僕のインド旅行記 
前書き
僕がインドに行ったのは、もう21年前のことになります。1981年12月12日〜1982年4月8日にかけてです。記録していた日記やノートも今はなく、残っているのは、写真と、頭の中の記憶だけ・・・。しかし、どういうわけか、どうしても今書きたくなってしまったので、書き始めました。少しづつ、書き足して行こうと思います。ただただ、構成も何も考えずに書いていくことになると思うので、どうなっていくかわかりませんが、いきおいのままに書いてみます。
なぜインドに行ったのかと、よく聞かれます。そんな時、その頃の状況とかいきさつとかを話しながら、いつもいつも思うのは、こういったことが僕の人生の選択において大きな大きな転換点になったということです。インドに行ったことも大きいけど、インドに行かざるを得なくなったということ、すごい力で後ろから押されたと感じたということ、これなくして、この旅行記は意味がないので、このお話は1981年の夏のできごとから書き始めたいと思います。
1 札幌
当時、僕は札幌で一人暮らしの大学生でした。学校にも人間関係にも疲れていて、この先、自分が何をしたいのか、どんな風になりたいのか、イメージも持てず、鬱々とすごしていました。実際のところ、この年、大学3年になって以来、学校に行くのは半分くらいになっていて、もちろん単位は足りないので翌年の留年はもう決まっていました。自分が何をしたいのか考えるため、先に進むのをやめたという感じでした。無理やりにそうしないと、時間がどんどん僕を押しやって、取り返しのつかないところに流されていってしまうような恐怖を感じていました。そして、なにより、無理して学生であり続けることが、精神的にかなり苦痛になってきていました。そうして空いた時間には、多くの時間、本を読んですごしました。また、目的なくぶらっと旅行をするのが好きでした。周遊券を使ったり、ヒッチハイクをしたり、寝袋と簡単な自炊道具を背中に背負い、特に目的も定めず、ただ気のおもむくままにぶらぶらしていました。その頃の僕にとっては各地にある無人駅は格好のねぐらでした。時には大きな駅の軒先で寝て、朝起きたら、通勤でいそがしそうな人たちを見ながら、そこでご飯を炊いて食べたり、山の中の無人の小屋を見つけて泊まったり、時にはテントを背負っていって、無人の原野で過ごしたりしていました。それは自分の内側で自分を見つめる機会になりましたが、依然として答えは出ませんでした。
1981年の夏、僕はやっぱり北海道をウロウロしていました。その頃、帯広に「かにの家」というのがありました。バックパッカーが泊まれるように大きなテントが張られていて、特に夏休みの時期には、多くの若者が集まっていました。僕は群れるのが好きではなかったので最初の頃は敬遠していたのですが、誘われるままに、ここに1週間くらい滞在しました。そこで、知り合った人たちと、いっぱい話し、歌ったり踊ったりと、その当時の僕では考えられないような時間をすごしました。そんな中で、一人の女の子と知り合いました。人生の話とか、政治、宗教、世の中に対して感じていることとか、夢中になっていっぱい話したのを憶えています。そのうち、彼女のほうから、淳ちゃんにはもっといっぱい話したいことがあると言い、東京に帰る前に札幌に行くので、そのとき泊まりに行っていいかと言ってきました。ちょっとドキドキしながらもOKし、数日後札幌で会いました。
札幌ではお決まりの観光に付き合い、楽しい時間をすごしました。夜になって、彼女が話し始めたのは宗教のことでした。彼女は自分の信仰している宗教を僕に伝えたかったのだと言いました。それは彼女にとっては役に立っていることはあきらかでした。彼女の前向きな姿勢の理由がわかったように思いました。でも僕はその話を聴きながら、何か違うと感じながら、でも、それに対して、きちんと反論できるものが僕の中には何もありませんでした。そして、彼女の勢いに引きづられ、翌日、札幌のその教団に連れて行かれ、彼女が東京に帰ってからも通うように勧められました。彼女の持つエネルギーにひかれていたし、そういったエネルギーを僕もほしいと思ったけれど、自分の中で、何か違うと感じながらも、そのときは、何が正しいのかわからず、答えの出せない自分、あいまいな自分を情けないと思いました。そしてその選べないという状態こそが、その当時の僕の問題点でもありました。
その後、彼女とは文通をしていましたが、教団からは連絡があるわけでもなく、自分の中で鬱々としていました。そんな時、ふと、本棚にあった「インドを歩く本」という本が目に留まりました。これは本屋で偶然見つけて、なんとなく買っていた本でした。最初に読んだときはひかれはしたものの、あまりに現実的ではなかったので、そのままになっていました。その日は、当時好きだった河島英五のレコードを聞きながら、歌詞が心に突き刺さってきて、ちゃんと自分で決着をつけなきゃいけないんだと思いました。そんな時、その「インドを歩く本」がすごくリアルに見え始め、きっとインドに行くことで、何らかの答えが見つかるはずだと直感しました。それは忘れもしない、もうすぐ明け方というときで、外は白み始めていました。僕は外に走り出し、そのまま川の土手までの道、数キロをめちゃめちゃに走り、朝日が昇るのを見ながら、インドに行くぞ、と自分に向かって叫びました。こんなことを書くのははずかしいけど、この日から僕の中で何かがはじけたように思います。そうして中途半端にしていた大学は半年間休学して、冬のあいだインドにいくことを決めました。急遽アルバイトを始め、仕送りをしてくれていた親には内緒で、インド行きの準備をすべて整え、出発直前にすべてを話し、強行しました。
今思えば、かなり強引でしたが、そのときの自分はそうでもせざるを得ない心理状態でもありました。何らかの答えを見つけない限り、もう前には一歩も進めないというところまで追いつめられていたというのが実情でした。そんなわけで、1981年12月12日成田空港発のパキスタン航空で、まずは、タイのバンコックに向かいました。これが僕にとって初めての海外旅行で、チケットは1年オープン、帰る日はまだ決まっていません。飛行機が離陸するとき、もしかしたら、もう帰って来れないかもしれないという思いと、打ち明けたときの両親の戸惑った顔と、中途半端なままでは帰れないという思いと、いろんな思いが交錯し、緊張し、同時にとても不安でした。僕は目を閉じて静かに静かに座席に座っていました。
2 バンコック
飛行機の中で、緊張してる僕に隣の女性がたどたどしい日本語で話しかけてきました。「あなた、キンチョウしてるね!」って!図星でした。そこにはタイの女性が座っていて、日本で一稼ぎしてバンコックの家族のところに帰るところだ、と言いました。そしてお互いにいろんな話をしました。彼女が日本で、日本人からとても親切にされたこと、そして、日本人の男性と婚約中でとても幸せだということ、僕も今の自分の感じてることを話し、インドへ行く途中なんだと言いました。その彼女にはもう一人連れの女性がいて後ろの席に座っていました。やはり同じように日本で稼いで家族のところに帰るところでした。そして、その彼女の隣に、日本人とおぼしき関西弁の女の子がいました。結局4人でいろんな話をして、不安はどこかに行ってしまっていました。
実は余談ですが、このとき後ろに座っていた関西弁の女の子はインドネシアのパスポートを持っていて、もともと大阪生まれの日本人だけど、バリの人と結婚してインドネシアのバリ島に住んでいる、と自己紹介し、バリ島のことを話して聞かせてくれました。僕がバリの事を初めて聞いたのはこの時で、その後バリに興味を持つきっかけになった出会いでもありました。ちなみに、その2年後僕が最初にバリ島に行ったときに、彼女を探しましたが、結局見つけられませんでした。実はさらにその数年後、偶然彼女の消息を、とある雑誌で見つけました。バリ人の彼との間がうまくいかず、別れることになり、国籍のこととか、お金のこととかで、かなり苦労をしたようです。そして、今ではインドネシアのどこだかで、自分の家を持ち、幸せに暮らしているとのことでした。だから僕がバリに行ったときには、すでにそこにはいなかったんだということを知りました。彼女とこの時、飛行機で会ってなければ、その後バリ島に興味を持つ可能性はかなり低いと思うので、この時の出会いはその後の僕にとってとても大きな意味があるものでした。
バンコック行きの機内に話を戻します。話の成り行きでバンコックでどこに泊まるかという話になりました。そのときはバンコックに着いてから2日後のカルカッタ行きタイ航空に乗るというチケットをもっていたので、バンコックには2泊する必要がありました。僕はインドのことはある程度調べていたものの、バンコックのことはほとんど何も情報を持っていなかったので、実はかなり不安でした。関西弁の女の子があるホテルの名前をあげると、タイの彼女が二人して、そこは高いからやめた方がいいよ、とのこと。で、それぞれ、となりに座った人のところに泊めてもらうということになりました。
バンコックに着いたのは夕方、薄暗くなり始める頃でした。機外に出てびっくりしたのは、南国特有のボワッとくる熱風とすごい湿気と、今まで嗅いだことのないような独特の匂いでした。そして、タイの人たちがこっちを向いていっぱい立っているのを見たとき、あぁ、来ちゃったんだなあって思いました。ほんとにもう戻れないような気がしました。あとは、あっというまに、タクシーに乗せられ、彼女の家に向かいました。かなり走ったように思います。あたりはもう真っ暗で、周りは田んぼばかりで他には何にもないって感じ・・・、わけのわからないところを走っているというのはかなりこわい経験でした。ここで放り出されたらどうにもしようがないわけで、きっとかなり不安そうな表情をしていたんだと思います。彼女は僕の顔を覗き込んで、「こわいんでしょう!」って、にやりと笑いました。
やっと町っぽくなって、降りると、かなりの田舎の風情、屋台が出ていて、いかにもバンコックの郊外って感じの場所でした。彼女には、荷物は気をつけて持ってね、と念を押され、付いていくと、やがて、水の上に板を渡した迷路のような狭い路地(路板?)を先へ先へと進んでいきます。周りの家はみな湿地の中に立っているようでした。会う人ごと、彼女に声をかけてきて、ぞろぞろ人もついて来て、やがて彼女の家に着いたときにはすごい人数になっていました。そして、彼女のお父さん、お母さん、おばさん、おじさん、兄弟、姉妹、いとこ、兄弟の子供、兄弟の奥さん、・・・次々と紹介され、絵に描いたような大家族の中でお客として歓待されました。
僕はバーツを持っていなかったので、ご飯から何から全部ご馳走してもらい、おまけに翌日はバンコックの観光にも連れて行ってもらいました。二日間、ほんとに家族のようによくしてもらい、カルカッタに発つときにはわざわざ何人かが空港まで見送りに来てくれました。インドで身体を壊さないよう、生水は飲んじゃいけないとか、虫に刺されたらこれを使えとか、タイガーバームを餞別にもらったりまでしました。何から何まで、なんと暖かい人たちだったことでしょう。その時は、初めての体験で、あれよあれよと言う間に、ことがすすんで、じゅうぶんなお礼ができなかったことが悔やまれます。
ひとつ悲しかったことがあります。チェックインで並んでいるとき、僕は、彼女の妹さんと二人で待っていました。妹さんは16〜7才くらいのかわいい女の子でした。チェックインカウンターに並んでいた日本人がいたので、カルカッタ行きはここでいいのですか、と僕は尋ねました。すると、隣にいる彼女を見、そして僕の顔を見、なんだか、冷たい調子で、そうですよ、って行ってそっぽを向いてしまいました。どういうことかわからなかったんだけど、なんだか悲しい気分がしました。あとで、聞いたことは、タイで女の子を買って、滞在中付き合い、帰りに見送らせるということがよくあるんだそうです。最近はどうだか知りませんが・・・。その日本人は僕たちをそう思ったんですね。複雑な思いでした。いろんな現実があることを思い知らされた感じでした。
でも気持ちを切り替えて、これからいよいよ、インドです。しかもこんどこそ正真正銘一人になると思うと、またまた、こわくなりながら、でもどこか、わくわくしてる自分を発見していました。バンコックからカルカッタまでは、あっという間で、誰と話すこともなく、ほんとあっという間にインドに到着しました。
3 カルカッタ
飛行機を降りたときの記憶はあまりありません。ひとつだけ強烈に覚えているのは、空港からカルカッタ市内へ移動するため、タクシーを探していたときのこと、初めてのインドでの値段交渉だったのですが、だいたいの相場がわからなかったので、たまたま近くにいた旅慣れてそうな背広を着た日本人(商社マン?)にカルカッタまでのタクシー料金がいくらくらいなのかたずねると、その人は勝手にタクシー運転手と交渉を始めてしまいました。それをとめて、ただ相場を教えて欲しいだけなんです、というと、「勝手にしなさい!」と怒って行ってしまいました。あっけにとられながらも、一息ついて、こういうことは自分であたってくだけるしかないんだなぁと思いなおしました。で、結局、何人かの運転手を相手に交渉して、僕が行こうと思っていたホテルを知っているという運転手の車に決めました。確か最初80〜100ルピーだった言い値を30ルピーくらいまでねばって下げさせて手を打ったんだけど、あとで聞くとそれでだいたい相場くらいだったようです。
そして、荷物を車に乗っけて、インド特有のアンバッサダーのタクシーでカルカッタ市街に向けて走り始めました。車で驚いたのは、走り始めて、すぐにダッシュボードから煙がモクモクと出てきたことでした。びっくりしていると、運転手は「No problem!」を連発していました。何とか走りきって、カルカッタの町の中で、あれがそのホテルだといわれて車を下ろされました。言われたホテルに入ってみると、なんとぜんぜん違うホテルで、確か、そのホテルの名前はMoring Lodgeだったかな、僕が行きたかったのは、Modern Lodge、ちょっとした違いが大きな違いで、でっかい荷物を背中にしょったまま、雑踏の真ん中で地図を広げる羽目になってしまいました。調べてみると、そんなには遠くなさそうなので、何とか歩いていけそうでした。地図を見ていると、インド人が何してるんだと教えてくれようとします。で、このホテルに行きたいというと、あっち行って、こっち行って、と教えてくれます。最初はありがたいと思いながら、歩いても歩いても、たどりつきません。まったく反対を教えられていたり、どうも知らないのに知ったかぶりしているような反応だったりで、結局最後には、やっぱり腹を決めて、自分がいる場所を徹底的に特定して、自力で地図を解読して、目的地まで行く、ということでした。そして多分1時間くらい歩き回った挙句に、目的のホテルのある一角にたどりつきました。
このあたりは、安宿がいっぱいある場所で、僕の予定ではその中の Paragon か Modern Lodge か、どちらかにしようと思っていました。最初にParagonに行くと、安いドミトリーが空いていなかったので、となりのModern Lodgeに行きました。そこでは、1日8ルピーのドミトリーが空いていたので、とりあえずそこに決め、これで一安心、しばらくは寝れる場所を確保したというわけです。この部屋には10台くらいベッドが並べてあります。まわりには、ヨーロッパ人ばかりで、しかも長くインドを旅しているといった風情の人ばかりで、インドに着いたばかりの僕は最初のうちびびっていました。荷物をベッドにくくりつけて、のんびりしていると、隣のベッドの白人から、タバコがまわってきました。いわゆるガンジャですね。日本ではご法度のマリファナです。その時は初めてだったし、状況も何もわからなかったので、ごめんなさいをしました。
そのころのModern Lodgeには、数人の日本人がいました。聞いてみると、ほとんどの人は隣の10ルピーのドミトリーか、20〜30ルピーの個室にいるようでした。10ルピーの部屋で、そこにいた人といろんなお話をしました。そのとき、そこにいたのはMさん、Kさん、そして看護婦のSさんだったかな? 自己紹介し、ここについたばかりであること、これからどこへ行くか、まったく何も決めていないことなど、話しました。みな、それぞれにいろんな思いを持ってインドに来ていることがわかりました。Mさん、Kさんはインドに入ったばかりで、Sさんはもうすでに数ヶ月インドをまわっているところでした。その時、Mさん、Kさんが、淳ちゃんはこれやったことある?って、ガンジャを見せてくれました。さっき、まわってきたけど吸わなかったと答えました。「じゃあ、やってみれば」とすすめられ、今回は躊躇なく吸うことにしました。吸い方を教わって、一息、二息、すごく身体が落ちついて、静かな気分になっていくのを感じました。そして、しばらくすると、身体の中が見えるかのように、身体の中で何かが動いているのを感じ、しばらくそれを見ていると、身体の内側に宇宙があるって感じがしてきました。身体のある部分に意識を向けると、そこにエネルギーが集まってくるのがわかります。なにやら、エネルギーというか、気というか、あきらかに何かが流れていて、形を持ったり、色やバイブレーションを持って、身体の内側で動いていました。そうそう、頭蓋骨の内側に星がプラネタリウムのように輝いているのを感じたのです。そんな体験を話をしていると、とたんにすべてのことがおかしくなってきて、おかしくておかしくて、愉快で愉快でたまらなくなってきました。話しながら、笑い転げ、おかしいと感じていること自体がおかしくて、笑いが次から次へと沸いてきました。一緒にいる人たちが、もうずっと長く一緒にいる仲間のように感じ、今までのいろんな悩みがうそのようになくなっている感じでした。そのときの感覚というか知覚からいうと、あらゆる束縛が幻想であったかのように感じました。僕の内側で、何が起こっているのかいぶかりながらも、どこかで直感的には、ある種の真実を垣間見ているのだと感じていました。今まであくせくしてきたことが何の意味もなかったことであるかのように感じました。
これが僕の初めてのトリップ体験でした。今振り返ってみると、その後インドでは何度も吸う機会がありましたが、この時の体験以上のものではなかったと思います。感覚的にはもっと深く入ったりもしましたが、やはりどこか、現実から逃避するために吸っていたようなところがあったと思います。僕が完全にそういったものに依存しなくていいと感じるようになったのは、日本に帰って、踊りを始めてからでした。そういった種類の感覚を普段から持ちうるということがわかってから、そういった意識を拡大させたり、麻痺させたりするものが必要ではなくなったのでした。僕の経験からしか話せませんが、結局問題から逃げても何も解決されないということだと思っています。すばらしい体験は、すばらしいのですが、すばらしい体験に固執するようになると、それはまさに新たな監獄にしかならないということだと思います。そういえば、ホテルカリフォルニアってイーグルスの曲がありましたが、その歌詞の内容は、まさにそのとおりだと思います。ぜひ歌詞を読んでみて下さい。でも、そのときの僕は、すばらしいものを見つけたという感じでした。ここから何かが開き始めると感じていました。そして、そのときの僕には、硬い硬い殻を破るために、必要な体験だったのかもしれません。
それから数日の間、いっぱいいろんな人と出会い、話をしました。僕もいつの頃か、10ルピーのドミトリーに移動していました。もう何年も日本に帰っていないという人、ヘロイン中毒を治すために、それよりは弱いアヘンを吸っているという人、マザーテレサの病院にボランティアで通っている人、仕事をやめてきたという人、離婚してきたという人、みな、それぞれに感じていることを話してくれました。当時一番若かった僕の話もみな真剣に聞いてくれて、それぞれの立場から、いろんなアドバイスをもらったりもしました。白人とも話す機会がありました。彼らは大陸でつながっているからか、日本人より大胆な感じがしました。陸路やってきている人もいれば、それこそ何年もインドにいる人、毎年この時期には長期休暇をとって、数ヶ月インドを旅するんだといっている人もいました。そういえばアメリカ人で当時の大統領レーガンが辞めるまでアメリカには帰らないといっている人もいました。
いろんな人と話し、インドの人々の生活を見て、自分がなぜインドに来たのかわかり始めた気がしていました。カルカッタの市街に出ると、道端で寝ている人が大勢います。家族で道端に住んでいる人たちもいました。道端で、ご飯を炊き、眠る・・・、もちろんそれがいいということではありませんが、その人たちを見ていて、僕以上でも以下でもないことを感じました。同じ人間で、同じように喜び、悲しみ、怒っている。そこでセックスをして、子供もそこで生む。逆にそこに強さを感じ、僕自身の足りないものを教えてもらっているように感じました。
そういえば、インドに惹かれた理由の中に、インドには時間の観念を表す言葉として、今という言葉と、今以外と言う言葉があるだけだと何かで読んだことがあります。未来も過去も同じことで、今、という一点だけに存在意義があるといってるように感じました。
ここから見ると、むしろおかしいのは日本のあり方のような気がしてきていました。あまりにいそがしく、あまりに機械的に大事なことが何なのかわからなくなってしまっているように・・・。ここに来ている人たちのほうが、はるかにまともな感じがしていました。
インド入国から1週間くらいたった頃、僕は高熱を出しました。39度くらいあったと思います。動けないので、ずっとベッドに寝ていましたが、時々襲ってくる下痢の時だけ這い出すようにトイレに駆け込みました。なかなか熱が下がらず不安になりかけていた頃、そのホテルにいた日本の人から、いざというときのためにもってきたという、富山の薬をいただきました。そしてそれを飲むと、あっという間に熱は下がり、食べられるようになり、また動き出す意欲がわいてきました。最初の頃いっぱい話したMさん、Kさんは南のプーリーというところに、Sさんはバラナシに、すでに行ってしまっていました。僕もそろそろ動くときが来ていることを感じました。そして南へ下ることを決め、とても美しい海岸があるというプーリーという町へ、僕も行くことにしました。
3 プーリー 
カルカッタから鉄道に乗って南へ数時間、プーリーはヒンドゥー教の聖地、ジャガンナート寺院で有名です。お祭りのときには、何十万人という人が押しかけるのだそうです。また時期によってはカルカッタあたりからお金持ちが休暇でよく来たりするところだそうです。
前日に二等車のチケットを取りました。出発を待っていると、同じコンパートメントに家族連れが乗り込んできました。裕福そうな、頭にターバンをまいた紳士と、その奥さん、そして、その子供たち、クリスマスから新年にかけての休暇を家族で過ごすために、プーリーに行くのだとのことでした。お父さんは、僕にどこから来たのか、何をしているのか、と聞いてきました。日本から来て、学生であると答えると、どこの大学かと聞かれ、H大学に行っていると言うと、彼は身を乗り出した来ました。よく知っている人がいるとのことで、その後話を聞いていると、彼はカルカッタの大学教授で、H大の教授とは学会でよく会うのだとのことでした。いい大学に通っているねなどと言われ、こそばゆい感じとともに、自分が認められているような錯覚を感じました。考えてみれば、まったく馬鹿な話ですが、僕はまじめな学生の顔をして、まるで日本人代表として、悦に入って話をしていました。
あとからこのときのことを振り返って、ひどい自己嫌悪に駆られました。ある意味、インドにいると、日本人であるというだけで、特別な人間になったような錯覚が起こります。日本というブランドに守られていないとバランスを取れない自分を情けなく思いました。このことは、その後アメリカに行ったときに、強烈に思い知らされることになります。アメリカでは僕はアジア人でした。英悟も満足に話せない東洋人として、引け目を感じている自分に直面したのでした。
ともあれ、列車はプーリーの町に着きました。旅行者が新しい町に着くと、まず最初にする必要があるのは、泊まるところを見つけることです。駅前にいたリキシャの兄ちゃんが声をかけてきました。話していると、数日前、二人の日本人が来て、あるコテッジに連れて行ったとのこと、きっと、MさんとKさんのことだろうと思い、彼に連れて行ってもらうことにしました。そうしたら、そこは海岸沿いにある素敵なコテッジでした。彼らは、僕を見つけると、とても喜んでくれて、エキストラベッドを入れて、また彼らと部屋をシェアすることになりました。一人当たり、1日15ルピーほどだったと思います。部屋は二階建ての二階で広いバルコニーがあります。目の前はすぐ砂浜になっていて、大きなインド洋が広がっています。
ここはカルカッタとはまるで違って、とてものんびりした田舎で、人ものんびりしていました。いわゆるリゾートと言ってもいいような場所で、すぐ隣には、小さくて安いレストランもあり、ちょうどクリスマスからお正月にかけて、ここで休暇を過ごす人たちのために、あたりには、安いコテッジがいくつかありました。それからしばらくの間は毎日、青い空と海を見つめながら、すごしました。
  
この町にはガンジャのガバメントショップがありました。政府公認のお店ということになるのでしょうか?確か、カルカッタにもあったように覚えています。僕自身は自分で買ったことがないので、確かなことはわかりませんが、日本人でもそこで買うことができたそうです。そして、町の中ではバングジュースの屋台がありました。これは麻のジュースです。これは一度だけ飲んでみたのですが、30分くらいで頭がぐるぐるしてきて、かなりきつそうだったので、あわててリキシャでコテッジに帰りました。そしてしばらくは起き上がれませんでした。この頃は、こういったものもなれていて、当たり前って感じになっていました。
時には海岸に一人で行って、数時間ただただ座っていたりしました。どんどん、沈んでいく夕日を眺めながら、刻々と変化する、空と海の色を見ながら、心はどこか遠いところに飛んでいきそうでした。まわりは漁村があり、魚の入ったかごを担いだ人たちが、行きかっています。絶え間ない波の音と、空に吸い込まれていきそうな感覚と、空から自分を見下ろしているような意識が、すばらしい夕焼けの中で、いつまでもいつまでも続いていくように感じました。
僕がいつも欠かさず持ち歩いて読んでいた本があります。まだカルカッタにいた時、ヘロイン中毒を治すためにアヘンを吸うのだと言って、アヘン窟に通っていた人が日本に帰るとき、持っていた荷物の中で、ほしいものをあげるよ、と言いました。僕がどうしてもほしかったのは、彼が読んでいた岩波文庫の「ブッダの言葉」でした。これ!と言って手に取ると、彼は僕の目をじっと見て、「あげるよ」と言いました。それ以来、どこに行くにも持ち歩き、読み続けていました。いくつもの仏陀の言葉が胸にしみこみ、僕は胸がえぐられるような思いを何度もしました。それは優しい言葉ではなく、とても殺伐として、きびしい言葉でした。どうしようもなく無常な感覚を味わうと同時に、自分の中にある無限の感覚を垣間見ているような気がしていました。ヘロインをやめられなくなったこの人は、知らないほうがいいからと、結局本名を教えてくれませんでしたが、彼の手垢のついた「ブッダの言葉」は、その時から、僕の宝物になりました。
このプーリーの海岸で過ごした時間は、今思い出してみても、とても貴重なものであったと思います。来る日も来る日も海を見て過ごしました。MさんやKさんは僕よりはるかに大人でした。すでに社会人を経験していて、僕の知らないことを知っていました。時には、海岸で何時間も何時間も、座って動かないKさんの背中を見ながら、僕も座りました。Mさんが会社に勤めていた頃の話を聴きながら、日本の社会の矛盾を語り合ったりしました。
しかし、今振り返ってみれば、そういった感覚にただただ酔っていたかったと言えるかも知れません。日本を遠く離れ、いずれは帰るのだということを忘れていたかったのかもしれません。それはまるで夢のような時間でした。ここインドでは、どんな貧乏旅行をしていても、金持ちの感覚を経験できます。そして、もちろん仕事をすることもなく、自由な時間の中で、社会の目を気にすることもなく、安い物価の恩恵もじゅうぶんに受けることになります。確かに、あまりに居心地のよい時間を僕は過ごしていたのでした。まさに夢のような、ホテルカリフォルニアに滞在しているような、そんな感じだったかもしれません。そして、何かが内側ではじけたら、このまま日本に帰らないということもありえるのかもしれないと、どこか意識の遠くで考えていました。
その頃のプーリーには警察に捕まっている日本人がいるとのことでした。麻薬関係で、はめられて、捕まったのだそうです。うわさではありますが、警察署長の娘が嫁入りするので、金が必要になり、その当時滞在していたその日本人が餌食になったのだとのことでした。結局彼は有罪になり、日本大使館も手が出せないのだと聞きました。その後彼がどうなったのかは知りませんが、そういった話を聞きながら、インドという国のどうしようもない醜い現実も見ざるを得ませんでした。そういった犯罪に巻き込まれた日本人の話が、どこからともなく聞こえてきました。薬を飲まされてすべてを奪われた話とか、殺された話とか、実際自分の身にも起こりうることではありましたが、そんなことは打ち消してしまうほどに、ここプーリーでの日々はすばらしいものでした。
クリスマスがすぎ、1982年の正月もとっくに過ぎ去り、かなりここにも永くいたと感じ始めました。何日くらい、そこにいたのか、もう忘れてしまいましたが、そろそろ、もう動く頃だと感じてきました。MさんKさんはバラナシに行くと言い、僕は南に下がることにしました。次にどこに行こうかと迷いましたが、どうしても見たかったエローラとアジャンタの遺跡に近づくため、デカン高原のど真ん中のハイデラバードに行くことに決めました。お世話になったMさんKさんとは別れて、また一人旅です。夜行の二等寝台を予約して、一人乗り込みました。
ハイデラバードまでは、かなり距離があり、30時間くらいはかかったと思います。えんえん、列車に揺られ続けながら、硬い木でできた寝台の上に寝袋を広げ、その中にくるまって、ゆっくりと、これまでのことを考えていました。もちろん「ブッダの言葉」はここでも常にそばにありました。Kさんからもらった、ぼろぼろになったグレートフルデッドのTシャツを直したのもこの移動中のことでした。北インドよりも南インドの方が田舎でおおらかだと聞いていました。日本をたってからもう1ヶ月がたとうとしていて、インドでの生活にもなれ、勝手もわかってきたので、もうこわくはありませんでした。僕は意気揚々とハイデラバードを目指していました。
4 ハイデラバード
こんなに長時間の列車の旅は初めてでしたが、ようやく町並みが続くようになって来ました。それまで続いていた田園風景は消えて、朝もやの中、動き始めた町のにおいがしてきていました。ここハイデラバードはデカン高原のど真ん中にある人口100万人を越える大都市です。しばらくここにいて、そのうちエローラ、アジャンタのほうに行こうと思っていました。
ハイデラバードの駅前にたむろしていたオートリキシャをつかまえて、安いホテルに連れて行ってもらいました。オートリキシャは三輪自動車で、タクシーよりは安く、人力のリキシャよりは速いので、距離の長い移動には便利なものです。そして連れて行かれたホテルにいくと15ルピーくらいで、かなり広い部屋だったので、そこに決めました。この町はあまり外国人の旅行者はいないようで、そのホテルにも、インド人の宿泊者しかいないようでした。
着いてから、しばらく近所を散歩し、ホテルに戻ると、電話がかかってきたよとフロントから言われました。僕を知っている人がいるはずがないので、いぶかりながら、しばらくするとまたかかってきました。なにやら、商談がしたいので、部屋に行ってよいかとのこと。話し振りから悪い人ではなさそうだったし、面白そうだったのでOKすると、二人のインド人がやってきました。ビールを何本か持ってきて、お土産だとのこと。何の話になるのかと思いきや、彼らはインドの洋服の生地を扱っていて、海外に取引先を見つけたいのだとのことでした。このホテルに日本の人が泊まっていると聞いて、訪ねてきたのだとのことでした。ここでは日本人は結構、珍しいようでした。そういえば、うちの父は呉服屋だと言うと、もう、目を輝かせて、お父様にお伝えしてくださいといろんな商品見本をくれようとしたので、面食らってしまいました。たいした量なので、旅行中であることを説明し、荷物はいっぱいいっぱいなので、こんなには持っていけないことを話し、日本に帰ったら、あなた方のことは父に話すからと言って、連絡先だけは聞いてお引取りいただきました。ただひとつだけいただいたのは、アメジストの原石でした。このあたりはアメジストがいっぱい取れるので、これもまた商品なのだそうです。
このホテルでの最初の夜、僕は身体が痒くて痒くてたまらずに、真夜中に目を覚ましました。足を見ると、虫にかまれたあとが残っています。よく見ると、うわさに聞いていた南京虫がいるようでした。あわててベッドのマットを裏返すと、マットの縫い目のあたりに、うじゃうじゃと・・・・・・(想像にお任せします) もう寝られないので、朝まで血眼で、南京虫を退治し、朝になってから、太陽で消毒しました。するとその次の日からは、大丈夫になりました。でも、このあと、違う町に移動jするたびに、必ずマットをひっくり返すようになったのは言うまでもありません。
ガイドブックのハイデラバードのところをペラペラと見ていると、有名な観光地にチャルミナールという、古い塔がありました。チャルミナールはとても狭い螺旋階段を上に登ります。上から町並みを見ると、色とりどりの人や車がきれいに見えます。ひとしきり古いハイデラバードの町並みを眺めてから下に降りると、ひとりのインド人から話しかけられました。もう名前は忘れてしまったけど、彼はこのチャルミナールに勤めていると自己紹介し、また、シタールの奏者だとも言いました。月に一度、ハイデラバードのラジオ局で、シタールを弾くのだとのことでした。うちにきたら聞かせてあげるとの言葉に、彼が仕事が終わるのを待って、家に連れて行ってもらいました。今回、インド滞在中にインドの音楽には絶対触れて起きたかったので、迷わず行くことにしました。そして、家族の人に紹介され、食事をご馳走になりました。彼のお父さんはハイデラバードの大学教授だったそうで、大きな家に住んでいました。しかし、今は経済的には大変なのだと話してくれました。
そして、彼がシタールを弾き始めると、それはとても見事でした。そして彼のお兄さんがタブラをたたき、妹さんがタンブーラを奏でてくれました。彼らの演奏を聴きながら、インドの音楽に引きずり込まれている自分がいました。そして、自分でもやってみたいと思うようになりました。シタールは大きくて、これからの旅行には無理そうだったので、ぜひタブラを教えてくれるよう頼みました。すると、彼はOKし、タブラを買うように勧められ、買うことにしました。翌日、タブラ屋に連れて行ってもらって、タブラを購入しました。忘れもしない、175ルピーでした。それから、このハイデラバードにいる間中、毎日毎日、タブラのレッスンを受けました。彼のうちに行ったり、ホテルに来てもらったり、毎日毎日、何時間もただただタブラをたたいて過ごしました。そして、基本のパターンを教わり、あとはこれをただただ練習し続けようと思いました。1時間も2時間もタブラをたたき続けると、頭の中が真っ白になっていきます。自分のリズムをただただキープし続けるのは、僕には難しかったけど、ある種の瞑想として、毎日の生活の中になくてはならないものになっていきました。
一度、彼からヒンドゥーのお寺のお祭りに誘われました。普通はヒンドゥー教徒以外は入れないらしいのですが、一緒だったら大丈夫だからと、中まで入りました。真っ白な寺院で、満月に輝いて、とても美しかったのを憶えています。きれいに正装した人たちの列にしたがって、おごそかに中に入っていくと、その感じがなんだかとてもなつかしいと感じました。お祈りをして、外に出るとき、彼がお坊さんに向かって、「ダンニャワード」と言いました。これはヒンドゥー語で「ありがとう」の意味ですが、どうやら、やたらめったに使うものではなく、こういったあらたまった時にだけ使う言葉のようでした。それ以前に、お店とか食堂とかで、僕がダンニャワードをサンキューの代わりによく使ってみたのですが、いつもいつも怪訝な顔をされていました。ようやくその意味がわかったような気がしました。これがなんのお寺だったかは覚えていませんが、あの白い寺院が満月に輝く姿と、この「ダンニャワード」というヒンドゥー語は今でもしっかりと憶えています。
ハイデラバードにもじゅうぶんいたので、そろそろ次のエローラ、アジャンタに移動したくなってきました。その頃は「ブッダの言葉」を毎日何度何度も読み、遺跡をめぐりたいと思うようになっていたのもあって、次の町、オーランガバードに鉄道で移動することにしました。ハイデラバード最後の夜は、彼の家に泊めてもらい、一緒に食事をし、またミニコンサートをしてもらいました。そして翌日は駅まで送ってもらいました。今回は、バンコックの時と違って、幾ばくかのお礼をちゃんとできたので、心残りはありませんでした。
5 オーランガバード
ハイデラバードからオーランガバードまではそんなには遠くなかったと思います。せいぜい数時間くらいだったでしょう。その日の夕方にはオーランガバードの駅に着きました。駅の周りをホテルを探して歩いていると、若い兄ちゃんが声をかけてきました。部屋があるよとのこと、言い値15ルピーを8ルピーだったら泊まるよと言うと、あっさりOKだったので、そこに泊まることにしました。駅からすぐのところで、表通りに面した二部屋しかない小さな宿でした。
この町には、確か5日くらいいたと思います。その間に、エローラまでの観光バスに一度乗りました。朝から夕方までの、エローラとその周辺の遺跡めぐりといった感じのマイクロバスツアーでした。エローラもすごかったけど、その周りに有名ではない小さな遺跡が山のようにあるのに驚きました。このあたりは土地自体が古い古い歴史を持っているのでした。そして、古い寺院の遺跡とかには白い猿が住んでいました。神の化身である彼らは、丁重に保護されているらしく、かなりの数が群れていました。
エローラを見たとき、圧倒されたのはすべての建造物が岩からくりぬかれたのだということと、何世紀もの長きに渡って、ここに住み、彫り続けた人たちが実際にいたのだということでした。石窟の中に入り、かつて人が座り瞑想していた場所に同じように座り、当時を想像してみたりして、なぜだか、それが遠い昔のことのようには思えませんでした。自分自身、いつの時代だかわからないけれど、こういった石窟寺院のようなところにいたことがあるような気がしてなりませんでした。それはもしかしたらここなのかもしれないと思いながら、各石窟を巡り、そこに彫られた像に触れました。僕は言葉もなく、静かに五感を研ぎ澄まし、空気を感じていました。それは、あまりに大きく、僕を圧倒するスケールでした。
この町では、本当に静かに過ごしました。目を覚ますと、タブラの練習を1時間ほどして、それから、ご飯を食べに出かけ、あとはずっと本を読んだり、瞑想もどきをして過ごしました。この町ではひとりの日本人に会いました。本当に久しぶりの日本語でした。食堂で出会い、しばらく話しました。彼は少し駅から離れた5ルピーで泊まれるユースホステルにいるとのことでした。僕が「ブッダの言葉」を持っているのを見ると、彼はとてもうらやましそうに、彼の持っていた聖書と交換することを申し出ました。それまで、聖書もちゃんと読んだことがなかったので、読みたかったのですが、さすがに、宝物の「ブッダの言葉」はあげられないと断りました。そんなところから、お互いの経験を話しました。彼は沖縄のさらに南、与那国島で土方のバイトをして、お金を貯め、そのまま、台湾、経由でインドに流れ着いたのだといいました。お金が尽きるまで、インドにいるのだといいました。彼もまた、ここで自分自身を探しているようでした。
オーランガバードで僕が泊まっていた宿には二人の管理人がいました。最初に声をかけてきた僕と同い年くらいの青年と、小学生くらいの子供の二人でした。どういう関係かはわかりませんでしたが、彼らはいつも一緒にいました。そして、夜は僕の部屋の前で、地面の上に薄い布を一枚だけしいて寝ていました。インドといっても1月終わりともなると、結構寒く、彼らはいつも咳き込んでいました。毎日、毎日、ベッドの上で、さらに寝袋にくるまって寝ていた僕は、彼らの咳き込むのを聞いて、なかなか寝付けませんでした。
ある日、僕と同い年くらいの青年が太った中年のおじさんに怒られているのを聞きました。どうやら、彼がこの宿の持ち主で、二人はその雇われ人のようでした。よくよく聞いていると、僕に8ルピーで部屋を貸したことをとがめられているようでした。主人は僕には何も言いませんでしたが、どうやら、最低10ルピーくらいで貸すように決めていたようです。悪いなあと思いながら、それからは彼らとよく話しました。彼らは僕の部屋に入ってきて、一緒にお茶を飲み、いろいろと話しました。でも、そろそろ寝るからというと、「グンナイ」と言って、素直に外に出て行きました。
この宿では毎日ヤモリを見るのが楽しみでした。ところが、ある晩、バッタが部屋に入ってきてベッド際の壁にとまっていました。僕がずっとバッタを観察していると、突然ヤモリがきて、そのバッタをくわえていってしまいました。バッタにとっては青天の霹靂で、あっという間に、短い生涯が終わったのでした。バッタを見つめバッタの目線でいただけに、それは自分自身がヤモリに食われたかのようにショックでした。いつ自分自身も、あのバッタのように、死にかすめとられるかわからないやと思いました。
6 ファルダプール
オーランガバードからアジャンタに向かってはバスで移動します。アジャンタまでのバスはデカン高原のアップダウンを超えて、砂漠のような広い広い大陸を進みます。アメリカの砂漠地帯のようにきれいな道ではないので、でこぼこで、砂煙で、かなり環境としてはひどいものでした。しかし、この道沿いに打ち捨てられたような古い遺跡がいっぱいありました。誰も振り向かないような遺跡でした。大きな有名なものはちゃんと管理されているけれど、そうでない小さいものは打ち捨てられていました。きっと、時代的には同じくらいの歴史もあるのだろうに、と思いながら、標高の高い峠のうえから、そういった遺跡を見下ろしながら、まるで、荒野でひとり何千年も座り続けている瞑想者のようだと思いました。
やがて、アジャンタに到着しました。ここについて、最初に驚いたのはアメジストの原石がいたるところで売られていたことです。かなり大きなものが並べられていました。その後、このあたりを歩いていると、いたるところに、水晶や、アメジストが落ちていました。そういう土地なんですね、ここは。荷物を入り口で預け、アジャンタの遺跡の中に入っていきました。ここもエローラと同じく大規模な石窟寺院です。ここは渓谷の崖に彫られています。やはり、エローラのときと同じような感覚になりました。ここに、僧たちが実際に住んでいた頃のことに思いをはせながら、ひとりゆっくりと歩きました。そのうち、このままここを素通りするのがもったいなくなりました。もう一度来たかったので、近くに泊まれる宿がないかどうか探すことにしました。すると、隣の村に、ゲストハウスがあり、泊まることができるとのことでした。隣町までバスで移動すると、そこはすごい田舎でした。
バスを降りると、ドイツ人の女性が声をかけてきました。彼女も泊まる所を探していて、そのゲストハウスの話をすると、部屋をシェアしてくれないかと言ってきました。部屋代も安くなるし、なかなかできない経験でもあるので、一緒にそのゲストハウスに行くことになりました。広い通りから、あぜ道のような細い道を歩いていくと、5分くらいでそのゲストハウスはありました。まわりがバラ園になっていて、花がいっぱい咲いていて、とても清潔できれいなゲストハウスでした。彼女はローズと言う名前で、まさに自分の名前でもあるバラ園に囲まれたこの部屋が気に入ったようでした。彼女は3日ほどで他に移動していきましたが、僕は一人で、結局1週間ほどここに滞在することになりました。本当に美しいところでした。花だけでなく、その辺に転がっている石ころがみな、きらきらと輝いていました。水晶や、アメジストの原石がこのあたりもごろごろ落ちていました。すごく神聖な土地に来れたような気がしました。
ここは、とても広い部屋で大きなベッドが二つちゃんとあって、値段のわりに超お得な部屋でした。確か、1日5ルピーほどだったと思います。政府関係の宿舎のようで、外人にも開放しているとのことでした。ただ、安いので、ひとり三日までとか制限があったようです。僕は途中から、架空の名前でいいから書けといわれて、架空の名前で泊まりました。
ローズはとてもまじめな学校の先生で、毎日足繁くアジャンタに通っていました。僕は、結局、このファルダプールが気に入ってしまって、村の中をうろうろしたり、敷地の中のバラ園でただただ、のんびりと時間を過ごしました。もちろん、タブラの練習は欠かさずやっていました。管理人の兄弟姉妹の子供たちが大勢いて、いつも近くで遊んでいました。身奇麗な子達で、とてもかわいくて、いつも一緒に遊びました。部屋の前のテラスからは、バラの花とその先に続く、広大な荒野と、山が見渡せました。方向から行くと、あの山の向こう側がアジャンタのはずでした。遠くから、牛が歩いてきて、気がついたら、すぐ目のまで来て、ず〜っと草を食べていました。そしてその牛について、ず〜っと一緒に歩いている人もいました。おそらく毎日毎日、同じように、この荒野で、牛を追いかけて暮らしているんだろうと思いました。こんな暮らしもあるんだと、それを見ながら、思いました。それは、日本の風景とはあまりにも遠く、その風景を見ながら、このまま永遠にここにいれたら、それはそれでOKだと思いました。
この宿を教えてくれた人が時々遊びに来ました。彼は、あの山まで行ったら、大きい水晶がいっぱい取れるから一緒に行かないかと誘ってきました。でもよくよく聞くと、毒蛇とか、毒さそりがいるらしかったので、行かないことにしました。取りに行ってたら、それはそれで面白かっただろうけど、そこまで行かなくても、じゅうぶんすぎるくらい、すごい場所でした。
そういえば、この村についた日から、村の人と話すと、必ずといっていいほど、ある日本人の名前を聞かれました。名前は忘れてしまったけど、どうもその人は10年くらい前まで、この村に住んでいて、村や村人の絵を描き続けたのだそうです。そのせいか、僕が日本人だとわかると、みなとても親切でした。そして、口々に、その画家の思い出を語ってくれました。「お前は知り合いなのか?」とこんな田舎村に長く滞在する日本人は珍しいらしく、その画家の友達か、もしかしたら息子なのかもしれないというような感じでした。どんな人かはわからないけど、この村を愛し、長く暮らしたその日本人の目線で、この村を眺めてみると、やはり、とても美しい、田舎の村でした。道を歩くと、水晶がキラキラと輝き、バス道以外はどこも舗装してなくて、緑がきれいでした。そして、すぐ近くにはあのアジャンタがありました。毎日毎日、絵を描き続けた人の気持ちがわかるような気がしました。
ある日、この村で知り合った若者が、うちに遊びに来てくれと言いました。ぜひお茶をご馳走したいとのことで、遊びに行くと、そこは、まさに竪穴式住居でした。床は土間で、実際に低く穴が掘ってあり、壁はこねた泥、屋根は茅葺で、当然電気はありません。彼のお母さんは外人の突然の訪問にびっくりして、右往左往していました。そして出てきたのは茶色くにごった水と、ちょっと怪しげなお茶でした。お茶は火が通っていたので、飲みましたが、下痢しちゃうかもしれないなとちょっと覚悟しました。といってもここインドではしょっちゅう下痢をしていたのでもう慣れっこといえば慣れっこでしたが・・・。そして、小さな肉のスープが添えられていました。聞くと、牛の肉だとのこと、よくよく聞くと、彼の家はイスラム教徒でだそうで、牛を食べるのだそうです。これで力が出るんだといっていました。きっと彼らにとってはすごいごちそうだったに違いありません。
後日、その話を水晶を取りに行こうと誘ってくれた人に話すと、あんなところに行っちゃいけないと怒られました。彼はヒンドゥー教徒で、こんな小さな村の中でも、違う宗教ということで、お互いにけん制しあっているようでした。どちらも、とてもいい人たちだっただけに、インドという国の複雑な事情が垣間見えた気がしました。
この町ではバスが通る街道沿いまで出ると、食堂がありました。とてもシンプルで、店先に積んである、トマトやナスを指差して、「これ!」って言うと、おいしいなすカレー、トマトカレーが出てきました。そのころは辛い料理にうんざりしていたので、まったくホットは入れないでっていうと、普通の、豆と野菜の煮物風辛くないカレーが食べられました。これはとてもとてもおいしくて、その後も含めて、インドで食べた料理の中でもベストといえるかもしれません。
結局、この村に来て、一度もアジャンタに行くことなく、それでもじゅうぶんすぎるくらい、なんだか、チャージされたような気がしました。そして、そろそろ北へ移動することにしました。ボンベイ、ゴア、プーナは近かったけど、もう僕の気持ちはバラナシに行っていました。最も行きたかった町、インド人が最後に死にに行くという町に、ようやく向かう気になりました。バスで、近くの鉄道駅ジャルガオンまで行き、そこから、ラクノウ行きの二等夜行寝台を予約しました。そして、翌日、いよいよ、ラクノウに向けて移動することになりました。
この夜行では一悶着ありました。ボンベイ方面から来た列車に乗り込むと、列車はもうほとんど満員でした。そしてあろうことか、僕の予約したベッドは女性専用コンパートメントの中にあったのです。当然入ることを拒否されました。しかし、切符は持っているので、その辺にいた人に事情を話していると、血気盛んな女子大生と口論になりました。彼女はお前は男なんだから、入っちゃいけないとまくし立てられました。でも僕の言い分としては、インドの人のミスなんだから、何とかしてくれてもいいじゃないか、とのことでした。結局さんざん言い争った挙句、どうしようもなく、僕も疲れ果てて、コンパートメントの前のおじさんのベッドに腰掛けて、おじさんは慰めてくれていました。そして、だんだん夜が近づいて、みんなベッドの用意をし始めた頃に、そのコンパートメントの中から、おばさんが手招きしてくれて、「ごめんなさいね」って感じで、中に入れてくれました。そして、僕のベッドで無事眠ることができたのでした。あぁ、そのときは泣くほどうれしかったです。知らない土地で、ひとりで、多勢に無勢でけんかするなんて、どう考えてもどうしようもない消耗だっただけに、おばさんたちの温かい言葉に、100回くらいありがとうって言いました。しかし、あとで考えれば、駅員は切符を予約するとき、どう思っていたんでしょうか?僕が女性に見えたのかもしれません。ひげは生えていないし、たっぷりした服を着ていたし、すごく男性的ってわけでもなかったから・・・!あるいは、ただ単にミスってことだったのでしょうか?それ以来、切符を買うときは野太い声で、男だということをちゃんと確認するようにしました。(笑)
7 ラクノウ〜バラナシ
ラクノウに着きました。ここはどうというほどのこともない普通の町でしたが、二日ほど滞在しました。ちょうど田舎から出てきた僕は、毎日、町の中を歩き回り、人ごみにくらくらしました。でも、バラナシはもっとすごいと聞いていたので、ちょうどいい二日間だったかもしれません。いっぱいいっぱい、歩き、町でお茶を飲み、車の雑踏になれました。
そして、ラクノウからバラナシまでは列車ですぐだったと思います。たしか、2月の初め頃で、南から来た僕は結構寒く感じました。駅からはリキシャで、ガンガのガートに向かいました。いわゆるガンジス川の川岸です。
バラナシでは泊まるところを決めていました。ファルダプールで一晩だけ一緒になった日本人がいました。ちょうどバラナシから来たとのことだったので、どこに泊まったのかと聞くと、「久美子ハウス」だと教えてくれました。日本からインドに嫁いだ久美子さんという女性が、ちょうど1〜2ヶ月前に安く泊まれる民宿みたいな感じの宿を始めたばかりだとのことでした。そこは、まさにガンガに面していて、部屋の窓から、ガンジス川を望むことができるので、すごくお勧めだとのことでした。リキシャでガンガのガートまで着くと、彼が書いてくれた地図を頼りに、ガート沿いを歩きました。そして、壁に大きく「久美子の家」と書かれた建物を見つけました。
中に入ったとたん、驚いたことに、「おぉ、じゅんちゃん!」といわれました。そこにはプーリーで一ヶ月ちょっと前に別れた、MさんとKさんがいました。ひさしぶりの再会を祝い、それぞれのその後の話をしたりして、そうして、僕はその宿の一番上、三階のドミトリーの三番目の住人になりました。そのドミトリーは完成したばかりで、MさんとKさんの二人が初めての住人でした。僕はガンガよりの壁際にパイプベッドを置きました。壁には小さな穴があいていて、向こう岸から昇る朝日を毎日見ることができました。
MさんとKさんはここバラナシで、あるグルのもとに通っているといいました。そのグルジー(彼らはそう読んでいました)は、シタールとか、タブラの奏者で、彼らはここで、音楽を習い始めていたのでした。Kさんはシタールを、Mさんはタブラを購入しコテッジでも練習しているとのことでした。もともと、彼らは日本でもバンドをやったり、レコード会社に勤めていたりしていて、かなりの音楽通でした。そして僕もまた、ハイデラバード以来ずっとタブラをたたいていたので、そのグルジーに興味がありました。そして、バラナシについた日の翌日に、そのグルジーのところに連れて行ってもらうことになりました。
以上、2003年5月28日アップ

ここまでを5月までにいっきに書きあげましたが、それ以来、半年間、まったく書くことができませんでした。思うに、ここまで書いたことで、自分の中のプロセスがひとつ終わった感じがしたからということがあります。そして確かに、今年の夏は何かが吹っ切れたかのようでした。内側から湧き出てくる衝動にしたがって、秋には封印していたバリの踊りも始める事になりました。そして2004年には新しいステップとして、バリに久しぶりで行くことを決め、、僕の中では次のステップに向けて大きく動き始めていました。ちょうどそんなタイミングで、12月のスリーインワンのワークショップの中で、たまたまサイキックについて、扱うセッションをしました。4歳の時のことと、そして21歳のとき、インドで起こったことが出てきました。実はそれがこれから、まさに書こうとしていたことなのです。そして白状すると、このことを書きたくて、このインド旅行記は書き始めたのです。ところが、その寸前まできて、筆が止まっていました。書く意欲が失せたといったほうが正解でしょうか?正直に言うなら書くのが怖かったというほうが正しいかもしれません。しかし、そのセッションの中で出てきたイメージは僕の思っていたものをはるかに超えていました。そして、それは次のステップに向かって、とても勇気を与えてくれる、意味のあるストーリでした。たぶん2004年1月バリに行き、あの運命の2月8日を向こうで迎えるということも何か関係がありそうだと思っています。まさにそんな時、初めて電話をいただいた方から、インド旅行記を楽しみにしていると言われ、このインド旅行記のページの存在を思い出した次第です。久しぶりに読み返していたら、急にうずうずと書きたくなり、また書き始めました。さて、どうなっていくでしょうか?

8 夜、ガンガのほとりで 1982年2月8日のこと
翌日、連れて行かれた部屋に入ると、すごく小さなインドの老人が座っていて、MさんとKさんはまるでその弟子という感じで、なれた感じで挨拶しました。僕は紹介され、とりあえずかしこまっていると、グルジーは目の前でタブラをたたき始めました。それはそれはすごく見事でした。演奏している間、あまりの見事さに声も出ませんでした。それはまさに神業!と思うほどのものでした。Mさんが「どう!」ってちょっと自慢げにこっちを見ました。僕は素直にすごいですね、と言い、「一緒に習う?」って言われた言葉には、イエスとしか言えませんでした。そして、翌日から一緒に習うことにし、その日は部屋に戻りました。
夜になって、その時のドミトリーには僕たち三人だけでしたが、屋上には何人かの日本人が集まっていました。久美子ハウスではガンジャは禁止だったのですが、Mさん、Kさん、手馴れたもので、バラナシのガバメントショップで仕入れたというガンジャを持っていました。プーリーで別れて以来、僕は全く吸っていなかったので、とても久しぶりでした。彼らにしてみれば、1ヶ月ぶりの再開と、同じようにタブラを始め、その歓迎会という感じでもありました。夜中になってから、「ボ〜ン、シャンカ〜」と言って、火をつけて吸いはじめました。はじめはとてもいい感じでした。この1ヶ月の間に起こったことをお互いに話しながら、やがてみな気持ちよく自分の内側に入っていきました。
ところが、とてもひさしぶりだったということもあったのでしょうか?今回は今までとすこし様子が違っていました。心臓にエネルギーが集まり始めたので、すこし不安に思っていると、心臓はどんどんと速く打ち始め、やがて僕はパニックに襲われました。ちょうど日本を出て、約2ヶ月、身体も疲れがたまっていたのかもしれません。心臓はやがて、痙攣しているように感じられ、僕は胸を押さえながら、ひとりで苦しみ始めました。そのうち、皆も気づいて、あれこれケアをしてくれようとするのですが、どれも有効でなく、僕はもう死んでしまうことも覚悟せざるを得ないと感じました。何とかベッドに連れていかれた僕はひとりでベッドにしがみついていました。みなとても心配したでしょうが、もちろん僕はそれどころではありませんでした。彼らの声も全く聞こえない状態になってしまいました。
その時僕はとても大きな黒い穴を見ていました。それは虚空に浮かぶ黒い穴でした。そしてものすごい力で、圧倒的な力で、宇宙のあらゆるものを吸い込もうとしていました。僕をかすめながら、いろんなものがその穴の中に吸い込まれて落ちていきます。気を許したら、僕も吸い込まれてしまう、そして吸い込まれたら最後、もう帰って来れない。そう直感的に感じていました。だから、必死に抵抗し続けていました。ベッドにしがみつき、そこに吸い込まれないように、身体中で戦っていました。やがて、その黒い穴の周りにいろんなイメージが見え始めました。そこには仏陀がいました。そしてキリストがいました。クリシュナがいて、マホメットがいました。彼らはただ宙に浮かんでいるだけでした。そしてもちろん助けてはくれませんでした。穴の中心には二つの玉がくっついたまるで無限大の形のようなものがありました。そして、それはとてもリアルで、その周りに漂っている仏陀やキリストやクリシュナやマホメットよりももっともっと存在感がありました。あれはなんだろうと思いながら、必死に耐えていたのを覚えています。もちろんそれがなんなのかは今のところはまだわかりません。
そのうち、後悔の念が襲ってきました。父と母の顔が浮かびました。そして中途半端に何も自分のやりたい事をやってこなかった人生を思い出しました。そして、ただ時間を無為に過ごしてきたのでした。それはとても悔いの残ることでした。僕は何もまだやっていないと思いました。そして、いろんなことが走馬灯のように頭を駆け巡りました。心臓は苦しくなったり、すこし楽な感じになったり、波がありました。楽なときに小窓から外を見ると、そこは漆黒のガンガでした。まっくらで、まだまだ真夜中でした。向こう岸に太陽が昇ったら、もし太陽を見ることができたら、吸い込まれなくてすむかもしれないと思いはじめました。でもその可能性がどのくらいあるのか、僕にはわかりませんでした。あと何時間この状態で過ごさなければいけないのか、すこし楽になったかなと思うと、やがてまた苦しくなりました。それはまるで、崖の途中で、何かにしがみついて全体重を支えているような、そんな感じでした。すこし楽なときに、遺書を書くことにしました。今の気持ちを書き残したいと思いました。全く何もわからないまま死んでしまうのは嫌でした。だから、今この状態で何に気づいたかを書き残しておきたかったのです。
どのくらいしがみつき、どのくらい戦ったか、気がついたら僕はベッド際の小窓から外を眺めていました。真っ暗だった東の空が、ほんの少しだけ明るくなったのに気づきました。「あぁ、助かる!」と思いました。すこしづつすこしづつ東の空は明るくなり、やがて、真っ赤な太陽がガンガの向こう岸から、昇り始めました。僕のおでこに太陽の光が当たった瞬間、何かがす〜っと楽になった感じがしました。そして、どんどんと光は強くなり、地上の気配が静から動へと変わり始めました。身体を点検してみると、心臓はもう普通の速さの鼓動になっていました。胸に手を当てながら、生きていることを感じました。そしてその時、たぶん生まれて初めて、太陽に感謝しました。
それから1週間ほどの間、知覚が今までと全く変わってしまっていました。すごく研ぎ澄まされたような感覚で、人が話しているときにも、その人の本音が聞こえる感じがしました。何を見ても、今までとは違っていました。こんな見え方があったなんて、とても不思議でした。真実があったとしたら、それが見えるような気がしました。そこにあるもの、人がリアルに見えるという感覚で、ピカソの絵のように、いろんなものが奥行きを伴って4次元的に見えている感じでした。そのことに僕はとても興奮していました。そんなこともあり、グルジーのところには行かないことにしました。実ははじめて会った時に、何か卑しい感じを感じてしまったからです。そのときは演奏に圧倒されたけど、今の感覚ではそのことはとても大事なことだと感じていました。行かないほうがいいと思いました。もっともあの夜以来、Mさん、Kさんとは疎遠になり、やがて彼らは別のホテルに移り、グルジーと一緒にどこかへ旅に出たりしていました。それ以来、僕はまたひとりになってしまった感じでしたが、さびしくはありませんでした。この知覚、この感覚が楽しくてたまりませんでした。何かすごいことが起こったような気がして、今から思えば、全く馬鹿だったなあと思いますが、すこし傲慢に振舞ってしまったかもしれません。しかし、そのような強烈な感覚は1週間もしたらだんだんと薄れていったように思います。今でもごくまれにその感じを思い出すこともありますが、あの時ほどクリアに見えたことはありませんでした。
2003年12月のセッションでは、4歳のときのことが出てきました。4歳の時、僕は田舎のお宮さんの周りの田んぼで遊んでいました。田んぼはもう刈り取りが終わっていました。僕は大人から離れて、一人でお宮さんの裏手の方に歩いていきました。草むらを掻き分けて、進んでいくとだんだんと、無性に怖くなりました。それでもさらに進んでいくと、そこにとても怖いものを見て、腰を抜かすかのように、逃げ出しました。何を見たのか、定かではなかったのですが、セッション中にふと黒い穴だったと思いだしました。それは、すごい力で僕を吸い込もうと待ち構えていた黒い穴でした。まさにガンガのほとりで見たあの黒い穴は、あの時見たものと同じものでした。そのあと、黒い穴があったということを大人たちに話したのですが、誰も取り合ってはくれませんでした。そして、僕はその記憶を封印していました。
そして、さらに出てきたのは、誕生の瞬間でした。産道に向かってすごい力で吸い込まれる、そんな恐怖!生まれることは、胎児の僕にとっては死ぬことと同じくらいに苦しいことだったのでしょうか?それはまさに黒い穴に吸い込まれるのと、同じイメージでした。本来自分で選んで生まれていったはずなのに、どこか覚悟が足りなかったのか、言い訳を残していたのか、僕は無理やり吸い込まれたかのように、記憶してしまっていたのかもしれません。そして、これはもちろん本当かどうかはわからないのですが、受精の瞬間、僕は黒い穴に吸い込まれるように、受精したばかりの卵を目指して飛んでいったような気がしています。この時は確かに自分で選んで、そんなに苦しくもなく、その黒い穴をくぐりぬけたような気がしています。
これらのことが何を意味するのか・・・、僕にとっては、今までなかなか本当にやりたいことにトライできなかった僕にとっては、とても明確です。あの黒い穴に飛び込むことは、自分の枠を飛び越えることでもあったし、次のステップに飛び込むことだったのかもしれません。しかし、そこに残してきた過去の恐怖が飛び込むことをとても難しいものにしていたのかもしれません。この時期、このタイミングで、これらのことがつながったのは、たぶん、踊りをふたたび始め、しかも今まで属していたグループではなく、自分で踊るという選択をしたことと関係していると思います。このことは僕にとって、自分の気持ちを信頼し、自分のあり方は自分で選択するということを象徴しています。外の権威でなく、自らを源泉として認めはじめられたのかもしれません。来年1月〜2月にかけて、バリに行き、そこで何が待っているのかわかりませんが、とても楽しみです。今度はその黒い穴に自ら飛び込むこともできるような気がします。
今年の春先、訳もわからず、無性にインド旅行記を書きたくなったことが、実はこういうことにつながっていったと言うことが、とても面白いと思っています。その時、その瞬間、やりたいことというのは、たとえそれが理由のわからないものでも、やってみる必要があるんですね。僕たちの本性はそのことを知っていて、僕たちをそこに連れて行ってくれるのだとおもいます。しかも最も効率のよい、速い道を教えてくれているのかもしれません。人間ってなんなんでしょうね・・・、ほんとにすばらしい存在だと思います。
とりあえず、今日はここまでかな、2003年12月28日アップ

さて、2004年1月から2月にかけて、僕は子供もつれて、1ヶ月間バリ島に滞在しました。その後、もう一度踊り始め、それ以来3年半が経ちました。今はもう2007年9月です。忘れかけていたこのインド旅行記・・・、おもしろかったといってくださる方がいて、あらためて読み直してみました。なつかしく、恥ずかしい・・・でも、僕の原点といってもいいようなお話・・・なんだか、心があらわれるような、初心に戻るような気持ちになりました。
今年4月に母が他界しました。そして、今まで避けてきた父とも向かい合う必要が出てきました。新しい関係・・・ お盆に家族を連れて父のところに行きましたが、話しているうちに出てきたのは、父に対して残している感情でした。父もまた僕が勝手にインドに行き、大学を中退したことなど、かなりの恨みを残しているようでした。そのため、話は行き違い、あらためて、まだまだ至らぬ自分を思い知ったのでした。このところ、毎日のように夢を見ます。ちょうど僕自身の潜在意識の中に、まだ残している問題が今が解放の時だよとばかりに出てきてるような感じがします。そんなこともあって、このタイミングに、1982年2月8日以降のことも書いてみようかなと、思い立ったしだい・・・ でも書けるかな、かなり忘れてしまったよね。

9 2月8日以降
しばらく宿から出ることなくすごしたように思います。やがて数日して、バラナシのガンガを歩き回りました。流されている死体を見たり、道に迷ったところを小さな子供に助けてもらったり・・・ そんな日々をすごしながら、ある日ガンガに頭からつかりました。水はかなり汚かったけれど、この水に頭からつかり、この水でうがいをしました。何かを変えなければ生き返れないような気がしていたのでした。

ホーム スリーインワン できること プロフィール A・S通信 スケジュール 前世療法 MISTY紹介記事 フェイス・メッセージ アクセス リンク バリ島の踊り 旅行記 ヨモギ茶 手作り石鹸 奇跡のお水 メール