熱傷 1. 些細で、そして重大な。 きっかけなんて、本当に些細なことなんだ。 「おはよう、ハヤト」 「おはよう」 部屋が隣だから、朝起きて一番最初に会うのがキールだというのはよくあることだ。次がガゼルで、それでもう広間についてしまう。そこには皆が揃っていて、リプレの用意してくれたささやかでも美味しい食事といつも笑い声の絶えない賑やかな食卓が待っている。 「…具合が悪い?」 一緒に歩く彼から心配気な声がかけられた。 それに寝不足なだけだよと言って首を振って返す。笑顔が引きつっていることに聡い彼が気づかなければいいと思う。 顔色が悪い自覚はある。 でも、本当に昨夜眠れていないだけだ。嘘は言っていない。 自分が毎晩のように月見をしていることは皆知っていたから、キールもそれで納得したらしくほどほどにするんだよと忠告だけでその話を終わらせてくれた。 (助かった) 一晩中眠れなかったんだとバレたらきっと理由を聞かれる。 答えられるはずもないし、黙っていたらきっと彼は故郷に帰れないことを嘆いているのだと勘違いするに違いない。そして自己嫌悪で落ち込むに違いないのだ。でもそれは、確かに関係ないとは言わないけれど、今最も気になるのはそんなことじゃなくて―――…。 「……『そんなこと』、か」 「?何か言ったかい」 「なんでもないよ」 欠伸をしてみせると、彼はまだ自分が寝ぼけているのだと思ったのか肩を竦めて歩き出した。 『そんなこと』。 いつの間にそんな単語で表すようになってしまったんだろう、自分は。 帰りたい。家族に友達に会いたい。自分の生きてきた世界だ、こんなわけもわからないままに異世界に来てしまって、帰りたいに決まってる。 でも、そういうのとは別の次元で。今、その願いの優先順位を落としている。 二人並んで歩くことは出来ない細い廊下で、少し前を歩く青年の背中を盗み見る。くせのある綺麗な深紫の髪、ぴんと伸びた背筋。 誰かと生活するのは初めてだと言った言葉の通り、「おはよう」「おやすみ」の基本的な挨拶さえ知らなかった彼がフラットに馴染んで久しい。今ではすっかり溶け込んでしまっている。 特殊な育ち方をしたのだと最初は知らなかった。でも今は知っている。そんな風に少しずつ少しずつ、距離が近づいていると思っていた。 ―――好きじゃないよ。 昨夜偶然聞いてしまった、断片的な言葉。 間違いなくキールの声だった。 何も気づかないまま、そのまま会話に入れれば良かった。でもそれは一瞬遅れて自分は決定的な一言を聞いてしまった。 ―――僕はハヤトを、好きなわけじゃないんだ。 友達だと思っていた。相棒だとも、誰よりも信頼できるとも。 気づかれないようにその場をそっと離れることしか出来なかった。心臓が痛いくらい鳴っていて、視界に靄がかかって吐き気がした。結局一睡もできなかった。 いつも彼は他の誰にも向けない笑顔を見せてくれていたのに。 …うぬぼれてただけ、だったのかもしれない。 「ハヤト?」 足を止めた自分を気遣わしげに伺うキールの瞳はいつも通り澄んでいて、そこに偽りを見つけることはできなかった。 もしかしたら好意と信頼は表裏一体のものではなくて、信頼されているけど好意はないとかそういうことなのかもしれない。好きじゃないけど嫌いでもない、そんな微妙な位置にいるのかもしれない。 キールの態度が変わるわけじゃない。 今まで好きだと言われていたわけでもない。 …なのに、何でこんなに気持ち悪いくらい心臓が痛いんだろう? 「なんでもない、ちょっとぼーっとしちゃって…」 「ならいいんだけど。本当に大丈夫かい」 「へーきへーき、頑丈さには自信あるから!」 ああ、キールのやさしさが今は凄く痛い。 傲慢なだけだったんだろうか。特別なポジションにいると思ってた自分がバカだったのかもしれない。そもそも、なんでそんなことを確信していたのかもわからない。 (だから、これは裏切りじゃない) キールは何も悪くない。 そもそも、なんでここまで傷つくんだ。どういう意味だとその場で乱入して問いただせば良かったのに、普段の自分ならきっとそうしただろうに。 ああ、胸が痛い。痛くて痛くて堪らない。 「…なんでもないよ」 ごまかすためににこりと笑った笑顔が、彼の目に問題なく映るといいと思う。 ―――ああ。 なんでこんなにも胸が痛むんだろう? 熱傷T度。 芽生えたのはちりりと痛む微かな疼き。 2. 襲撃 頼まれた買い物を終えて、路地を歩きながらハヤトは小さく溜息を吐いた。 (今日はなーんか嫌な予感がしてたんだよな…) バノッサがいなくなったとはいえ、オプテュスのメンバーが街からいなくなったわけじゃない。彼らは北スラムを根城に今も元気に…とは言い難いが、細々活動中だ。 復讐とかメンツとか色々彼らなりの事情があるんだろうけど、一人になるタイミングを狙って多人数で待ち伏せるあのやり方はいい加減なんとかして欲しいものだと思う。しかも、こっちが二人以上になると途端に逃げ去るんだから潔いと言おうかなんと言おうか。 (今日は割れ物はないし、多少荒っぽくても大丈夫かな) 頭の中で買ったものをリストアップしてそう結論付けた。卵なんて持ってなくて良かった、と心底思う。やっつけたところで弁償してもらえるわけでもないし。 商店街からフラットに帰る道は大きく分けて二通りある。 一つは広場からぐるっと南スラムを回る道。もう一つは工場区を突っ切る近道だ。後者は空気が悪いしいつも薄暗く治安が良くないから、誰しも普通は広場を抜けるコースを使う。 (でも今日は、工場区を抜けよう) 多分あの立地ならここぞとばかりに仕掛けてくるだろう。 護身用に常に持たされているサモナイト石の感触をポケット越しに感じながら、腰の剣をさりげなく確認した。大丈夫、あの人数なら一人でも追い払える。 通るのはいつも近道するとき利用してる場所だ。足場もわかってるし、なんとかなるだろう。 工場区に入っても、暫くは何も起きなかった。 人通りの少ない道を待ってるのだとはわかっているが、視線を感じ続けて気疲れする。既に気づいていることを悟られないよう歩調を意識的に緩めてる自分に気づいて、こんなことにばかり慣れてしまった自分に自嘲した。 剣を持つのは怖かった。 刃物でいきものを斬りつけるのは、それが人間でも動物でも怖かった。 やらなければやられることがわかってても、戦いなんてゲームの中でしかしたことのない自分にはそれはとても罪深い行いのように思えた。 ひとつ戦いが終わる度に手が震えた。でも皆はなんでもない顔をしていた。ここではこれが「当たり前」だった。だから、気づかれないよう隠して笑っていた。 なのに、ある時小さな声で『彼』が囁いた。 『君は、とても強い人だね』 同情でも尊敬でもなく、ただ事実であるかのように言われたその言葉が胸に響いた。どうしてか否定したいとは思わなかった。 ただ、震えるこの手ごと認めて貰えたような、そんな気がした。 「キール…」 ぽつりと呟いた。 誰も聞いていないとわかっているからこそ呼べた。 あの朝以来、自分の様子がおかしいことを彼は訝っていると思う。でも理由なんて言えるわけもない。避けていることもあからさますぎるからバレてるだろう。 きっかけは、些細で重大な一言だった。 思い出すあのときの彼の口調は笑み含みでとても軽いものだったから、何気ない冗談のような一言だったのかもしれない。本人に聞けば答えてくれる程度のものだったのかもしれない。 (でも俺は気づいてしまったから) もう怖くて聞くこともできない。 (…なんでキールだったんだろう) キールでなければならなかったんだろう。 胸が痛いのは、気づかなかった真実を心が教えてくれているから。怖くなるのはそれが彼だから。 熱はじわりじわりとこの体の奥底まで焼いていた。 気づくのが遅すぎてもう、手遅れ。今更手の施しようもない。 「俺は、いつの間に…」 ―――あいつを、好きになってたんだろう。 囲まれる気配に荷物を捨てて、閉じていた目を開いてゆっくりと剣を構えた。 何も考えないですむ時間をくれるなら、気重なばかりの彼らの襲撃も今は有難いとすら思える。 熱傷U度。 深く焼かれて、この熱はもう消えそうも無い。 3. cry for the moon cry for the moon。 それは「無いものねだり」という言葉。 「隣、いいかい?」 「…へ?」 突然隣に現れたキールに、ハヤトはぽかんと口を開けた。 戦いに明け暮れていた頃は気持ちの整理がつかない夜も多くて、色々な人がこの屋根を訪れ夜通し話したものだった。でも落ち着いた今は皆別のことが忙しく、ほぼ毎晩ハヤト一人がこの絶好の月見スポットを独占している。 いつもなら目の前の青年だって書物を恋人に夜を過ごしているはずだった。自分を地球に帰すのだと、そのために頑張ってくれていることは勿論知っていたけれど。 ぱちぱち瞬きを繰り返していて返事のないハヤトに苦笑すると、彼はそのままそこに座った。 夜だからかいつものマントは外していて、濃紺の衣服が闇に溶け込むようでそれはとても自然な光景だった。 月の光がきらきら光り、彼を照らす。 (ああ、きれいだな…) 深すぎて黒っぽく見える彼の髪と瞳が、本当は深い紫だということを自分は知っている。光に透けて時折しか見ることの適わないその色が好きだった。 「ハヤト」 見惚れていたせいだろうか。 唐突に真剣な口調で呼ばれた名に対応できなくて、あからさまに肩を揺らしてしまった。 それが彼になにかの確信を抱かせたのだろう。瞳が哀しげに翳ったのがわかった。 「…っキール、今のは」 「ごまかさなくていい。この数日、僕を避けているね?」 「……あ」 「気を遣わないでいい。僕がまた何か、君の気に障ることをしてしまったんだろう」 すまない、と彼は詫びた。 そんなことはないと言いたかったけれど言葉が出なかった。否定しないとキールの誤解が深まるだけだとわかっているのに。 実際、人との交流というものに慣れない彼は気づかず色々なことを仕出かしてしまう。周囲は彼が悪気でないことを理解しているから今もひとつずつそれを教えていた。だから彼がハヤトの態度にそう誤解してもそれは仕方のない状況だった。 「そうじゃなくて…」 でも、否定しようとしてもその先を続けられなかった。 ―――違うと言って、その先に何と続ける? 言えるのか。キールが好きなんだ、なんて言えるのか。 「……」 無言になって俯いたハヤトにもう一度キールはすまない、と謝った。 何も言えなくて首だけ振った。そんなことで伝わるはずないとわかっていたけどそれが精一杯だった。 「君がそんな風に口を噤むなんて余程のことをしてしまったんだろうね。…すまない、許されるならば改めるよう努力するつもりだ」 「…っ違う!キールは悪くない、それは本当なんだ」 でもそれ以上今は言えない、ごめんと俯いたままハヤトは呟いた。 わかってもらえたとは思えない、でも本当に彼は悪くないのだからこれ以上謝罪を受けるわけにはいかなかった。言いたくないからといって誤解をそのままにする、そんな卑怯なことだけはしたくない。 俯いたまま首を振り続けるハヤトにキールが困ったように苦笑した。 「…君の時間を邪魔するつもりはないんだ、すぐ部屋に戻るよ。でも、ひとつだけ頼みがあって来たんだ」 始めの真剣な声音でキールは言った。彼の本題はそこなのだろう。 「左腕をみせて欲しい」 その言葉でハタと気づいた。 まさか。 だって誰にもバレなかったのに。 「怪我をしてるだろう。今日の夕方だね、戻ってきたとき服が少し汚れていた。またオプテュスかな。上着が破れてないのは脱いで戦ったから?でもプラーマを持っていたはずだけど…ああ、そういえばダークブリンガーも持っていたね。何回も喚んだのかな。それくらい狭い場所となると、工場区か…どうだい、当たっている?」 次々と言い当てていくキールにハヤトは降参だと手をあげた。 あれから今までほとんどキールに近づいた覚えはないのに本当に彼は細かいところまで気づいてしまう。そこまで周囲に敏感だと疲れないだろうかと余計な心配までしてしまいそうだ。 そこまで感づかれてるなら、先程の「みる」という言葉も「見る」ではなく「診る」なのだろう。 「当たり。でもリプシーに治して貰ったから改めて誰か召喚するほどじゃないよ」 渋々上着を脱いで、ほらと傷口を見せる。 覗き込んだキールは難しい顔をしていて、やはり治療をと言い出しそうな雰囲気だった。でもハヤトが細かい傷にまで召喚獣を喚ぶことを嫌がっていることを彼はよく知っていたし、暫く悩んだ末に妥協することにしてくれたらしかった。 深い溜息が聞こえた。 「…化膿しそうになったら、プラーマに来てもらうからね」 「ああ、わかってる」 その前には俺だってちゃんと自分で喚ぶから、と言ったけど彼の目は信用出来ないと言っていた。まあ前科があるから仕方ないかもしれない。 「邪魔して悪かったね、じゃあ僕は…」 「キール」 「?」 呼び止められると思ってなかったのか、不思議そうな顔で彼は促されるままもう一度その場に腰を下ろした。 「久しぶりに付き合って」 月見に、とにっこり笑って続けると彼は驚いたように瞳を見開いた。 避けてたのは事実だ。でも誤解させたかったわけじゃないし、無用な罪悪感を抱かせたかったわけじゃない。それに何より。 「俺はキールと話したいよ」 一度声を聞いたら、なんだか我慢出来なくなってしまったから。 自分勝手だ。わかってる。 …でも。 だめ?とお伺いをたてると、彼は苦笑ひとつで了承してくれた。そして、ふわりと微笑んだ。 (ああ、こんな風に俺にだけ甘いから) 誤解したくなってしまう。 時に冷たいほどにフラットの人間ですら拒むことを知っているから。尚更に。 じりじり燃える熾火は至るところに燃え広がって、もう自分では制御できそうにない。 今となってはこの火を消せるのは、きっと目の前の男だけだ。 (そんなこと言えるわけもないけど) 話がしたい、と言ってもこれと言って話すようなことはなかった。 でも沈黙が痛くなくて、二人並んで座ってるだけでなんだか楽しくて気持ちよかった。毎晩のようにここで語り合った、そう遠くないあの日々を思い出す。 「綺麗な月だなー」 ほら、もうすぐ満月だとほんの少し欠けた部分を指差して嬉しげに笑う。 そんなハヤトをまぶしそうに見ていたキールは、君は本当に月が好きだねと微笑んだ。 「好き…うーん、そうだな。好き、なんだろうな」 「違うのかい?」 意外な返事だったのか、彼が不思議そうに瞬きした。 「だって、リィンバウムの月は怖い」 「……」 「俺の世界ってさ、空気がにごってるせいかな。月が凄く遠くてちっちゃいんだ」 この位、と指で作ってみせた○は言葉通り今目の前にあるそれとは比べ物にならない小ぶりなサイズだ。 「淡くて黄色くて、キレイなんだけど…なんかおもちゃみたいって言うか。かわいいけどそれだけなんだよ」 でもリィンバウムの月は違う、とハヤトは月を指をさした。 「俺はこんな大きな月みたことない。クレーターまで物凄くはっきり見えて、なんかよくわかんないけど迫力がある。キレイ過ぎて怖い」 太陽はそんなに変わらないのに、月は一目見て「違う」と思った。これは自分の知ってるものとは違うのだと。 「俺はもしかしたらあれを見て確認してるのかもな。ここは俺の世界じゃないんだ、って。全然別の場所にいるんだって」 「…君を帰すよ。絶対に、僕が」 「サンキュ。でもさ、別にキールを責めてるわけじゃないんだ」 だから無理はしないで欲しい、と言った。 「月ってさ、俺の世界じゃ不可能の象徴なんだよね」 じっと、自分の知るより遥かに大きなそれを見つめる。 「ほら、月って見えてるけど絶対手が届かないだろ?届きそうなのに届かない。だから」 子供は泣くんだ、「あの月が欲しい」って。 「cry for the moon…俺の世界の言葉で、無いものねだりって意味」 絶対に手に入らないものを欲しがるなんて馬鹿げてる。無理なものは無理なんだ。でもそれでもそれは諦められるものではなくて、だから人は月に焦がれる。焦がれ続ける。 「俺は帰りたい。諦めるつもりはないよ、でもそれがあの月を掴むくらい難しいってことくらいはわかってる。だからキールに無理はして欲しくない」 がんばってほしいけど、がんばってほしくない。 難しいかな、とハヤトは目を閉じた。屋根の上は他に遮るものがないから、風がとても気持ちいい。 重くなりそうな空気を流すように、ふ、と息を吐いた。 「月は、本当に掴めないのかな」 「ん?」 「それでも僕は絶対に君を帰す方法を見つけてみせる…約束する」 呟くキールの声は真剣で、思わずハヤトはキールへと振り向いた。彼はじっとこちらを見つめていた。それがいつからかわからなくて、思わず頬に血がのぼる。 「だって僕は月が欲しいんだよ、ハヤト」 「…え?」 話の展開が読めなくて、ハヤトは内心首をかしげた。 キールにそんなロマンチストな一面があったとは知らなかった。 「無いものねだり、か。そうかもしれない。不可能だってわかってる、でも僕は諦められない。だから、僅かでも存在するならばその可能性に縋りたいんだと思う」 言葉を選ぶように短く区切りながら、キールはハヤトを見つめたままで言葉を紡いだ。 「世界の壁はとても厚い。名も無き世界の文献はとても少なくて、打ち立てた理論も調べるほどに崩れていく。君を安全に送ろうと思うことはとても無謀でそれこそ雲を掴むような話だ」 「……」 キールがそのことの成果について話すことは初めてだった。 彼は一人で調査を進め、手伝いを断り、そのことについてけしてハヤトに関わらせようとしなかった。 だからこそ、難しいのだろうと言葉にされなくとも気づいていた。 「でもそれが出来たら、他の何でも叶いそうな気がするんだ。それこそ…」 ハヤトへと向けられていた視線がふと横へ向けられた。 その先にあるのは月だ。 「月だって掴める」 挑むような眼差しは見たことのないものだった。 いつも冷静で穏やかで、自らに厳しすぎるくらいの彼だ。今までにそんな表情が崩れたのは、強い悲しみの感情を表したときだけだったように思う。 「…無理だと思うかい?」 そんな彼が困ったように笑ったから。 「いーや?出来るだろ、絶対」 こちらも思わず笑ってしまった。 きっとキールには欲しいものがあるんだとわかった。月じゃなくて欲しいもの。多分とても難しくて、不可能に近い。 (でもキールならきっと大丈夫) にこにこ全開笑顔で見ていた先で、深紫の瞳がゆっくりと細められた。 「君にそう言って貰えると心強いよ…何よりね」 そう言う彼の顔があんまりやさしくて。だから、多分油断していた。 「ハヤト。君はあのとき、聞いていたんだろう?」 はっとして肩が揺れた。それは無言の肯定になってしまった。 何かを確信しているかのように言葉を発したキールだ、『あのとき』が何時を指すのか既にわかっているのだろう。気づかれていた?いや、キールだって確信はなかったはずだ。だから自分は彼の誘導に引っかかったのだ。 「…どこから、かな」 「キールが…俺を好きじゃないってとこだけ」 言い逃れはもう出来ない。諦めて事実だけを伝えた。 そう、と彼は微笑んだ。 「だから君は、僕を避けたんだね」 「……」 「………喜んでしまったら、不謹慎だと怒るかい?」 「は?」 逃げるように俯いていた顔を思わず上げた。 今キールはなんて言った?なんかそれってあんまりにも酷くないだろうか。 見れば言葉通り彼は酷く嬉しそうだった。表情はなんとか取り繕おうとしているようだが、嬉しげな気配は隠しきれてないし何より頬が夜目にもほんのり赤くなっている。 自覚があるのか彼は手で口元を覆っていた。でもそんな程度で隠せるものじゃない。 ずくずく、と胸が痛んだ。 もうちくりなんて可愛らしいものじゃない。切れそうに痛い。 屋根の上でいつもみたいに話せて嬉しかった。少しの間忘れていられた痛みが蘇って、歯を食いしばる。焼け付くような痛みはもう慣れてしまったものだった。けどこんなにも痛かったことはない。 冗談だったんだよ、と嘘でも言って欲しかった。 (ああでも無理か。キールは黙ってることはするけど、いつだって嘘は吐いてない) そんな彼だからこそ、キールが口にしたことは全て信じてきた。 なら、このことも…否定したくても、信じなくちゃいけないのかもしれない。 俯いたハヤトにキールは静かに言葉を続けた。 「好きじゃないよ。本当のことなんだ」 伏せた視線の先でキールが手のひらを握りこんだのが見えた。 一体何をそんなに緊張しているのか。拒絶されているのは自分の方なのに。 「…だって好きなんて言葉じゃ、全然足りないんだ」 「……?」 続けられた言葉が引っかかってハヤトは顔を上げた。 キールは緊張した面持ちで、視界の隅で見たままに拳を握りこんでいる。身を乗り出すような彼の姿に、意味がわからなくてハヤトは首を傾げた。 言われた言葉の意味を考える。 (―――え、だって、それじゃあ…) 「…ええと。どういう、意味?」 「言わないよ。その顔は、君はもうわかっているんだろう?…言ってみて、きっと合ってる」 「…俺のはきっと、うぬぼれだよ…」 「じゃあ」 正解だね、と彼は微笑んだ。 驚きにハヤトの目が見開かれた。 呆然としていたら、肩に手が添えられて、そっと抱き寄せられた。 拒絶がないのを確認してその手にだんだんと力が篭められていく。肩でほう、とキールが息を吐いた。腕にかけられた力が増す。 夜風に冷えた体に体温が伝わって、ぬくもりが溶け合うようだった。 熱くない痛くない。焼け付くような痛みは消えて、今度はじわじわと染み込むような熱が体を侵していく。 「ねえ、ハヤト。僕は月を掴めたよ」 肩口でキールが囁いた。 声を発する振動が触れた体ごしに伝わって、心の奥底まで染み通る。 熱くない。でも熱い。 頭がぐらぐらした。 「だからきっと、いつか君を還すことも出来るんだ」 だからそれまでは。 「君はもっと、僕に餓えて?」 熱傷V度。 焼け付く熱の正体が甘く絡まる蜜と知る。 深く侵食されて、きっとこの痕はもう消えない。 end.
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