「……」
「……」
横目で伺われているのは知っていたが、今確認した事実に集中してしまっていたヒイロはそれを無視していた。
「……ええ、と」
「……」
「やっぱりいらなかった…かな?」
小首をかしげ恐る恐る伺われて初めて、自分の前に置かれた物体を思い出した。
沈黙を不機嫌になっていると解釈していたらしいデュオが小さくなっているのを見て、ヒイロは悪いことをしたと思った。そうだ。多少遊び心が発揮されたとて、これは彼の好意だった。
「いや」
「え、いるのっ?!」
しかし懸念を否定してやったら逆に引かれた。
(どうしろと言うんだ?こいつは)
「………」
「いやー…なんかお前がそれ食べるの想像できなくて」
憮然として睨んだヒイロに悪びれず笑って、だってこんなに可愛いのに、と自分が持ってきた皿を指差した。
確かにそれに手をつけるのはヒイロとて抵抗がある。
この際フルーツはいいだろう。問題は波を模して絞られた生クリームだろうか。
しかもどれだけ甘さが控えられていようとヒイロはこれを完食する自信は皆無だった。
デュオの好意だ。手をつけない気にはなれない。
けれど残すというのも……せめて、半分ならなんとかなるのだが。
「お前が半分食べろ」
ふと思いついて呟いた。
「ええ?!なんでオレがー」
「外観については自業自得だ。それに俺に出されたものを俺がどう扱おうと自由だ。サービスなんだろう?」
お前なら違和感がない、とは口に出さなかった。
「オレ甘いの苦手」
「『これなら甘さ控えめだから、お前でも食えると思うよ』」
「……。お相伴に与からせて頂きマス…」
自分の発言をそっくり真似られて、頬を引きつらせたデュオは視線で促され渋々スプーンをとった。遊んだ手前断ることもできないらしい。
彼の様子を見る限り、ヒイロが手をつけない前提で作ってきたのだろうか。
景気づけなのだろうが、それはそれで勿体ないことだ。強制されたもののどこか嬉しそうなのは、ヒイロが言外に半分は食べると言ったからだろうか。
「………」
「どうした」
「どこから攻略しようかと」
「どこでもいいだろう」
「………」
真剣な眼差しで何をしているかと思えばそれだ。
こういうとき特にデュオは年齢不詳だと感じる。単にヒイロとの性質の違いかもしれない。
珈琲を飲んでいたヒイロは、ふと未だ立ったままのデュオに気づいた。座るタイミングを逃したのだろうが、テーブルに手をついてスプーン片手に真剣にプリンに向かっている姿はとても近いこともあって。
(可愛い、と言ったら怒るだろうな)
彼は表情がころころ変わる。見ているだけで楽しくて、暫くヒイロはそれを眺めることにした。
自覚したばかりの感情が胸に甘い。
始まりがどこだったのか今となってはわからないが、それは自分が鈍かったせいで知らぬ間に随分と育ってしまっていたようだった。
食欲と性欲はよく似ている。
どちらも脳の同じ場所で処理される欲求だ。
不足を感じ欲しいと望む。
その飢餓感は、たったひとつでしか埋められない。
「……」
息をひとつ吐いて思考を逃した。
気が付いたからといって、意識して考えすぎだった。別にデュオとの関係性が変わったわけでも、彼についての謎が解けたわけでもないのだ。
デュオはようやくプリン攻略法を決めたようで、思い切りよく天辺から均等に二分割していた。
ふと思いついて声をかけた。
「『食べないなら食べさせてやろうか?』」
「…っ!い・ら・な・い!!」
再度言葉を真似てやると、仕返しかコノヤロウと呻かれる。半分は本気だったがそれは言わないでおいた。
らしくなく浮かれている、その自覚はあった。
「…出してみるもんだなぁ…」
しみじみと呟かれた言葉に眉を顰める。
結局(デュオの罪悪感からか)生クリームの海と特に甘いフルーツ、プリンの半分は彼の胃袋に消えヒイロの負担はそう大したものではなかった。
人体は疲労時血糖値が低下する。脳への栄養供給として糖分を得ることは利に適った行動だが、疲れていたわけではないヒイロにどの程度効果があったのかは不明だ。ただ、彼のその行動によって救われたものも、確かにあった。
(そして知ってしまったことも)
それは、気づいてしまえばもう後戻りできないものだ。
カララン
ベルの音がしてデュオがそちらに視線をやった。
けれど特に彼とは関係のない客だったようで(それも接客業とは思えない行動だが)、何もなかったかのようにこちらへと顔を戻す。
「いいのか」
「うん。何度か来てる奴だし」
オレの担当じゃないから、と笑う彼はまさか店に来る客全員の顔を覚えているというのだろうか。
その疑問に気づいたのかデュオが笑って首を振った。
「あ、別になんか凄いことしてるわけじゃないぜ?ただこんな場所だからさ。ほとんど決まってるんだよ、来る奴。新規でも大抵口コミとかで、お前みたいに突然入ってくるようなのって年に一度の珍事だから」
だから客が来る曜日時間もだいたいわかってるし、準備は楽だよ。しかも店員側も元々は客だったってパターン多いしなー、と続ける。
なるほど、と思った。
居心地のいい、けれど一種異様な環境はそんな閉塞的な状況でなければ維持できないものなのだろう。良く言えばアットホーム、悪く言えば排他的。それでも品質を維持できているのは元より採算度外視の経営だからこそ、か。
少しずつ少しずつ、店については見えてきた。
未だ全く見えないのは目の前の彼のことだけだ。
「お前も元は客だったのか?」
「……」
話の流れで何気なく問うた。
けれどその一瞬、デュオの笑みが消えた。
「デュオ」
名を呼べば、きょとんとした顔で「何?」と言われた。何故ヒイロが表情を硬くしているのかわからないというように。
確かに一瞬のことだった。けれどヒイロは先程の質問が彼のなにかに触れたのだ、と確信した。
「んー、オレはいきなり店に来ちゃったクチ。ほら言ったろ、オーナーが友達だったって。来てみたらこんな店だからそりゃもうビックリしたんだぜー?じいさんはスパルタだし、喫茶店なんて働いたことないからメニュー覚えるまでそりゃもうしんどくて」
デュオは何もなかったかのように言葉を続けた。
先程の一瞬はデュオの見せた失態だったのだろう。
ヒイロがそれに気づいてしまったことで我に返ったが、触れないことで終わりにしようとしている。
―――それは、ヒイロ達のような人間にとって暗黙の了解で。
(だが)
知りたいと、言ったらそれは罪だろうか。
店に来たきっかけについて触れたとき、デュオは過去を思い出したのだろう。そこに何があるのか、何があったのか、知りたいと思うのはヒイロの身勝手な欲だ。
それを押し付けるわけにはいかないけれど、…もう、引きたいとは思っていないのだ。
ならば。望むのは、一歩でも近い場所で。
「デュオ」
「なに、…っぃて!」
ぐい、と手を引かれてデュオは前のめりになった。
突然掴まれた左手を驚いたように凝視する。反射的に腕を引いたが、しっかり掴まれていたので僅かに揺れるに留まった。
デュオがヒイロの腕を掴めたのなら、逆もまた可能であるのだ。
だが行動の意図を掴めず、害が加えられるとも思えない状況にデュオはぱちぱち瞬いた。
「え、と…?」
「お前がふれたのは、左手だったな」
手の甲へのキスについてのことだと気づくのに少しかかった。
「幸福を祈り、こころの平安を願う。その行動がキスであることは納得のいくものだ。本来その行為は相手を思う愛情と相手に自分を知らせるという二つの側面をもつものだからだ」
視線を合わせたまま淡々と話すヒイロの言葉をデュオは無言のまま聞いていた。
乱暴に引いて今も拘束されているのに、その手つきは丁寧と言っていい。
だからこそそれを許容し、話を聞く余裕もあった。
「それでもくちづけとは特別な行為だ」
そして、お前が意図したのではなくても左手も、と付け加える。
利き腕をとることを遠慮したのだとは思う。それ以上の意図などデュオにはないだろう。
けれど。
「左手は心臓に直結していると言われている。心臓に、つまり心に。エンゲージリングがいい例だ。魔除けであり束縛であり、約束でもある」
「……」
「―――くちづけとは、特別な行為だ。相手の肌に直接粘膜をふれさせる。それは極めて原始的かつ動物的、本能的な衝動に起因する。自己をさらけ出すことであり、相手をより知ろうという欲求だ」
「だから?」
デュオは楽しげに先を促してヒイロを見た。
瞳がきらきら輝いているのは、ヒイロの突然の行動を推し量ろうとしているからか。
「つまり」
掴んだ腕を持ち上げる。甲を自分に寄せ、ヒイロはデュオと全く同じ仕草でそこにくちびるを押し当てた。
「…!」
抵抗はせず、デュオはじっとそれを見ていた。
それでも触れる瞬間だけはぴくりと体が震えた。
「俺はお前に幸福を願われるだけになるつもりはない」
ただの客のひとりで終わるつもりはないのだと。
「……なに、まさか口説いてたりする?」
「ああ」
「え」
面白がるように言われた言葉はいつか聞いたことがあるような気がした。
けれどそのときとは全く違う思いで、違う答えを返す。
デュオが絶句した。
「ちょ、ちょっと待てって…!」
いきなり慌てだしたデュオが立ち上がり、腕を取り返した。
視線を合わせようと同じく立ち上がったヒイロがそれ以上近寄れないようにか腕を突き出し、ストップストップ!と声をあげる。
「ど、どうしたんだよ突然。そんな冗談…」
「冗談を言う趣味はない」
本気だ、と囁くとそれが伝わったのかデュオがほんのり赤くなった。
外見に見合わぬ老獪さも見せるくせにこんなところは妙に物慣れず、デュオが本気で焦っているらしいことがヒイロにも伝わってきた。
「え、いや、ちょ」
「お前が好きだ、と言ったら?」
ここまできたら押すしかなかった。
デュオの顔に肯定はないがそこには嫌悪もない。だとしたら、全く望みがないというわけではないはずだ。
「おに、いさ…」
「ヒイロ」
呼ばれない名前に苛立つ。教えなかったのはヒイロだが、それに耐えかね衝動のまま言葉にした。
呼んで欲しい、と思う。
「…え?」
「ヒイロだ。ヒイロ・ユイ」
「…!」
告げられたのが名前だと気づいた瞬間、デュオは目を見開いた。
それは珍しく、本当に素の表情だった。
周囲への警戒を一切取り払い、全くの無防備になったそのとき。驚きに強張ったデュオの体を、咄嗟にヒイロは引き寄せていた。
今なら捕まえられる、それはヒイロの長年の経験からくる確信だったのかもしれない。
二つのくちびるが、深く重なった。
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