「……今なんと言った?」
「『お前が大っ嫌い。二度と顔も見たくない』……もう一度言ってやろうか?」
傷ついたよう瞳を細めたヒイロに、デュオは満足気に微笑んだ。
もしかしたら結構好きかも。
これでお別れだな、と思ったとき漠然と理解した。自分自身の中に生まれていたそんな感情。
嫌がる背中を追い回したりしてたけど、自分では結構冷めていたつもりだった。
暇つぶし、もしくは一時限りのコミュニケーション。
あまり会った事のない人種だったから、見ているだけでも面白かったしそれに自分が関われるとなれば尚のこと楽しかった。
特別苛めようとか思ってたわけでもなくて、ただ本当に素直に思ったまま構っていたらそれがかなり嫌がられる結果になっただけだ。この辺は性格の不一致、まあしょうがない。
ヒイロの瞳は射抜くようにまっすぐ鋭くて、自分でも知らない心の奥底まで暴かれそうな気がして怖かった。でも逆にそれがぞくぞくした。
そのひたむきなまでの一途さは子供のそれで、任務に固執する頑固さは忠誠と言うよりもただ教えられたことを言われるまま実行する機械のそれだった。
純粋培養。
人間の性質を表わすものとしては、滅多にお目にかかれない単語だ。
でもコロニーを出て組織を出て教育者から離れて、まさかそのままでいられる筈もない。
思った通り、変化は短期間で目に見えて起こっていった。
自分の中に封じられていた感情というのものの存在に途惑い振り回され、ただそれの求めるままに行動するヒイロはなかなか楽しかった。
感情に従い行動することは人間として正しい、なんて人に言いながら多分それを一番理解していなかったのはヒイロ自身で、だからそれが作り出す限界も弊害も利点ですらきっとわかっていなかった。
そう利点ですら。それの持つ、強みですらも。
剥き出しの感情は酷く脆い。傷つけやすいし壊しやすい。
ただその分わかりやすいし無条件である種の信頼を与えてしまう。
諸刃の剣と言ってしまえばそれまでのそんな作用は、時に武器に、時に致命的な急所になる。
―――ヒイロのそれは武器だった。
多分オレは、それに気付くのが遅すぎた。
「…納得がいかない」
低く押し殺した声は殺気すら感じられるほど硬いものだった。
だが声の平坦さとは裏腹に瞳は揺らぎを見せていて、あいかわらずの無表情の割に内心はかなり動揺してそうだ。
ヒイロの微妙な変化からその感情を冷静に分析出来るのは、ある程度予想をつけてからこの展開に持ちこんだからだ。
さすがにダイレクトにこの状況に飛びこむような無謀さはデュオにない。
シチュエーションもタイミングも全て計算づくだ。もっとも効果的に、もっともヒイロを傷つけるそんな方法を敢えて選択していく。
だからデュオはふわりと笑った。
故意に作り出す、残酷なくらいの優しい微笑み。
「なんで?」
純粋に疑問のみを浮かべたようなデュオのあっさりした返答に、逆にヒイロの方がつまった。
何かを言いかけ、該当する単語を見つけられないのか開きかけた口が閉じられた。その隙を逃がさずたたみ掛けるように言葉を繋ぐ。
「だいたいお前の方こそオレのこと嫌ってたろ。もう会わない付き纏わないって言って、感謝されこそすれ非難される謂れはないぞ」
「それは、…」
「例えば、だ。オレがお前のことむっちゃくちゃ好きだったとしても、あんだけ足蹴にされててずっとそのまんまって事あると思う?まあ、あくまで例え話であって実際のところはひみつだけど」
「………」
言い返すだけの間なんて、答えを考えさせる間なんて、与えない。
言葉巧みなデュオとヒイロのそれでは勝敗は明らかだった。
必死に言葉を探しているらしいヒイロのもどかしげな視線を捉えると、苛立ちがかいま見える。デュオは立ち位置を僅かにずらすことでヒイロから距離をとった。
「えーと、だから最初の話題に戻るけどさ。そういうわけでオレはお前と組まされるなんてまっぴらご免。最低限条件が改善されない限りプリベンターからのお誘いなんて聞きたくない、ってレディにそう伝えておいてくれ」
早口にならないよう注意しながら、何気ない風を装って言葉を結ぶ。あとは一刻も早くこの場を立ち去らなければならなかった。
ヒイロの感情がなんらかの形で纏まる、その前に。
「……じゃあまあ、そういうことで、…………え?」
そのままこの場を離れようと足を引いたデュオは、次の瞬間身体が浮くような、目が回るような感覚に目を見開いた。
「………ッ」
意識した時には背中に衝撃。
腕をとられ投げ飛ばされ、床に叩きつけられたのだとは衝撃により詰めた息を吐き出しながら気がついた。
上には、デュオを投げ飛ばした本人が覆い被さっている。
―――ヤバイ状況だ。
「………」
「……なに、この手」
組み伏せられた体勢には敢えて言及せず、起き上がれないよう肩を押さえつけたヒイロの手を見やってデュオは不機嫌そうに呟いた。
ヒイロは答えない。
いや、多分言葉が見つからなくて答えられないんだろうとデュオは頭に血が上っているだろうヒイロよりはよっぽど冷静に状況を判断した。
―――純粋培養のお坊ちゃんはこれだから。
自分の感情の始末くらいは自分でつけてもらわないと困る。
ヒイロのいつも冷静な瞳が今はかなり揺らいでいる。外から見てこの様子なのだからきっと内面では嵐のような葛藤が渦巻いてるんだろうけど。
それは、デュオには関係のないことだった。
「………俺は…」
「別に言うことなんてないんだろ?離せよ、オレだって忙しいんだから」
嘘。
ヒイロが何か言いたいことはわかっている。
何を言いたいのかも、本当は知っている。
何かを言いかけたヒイロは、切り捨てるようなデュオの口調にまた押し黙った。そう、黙らせるためにデュオは言葉を紡いだからこれは成功だ。
ヒイロが必死に探す言葉、それは言わせてはならない一言だとデュオは気付いている。
「離せよ、ヒイロ」
「嫌だ」
咄嗟のことだったのだろうけど、はっきりと答えが返った。
あまりにもきっぱりと言われてデュオが一瞬怯んだ。それは先程からデュオが絶対に見せまいとしていた隙だった。
その時、ヒイロが、何かを掴んだかのような顔をした。
「ほ…ほら離せってば!」
ヒイロの気配が変わったことに気付いたデュオが、先程までの余裕を捨てたかのように慌ててもがき出した。
今のヒイロは危ない、それをデュオの本能は悟っていた。
押さえ付ける腕の力が増していく。途惑うような瞳が、いつもの強い光を取り戻しかけていた。
「嫌だ」
先程よりも力強い口調でヒイロが言いきった。
押さえ付ける腕を肩から手首へと移していく。
「………デュオ」
「………」
他に何を言うでもなく、ただ名前を呼ばれただけなのにデュオは動けなくなった。見つめてくる瞳から逃れられないことに気付く。
「プリベンダーのことはお前の好きにすればいい。…だが先程の発言は認めない」
「なんで、お前の許可がいるんだよ」
「俺の都合だ」
「……理由になってない」
デュオの中で警鐘が鳴り響く。
ヒイロは、言ってしまいそうな気がした。最後の砦を崩しそうな気がした。境界線を踏み越えようとしている…多分、彼は気がついた。
そのことに、デュオも気がついた。
言っちゃいけない。それは、境界を崩す一言。
今まで培った全てを消してしまう。それはヒイロのであり、デュオのであり、二人のでもある、全てをだ。
今なら大丈夫、まだ大丈夫だから。
気付かなければ、大丈夫なんだから。
だけど。
「………俺は、お前が好きだ」
耳に落としこまれた囁きに、デュオが瞳を歪めた。
ついに言われてしまった一言に、阻止しきれなかった一言に全ての動きが凍り付く。
それは一番聞きたくなくて、……もしかしたら一番望んでいた一言。
「何、言って…」
「茶番はいい。もうわかった」
何をわかったのかヒイロは言わなかったし、デュオも聞かなかった。
ヒイロが確認をとるようにゆっくりと顔を傾けてくる。
今はもう力を取り戻した瞳の、その射抜くような視線に耐えきれずにデュオは目を逸らした。
「……逃げ切れると思ったんだけど、な…」
最後まで逸らされたままだった視線。
口唇が重なる寸前。デュオの小さな呟きが、その場に落ちた。
end.
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