(―――また、か。)
ヒイロ・ユイは巷で端正と評されている顔を周囲に気づかれないよう微かに顰めた。
この世に生を受けてからの正確な日数はわからないが、とにかく彼はこの十余年の間健康にだけは自信があった。いや、正確には自信があったというより特に病気に悩まされた記憶がない、という方が正しいだろう。
(要は自己管理の問題だとヒイロは思っているが、周囲からすればそれを抜きにしても彼は十分健康優良児だった。)
しかし、今彼の体は確実に病魔に侵されつつあった。
それは気のせいで片付けられる問題ではなかった。
動悸、息切れ、体温上昇に眩暈。
それらは症状だけ見れば風邪にも似ているかもしれない。
けれどそれが何より問題なのは、その症状を彼が自覚してこの方、どれだけの時が経っても一向に改善される様子がない…むしろ、悪化の一途を辿っていることだった。
ヘルスセンターで精密検査も受けてきたが何の問題もなかった。
メンタル面ではないか、との視点からカウンセリングも受けてみたが大した助言は受けられなかった。流石にガンダムのパイロットだということは伏せていたので元連合の兵士の一人という説明にしたのだが、戦争の凄惨さに傷つき未だショックから立ち直れないのだろうなどと言われてもヒイロからすれば今更すぎる。
しかし人間の精神というものは酷く複雑なものだ。
人並みではない人生を歩んできた自覚はある。ヒイロの理解し得ぬ部分で、何かしら傷が残っていて…それでこんなことになっている、という可能性を全て否定してしまうこともまた出来なかった。
…そう。結論からすると、悪化し続ける正体不明の奇病を、ヒイロは為す術もなく受け入れ続けることしか出来なかったのだ。
今もまた。
突如襲われたその『発作』に、息苦しさを覚えながらヒイロは耐えていた。
それはけして短い時間ではないが、それでも時間経過と共に苦しみが薄れていくことがわかっている。
そしてそれは横になればいいというものでも、薬を飲めばいいというものでもない。
時間だけしか解決できないのだから余計なことはせず、むしろその時間を有意義なものにするために目の前の仕事を進めるべきだとヒイロは思った。
思ったことを行動に移し、止めてしまっていた手を再び動かそうとした時、正面から小さく息を吐く音がした。
次いでガタ、と椅子を引く音がする。
顔をあげると、不機嫌そうな顔をした同僚が席から立ち上がってこちらへ回り込んでくるところだった。
すぐ横まで来た彼が不機嫌そうな…心配そうな?顔のままじっとヒイロの顔を見た。それから困ったように溜息を吐いた彼は、一転してにっこり笑って小首を傾げた。
「な、ちょっとオレに付き合わねぇ?」
顔の前で手のひらを合わせてお願いっと片目を閉じた彼に少し考えて、ヒイロは立ち上がった。
どの道この状態では作業が捗らないことはわかっていたから、ヒイロの不調に気づいて気分転換しようと誘いかけてくれる彼の好意に偶には乗ってやってもいいだろうと思った。
大抵の人間はヒイロの変調に気づくことはない。
でもどうしてか、彼だけには最初から気付かれてしまった。
いや…当然かもしれない。付き合いはそれなりの期間になるし、デスクは正面に位置している。加えて何より彼は他人の変化に聡い。ヒイロが表情を変える程の苦しみに、気づかないような鈍い人間ではなかった。
病状について話したこともあった。手の打ち様がないのだと知った時、哀しげに瞳を曇らせた彼の顔は今もヒイロの脳裏に焼きついていた。
酷くみっともない姿を晒している、その自覚はあった。
けれど胸の詰まるような息苦しさも、乱れる心臓も上昇する体温も、彼がヒイロを気遣う間は少し薄れるような気がした。
『気が紛れる』というのは、こういう事なのかもしれない。
先の見えない不安があった。
いずれはこの職場を、彼の前を去ることにも繋がるかもしれない。
「なー?風が気持ち良いだろー。偶には外に出てお日様の光浴びないと、ちゃんと光合成できないんだからな!」
「……」
植物になった覚えは無いんだが、と言おうとして、眩しさに目を細める。
返事が無いことを訝しく思ったのか、太陽を背にした彼が振り返り、背中の三つ編みが大きく翻った。
光を遮ろうと顔の前に手を翳していたヒイロの姿を見て、きょとんとした彼はそのまま吹き出した。
「なんか…懐かしいな、この光景」
あん時はお前しゃがんでたけど、と彼は言うがいつのことだか思い出せなかった。
気になりかけた思考を放棄して、屈託なく笑うその姿だけを見つめる。
この辺りで一番高いビルの屋上は、視界いっぱい遮るものがない青空が広がっている。その中で太陽を背負って笑う彼は、まるで本人が光を纏っているように眩しくてあたたかい存在だった。
どれだけ人外と冷やかされようとヒイロは間違いなく人間だった。
人間は植物と違い光合成は必要ない。
…が。
―――ほんの少しだけ。
このぬくもりを味わうことを自分に許してもいいのではないだろうか、と。
それは多分、ヒイロにしては珍しい思考の流れだということに、幸か不幸か当事者二人は全く気づくことはなかった。
…いつの間にか、息苦しさは消えていた。
「はあ…」
「お前が溜息とは珍しいな。どうした?」
「どうもこうもあるか!これを見ろ!!」
勢いよく指されたディスプレイに視線をやって、トロワは暫し沈黙した。
「……これは…ああ、サリィ・ポォか。今は月面勤務だったな。なるほど」
表情一つ変えず淡々と言葉を紡ぐトロワの横で、五飛は机に突っ伏した。
ぶつぶつという呟きが呪詛のようで周囲のデスクから人波が引いていく。しかしその中心の二人は全く気にしなかった。
「様子がおかしいとは思っていたが。そうか、そういう事か。確かにこれを直接デュオに返信するわけにはいかなかったのだろうな」
文面によると彼女にメールを送ったのはデュオらしい。後のことはこちらで上手くやって欲しい、という内容だったが…その肝心の『内容』が。
「確かあいつの国の言葉で湯治でも治らないと言うのだったか?」
「知らん。全く…ヒイロ・ユイともあろう男が…っ」
ぶつぶつと文句を言い続ける五飛と対照的に、トロワは楽しそうに口元を綻ばせた。
「『状況、場所を問わず発症』、『症状は日々悪化』、『改善の兆しもない』。…真実を知れば、なんともロマンティックな病状ではないか?」
ぐったりしてしまった五飛を他所に、トロワは何かに納得したようにうんうんと頷いていた。
「デュオには…そうだな、まずは不治の病だとだけ伝えるか」
彼には後で怒られるかもしれないが。
とにかく、二人一緒にいるところから始めなくては始まるものも始まらない。
―――そう。気づけばいいだけなのだ。
その発作が誰の姿を見ると、誰のことを考えると起きて、どうすると治まるのかを。
五飛が溜息を吐いた。
トロワが笑う。
そしてきっと、遠い月面では顔馴染みの女性が苦笑しているのだろう。
「ああ、そうだ五飛。ひとつ忠告しておこう」
俺の今回の契約期間はあと一週間だから、と言うと彼は机からがばりと身を起こした。
全身から「置いていくな裏切り者!」という悲壮感を漂わせた彼に変わらぬ笑顔を湛えたままトロワは言った。
「唯一の特効薬が何なのか。おそらく気づいてからの方が大変だからな」
……彼の笑顔を黒く感じたのは初めてかもしれない。
思わずここにはいない、彼と親しい筈の金髪の戦友の顔を思い浮かべた五飛は、ああやはり類は友を呼ぶのだ、と現実逃避するようにぼんやりと考えた。
end.
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