日付を越えてすぐ、ヒイロは店へと足を向けた。
霧のような雨が降っていて出歩くには不向きな天気だったが、そんなことは些細な問題だと思った。傘が役に立つとも思えなかったので湿るのにまかせて彼はそのまま歩いた。
いつも彼が訪れる時間よりそれは二時間ほど早かったが、デュオは既に店にいると思われた。
通いなれた路地を抜け、足早に道を急いだヒイロは最後の角を曲がる直前でぴたりと足を止めた。

何故かはわからない。
敢えて言うなら勘、としか言えなかった。

声がきこえた。誰かに聞かせるつもりのないだろう、ひとりで呟く声。

「死神を殺した男…か」

(…!)

静かな雨は湿度を高め自然と気配を消す助けをしてくれた。
小さな溜息が聞こえた。
小さな、けれど物憂げな重い溜息。
息を潜めたヒイロは、その声の主が…デュオが店に消えるまでそのまま立ち竦んでいた。
動揺を押し殺し、気配が遠ざかるのを待ってヒイロは呟いた。
「何故…」
喫茶店で働き始めて二年だと言っていた。
もし彼が堅気の生活を送っていたのなら、デュオがその名を知るはずがない。
それはヒイロを指す言葉だった。
この世界の者なら一度は耳にしたことがあるだろう程に有名な呼称。
呼ばれ始めたのは二年ほど前。
いや、きっかけとなった事件は二年前だが、実際にそれが噂になったのはそれから半年経ってのことだった。
ヒイロがそう呼ばれることを望んだわけではないが、それがヒイロの存在と価値を高めたこともまた事実だった。
有名な話だ。彼が知っていたとしてもおかしくはないのかもしれない。そうだ、そこまではそうおかしなことではない。
おかしかったのは。
(殺気だった)
呟いた彼が直後に纏った気配。
溜息で消えたそれは、微かな、けれど紛れもなく殺気だ。
ヒイロ・ユイ。
死神を殺した男。
確かに、名乗ったのは昨日が初めてだった。それを知ってヒイロに殺意を抱くとしたら…それは、喫茶店の客としてではなく『ヒイロ・ユイ』という存在に対し何らかの恨みを持っているということだろう。
―――何が、あった?
それはきっと彼の過去にかかわることなのだろう。
だがヒイロの記憶にデュオの存在はない。あれだけの存在感は消しきれるものではない。ヒイロには心当たりが本当にないのだ。
では、考えられるとしたらひとつだけだ。

(俺の殺した人間の中に、彼に近しい者がいたのだろうか)

それは、とても有りそうなことだった。
背中を冷たい汗が流れた。
デュオに会いたかった。でも今は会えそうもなかった。
詫びるつもりはない。彼はいつだって最適と思うことを行ってきた。その判断が間違っていたとは思わない。
だが、デュオがヒイロを憎んでいたとして…それを解ける自信もまた、なかったのだ。
会いたいと思った。
彼の笑顔を見たいと思った。
けれどそれは、もしかしたらとても難しいことなのかもしれない。もしかしたら二度と得られないものなのかもしれなかった。

時間を置くことは、もしかしたら正しいことなのかもしれない。

ふいにそう思った。
強制的に与えられる距離と会えない時間は、ヒイロ自身の熱を冷ましてくれるだろう。乱れてまとまらない思考も冷静さを取り戻すに違いない。そして、デュオもまた同様に。
諦めることはできない。自分勝手な考えでもそれは確かだ。
ならば、ヒイロがこの先出来ることはとても限られてくる。
(次に会うときまでに、デュオのことを調べなくてはならないかもしれない)
過去を探るのはマナー違反だ。
だが、ヒイロはそれを躊躇う気持ちはもうなかった。
まずは原因を知ろうと決めた。
……けれど、それまで会えない。
ヒイロはぐっと手を握り締めた。本当は今会いたかった。話すことを望んだ存在は今このドアを開ければすぐそこにいるのだ。
葛藤があった。問い詰めてしまいたいという思いもあった。
「…デュオ」
けれど出来なかった。
彼に対しそのことに触れてはいけない、とヒイロの勘が叫んでいた。話したらすべて終わりだという予感があった。

無言のまま彼は踵を返した。
あと数時間すれば彼はこの地を発たねばならない。
考えなくてはならないことは山積みで、本当は私情を孕んだこんなことに煩わされている余裕などないはずなのに、彼の優秀な思考はそのことから離れてくれそうもなかった。

雨は霧のように降っていた。
いっそ全身濡れて全て流してしまいたい、とヒイロは思った。




2007.7.1.
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