暑苦しいほどの熱気。
肌に絡みつく湿気。
熱に霞む路面、耳障りな虫の声、肺の内側まで焼け付くような息苦しさ。
夏の照りつける太陽は、すべてあの頃の記憶に繋がる。
その訪問者はいつものことながら突然現れた。
「よお、ヒイロさん久しぶ…ってうわわわわ?!」
「……」
現れたヒイロに再会の喜びも束の間、無言で腕を捕まれ引き摺られてデュオは慌てた。
彼が不言実行型なのは今に始まったことではないが、それにしても唐突すぎる。
「ちょ、おい、ヒイロ!何かオレに用なわけ?どこ行こうとしてるんだよ」
「散歩だ」
「散歩って…なんでまた」
「……」
ヒイロは答えない。
半年ぶりに会っての会話がこれか、と溜息を吐いたデュオは、「お前ってホントにわけわかんねぇ」とお決まりのセリフを呟くと諦めて歩き出した。
腕は捕まれたままだが、引き摺られて歩くのと並んで歩くのでは見た目にも心情的にも差は大きい。
離してもらえない腕を見つめ、デュオはもう一度大きく溜息を吐いた。
通りすがりのクルーが二人の姿を認めにやにやと嫌な笑みを浮かべている。デュオは自分の名誉の為に彼を睨みつけておいたが、そんなものが牽制になるとはとても思えない。多分瞬く間に噂は広がって、夕食の席でデュオは皆にからかわれることだろう。
想像してデュオは頭を振った。
やめよう、考えると今から憂鬱になってくる。
不審人物に連行されている、などと思われないのはいいことだが、面が割れすぎているというのも考えものだと思った。
この無愛想男が誰かに取次ぎを頼んだとはとても思えない。
大方、勝手にサルベージ船に乗り込んで勝手にデュオのいそうなところを捜索して勝手に堂々と歩いていたのだろう。
さらには、彼の目的がすぐにわかった船員達がご丁寧にも自分の居場所を教えてやったに違いない。
その想像は、もしかしなくても限りなく真実に近いのではないだろうか。
「……」
無言になったデュオに頓着することなく、ヒイロは船と陸を繋ぐ渡し板まで辿り着いた。
躊躇なくそれを渡っていく彼に遅れて続き、デュオは流石に慌てだした。
「おいヒイロ、ホントにどこまで行くつもりなんだよ」
「…だから行っただろう」
散歩だ、と。
デュオは耳に届いた音を理解するのに数秒を要した。
だってヒイロ・ユイだ。
だって腕捕まれて強制連行だ。
それなのに、本当にただのどかに「散歩」?
はっきり言われていたソレを半ば以上信じていなかったデュオは、思わず呟いてしまった。
「お前、熱ある?」
ぴたりとヒイロが止まった。
前を歩く彼が立ち止まれば当然後がつかえる。一緒に立ち止まったデュオは、いつもなら聞き流すような軽口に反応したヒイロに怪訝そうに眉を顰めた。
「…?」
「熱はないが、」
どうやら珍しくも真面目に答えてくれるらしい。
やはりいつもと違う彼の様子に無言で続きを促しながら、デュオは内心首を傾げた。
「天気が」
言葉を紡ぎながらヒイロは空を見上げた。
夏特有の、照りつける太陽。
それはひとつの記憶を呼び起こす。
その訪問者はいつものことながら突然現れた。
「ひーいーろーさん♪」
思わず舌打ちしそうになったのをなんとかこらえ、ヒイロはその不躾な訪問者を視線ひとつやらず無視した。
本日の彼は窓からやってきていた。
正確には、窓の外から声をかけてきていた。
学生寮の各部屋の窓の正面にはそこそこ樹齢のいってそうな大きな木がある。学生が登らないようにと低い位置の枝が剪定されたその木に、彼は窓から猿のように飛び移って木伝いにこの部屋の前までやってきたらしい。
一瞬撃ち落してやろうかと思ったが、さすがに白昼堂々そんな目立つことはできなかった。
「ヒーイロヒイロ、ヒイロさーん?聞こえてるかなーヒ・イ・ロくーん」
何がそんなに気に入ったのか知らないが、彼がいつもやたらとヒイロの名前を連呼するのも苛立ちの原因のひとつだった。何から何まで気に食わない男だ、ヒイロにとって彼への評価はそんなものでしかなかった。
無視し続けるヒイロに彼はくすくすと笑った。
一体何がそんなに楽しいのか理解不能だ。
ヒイロは、彼といういきものがさっぱりわからなかった。
任務を遂行しているときはまだわかる。
綿密な情報収集に基づいた無駄のない破壊、最小の労力で最大の効果を狙う戦法。彼の取る手法はいつだってヒイロに近い。
機動力と隠密性の高い機体の特徴を活かした操縦はなかなかのものだと評価もしている。…勿論自分の敵ではないが。
彼が地球に降りた背景とて想像がつく。
そう、殊OZに関する全てに対してはデュオという少年の行動に疑問はない。
「ヒイロー、おーい聞こえてるんだろー?」
わからないのは。
何故この地域での破壊工作が終わったというのに、自分と関わろうとするのかだ。
情報を狙っているのかと思ったが違うようだ。
油断を誘っているのかと思ったがそれもまた違う。
何も考えていない阿呆なのだろうかとも思ったが、彼なりに意味はあるらしい。
楽しげに嬉しげにただひたすら自分に近づこうとする、あのいきものがさっぱりわからなかった。
「ヒーイロー。ヒイロヒイロヒイロさーん」
「…ちっ」
呼ばれ続ける名前に思わず舌打ちが洩れた。
しまった、と思ったが聞こえてしまったようで、返った反応に彼が殊更嬉しげに笑う気配がした。
「お、やーっと気づいたな。相変わらず鈍いなぁお前―」
(気づかないはずがないだろう)
ヒイロの反論を誘いたいのか、わざとらしく言われた言葉に内心でだけ言葉を返す。振り向きもしないヒイロを気にせず彼は言葉を続けた。
「なあ、散歩に行かねえ?」
「……」
「下で待ってるからさ。作業が一区切りしたら降りてこいよ」
「……」
「不本意かもしれないけどさ、たぶんきっと…」
そこで言葉は止まったが、ヒイロには彼の言いたいことが何故だかわかってしまった。
最後だと思うし。
そう言おうとしたのだろう。
「……」
(だからなんだと言うんだ)
別に、互いにこの地に未練はないはずだ。個人的な交流を育んでいたつもりもない。確かにそろそろ次の指令が届いてもおかしくない頃合だが、だからといって何故ヒイロが彼と行動を共にしなければならないのか。
しかも「散歩」だなどと何を考えているのか。それこそ時間の無駄遣いだ。
調べなくてはならないことなんて腐るほどある。時間は一秒だって無駄にできない。
答えない振り向きもしないヒイロに、それでも彼は笑ったようだった。
するりと気配が遠ざかる。枝から飛び降りたのだろう。
消えた視線に、僅かに入っていた力が肩から抜けた。
おそらくヒイロが来ないことなどあの男は百も承知なのだろう。わかっているくせに言うだけ言って去ったのは、それをネタに後でまた絡んでくるための伏線か。
鬱陶しいことだ、とヒイロは思った。
窓の外を見れば天頂を目指す太陽が眩しく大地を照らしていた。
この星の息苦しい熱気も纏わり付く湿気も鬱陶しいものだが、そんなものは室内に入ってしまえば空調でどうとでもできる。暑苦しい蝉の声も窓越しなら意識にものぼらない。
けれど。
『ヒーイロヒイロヒイロヒイロさーん♪』
―――歌うように綴られるあの耳障りな雑音も、遮れるものがあればいいのだが。
妙に耳に残るそれを振り払うように軽く頭を振ると、埒もないことを考えたと溜息を吐いてヒイロは意識を手元へ戻した。
次にヒイロが顔をあげたとき、窓から見える太陽は既に傾いていた。
(ガードが固い…流石にこの設備では無理か)
部屋に自前で構築した設備程度ではこれが限界だ。
諦めと共に首や肩を軽くほぐす。
長時間同じ姿勢で酷使された筋肉をほぐし、いくつかのキーを入力してからヒイロは立ち上がった。
部屋に用意した簡易設備で無理なら、もっと環境の整った場所へ行けばいいだけのことだ。その点学生に解放されているマシンルームはお誂え向きの施設だった。人の出入りがもう少し少なければ篭るところだが、そればかりは仕方のないことだろう。
端末の電源が落ちるのを確認し、この時間なら利用者も碌にいないだろうと判断したヒイロは足をドアへと向けた。
階段を降り、寮の出口が見えたところでふと先程の会話を思い出す。
『下で待ってるからさ』
(…まさか、な)
彼とてそこまで馬鹿ではないだろう。
ヒイロが来るはずがないとわかっていて何時間も待ち続けるほど愚かなことはない。ましてこの日差し、この気温だ。日陰すらない場所で、熱中症の危険を侵してまですることとも思えなかった。
そう、彼がいるはずはない。それは確信だった。
いるはずがない。
いるはずがない。
いるはずが―――…
(何を考えているんだ、俺は)
念じるように否定している自分に気づき頭を振った。
これではまるで彼の少年がいることを期待しているかのようだ。
自嘲と共に雑念を振り払い、ドアに手をかけた。
空調の効いた館内と違い、その扉を境に熱気が渦まいているのがわかった。空気の境のようなものがドアの前にはあって、そのぬるい取っ手に手をかけた時点でヒイロは外の温度差を覚悟した。
扉を押せばキィ、と耳障りな音を立ててそれは開いた。
途端、押し寄せるように響く蝉の大合唱。温度差のある空気で風が起こり体に熱風が吹きつけた。
遮るもののない日差しが照りつけ、その眩しさに目の高さに手をかざす。
傾きつつある太陽は暑さのピークを越えていたが、それでもまだまだ勢いを保っている。マシンルームは図書館と同じ棟にあるがそこまでの数分の道のりがとても遠いもののように思えた。
(…これが地球だ)
寒暖の差などで任務の遂行に支障は出さない。そのための訓練であり、そのために選ばれた自分だ。
この無駄の多い星でやるべきことはただひとつであり、気候の変化などデータで調査した範囲の事項でしかない。
瞬間的に眩んだ目はすぐにまぶしさに慣れた。熱気にもまた慣れる。
そう、それらは気にするほどのことではないのだ。なにひとつ。
意識を切り替え、手を下ろして歩き出したヒイロは図書棟に足を向けた。
そして、そこで思わず立ち止まった。
立ち止まって、しまった。
「……ヒイロ?」
その動きで向こうも気づいたようだった。
流れる汗を手で拭いながら、驚いたように目を見開いてそこにデュオが立っていた。
(―――いるはずがないんだ)
ヒイロが来るなんていう限りなく低い可能性の為に、この日差しと気温の中ずっとこんなところに立っているだなんて。
実際、ヒイロはデュオのために降りてきたわけではない。
やることはたくさんある。時間は一分一秒でも惜しい。そんな無駄なことに使う労力なんて、あるはずがない。
呆然とするヒイロの前に走りよって、デュオが嬉しそうに笑った。
本当に、彼といういきものはさっぱりわからない。
言葉を失ったのは数秒のことで、ヒイロはすぐに我を取り戻した。
無言のまま図書棟に向けて歩き出したヒイロに何も言わず、デュオは隣を歩き出した。
それにちらりと視線をやったものの、ヒイロは何も言わなかった。
正確には言えなかった。
このいきものは合理的かつ理論的かと思えばこうして意味のないことをする。わけがわからなさすぎてどう言えば一番なのか全くわからなくなってしまったのだ。
簡単に言えば、彼は動揺していた。
それに気づいているのかいないのか、デュオは嬉しそうにただ歩いていた。
「来てくれたのか」などとは言わない。恐らく彼はヒイロがただ用事があって出てきたのだということを理解しているのだろう。
…そのことをわかっているのなら何故。
少しずつ冷静さを取り戻してきた思考で考える。
「何故笑っている」
「だって、お前とこんな風に歩くなんて考えたこともなかったから」
拒絶されることなく歩けることが嬉しいのだと、ただそういってにこにこ笑う彼に、ヒイロは溜息を吐いた。
それを正しく妥協と受け取ってデュオの笑みが深まる。
「デート…には短すぎるよな。やっぱり散歩だ、うん」
のんびりとことこ、歩くペースは一定で緩まない。彼が鬱陶しいからといって早足になるのはヒイロのプライドが許さなかったが、それにしても同じような身長で同じような歩幅だというのに彼の歩みは妙にのんびりとした風情だ。
「な、ヒイロ」
「……」
軽い口調で声をかけられても返事を返すわけがない。
それでも彼は話し続ける。
今も、いつも。そう、最初に会ったときからずっとそうだった。
「地球ってさ、すごいな」
深い声に惹かれて軽く見やると、その視線は空へと向けられていた。
眩しそうに太陽を見る眼差しはとてもきれいだった。
「……」
「こんなの資料じゃ見えなかった。太陽が笑ってるみたいだ。…こんなにいい天気なんだ、散歩しないともったいない」
胸いっぱいに空気を吸い込んで吐き出す彼は、心底そう思っているのだろう。
気づかれる前に視線を正面に戻したヒイロは内心そう呟いた。
ヒイロにとっては地球の季節の変化などデータのひとつ障害のひとつでしかない。
けれど、彼にとってはきっと違うのだ。
天気がいいというだけで散歩に出る理由になる。
太陽が眩しければ嬉しくて笑顔になる。
熱気も湿気も耳障りな蝉の声も肺まで焼け付くような息苦しさも全て、彼にとっては『違う』のだ。
わからない、いきものだ。ヒイロの理解の範疇を超えている。
けれどきっと。
…おかしないきものでは、ないのだろう。
「お前とさ、歩きたくてさ。多分二度とないからこんな時間。だってオレたちが会うのはいつも―…」
戦場だから、とは言葉にしなかったがヒイロには理解った。
「最初で最後だなって思ったらさ。お前と歩きたかったんだ。何の目的も、打算もなく。ただ歩くだけ」
「……」
何も言わなかった。
言うべき言葉はなかった。
「だから、ありがとな」
「お前が勝手についてきただけだ」
俺には関係ない、と言うと彼はくすくす笑った。
確かにヒイロはデュオの誘いに乗ったわけではなかった。けれど今こうして同行を許している。無言でいることがヒイロなりの許容だと、この男にはわかっていたのだろう。
笑みの残る顔のままで彼は空を仰いだ。
もう図書棟は目の前だ。たった数分の短い散歩はそこで終わる。
「いーい天気だなー」
この自分達にとっては非日常的な日常も、あるはずのなかった時間も、すべてその一言で収めてしまえるのだと言わんばかりに彼は大きな声で言った。
その笑顔が、焼きついて。
揺れる。
揺らされる。
意識が。
―――ああ、熱気が…。
ヒイロは彼から視線を外し、空を仰いだ。
太陽は変わらず大地を照らしている。強く熱く、そして優しく。
(眩暈が、する)
わからないいきものが。わからないからこそ、この胸奥を乱す。
「天気が、なに?ヒイロ」
空を見上げて黙ってしまったヒイロに、デュオは訝しげに問いかけた。
何か思い返すように瞳を閉じていたヒイロはその双眸を開くと、振り向かずにそれに答えた。
「天気がいいからな」
「はあ?」
それが理由だと言わんばかりに紡がれたヒイロの言葉に、デュオはわけがわからないという顔を隠しもしなかった。
(天気がいいから散歩する?)
―――『あの』ヒイロが?
脳内を渦巻く謎におかしな顔になったデュオをちらりと見て、ヒイロがまた歩き出す。その遠慮のないペースに掴まれたままの腕が引っ張られ、デュオも慌ててその後を追った。
「天気がいいとなんで散歩するわけ?」
「さあな」
「さあなって…」
「それ以上の理由が要るのか」
「いや…なんていうかその、うーん…」
キャラに合わない、とか言ったら怒られるだろうか。
多分それだけじゃなくて偵察が、とかの他の本当の理由があるに違いないと思っていたデュオは、どうやら彼が言う言葉が真実で全てらしいと遅まきながら悟った。
「…ありえねえ」
いつにない様子のヒイロに途惑っていると、前を歩く背中から微かに笑った気配がした。これまたありえないことが目の前で起こっているようだ。
「言っておくが、お前に拒否権はないぞ」
「へ?」
「単にやり直しているだけだからだ」
「……。なにを?」
答える気はないようで、ヒイロは無言だった。
それでもその気配は楽しげだったから、わからないながらもデュオは納得してこの状況を楽しんでしまうことにした。
―――まあ、こんなこと最初で最後かもしれないし?
苦笑ひとつで意識を切り替える。
連行されるようだった腕を揺らすと、意外にもするりと拘束は外された。そのまま手を滑らせて、いっそのことと手を繋いでしまう。指を絡めても、やはり珍しくヒイロは何も言わなかった。拒絶もなかった。
デュオはくすくすと笑った。ああ、なんだか楽しくなってきてしまった。
「夏嫌いでさぁ。外はあっついし、湿気でじとじとして気持ち悪いし、蝉はうるさくてイライラするしで出たくなんてなかったんだけど」
「……」
「お前がいつもと違ってなんか楽しい」
言葉どおり楽しげに笑う彼に、ヒイロは複雑そうな顔をしていた。
(なんかヘンなこと言ったかね)
思い返してみるが一般的感想というやつでおかしな点は見当たらない。まあいいか、とデュオは気にしないことにした。
太陽は確かに眩しいけれど傾きかけたそれは熱を落としはじめていて、海風は強く吹き付けて体を撫でていく。
一緒に歩くのはなんだかんだで会えなかった戦友様だ。
(ただの戦友かどうかは、まあ相手の判断とご想像にお任せします、というところかな)
手を振りとかれない時点で多少は期待できるかもしれない。
アタックかけ続けた甲斐はあったのかも。ああ、なんだか本当に楽しくなってきた。悪いクセだとわかっているけど、どうも調子にのってしまいそうだ。
でも今ならそれも許されるんじゃないかと、少しだけ強気に口を開く。
「なんかさ、これなら散歩っていうより…」
握った指に力を込めて、それに相手の意識をもっていかせていたずらっぽく囁いた。
「デートみたいだな」
「違うのか」
困らせようと思って言ったセリフにあたりまえのように返されて。
絶句したデュオは、悩んだ末に吹き出した。
笑い続ける彼を暫し眺めたヒイロは、呆れたように「相変わらずお前はわからない」と溜息を吐いた。
end.
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