猫又の灯
猫又の灯 ねこまたのひ 
文・絵 蒼竹りんの

 諦め悪く残る夕日の残滓を西の空に残し、夏の湿気に膨らんだ空気は夜の涼しさを ようやく吸収し始めていた。月の出ていない所為か、夕日が完全に消え去ると 周辺は随分と闇に感じられた。
 関口は中禅寺家の居間で団扇を片手に縁側口に座っていた。 空を見上げてぼんやりとしていた。
 この家の主人の方へ───居間の室内へ目を転じると、 座卓の向こうで京極堂が相も変わらずの不機嫌面で本を読んでいる。
 室内は明るく、先程まで庭と夜空の闇に目を休ませて居た関口はほんの少し 眩しさを覚えた。団扇を使う手もおぼつかなくなってきた関口に、 京極堂は唐突に口を開いた。
「石榴を、知っているね。関口君」
「は?」
 関口は面食らった。だが何はともあれ石榴は知っている。中禅寺家の飼い猫である。 いつも座敷の奥の角───太陽の光から一番遠い所───で伸びきって寝ているのだが、 そう云えば今日はまだ見ていない。今日と云っても、夕飯後に此処に来たのだから、 まだ三十分も経っていないか。
「そりゃあ知っているよ。君の飼い猫だろう?」
「そうだ。なんだ、覚えていたか。てっきり忘れているかと思った」
 京極堂は活字から目を離さないまま、さも以外そうに云った。
「昨日の夜にとうとう化けたんだよ」
「は?」
 いきなり訳の解らない事を云う。
「───また僕を騙すつもりかい。その手は喰わないぞ、京極堂」
「また、とは人聞きが悪いなあ。僕が相当悪い奴みたいじゃあないか」
 其処で京極堂は漸く顔を上げた。
 関口はこの偏屈な友人がどうやら機嫌が良さそうなのは見てとれた。
「悪い奴とは云わないけど。でも決していい奴じゃあないだろう」
 京極堂は非道い云われようだな、と笑うと座卓の上に手を伸ばして煙草を一本くわえた。 そのまま暫しの沈黙が流れた。関口は姿勢を京極堂の方に向けて、話の続きを問うた。
「化けたって、尾が二つに分かれて、手ぬぐい被ってかんかんのうでも踊ったのかい」
「君にしちゃあ上出来な知識だね。しかし、生憎と其処までは化けてくれなかったな。 僕としては其処までして欲しいものだったが」
 京極堂はそうして話だした。夕べの事だと云う。
 昨晩も昨晩とて、何時もながらに宵っ張りな京極堂は細君が床についた後尚、 延々と此の座敷で本を広げていたのだと云う。時刻は丁度丑三つ時、さていい加減 寝るかと重い腰を上げた時。
 にゃぁお。
 庭から、猫の声がした。
 飼い猫の声だとすぐに解り、京極堂は庭の闇に視界を向けたのだと云う。
 にゃあお。
 真っ暗な闇の中、やはり月は無く漆黒の空間に猫の影は同化していた。
 時折、がさがさと揺れる草の音が嫌に耳についた。
 ふいに、庭が何時もの庭で無い気がした。
 ぽっかりと口を開けた闇は、妙にその場に馴染んでいる。代わりに、むしろ自分の居る蛍光灯に 照らされた空間の方が余程異界地味ている。その場に似合わないのだ。
 関口はその気分が良く解った。
 異界は何時も口を広げて、何気ない顔をしてあちこちに転がっているのだ。
 三度、猫が鳴いた。

 にゃぁあお。

 違う。
 これは語っている京極堂の話の中の出来事ではない。
 今、現実に関口の認識するこの世界の中で本当に猫が鳴いた。
「───どうしたかね」
 語りを途中で止めた京極堂は云った。
 猫の───石榴の───猫又の───声は背後からした。
 庭からした。
 夕べ、異界の闇の中に飼い猫の鳴き声を聞いた京極堂は、何を見たと云うのか。
 話は其処で途切れ、異界は再び関口の背後に広がった。
 後ろの、闇に。
 この話の続きは京極堂が話すのではない、「これから起こる」のだ。
 京極堂が、肩肘を付いたまま、手首だけを翻してすっと関口の背後を指さした。
 関口は指の動きに合わせる様にゆうるりと首を曲げて背後へ顔を向けた。
 最初に目に入ったのは、二つの緑色の輝く瞳。
 闇にぽっかりと浮かぶ、二つの緑色の瞳。石榴だ。
 ゆるりと石榴の長い尾が揺れた。
 何故闇で尾が揺れたのが解ったのか、それは、気配と───
 ───尾の先が、朦朧と発光している。
 出た。

 ひゅうと音を出して関口は息を吸い込んだ。だが、吸い込まれた空気は大声に変わる前
に何時の間にか背後に立っていた京極堂にぱんっ!と頭をはたかれて止まった。一気に
放出され損ねた息は細切れになって、関口はむせた。
「げぇっほ! げほ! ひ───非道いじゃないか、し、しかも何だいその手に 持ってる物は!」
「ハリセンだよ。一昨日榎さんが置いていったのだ。いい音がして目が醒めただろう。 時間が早いとは云え君の間抜けな悲鳴が夜中に響いたんじゃあ、近所迷惑だ」
「しかしだな! 君、あれは───猫又───」
「よく見賜えよ」
 関口が再び庭に目をやると、大分目が慣れたのか、其処に異界はもう広がっていなかった。
薄暈けてはいるが、間違いなく見慣れた中禅寺家の庭である。そして、縁側に上ろうとしている石榴が居る。座敷の明かりに照らされて、もう瞳は光ってはいない。
 しかし尾は、尾の先はまだぼうっと小さく発光している。ゆらりと瞬いている。
 これは───
「──────蛍?」
 石榴の尾に、小さな虫がしがみついている。其れがやんわりと尻を光らせているのだ。
「最近、社の方に行って遊ぶ事を覚えたらしくてね。君は知らないだろうが、裏の森には 小さな小川が有るんだよ。小川と云っても本当に僅かな泉から溢れた水の筋だがね─── この家の前のの下水に直ぐ流れ込んでしまっている。流れる先は下水でも、湧く水はまだ 綺麗なものさ。其処に───僅かだが───昔から蛍が居る」
 石榴はぴょんと縁側に飛び乗った。すると蛍はすぅと猫の尾から飛び立ち、ゆらゆらと 瞬いて、闇に遠くなっていった。
「森に、帰ったのかな」
「そうだな。今日なんていい方さ。夕べなんて云ったら、全身に四五匹蛍を連れて意気揚揚と 帰って来たんだ、この猫は」
 其れが、猫又の正体か。
 京極堂はそう云って再び座っていた場所に戻った。そうしてにやり、として関口の心を 見透かした様に云った。
「夏の日には、こういう話が良く似合うんだよ。だから、石榴は『化けた』でいいのさ」
 関口は笑った。
「尻尾がふたつに別れる日も、近いんじゃあないのかい?」
「そうなれば、正真正銘の猫又なんだがなあ。生憎と今は『化け猫』止まりだね」
 そう云って、京極堂は煙草をまた一本取り出した。勧められて関口も一本受け取り、紫煙を ゆっくりと吐いた。
 石榴は部屋の角に重ねられた座布団の上で丸くなっていた。
 夜の虫の音に関口が気づいたのは、其の時だった。



「猫又の灯」了 脱稿1998/8/25 改稿1999/7/20

このお話は1998年8月に「京ネコ」さんの納涼企画に投稿したモノを加筆修正致しました。