伽藍堂戯説録外伝 「洋燈屋」 文・絵 蒼竹りんの 我々の知る世界と似ている街。 西国におわす帝と対を成し、東国にて軍事力に於いて世を治める者、 彼の者を"将軍"と云う。 時の六代目将軍が居城の城下町、 湾になっている入り江を囲むように、そしてその入り江に流れ込む川沿いに発達した街、 此の一大都市を"江都"と云う。 華の大江都、八百八町───人口800万人の大都市である。 この話は其処で起こった、小さな挿話である。 |
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やや肌寒くなっただろうかという、季節の深夜の事である。 草木も眠る丑三時とは良く云ったもので、成る程風が止むと草木は音も立てず闇と同化するばっかりだった。 其れに引き替え姦しいのは虫共の音色で、体を震わせて鳴く蝉に取って代わり、懸命に羽を擦り合わせて楽曲を奏でるのに忙しい。 此処は江都八百八町がひとつ、最北端の比丘尼町の更に一番北の端っこである。この先には田畑と、半里先に小さな村が有るだけという、深夜には星が降るばかりの靜かな所である。草はぼうぼうに伸び放題、この何もない叢の中に、一件の古びた襤褸家がひっそりと建っていた。 此んな様相の家で在るから、此処に人が住む事は比丘尼町の者、ひいては此の先を北に半里程歩いた所に在る村の者しか知らない。 つまり此の家を空き家と思い込む者は此の辺りの者にしてみれば余所者なのである。 夜になってももろくに灯りすら灯そうとすらしない、この襤褸屋に、今宵一人の余所者が迷い込んできた。彼は当然の如く、この襤褸屋を空き屋と信じていた。 ───真っ暗だ。 侵入者は襤褸屋に進入するなり、暗闇で荒い息を必死に押し込めながら思った。 若い男だった。はあはあと息をする度に肩の逞しい筋肉が上下する。襤褸家の雨戸が破れていたのを見つけ、そこから長身を捻り込むようにして侵入した。入って直ぐは乾いた木の廊下になっており、廊下の先も目の前の破れた障子の先も、漆黒の闇に閉ざされて何が有るのか解らなかった。 夜の闇とは、本当は漆黒ではない。月と星が有れば、案外と明るいのだ。 しかし此の古びた家の中には真実漆黒の闇が有った。男は唾をひとつ飲み込むと、漸く深い息をひとつついて気分を少し落ち着かせた。 ───逃げ切ったか。 男は手には掠り傷、服もあちこち刀傷だらけだった。ただ、その刀傷は体までは殆ど届かなかったらしく、服に血は大して滲んでいなかった。 |
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ふと、廊下の先の漆黒の闇が動いた。 男は気配を感じる事に長けていた。すっと身を引いて構えを取った。 「客ですか」 先に口を利いたのは、漆黒の闇の方だった。ハスキーだが、若い女の声だ。 「客ですか、でしたら、出来れば玄関からお越し戴きたいのですが」 女は云いながらすっと、半歩前に出た。 雨戸の隙間から漏れ込む月の明かりで、女の顔が見えた。頭に白い布の様なものを被っている、美人だが非道く無表情だ。 男はやや狼狽した。 「わ、悪ぃ…ああ、いや申し訳ねぇ。空き屋かぁ思ったンだ。頼む、半刻でいいから居させてくれ。なンもしねぇ、半刻したらすぐに出てく、迷惑はかけねぇ」 男は訛のきつい、早口でぼそぼそと云った。女は小首を傾げると「北の出ですか?」と聞いた。 「解っか。どうにも言葉さきついとこで育ったんでな…陸奥でも来っ途中難儀したんだ」 「そうですか。でも通じますから、大丈夫でしょう」 実際男は、なるたけゆっくり喋るように心掛けてはいるらしい口調だった。だから言葉の強弱と早さがごちゃごちゃになって、なんだかかたことな喋りに聞こえる。 「すまねぇ…その…」 「居たいだけ居て構いません。どうせ此処は私一人ですから、ご自由になさるが良いでしょう」 男は呆気に取られた。幾ら何でも見も知らぬ者を前にして女の独り身であまりに不用心である。 「ああ、家の中が暗いから動きづらいですね、ちょっと待ってください」 そういう事ではないのだが。男は結局所在なくなって、漆黒の闇の廊下の先に消えた女が再び戻って来るのを待った。女は手に奇妙な形をした、火の入った硝子瓶を持って戻ってきた。灯りのある中で見ると、家の中は綺麗に片づいていた。襤褸いのは外見だけだった様だ。女はやはり美しいが無表情だった。頭に被った白い布が、頭巾の様になっている。 「どうぞ、灯りが有れば気分も落ち着くでしょう」 女は火の入った硝子瓶を男に手渡した。上部に針金で吊した取っ手が付いている。 「………硝子の、提灯?」 「洋燈(らんぷ)と云います。江都で作っている職人は数える程しかいません」 銀の欠片でも散りばめられているのだろうか。硝子瓶はきらきらと炎を反射して小さな無数の星々を表面に煌めかせていた。男は素直に見とれた。 「綺麗だ…」 逃げて逃げて逃げて。 北国の山深い中にあった故郷の村から、男はずっと逃げっぱなしだった様な気がする。 ───行きなさい狼闇。 ───仇狼、それで正義を示したつもりかあ! 白い雪の中に咲いた、真っ赤な真っ赤な寒椿。 たかが二年前の事だろうに、遙か昔の思い出に感じる。男は瞼の裏に焼き付いたその映像を反芻した。狼闇(ろうあん)、それは男の名だった。仇狼(あだろう)は彼の異名だ。仇討ち専門の浪人として、狼闇は陸奥を南下してくる間、実に数え切れない人間を手に掛けてきた。今もそれで、仇打った相手の縁者に更に仇として追われていたのだ。 きりがない、もうきりがないのである。 狼闇はその叫び出しそうな感情が、一時であれ洋燈の炎に溶けた気がした。 「有り難う」 狼闇は零すように呟いた。本人は深く意味を考えていなかったが、なんだかこの女に感謝したかった。 遠く遠く遠く。 狼闇はもう引き返せない道を来たのだ。江都に来たからと云って何かあてが有る訳でもない。手探りでがむしゃらに進んできた暗い道に、ほんのりと灯りが灯った様な気がしただけだった。 ひょっとしたらこの女も何か理由が有って、こんな襤褸屋に一人で住んでいるのかも知れない。職人業をしている所を見ると世捨て人という訳でもないのだろう。狼闇は女の目を見た。目を見れば、狼闇は相手が信用出来るかどうか位は見分けられた。静かだが、真っ直ぐな女の目。狼闇を見るその目には、敵意が全く無い、哀れみもしていない、ただ、喋らなくても何かが通じる気がした。この目は。 「………あんたは、逃げなかったのか」 「いえ。逃げましたよ」 女は、初めて微笑んだ。 「逃げたから、こんなとこに住んでます。でも人里を離れることも出来ません、どっちつかずです」 「そう…なのか」 狼闇にはなんとなく解った。この女もまたもどうしようもない何かに「追われた」者なのだ。世間に怯えた事の有る者の目をしている、それを感じ取ったのだ。 しかし、何に「追われた」のかは解らなかった。 女はしゃがみ込み、狼闇と同じ視線になった。 「江都はどんな人間も受け入れてくれます。あなたもきっと大丈夫でしょう」 「…あんたは、なんで江都に暮らしていないんだ? すぐ其処が比丘尼町かと思うが、此処はもう江都からは外れているだろう」 「私には、江都は入りづらいのです。離れる事も出来ませんが、私は───」 ぱさり。 頭に被っていた白い布がふわりと床に落ちた。 其処には。 女の頭の左右に─── 角。 「邪魔だこの朴念仁、ああっお前が幾度となく頭をぶつけるから見てみろ、洋燈にひびが入ったじゃあないか。ひびを入れるならそのでかい頭蓋骨にしろ、家具に傷をつけるな」 「………あ」 江都に来て三年。 狼闇は伽藍堂という店に転がり込んでいた。幕府や奉行所とは必要に応じて非常勤で契約を結んで働いている。お上は金払いがいいから、狼闇くらい腕の立つ浪人なら暮らしには困らなかった。 「………ひび、入ってる。勿体ない」 狼闇はまじまじと洋燈を手に取った。 「その勿体ない事をしたのは誰だこの唐変木! 仕事が無いならその洋燈を直して貰って来い。いいか比丘尼町の北の店だぞ。お前の足なら往復しても大して時間はかからないだろう。ほら金だ。ちゃんと手土産も持って行くように、いいな」 美丈夫な伽藍堂店主はぽんと狼闇に小判を一枚手渡した。 ちょっと金額が多いだろう。 「…黄金の御菓子」 「そういうつまらない冗談は却下だ。この店の照明はみなあの店に世話になってるんだ。先月母屋に置く大型洋燈もひとつ注文したから、その分も兼ねているんだよ。お前だって世話になったろう」 狼闇が江都に来て、初めて世話になったのがかの洋燈屋の女主人である。いや、正確にはあの店は江都には無い。せいぜい境界線上に有る。そして何処にも行くあてがないなら伽藍堂という店に行けと───云ったのもその江都外れにある洋燈屋の女主人だった。 「なあ、藍(らん)」 狼闇は、美丈夫な伽藍堂店主を呼んだ。長い髪を揺らして藍が振り向いた。 「なんだ」 「あの───洋燈屋───は」 狼闇は云いかけて口をつぐんだ。 「どうした? 何か洋燈屋に具合の悪い事でもあるのかな」 藍が優しい口調になって訊いた。狼闇は其れを聞いて益々黙り込んだ。 いいのだ、あの洋燈屋についての余計な詮索は───それこそ野暮を通り越して無用なのだ。狼闇はそう割り切った。 あの夜、洋燈屋の女主人の頭の左右に見えた、巻き角。 女はあの後、夜が明けるまで再び頭に白い布を被ろうとしなかった。狼闇も何も云わなかった。頭に角が有る、ただ其れだけで他に何もなかったからだ。 「行って来る。大丈夫、ちゃんと手土産、買ってく」 狼闇はその長身を屈めて、伽藍堂の鴨居を潜って表に出た。 女は角について何も云わなかった。 藍も何も云わない。 女が云った言葉を、狼闇は思い出す。 「私は───鬼なのです」 |