「…成る程な」
主の返答のない部屋をマスターキーで開け、室内に踏み込んだヒイロは苦々しい口調で呟いた。
プリベンターから支給されたアパートの一室。造りはそう複雑なものではない。
入口を入って右手にトイレとバス。まっすぐ進んで左手にキッチンがあり、続きのベランダ付の部屋がベッドルームになっている。
そして、ベッドルームとキッチンの中間地点に、彼が尋ねてきたこの部屋の主がのびていた。
「……何故俺がこんなことをしなくてはならないんだ」
溜息ひとつで気持ちを切り替えて、倒れている部屋の主…デュオの傍に屈みこんだヒイロは、手をとって脈をとり、額に手をあてて熱を測った。
息は浅く苦しげだがそれは熱によるものだろう。高熱ではあるが、別に重症という程のものではない。
寝ていれば治る、ヒイロはそう結論づけた。
昨夜遅く任務先から負傷して帰還したという話は人伝てに聞いていた。
そして、彼はどうやら疲れたから明日報告書を作成すると言って帰ったらしい。傷のこともあるしと皆がそれを了承した。
しかし本日、彼はプリベンターに顔を出さなかった。
午前中はまだ寝ているのだろうと言われていたが、夕方になっても連絡もつかない彼に皆が心配しだした。何せ戦中唯一指名手配された人物だ。怪我もしているし、もしかしたら不測の事態に陥っているのかもしれない。
デュオがあのざっくばらんな性格にも関わらず時間に正確で律儀な人間だということも心配に拍車をかけた。
“何か起こっているに違いない”。そう考えた上司の面々がちょうど帰りがけだったヒイロを捕まえて様子を見て来いと言ったのは、当然の流れなのだろう。ヒイロにとってはいい迷惑だったが。
床にうつ伏せに倒れたままだったデュオを抱き起こしてベッドに運び、汗をかいているようだったので体を拭いて着替えさせ、血が滲んでいた包帯を取り替える。それらの作業をヒイロは極めて事務的に行った。
「……何故俺がこんなことを…」
憎々しげに呟く。
熱は単に傷の炎症によるものだ。自分でなくても十分に対処できる。
別に誰でも良かったはずだ。なのに自分は、何故あのタイミングでホールを通ってしまったんだろうか。
「う…」
寝苦しいのか、呻いたデュオが身をよじった。
はっとして息を潜めたヒイロが見守る中で、デュオは変わらず浅い呼吸を繰り返すばかりだった。
薄く開かれたくちびると、熱い吐息に目が吸い寄せられたようになってヒイロは無理矢理視線を逸らした。
ヒイロが、デュオを避けるようになったのは2ヶ月前のことだった。
元から人間嫌いのヒイロが誰かといることは少なかったから、誰も疑問には思っていないだろう。
デュオがヒイロに無理矢理纏わり付いているのも有名な話だったから、それをヒイロが嫌がったとしても誰もが納得する。
でも、それは外野が勝手に思っていることであって、実際にヒイロが意識的にデュオを避けだしたのは本当に2ヶ月前からでしかないのだ。
それが「たった」なのか「もう」なのかは、ヒイロ自身よくわからない。
それは長くもあり、短くもあったような気がする。
多分、自分はほんの少し自惚れていたんだろう。
自分を追いかけるデュオの姿に。笑いかけるデュオの姿に。少なからず想われていると、自惚れていた。
『俺はお前が好きだ』
だからそれを自覚したときに本人を捕まえて、躊躇うことなく告げた。
その時デュオは酷く驚いた顔をして、次いで真っ赤になって口をぱくぱく動かした後、『ごめん』と言ったのだ。
『オレはそんな風に考えたことないんだ。ごめん』と。
考えてみれば当然な話なのかもしれない。
自分も彼も正真正銘の男だ。
同性間の恋愛があるということも周知の事実とはいえ、やはり絶対数が少ない奇異の目で見られる世の中だ。
相手も同じことを考えていると思った、友愛と恋愛の区別がついていない自分が馬鹿だったんだろう。
けれどそれを知っても、はいそうですかと納得できるものでもない。
悩んだ末に、ヒイロはデュオを避けるようになった。顔を姿を見なければ、いつかこの衝動も薄れるだろうと信じていた。
僅か2ヶ月だ。
まさかこんな風に二人きりになることになるとは、あのときの自分は予想すらしていなかった。
ヒイロは自嘲的に溜息を吐いた。
命令通り様子はみたのだし、これ以上できることもない。後は、早くこの場を去るべきなのだろう。
だが立ち去りがたいものを感じている…それもまた、事実だった。
件の告白以来ヒイロはデュオを避けていたが、デュオもヒイロを避けていた。
それまでの彼なら自分がどこにいても唐突に姿を現して軽口を叩いて帰っていったものだが、それ以降デュオがヒイロに近づくことはなかった。
だから。こうして間近にいることすら、2ヶ月ぶりだった。
枕元で、ぼんやりと眠る彼の顔を見つめる。
警戒のかけらもない弛緩した体。伏せられた瞳、長い睫毛。
普段は無駄に鍛えられた表情筋によって絶えず動き続けているふっくらした頬も、今は本来の滑らかなラインを惜しげもなく晒していた。
一度は間違いなく手に入ると思ったからこそ、こうして傍にいることは苦痛以外のなにものでもなかった。
「………」
この部屋を出よう。
彼が、目を覚ましてしまう前に。
未練がましい己を断ち切るように、ヒイロは勢いをつけて立ち上がった。
離れがたいからといって、デュオが目を覚ました時にどんな顔をすればいいのかもわからないのだ。そう、なんと声をかけるべきなのかすらも。
「…う、ん……」
そうして踵を返したヒイロが2、3歩進んだ時、背後で小さな声があがった。
誰かなんて考えるまでもなかった。
「………ヒイ、ロ…?」
まだ頭がはっきりしないのだろう、ぼんやりとした呟き。
けれどヒイロはそこに縫いとめられたように、動けなくなった。
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