鳴り響いたクラクションにデュオははっとして身を強張らせた。
自失していた時間がどれくらいかはわからない。カーテンの隙間から差し込む夕陽を確認して、思いのほか時間が経っていることに気づいた。
脈打つ心臓を宥めている間に、デュオを正気づかせた音の主は何事もなかったかのように走り去っている。遠ざかるエンジンの音を頭の隅で認識しながら、それがとても遠い世界の出来事のような気がした。
冷蔵庫から出したばかりだったはずのペットボトルは机の上ですっかりぬるくなってしまっていた。底に溜まった水滴が水たまりを作り、机の表面は色を変えるほどそれを吸い込んでしまっている。跡が残るかもしれないな、と普段なら気にしないようなどうでもいいことが頭を過ぎった。
車が走る音、風の音、子供のはしゃぐ声。大通りから一本入っただけのアパートには雑多な音と気配が流れ込んでくる。その賑やかさに心惹かれてデュオは半年程ここを仮の宿としていた。
窓の外に存在する日常は、いっそ呆れる程に普段通りだった。
何一つ変わらない。それは本来喜ばしいことのはずなのに、今はその全てがデュオの意識の表層を上滑りしていく。
良くない兆候だ。それを自覚しているのに、今はどうしても何もする気が起きなかった。
壁に寄りかかった体勢のまま視線を向けると、夕陽が赤く世界を、そして部屋の中を照らしていた。そう経たずして辺りは暗くなるはずだ。電気を点けなくては、と思ったがそれもやはり億劫だった。
未来とは常に不確定のものだ。
昨日と同じ今日は有り得ない。
平和な日常ほど脆いものはなくて、それが当たり前に存在することがどれだけ幸福なことなのか知っていた。
だから穏やかな日々をデュオは愛していて、それが続くことを願っていて、それを維持するために毎日頑張っていたつもりで。だからこそ十分な覚悟だってあった、はずだった。
それでもこうして指先ひとつ動かす気力が湧かないということは、それが慢心だったということなのだろう。
デュオは緩慢な動作で窓に向けていた視線を落とした。
硬く握り締めた左手に一枚のカードが握られていた。ずっと触り続けていたせいで手のひらに馴染んでいて、金属の冷たさなんて欠片も残っていない。
まるで自分の肉体の一部であるかのように馴染んでしまった異物の存在を意識のどこかでなぞりながら、デュオは茫洋とした瞳を眇めた。
だめだ。こんなことじゃ、だめだ。動かないと。
どうすべきかをきちんと理解していて、そうしなくてはならないと決断もしているのに、どうしても動けなかった。まるで心と身体が分離してしまったかのようだ。
わかっている、自分はもうこんなものは捨てるべきなのだ。今までだって、ずっとそうしてきたはずだ。苦しくても悲しくても躊躇っても、そう出来る強さをデュオは持っていた。それはデュオに限ったことではなくて、人間という種族が生きる為に有する本能に近い強さだ。ただ、デュオ・マックスウェルという子供は普通の人よりもそういった決断を迫られる局面が多くて、否応なく慣れてしまっていただけだ。そう、慣れたことのはずだった。
捨てられなくて、捨てようとして、繰り返すその葛藤に翻弄されて、こんな軽くて薄っぺらいものを握り締めたまま手から離せない。
それはもう、どこにも主のいない部屋の鍵だった。
離せないくせに、力を込めて握りつぶすことすら出来ない。
デュオはくちびるを噛んだ。指先ひとつ動かせないのに、こんなにも力が出ないのに、いつだって叫びだしてしまいそうな衝動だけが胸中を荒れ狂っている。
どうしてこんな想いを抱えなくてはならないのだろう。理不尽だ、と思った。
「……ちくしょう…」
ヒイロ・ユイが死んだという報せを受けた日から、二ヶ月が経っていた。
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