それは、たぶん全くの偶然だった。
その時ちょうどそこの鍵が壊れていたこと。
その時ちょうどそこにデュオがいたこと。
そうしてその時たまたまそこにヒイロが入ってきたこと。
それは、たぶん全くの偶然だったのだ。
狭い空間に沈黙が落ちる。
見つめあったまま動かない二人の間を、ただシャワーの規則正しい水音だけが満たしていた。
互いに呆然としてしまい、動くことどころか思考すら停止していてなにも考えられない。見つめあったような態勢のまま、いったいどのくらいの時間をそうしていたのだろうか。それは長かったのかもしれないし、とても短かったようにも思える。
流しっぱなしで放置されていたような状態のシャワーの水温が変化したことによって、その沈黙は打破された。
「……あつっ」
反射的に小さく漏れ出した言葉により、空気が流れ出す。
慌てたようにパネル操作をして出しっぱなしだったシャワーを止める。そのときになってようやく気がついたように、デュオは自分の身体を手近に用意してあったタオルで覆った。
シャワーの湯を止めた姿勢で固まってしまったデュオと。
その場に踏み込んでしまったような形となったヒイロと。
お互いがどうしたらいいんだろうと、途方に暮れるような気まずい状態でまた沈黙が訪れた。
「……なあ…なにか言えよ」
「……」
困ったように口を開くデュオに、けれどヒイロは自分が何を言うべきなのか迷った。
ピースミリオンにおける時間は不規則ながらもやはりある程度法則性をもっている。仮眠室が混む時間帯もあれば、当然シャワールームが混む時間帯もある。それがわかっていたので、その時間をあえて避けてやってきたのだ。そして、ロックのかかっていなかったものを何気なく開けたらそこにデュオがいた。
「ああ、悪かった」で済むはずだったのだろう、通常であれば。
そこにいたデュオが、皆がそれまで思っていた、疑うこともなかったように少年であったのならば。
ドアが開いた瞬間にヒイロが見たのは、振り返るデュオの、年頃の少女らしいやわらかなラインだったのだから。
……どうしよう。
それがまず頭に浮かんだこと。
正面に立つ、まだどこかぼうとしたようなヒイロに思わず舌打ちが洩れる。
まさかこんなところでバレるとは思っていなかったのだ。
デュオは、幼い頃から男として生きてきた。そうしなければ生きていけなかったというのもあるし、そうすることによって余計な騒動を避ける意味合いもあった。
それはデスサイズのパイロットに選ばれてからも同じことだった。工作員というのは女というだけである意味差別される。捕虜として捕まればなおのことだが、仲間内においてさえそれは消せるものでもない。
女であるというハンデ。
それを隠して、今まで上手くやってきたのに。まさかこんなことでバレるなんて。
しかも、相手はよりにもよって……
ごまかすことも、黙っていてもらうこともどう考えても不可能だった。
そこまで考えて目の前に佇む人物を改めて見る。
まだどこか途惑う色はあったが、だいぶ冷静になっているようだった。確認するような視線が遠慮無くそそがれている。
ヒイロが口を開きそうな気配に、デュオは緊張するように身構えた。
「…ロックは、ちゃんと作動しているか確認するんだな」
「え?」
てっきり責められると思っていたヒイロから予想外のセリフが飛び出す。
責めるどころか慰めるような響きさえ含むそれに、デュオは目を見開いた。
「お前はツメが甘いからこういうことになるんだ」
「………怒らないのか?」
「何をだ」
「だって。オレ、お前たちのことずっと騙して……」
ずっと男だと偽ってきたことに対して、憤りを覚えられるのはしょうがないことだという覚悟はしていた。誰だって騙されれば腹が立つ。
戦場に立ちつづけるために必要だと言ったってそれは言い訳でしかないことはわかっていた。
けれど、それすら全く関係のないことのようにヒイロは平然としていた。
彼にとっての衝撃はデュオが女性であることを目の当たりにしてしまった最初で過ぎ去ってしまったらしい。
「俺もお前とそう大差のない環境で生きてきた。どういった事情かはなんとなくだがわかるからな。怒りの対象には出来ない」
ならない、のではなく出来ない、と言ったヒイロにやはり思うところはあるのだろうなと思う。
「だいたい、ここまできて男だ女だと言っていられる状況でもない。今お前に戦線離脱されても戦力的に困る。ならそういうことだ」
他の奴に言う気もない。
続けるヒイロにデュオは一気に身体中の力が抜けるのを感じてその場にへたり込んだ。
どうやって口止めしようかとずっと考えていたのだ。
たとえ身体を差し出したって黙っていてくれるどころか受け取ることすらないだろう相手なうえ、口封じもままならない。
八方塞な状況に精神はずっと張りつめていたのだった。
「大丈夫か?」
どうやらデュオの状態を把握しているらしいヒイロが面白そうに尋ねてくる。
それにむっとしながら、なんともいえない安堵感を感じる。
ずっと黙っていることへの罪悪感というものはあったし、それを打ち明けてしまいたい自分もいた。そして望んでいたのは変わらない対応。
それを、偶然とはいえヒイロは叶えてくれている。
それが、他の誰でもなくヒイロという人であることにデュオはこころの中が暖かくなるのを感じた。
「別に大したことないって。ちょっとバランス崩しただけ」
強がりとはお互いにわかっていたけれど、それにあえて無視をして立ち上がる。なんとなくまだ身体は力が入らないし、少し震えてさえいたけれどそれには目を瞑ってもう一度ヒイロの真正面に立つ。
「ありがとう」
多分返事は返らないだろうけれど、こころからのお礼を言う。始めここにヒイロが入ってきたのには相当驚いたけれど、こうなってしまえば胸のつかえが取れた分良かったのかもしれない。
にこりと微笑んで、ヒイロを見る。
安心して、一区切りがついたことで、ふと二人ともが我に返った。
途端に思い出すのが、ここがシャワールームであるということ。
デュオはシャワー中であり、当然のこととして裸であったこと。
「………」
「………」
デュオは慌てて手近にあった着替えの山の上から髪を拭くために用意していたタオルをひっつかんでヒイロの顔に押し当てた。
一瞬の沈黙。
いいかげん無言になることの多いこの場も、今度はまた少し違った意味の沈黙が落ちた。
つまり。
ヒイロが、鼻血をふいたのである。
デュオがタオルを纏っているとか、そういうことはこの際問題ではなく、いわゆる思い出しといおうか。ヒイロの精密な記憶力は本人の意志に反してこの場に踏み込んだときに目にしたデュオの肌を正確に再現してしまったのである。
「………すけべ」
「………」
ヒイロは一瞬言葉につまった。
別にわざわざ思い出して妄想にふけろうとかそういう意志があったわけではなく、ただふいに思い出してしまったわけで。自分でも少々信じられない事態だったりしたのだ。
「…うるさい。健全な反応だろうが」
まさかヒイロがねぇ…と言いた気なのがありありとわかるデュオの表情にむっとしたようにヒイロが返す。しかしタオルを顔に押し当ててのその口調は平時ならともかく、現在は負け惜しみとしか言いようがなかった。どちらかというと怖いというより可愛い感じである。
それに堪えきれずにくすくすと笑いながら、ヒイロの首の後ろあたりをとんとんと叩いてやる。
「ほら、上向くと血飲むぞ。鼻の頭、ちゃんと押さえとけよ」
無防備な姿で間近に寄ることも、触れることも厭わない。それは男として育てられた、生きてきたデュオらしい仕種ではあったけれども、ヒイロとしては少々物足りなくもあったりした。
―――こいつ、本当に俺を男だと認識してるのか?
自分の裸を見て鼻血をふいた男を前に、ろくに肌を隠しもせず平然として近づく様はなかなか理解し難い。
デュオの女としての部分は未発達で、そういった感情そのものを抑圧されてきたのはわかる。けれども、さすがにここまで無頓着なのは本人の性格としか思えない。
「さっきまでシャワー使ってたから、ココ結構暑いもんな。どうせのぼせたんだろ。ほら、冷たいもんでも飲んできな」
そう言って、話は済んだだろうとドアを示す。
すけべとか言いつつ実際にはそんなことないだろうと思っていたことがよくわかる発言である。
けれどそれにあえて反論するのも馬鹿らしいのでヒイロはその言葉に素直に従った。
自分が外に出る、という発想がなかったせいもあるし、これ以上その場にいてもデュオが湯冷めするだけだということに気付いたからだった。
「覚悟しとけよ」
「へ?」
出ていこうと方向転換をするヒイロから目を離し、やっぱりもう一度浴びなおそうかと思案するデュオの背中にそんなヒイロの言葉が残った。
疑問に思って振り向いたとき、ドアはすでに軽い空気音と共に閉まっていた。
いかに生理現象とはいえ、どうでもいい奴の裸なぞで鼻血をふくほど節操なしなつもりはない。
もうだいぶ前からまさかの可能性を考えていたし望んでいたけれど、それが現実であるとは思いもしていなかった。
男と女が共にあることに不自然さなどあるわけもないのだから、これからの自分の行動を咎めるものはないだろう。もちろん、他の誰かに教えてなんてやらない。初期行動の大事さはよく知っているつもりだ。
本人は、自分が一体どういう視線を集めていたのか全く知らないようだけど。
あくまで偶然とはいえ。
あの場に踏み込んだのが他の誰でもない自分であったことに、ヒイロは偶然というものに感謝した。
「そういえば、世の中には『責任を取る』という便利な言葉があったな…」
番をするように扉の前に立ったヒイロのその呟きは、中から聞こえてきたシャワーの音にかき消され誰の耳にも届くことはなかった。
end.
|