6月9日 学園MVP戦という嵐のような日々が終わり、ようやく落ち着いて来た頃ふと我に返ると季節は梅雨に突入していた。 しとしとと霧のように降る雨はこの時期特有で、空気がじっとり重いけれどあまり嫌いではなかった。 だってこの雨が終われば夏がくる。 「誕生日?」 「うん、いつかなと思って」 学園から寮へと戻る道すがら、傘を並べて歩く少年に問いかけたのは本当にふとした思い付きだった。 MVP戦を一緒に戦ってくれた彼を、啓太は短い付き合いながら親友だと思っている。 こんな短期間で「親友」なんて言ってしまっていいのかわからないから、心の中で思うだけだけど。 本当は、相手もそう思ってくれてたらいいなとは常々思っていた。でもまだ、それを言ったことはない。 出会ってまだ2ヶ月も経たない友人は当然ながらお互いまだ知らないことだらけで、だから、本当に本当にふとした思い付きで問いかけただけで…まさかこんな吃驚仰天な答えが返ってくるとは、このとき啓太は全く予想してなかったのだ。 「今日だけど」 「……へ?」 さらりと、なんでもないことのように言われた言葉に、啓太はそのとき頭が真っ白になった。 「…今日?」 「うん。今日。6月9日」 「え…えぇええええっ!?」 彼の驚きを誰も責められまい。 普通、「誕生日いつ?」と聞いて「今日」とは返ってこない。だって1年は365日あって、毎日尋ねるような質問でもないのだから。その確率たるや相当なものだ。 「え、だって…ええええ。和希、そういうことはもっと早く言ってくれよ。俺なんにも用意してないだろっ」 「別に言いまわることでもないだろ。それに、気を遣ってくれなくてもいいよ、別にどうということもない日なんだしさ」 いつも通りの穏やかな笑みで返す和希は本当に言葉通り気にしてなさそうで、啓太は次に返す言葉に詰まった。 「でも、だって…今日は和希が生まれてきた日なんだぞ。大事な一日じゃないか」 「確かに生まれてきた日ではあるけど…特に大事ってことはないと思うけどなぁ」 歩きながらふむ、とちょっと斜め上を見た和希は、「ああ、でも」と笑いながら啓太を振り向いた。 「もし啓太がどうしても何かくれるってんならそれはもう、有難く頂くよ。なんたって啓太がくれるものなんだから、そりゃあ大事に大事にするって!」 ウキウキとハートマーク飛ばしてそうなテンションで言う和希に、啓太はちょっと困った。 そんな楽しそうに言われても…というところだ。 こういう時、和希ってちょっとヘンな奴なんじゃないかと思う。 啓太の反応に笑って、「でも」、と和希が言った。 「本当に何もいらないよ。啓太が祝おうって思ってくれただけで本当に嬉しいから」 「そういうわけにもいかないだろ…」 言いながら、さてどうしようかと啓太は悩んだ。 週末まで街に出る時間はなさそうだし、学内で手に入るような物なんて文房具くらいしかない。和希のこの様子だと何でも喜んでくれそうではあるけど、啓太自身がそんなものではさすがに嫌だ、と思う。 和希本人の希望に沿って何もあげないなんてのは論外だ。 (…やっぱり少し遅れるけど、ちゃんとしたもの買って渡すのがいいかな) ここまで考えて、ふと気づいた。 和希の好むものがわからない。手芸用品…は、一通り揃えてるだろうし。編み物が得意だって言ってたけど、これから夏がくるというこの時期に毛糸をあげるのもちょっと微妙な気がする。 「なあ、和希。欲しいものってない?」 少し考えてから、啓太は直接本人に聞いてしまうことにした。 夢はなくなるかもしれないが、もうプレゼントをあげること自体は予告してるようなものだし、聞いた方がてっとり早い。 「だから気にしなくてもいいんだけどな…はいはい睨むなよ。別に、欲しいものは特にないんだ。だから啓太がくれるならなんでも嬉しい」 笑う和希は、本当に言葉通りに思っていそうで。 読めない友人だ、とこんなときに啓太は思う。 言葉通りなのか、それとも嘘なのか。穏やかな笑顔で全てごまかされているような感覚と、全面的に信じられるような安心感と、相反する感情が彼といると沸いてくる。 MVP戦が終わったとき、頬にキスされた。 本当は、自分はそのことをすごく気にしていた。数日は顔を合わせるだけでも意識してどきどきしてた。 「友情の証」なんて、ちょっとあの行動では信じ難い。普通は親友でもキスなんてしないものだ。 でも自分達は男で、友人で…深読みする自分がおかしいのかもしれない、でも和希の行動は普通じゃないわけだし、と本当に途惑った数日だった。 でも、本当に言葉通りだったのか、和希はそれ以降もまったく変わらなくて。朝迎えにきてくれて昼を他愛ない話をして過ごして、こうして雑談しながら寮まで帰る毎日が続いて。 正直、あまりにいつも通りすぎて逆に拍子抜けした。 意識していた自分が恥ずかしくなったりもした。 彼と一緒にいたのはここに来てからの僅かな期間だけど、一緒にいてわかったことはいくつかある。 和希は嘘をつかない。 でも、本当のことも言わない。 ただの友人以上だと、親友だと思っていると告げられないのは、そんな和希の返す言葉が怖いからなんだと、本当は気づいてる。 親友だと思ってると告げて、曖昧にごまかされたとしたら。その裏にあるのが、どんな感情なのかと深読みしすぎてしまいそうな自分がいて、それがなんとなく怖い。 …深読み。 そんなものする自分が一番おかしいのかもしれないけど。 「納得できない?うーん…でも本当にないんだよなぁ…」 啓太の沈黙を誤解したのか、和希が困ったように苦笑した。 「………」 「欲しいものか…」 「………」 「…ひとつだけ、あるかな」 しとしとと二人の上に降り続ける雨。 音を吸い込むような空気の中、黙ったまま聞いていた啓太はぽつりと本当に小さな声で和希が呟いたのを聞いた。 「な、なにっ?」 高い物でないといいんだけど、と財布を思い浮かべつつ勢い込んで言った啓太に、和希がふ、と笑う。 「啓太」 「うん」 呼ばれたと思って返事をした啓太に、和希が違う違うと首を振る。 「啓太が、欲しいな」 にっこり、と。 無邪気な笑みを浮かべて言われた言葉に、今度こそ啓太は固まった。 瞬間的に脳裏を過ぎったのはMVP戦に優勝した日の頬へのキス。 「え…、と」 頭の中が真っ白になって、なんと答えていいのかわからない。 やっぱりそういう意味なのか!?とか、冗談だよな、とか、そういう内容が頭の中をぐるぐるぐるぐる回って、本気でなんと答えていいのかわからなくなった。 ―――自分が深読みしすぎ? いや、和希は絶対なにかがどこかおかしい。間違いなく。 いやでもとにかく、この場合なんて返すべきなんだ!? 足を止めて呆然と立ち尽くしてしまった啓太に、唐突に和希が吹きだした。 「なーに固まってんだよ。冗談だって…って、一体何想像したんだ?」 「なにを想像、って…え…」 にっと笑って意味深に笑う和希に、少し遅れて啓太は真っ赤になった。 (冗談?冗談なのか?いや、でも…じ、冗談?) 和希の表情が妙に真実味があって、何が嘘なのかわからなくなる。 「そうだなぁ、妥当なとこで今日の夕飯おごり、ってとこかな。ハンバーグ定食とか嬉しいな」 学食のメニューはピンキリだが、定食はやっぱりうどん蕎麦に比べて高くつく、ちょっぴり贅沢なメニューだ。 簡単なお祝いとしては確かに妥当で…でも、啓太はどこか納得できなかった。 『啓太が欲しいな』 『冗談だって』 どっちが嘘かなんて、本当は、和希にしかわからない。 本当にヘンなのは、和希なんだろうか。こんなことを色々考えてしまう自分なんだろうか。 「……。わかった。今日は特別サービスで俺のおごり!」 振り切るようにきっぱり宣言した啓太は、ピシッと指を和希に突きつけた。 「でも、週末にも何か買ってくるから。楽しみにしてろよ」 「ああ、楽しみにしてるよ」 なんとなく続け難くて、その話はこれで終わりにすることにした。 いつもと変わらない寮へと続く道。出された課題のことや、明日の授業について話しながら、時折横を歩くその顔を盗み見る。 傘をさしているから、普段並んで歩くときよりも距離がある。 しとしとと降る雨が霞のように輪郭をぼかして、和希の存在を少し遠く感じた。 いつも通り肩を並べて歩いて、他愛ない会話をしていて。 今日はちょっとびっくりするような事を言われたけど、すぐに冗談で流されてしまって。 深い意味なんてなくて、本当に冗談でしかないのかもしれない。 気にする方が間違ってる。 でも。 なんで俺は、こんなにどきどきしてるんだろう。 「…和希って、なんか謎だよな」 ふー。と溜息を吐いて言うと、「そう?」と穏やかな笑みで返される。 寮の入り口が見えてきて、そこまできてようやく大事なことを思い出した。 そういえば、肝心の一言をまだ言っていない。 「誕生日おめでとう、和希」 カタカタと規則正しく響くタイプ音に、時折紙を捲る音が重なる。 他に音のないその部屋で、少し考え込んでからEnterキーを押した彼は、体を伸ばしてふー、と溜息を吐いた。 体重を受け止めて、豪奢な椅子の背もたれがギシリと音を立てる。 「…誕生日、か」 その日に生まれてきたというだけで、それはどうということもない一日だ。 邪魔くさいパーティに参加しなければならない分、普段であれば面倒な一日くらいの認識しかない。 今年は多忙を理由に遠慮して、正直なところ清々していた。 でも。 『誕生日おめでとう』 その一言だけで、なんだか嬉しくなってしまった自分は現金だろうか。 それは数時間前に言われた一言で、本当に、それだけが何よりも嬉しくて、他に何もいらないと思えた。 たった一人でいい。 自分が今ここにいることを嬉しいと、生まれてきてくれてよかったと思ってくれる人がたった一人いれば、それだけでもういい。 そしてそれは、誰でもいいというわけでは勿論無くて。 「欲しいものは…」 いつだって、ひとつだけだった。 冗談に紛らせてしまった本心に彼が気づき始めてるのは知っている。 当然だ。わざと意識させるようにしてる部分だって多分にある。 焦って、意識して、悩んで、最後に出される答えが何かは今はまだわからない。 例えそれが自分の望みと反するものだったとしても、踏み出した一歩に後悔はなかった。 言えないことは他にもまだまだある自分だけれど。 それでも、賽は投げられたのだ。 end.
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