香りの秘密



ヒイロ・ユイが恋愛に興味がないというのはプリベンター内でも有名な話だ。
いや、それは語弊があるかもしれない。厳密に言うと、任務以外に興味がないというべきだろう。
彼は趣味というものをもたないし、有給もとらないで働き続ける。敢えて言うなら仕事(任務)が趣味で生きがいでそれ以外に興味がない、というところだろうか。
友人知人連中に言わせれば「任務バカ」の一言で済まされてしまう彼なのだが、そんな無愛想さにも関わらず密かに人気は高かった。
持って生まれた容貌や声質、加えてその有能さから彼に惹かれる女性隊員は後を絶たないし、人の数倍の量の作業を的確にこなし、偉ぶることもなく平和のために尽力する彼の姿は同僚の男達の中でも尊敬と憧れの念を抱く者が出現するほどだった。
そうなってくると、無口無愛想というマイナス面も好意的に解釈され、クールでカッコイイということになってしまうから世の中は不思議だ。
ヒイロ・ユイは恋愛に興味がない。つまり、現在フリー。
容姿端麗高収入、そのスキルの高さからして将来有望、しかもまだまだ若すぎるほどに若い。幸運にというか、偶々彼に優しく(?)されたことなんかあったりすると、それはもうお買い得物件というか、先行投資というか…それ以前に本人にめろめろになる、というか。
とにかく、本人の意志に関わらず、彼は人気があったのだった。



無表情の下、近頃ヒイロはほんの少し困っていた。

「ああ、マリア。この書類の件なんだが…」
「はい?何か問題でしょうか、ヒイロさん」
彼女は人付き合いの悪いヒイロをあまり恐れずに話せる、部署内でも珍しい人材の1人だった。デュオと親しい人間には珍しく、無駄のない効率的な仕事を好むタイプで、その点においてはヒイロも信頼を寄せている。
だからその時も、作業の都合で変更を頼みたい箇所があって彼は何気なく声をかけただけだった。
なのに、話の途中。
何故か彼女が急に眉を顰めた。
「…ごめんなさい、私お昼までに仕上げなくてはならない報告書があって。変更点はここだけですね?あとでデスクに届けて置きます。…それでは急ぐので失礼します」
「?ああ、わかった」
突然話を切り上げ、足早にその場を去ってしまった彼女を見送って、ヒイロはなんともいえない違和感にその場に立ち尽くした。
実は、ここ最近ずっとこんな調子だ。誰も彼もが、ヒイロを避ける。
元々人付き合いというものに重点を置いていないのでそういった意味では友人知人は少ないのだが、それ以前の問題として職場の同僚関係までもが彼を避けるのだ。
……いや、実際に避けられているのともちょっと違うのだろう。
近づいてくるし、笑顔で話しかけてくるし、途中までは以前と変わらず普通に会話をするのだが、なぜだかある一瞬を境に急に眉を顰めだして、言葉を濁すようにして逃げて行ってしまう。
特に何かした覚えはないわけだが。
「………」
ヒイロは小さく溜息を吐いた。
周囲の人間は連日この調子で。昨日なんかあの豪気な張五飛にまで逃げられた。
しかも去り際のセリフは「たるんどる!」だ。
身に覚えがない上それが起こり始めたのは本当に最近のことなので、原因も皆目検討つかない。
―――理不尽だ。
なんともむず痒いような不愉快さを抱えながら、ヒイロはプリベンターの廊下をずんずか歩いていった。


「やあ、ヒイロ。久しぶりだね」
坊ちゃま来襲。
その出来事は、一言で言うとそんな感じだろうか。
プリベンター大手出資元ウィナー財団を率いる実質若き総帥(成人していないのと過去が過去なので実際に表に出ているのは親戚筋だったりする)が、忙しい最中にヒイロを呼び出したのは、ある晴れた春の日のことだった。
職権乱用もいいところなのだが、場所がプリベンター内のカフェということもあってヒイロも断りきれず、天敵と久しぶりに対峙することになってしまった。
天敵。
いや、憎いわけでもないのだが。
今では様々なファクターが絡み合って『苦手』という分類になっている。少なくともサシで向かい合いたい相手ではないのだ。
「それで、何の用だ。カトル」
「酷いなぁ、その態度。ぼくが友人の顔を見にプリベンターに出向くのに理由がいるのかな」
パックに湯を注いだだけ、という安紅茶をそれでも優雅に啜り、カトルはにっこりと笑った。
「ああ、勿論君じゃなくてデュオに会いに来たんだ。でも残念なことに留守だったんです」
「やはりな」
でもここまで来て何もしないのも寂しいし、仕方ないから君が話し相手になって慰めてよ。と言うカトルにヒイロは冷めた目で呟いた。
ヒイロがカトルを苦手とする最たる理由はこの辺りだ。
なんといってもデュオと仲がいい。良すぎる。困った程に良すぎるのだ。
ぼく達の友情に障害なんてないんだよ、と宣言されたのは果たしていつのことだったか。
カトルが現れるとデュオの休憩休日の95パーセントは彼に奪われる。
これは今までの経験上、ほぼ間違いない。
その事実は件の人物をコツコツ積み立て貯金のように地道に口説き落とそうと努力している立場としては、堪ったものではないのだ。
そうでなくても、どこから嗅ぎ付けるのか知らないが『ここ一番の勝負所』と気合を入れてる時に限って、細やかにこっそりと裏から邪魔をしてくれるのだ。
過去の様々な出来事が脳裏に蘇り、ヒイロは眉を顰めた。
「ふふ、そんなに怒らないでよ。君に会いたかったのも本当なんだから」
悪意などカケラもないような笑顔でカトルはにこにことそう言った。
その言葉が嘘ではないこともヒイロは知っている。デュオと形は違えど、ヒイロとカトルも互いに信頼し合う友人であることは間違いない。
だが、と注釈をつけたくなる部分がカトルがヒイロの天敵たる所以だろう。
「―…まあ、いい。それでいつまで地球にいるんだ?確かあいつは明日の夕方には戻るはずだったが」
「それが、今晩の便でコロニーに戻らなきゃいけないんです。五飛はもう少しで戻るらしいから会えそうだけど、残念ながらデュオとはまたの機会ですね」
「そうか」
デュオのことだ、自分の不在時にカトルが来ていたと知ったらさぞ大げさに嘆くことだろう。次の休日がコロニーに遊びに行くという用事で消えるだろうことを悟って、ヒイロは覚悟と共に既に何度目かわからない溜息を飲み込んだ。
「ところでヒイロ、最近調子はど――………」
「…?」
にこにこと何か言いかけたカトルが、ふいに言葉を止めて眉を顰めた。
どこかで見たことのある反応だ。ヒイロははっと顔を上げた。
「カトル、どうした?」
「…いいえ、なんでもありません」
「なんでもないようには見えないが」
状況が状況で相手が相手だけに、立ち去られる様子はない。
ヒイロはここぞとばかりに畳み掛けた。
「ならば何故視線を合わせない」
「…別に」
カトルの声がなんだか低い。
不快そう…というよりもむしろ、不機嫌そうな顔でカトルは「ああもう」とか「なんでぼくがこんな目に」とかもごもごと小声で呟いた。
「カトル?」
「別に、ちょっと君を殺したい位ムカついただけなので気にしないで下さい」
「………………。
 それは気にしないでいい事なのか」
どう考えても物騒なことを言われた気がするのだが。
カトルの反応にヒイロは首を捻った。
「…最近、何故だか署内の人間がおかしい。今のお前と同じような反応だ、カトル。何か気づいたことがあるのなら教えて欲しい」
「最近?皆同じ反応??」
カトルがえ?とヒイロを見た。
「五飛もだ。あいつはむしろ何かに腹を立てていたようだが」
「………」
「話している途中、突然表情が固まって立ち去られる。俺は特に何かした覚えはない」
「………」
「実害はないが気になっていたところだ」
「…ヒイロ」
カトルの声がさらに低くなった。
それに一旦ヒイロが言葉を切る。
「ほんっとーに君気づいてないんだね?ぼくをバカにしてるとかじゃないよね」
「なにがだ」
「…ああ、そう。そうなの。気づいてないの…なんだかぼくとしてはその方が嫌になっちゃうんだけどね」
お手上げのポーズをとったカトルはおもむろに立ち上がってヒイロに近づき、その周囲をぐるぐる回りだした。背中に回ってふむと頷き、顔を近づける。
「ああやっぱり。こっちかな」
「…カトル?」
振り返るようにして視線を合わせたヒイロに、カトルはにっこりと笑った。
「ね、ヒイロ。最近誰かに背中に抱きつかれた?例えば、デュオに」
「デュオ?」
何故そこでデュオの名前が出るんだろうか、とヒイロは内心首を傾げた。
「…今朝出がけに、出張がだるいと圧し掛かられた」
当然、自分で歩けと払い落としたわけだが。
そこでふと気づく。
そういえば。ここ最近何かと自分はデュオに圧し掛かられていたような気がする。
そしてそれは、皆が不審な行動を取り始めた時期とも一致しないだろうか?
「………」
「この間ね、デュオにトワレをあげたんだ」
ヒイロの「思い当たる節」に補足するようにカトルが言葉を繋ぐ。
「気づいてないみたいだけど、君、本当にごく僅かにその香りが移ってるよ」
ヒイロが無臭を好むことくらい誰だってわかっている。香りがあるとしたら、それは誰かの移り香で。
さらに言うなら、同じ香りを纏った人間はプリベンター内を元気に走り回ってる人気者で。

その香りを嗅げば、誰もがたった一人を連想する。

敏感な人間達の集合だから気づく程度の、ふとした時に風にのるシトラス系のフレグランス。
……色々想像するのは、至極簡単なわけで…。
「君、いつもデュオに張り付いてるから鼻鈍ってるんじゃない?同じ香水使ってるテロリストに気づかないとか止めてよね」
あ〜あ、と肩を竦めたカトルは席に戻った。
何をどう言っていいのかわからない様子のヒイロをじろりと睨み、あのね、とお説教モードで話し出す。
「先に言っとくけど。嫌がらせか、とか言い出したりしたら殴るからね。匂い付けなんて目的はひとつしかないんだから。…全く、普通だったら惚気かって怒るとこだよ、なんでぼくが説明しなきゃならないのさ」
「…匂い付け?」
それは縄張りの主張だ。
これは自分のものだから。誰も手を出すな、という。
―――誰に対して?
ヒイロは改めてもう一度考えた。
最初にヒイロを避けた人物は、確かデュオに好意を抱いていた気がする。そうだ、あからさまな誘惑を、以前から内心腹を立てながら見ていた。
次の人物は、以前自分に手紙を寄越した一人ではなかっただろうか。その次は、そしてその次は。
思い当たる節と、心当たりはないがもしかしたら、という可能性のいくつかに思い当たり、ヒイロは言葉もなくカトルを見た。
「本人の意図とは違って君が周囲を牽制したような感じにもなってたみたいだけど。まあ、”地道な努力が実っておめでとう”、と言うべきなのかな?」
悪戯っぽく笑ったカトルに返す言葉が思いつかない。
思いがけないところで所有権を主張された本人は、珍しくも赤くなってしまった顔を隠す為に無言のまま机に突っ伏した。
ひらりひらりと上手くかわされているような気がしていたが、思いがけず尻尾を捕まえてしまったというか…むしろ告白されてしまったような気分だった。
この時、ヒイロが明日の夕方戻ってくるだろう『彼』を絶対に問い詰めてやると心に誓ったのは、言うまでもない。



ヒイロ・ユイが恋愛に興味がないというのはプリベンター内でも有名な話だった。
数日の後、彼が所内人気No.1のデュオ・マックスウェルを口説き落としたらしいという噂がまことしやかに囁かれるようになる。
今はまだ、それも先のお話。


                                  end.




COMMENT;

12のお題第10、「嫉妬」です。
この言葉で予想されるのってくっついた後の浮気(?)とかが多いと思うので、敢えてくっつく前で書いてみましたv
しかもより嫉妬深そうなのがヒイロなので、デュオにしてみたり(=w=)+←天邪鬼
ヒイロに気がある人はデュオの「オレのもんだー」な香りに「!?」となり、デュオに気がある人はデュオに接触した証の移り香に「!?」となり、と両方ヒイロを避ける結果になったわけです。ヒイロとんだ災難ですね♪
でも、超モテモテ(笑)なヒイロに不安になって、デュオがそういうささやかな自己主張するのって可愛いんじゃないかなって思うのです(*><*)
ヒイロは指摘されなきゃ一生気づかなかったでしょう…カトルさまキューピットかもしれませんね!


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