきたいが殺気にあふれる和尚さんには近づきたくない、というほどの距離で丸くなっていた。
 雨は、いつまでたってもやまなかった。


 五日目になった。
 「猫を食わせてくだされ」
 毎日米と野菜の生活となれば、なんとなく健康に良さそうなものだが、和尚さんはだんだんやつれているかのように見える。
 「長雨は猫を食らわぬことにはやまんのじゃ」
 雨はさっぱりやむ様子がない。どぉん、がぁんとうなるような音がときおり聞こえてくるようになった。おそらくは、そこかしこで地盤が緩み、小規模な土砂崩れや地滑りが起きているのだろう。この建物のある辺りは、比較的岩盤がしっかりしているようだから、その心配はないが、街に下りる道が崩れて孤立する恐れは十分にある。
 僕がちっともトントンを差し出さないので(するもんか、そんなこと!)、とうとう、和尚さんは折れた。
 その日の朝、山道の状態を確かめるため、それと、おそらくはこちらが主だろうが、いろんな食料を調達するために、蓑と笠を身に着け、雨をおして山を下りていったのである。常でも二時間はかかる山道である。すっかりぬかるんだ今だと、朝早くに出ていったとはいえ、夕方になっても帰ってくるかどうかは怪しい。
 僕はひとり、縁側に取り残された。
 「なーお」
 トントンがこのときを待っていたとばかりに駆け寄ってきた。和尚さんがいるととかく安心できなかったのだろう。あぐらをかいて座す僕の股の辺りにくるんと丸くなった。その頭を撫でてやると、目を細めて満足そうだ。
 しばらくそうしているうちに、トントンの体が快い律動を繰り返すようになった。眠って、呼吸のたびに、大きくなったり、小さくなったり。見ているうちに、僕も引き込まれるように肩を軽く上下させ、いつの間にか、うとうととしていた。
 なおー、という声で我に返った。
 気づくとトントンがいない。声は、本堂の方から聞こえたような気がする。僕の今いる坊から、本堂まではさほど離れておらず、屋根のある渡り廊下で結ばれている。僕は、立ち上がって、本堂に向かった。
 和尚さんから、本堂には入るなといわれていた。特に、本尊の安置されている部屋は、神聖な場所だから決して足を踏み入れてはならぬと。
 本堂の入り口でトントンは待っていた。僕が追いついて抱き上げようとすると、トントンは腕をするりと抜けてさらに奥に向かって歩き出した。僕も後を追った。
 木造の本堂は、湿気を含んだ空気がこもっていた。左右対称に突き立つ幾本もの太い柱も、つるつるに磨き上げられた床も、今は触るとなんだか粘っこい。普段丸く掃く掃除しかしていないらしく、隅っこで大きな顔をしているクモの巣にはカマドウマの抜け殻が引っかかっていた。
 正面を見ると、もうひとつ部屋があって、その奥に御本尊の木像が安置されていた。何やらご大層な、特にやたら派手な後光の彫刻が施された台座の上に鎮座ましましている。その手前には、燭台とか、献花台とか、鉦とか、和尚さんがお勤めをするための道具が雑多に並んでいた。雑といえば、経典の巻物らしきものが座布団の上に放り出してあったり、横の壁に作りつけの戸棚は開けっ放しで線香の束が転がり落ちていたりして、部屋全体がまったく雑然としていた。入るなと言ったのはこの散らかりようを見せたくなかっただけのように思えるほどだった。和尚さんの不精ぶりがうかがえた。
 その部屋から、トントンの鳴き声がした。
 「だめだよ、トントン。そこに入っちゃ」
 だが、どうも様子が変だ。本尊の台座の裏で、何やら、ふんふんと臭いを嗅いでいるのだ。何かあるらしい。
 ちょっと悩んだが、あの和尚さんが入っていい場所なら、僕ぐらいの俗人は許してもらえるだろう。ままよとばかりに、敷居をまたいで足を踏み入れた。そして部屋を横切り、トントンが顔を突っ込んでいる本尊の裏に回ってみた。
 楕円形の台座は、上部、つまり像が座る部分の方が床に接している部分より広くなっていた。だから、台座は裏で壁に接していたが、下の方にけっこう広い隙間が空いていた。
 その隙間に───木製の偶像が捨て置かれたように転がっていた。トントンは、この偶像に鼻をすりつけていたのだ。明るいところに引っ張り出して、袖口でほこりを拭ってやると、なんとまぁ、猫の顔をしているではないか。それ以外は、二本の足も、六本の手も人間をかたどっているせいか、人間くさく見えぬこともないが、瞳と耳が特徴的に猫のかたちをしている。
 それに、ほんのかすかに、何か妙な香りがする。トントンがまだ鼻を鳴らしてるところから見て、これはマタタビのように、猫の好む臭いを発する種類の木でできているらしい。トントンは、前々から、おそらくはここに来た当初からこの偶像のことを嗅ぎつけていて、僕にその存在を教えたがっていたのかもしれない。
 しかし、なんだってこんなところに偶像が放り出されているんだろう。
 偶像を抱え上げて、立ってみた。後を追うように、トントンが僕の体を駆け上がる。そしてまた、僕の肩の上から、顔を突き出し、ふんふんと匂いを嗅いだ。
 そうしてじっとしているうちに、何かとてもあたたかいものを感じた、そう、今飾られている御本尊よりも、この偶像の方が、はるかにありがたいありがたいぬくもりを発しているような気がした。それは、なくした古いおもちゃを偶然見つけたときの、あるいは、ショーウィンドウの向こうの素敵な靴を買うためのお金が貯まり、今まさに買いに行こうとするときの、すべてから遠く隔てられたせつなさに似ていた。───僕とトントンは、いつまでも飽きることなく、その猫の像の優しい瞳を見つめていた。
 ……ひとしきり快い心の空回りを楽しんだあと、僕の気持ちは固まった。
 なんだって猫の像が放り出されていたのか、そんなことはどうでもよくなった。いくらでも予想はできるが、それが正しかろうが正しくなかろうが、今からすることは同じだ。もう、決めたったら決めたんだ。
 僕は、トントンを見て、にかっと笑った。トントンは、機嫌よさげに、みゅうと鳴いた。
 すなわち、僕は直ちに今座している御本尊を蹴り倒して、代わりに猫の像を台座の上に据えた。微笑んでいるばかりの元御本尊は、さっきまで猫の像が転がっていた、ほこりだらけの台座の後ろに放り込んだ。……これでよし。
 服についた埃をはたいてから、新たな御本尊、猫の像の前に座って、軽く手を合わせた。すると───破風から、静かに陽光が流れ込んできた。


 「こりゃあ、いったいどういうことじゃあ」
 夕焼けの中、買い物をいっぱいに詰めた荷袋を背負い、膝まで泥まみれにして、和尚さんは帰ってきた。帰ってくるなり、美しく朱に染まった空を指さして、言った。
 「わしゃ、猫を食っとらんぞ!」
 僕は、坊の縁側に座って、太ももにもたれかかるトントンの頭を撫でながら、くすくすと笑った。
 「町で食べた肉に猫が混ざってたんじゃないですか」
 「わしが食ったのは牛じゃ。間違いない」
 和尚さんはまた聖職者とは思えぬことを言う。
 「だったら、これからは、山の登り下りをすればやむようになるんですよ」
 「うーん……よう解らんのう」
 和尚さんはいつまでも渋い顔で、納得がいかぬいかぬとぶつぶつ言っていた。
 それでも和尚さんは、買ってきた荷を整理すると、ろくろく足も洗わないで本堂に入った。そして、夕べのお勤めを小一時間ばかり続けた。
 灯明を点し、お供えを捧げて、お経を読み上げる。それで、息吹がかかるほどの至近距離まで寄っているはずなのに、和尚さんときたら、結局御本尊がすり変わっていることに最後まで気づかなかった。


 翌朝。
 まだ道はぬかるんでいるだろうと思ったが、和尚さんが僕の不埒な所業に気づく前に、さっさとおいとますることにした。当分気づかないだろうとは思ったけれど、やっぱり僕もお斎はもううんざりだ。麓に下りて、おいしいものを食べたかった。
 トントンが見当たらないので、すわ和尚さんが食ったかと思ったら、本堂にいた。羽目板の隙間から差し込む曙光の中に、背筋を伸ばして座り込んで、猫の像と相対していた。両方が、猫にしか解らない言葉を朝の空気に溶け込ませながら会話をしているようだった。
 僕は、なんだか邪魔する気が起きなくて、しばらく本堂の前で待っていた。
 山寺を去って、緩やかな尾根を下りる途中、肩に乗っかっているトントンに、何とはなしに語りかけてみた。
 「トントン。さっき、猫の神様と、何を話してたんだい?」
 トントンは、みゅう、と答えて、まっすぐに僕を見つめた。
 あの偶像のような、優しい、ぬくもりのある瞳だった。



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