初めて会った時、そいつは笑いながらこう言ったんだ。
「お前に名前をつけてやるよ、チビ」
その一言はこの世で何より大事なことだったんだって気付いたのは、もう少し後のことになる。



  耳に残るはあの言葉、こころに届くは君の声




地球に降りて初めて出会った『そいつ』は何もかもが破天荒な奴だった。
「おいお前、いい加減にしろよっ」
周囲の機械音に負けないようにデュオは怒鳴った。
けれど自分の機体でなにやら調べ物をしているらしい少年はその声にも眉一つ動かさない。完全に無視されてることに苛立ってデュオは小さく舌打ちした。
軍港で見つけたなにやらワケありらしい少年をこのサルベージ船へ連れてきたのはデュオだった。
彼の機体を見れば自分と似たような背後関係がありそうだと察することは容易く、そのことそのものや彼の背後にある組織に対する興味から接触をはかったことは事実だ。純粋な好意などでは当然なく、自らの利の為に動いたデュオを彼が信用しないのも仕方のないことではある。
あるが、しかしどんな状況でも最低限度の礼儀というものはあって然るべきではないかとデュオは思うのだ。
仮にも工作員が自分の拠点へと連れてきたというのに、一部とはいえ手の内を晒したデュオへ配慮するどころか、彼は機体を引き上げたサルベージ船の乗組員達すら目撃者抹殺の為と言って射殺しかねない勢いだった。
物静かなだけに彼はその想像を現実にしかねない怖さがある。

―――コイツはけっこう、ヤバイかもな。

それでも連合から連れ出したことを後悔することはなかった。
あまりにも完璧。あまりにも、頑な。
その強固な壁は、逆に護るものがその内側にあるということだ。それはデュオの興味をひいた。
それはあの機体のパイロットという推測に対する興味とは違う、彼個人に対してのものだった。
「機体に触られたくないのはわかったから、ちょっとくらい休めってーっ」
無視されてようと、聞こえてないわけじゃあない。
返事がないのを承知で、デュオは続けて怒鳴った。
サルベージ船の乗組員達は彼のことを全面的にデュオに任せていた。当然だ、彼はデュオが連れてきたのだから。
それでも二人のやりとりがやはり気になるようで、声を張り上げる度にデュオは彼らの視線が自分達の方に向けられるのに気付いていた。当然もう一人の当事者である少年も気付いているだろう。
どうせ彼は自分を無視する心積もりなのだ。だから、他人と極力関わりたくないらしい少年への、これはデュオのちょっとした意趣返しだった。
それでもひとしきり喚いたところでデュオは大きく溜息をついて口を閉じた。
大げさにお手上げのジェスチャーをとって、「ああもう、オレは知らないからなっ」とわざわざ宣言つきでくるりと踵を返す。
少年はやはりデュオを無視していて、視線すら動かさなかった。
けれどデュオは気付いていた。彼も、デュオを意識している。
お互いの立場上意識せざるをえない存在なのだ、互いは。なのに彼はデュオを無視する。それはまるで空気のように、そこに何も存在しないかのように。
それがとても腹立たしかった。




「お前に名前をつけてやるよ、チビ」
「はあ?」
いきなり言われた言葉にこいつは馬鹿じゃないかと思った。
頼みもしないのにそんなことを勝手に言い出して。素晴らしい提案だとでも言うようににこにこ笑ってるのは、少年からすれば得体が知れないとしか言いようがなかった。
「いらねぇよ。バーカ」
醒めた目で言い返した少年に、ソロと名乗った少年は意外そうに目を瞬かせた。
このとき、偶然とはいえこの少年とその仲間達と関わってしまったことを幼い少年は酷く後悔した。お節介で頭の弱い人間と関わるなんてロクなことにならないに決まってる。
少年の内心など知らぬ気に…あるいは知っていてそれでもなのか、ソロは笑った。
「だって、さっきお前これから暫くこの辺り寝ぐらにするつもりだって言ってただろ」
「だから?」
「それなら名前がいるだろ」
「…なんでだよ」
呆れて口を開くのも億劫だというような少年を前にしても、ソロという少年は怯まなかった。
「俺はもうお前と会った。お前に名前があればそれでいいんだけど、お前は無いって言う。お前を『呼ぶ』為に、名前が要るんだよ」
訝しげな顔をした少年に微笑んで、彼は言葉を続けた。
「だって名前を呼ぶって、『そいつ』を認めることなんだぜ?」
世界でお前はお前だけだから。お前をあらわすただひとつの言葉が必要なのだと、彼は屈託なく笑ってそう言った。

それからいくらかの時が経ち。
今、その言葉を紡いだくちびるは時を止め、もう二度と動くことはない。
デュオへと力なく伸ばされていた腕が重力に従って床へ落ちて、鈍く重い音が響いた。
その腕が上がることももう二度とない。
その瞳が開かれることも、つらい日々の中いつも笑っていた彼がその顔に笑みを浮かべることも。もう二度と。
「おやすみ、ソロ」
囁いて微笑って、少年は立ち上がった。
彼がウィルスに侵され、少年がそうならなかったのは単純に運の問題でしかない。この界隈でもたくさんの人間が死んだ。そして明日少年自身も同じ立場になっているかもしれない。保証なんていつだってどこにもなかった。

それでも。
自分は今、生きているから。

「……なあ、決めたよ。オレの名前」
前を向いて呟く。
それなりの時間一緒にいたのに、結局名前は決まらなかった。
そんなもの要らないと思っていたし、彼にもずっとそう言い続けたけど今になってその事実はひどく重く圧し掛かる。
ソロはあんなにも自分の『名前』を呼びたいと言ってくれたのに。
「………」
これは追悼だとか、思い出に縋るとか、死んだ彼と一緒にこの先を生きるんだとか、そういったくだらない感傷なんかじゃない。
世界を斜めに見て全て憎んでいた日々は、本当はあの日とっくに終わっていた。
彼に会って生まれた自分のために、この『名前』をつけよう。
「オレの名前は、『デュオ』だ」
ここが起点。
これが偽りのない、『自分』という存在。
「お前に呼んでもらう日は、もう来ないけどな…」
それでもデュオは彼にもう一度笑って、その場を後にした。




水平線に太陽が沈む光景というのは、何度見ても背筋をなにかかけのぼるような衝撃がはしる。
赤ともオレンジとも、炎のようだとも表現され、そのどの言葉でも表現しきれないようなそれを前にデュオは感嘆の溜息を吐いた。
昼を見て夜を見て、晴れも曇りも雨もハリケーンも体験した。雪はまだ見たことはないが、それでもそれらは訓練時に資料として見せられた映像を越えるものではなかった。全て想像の範囲内だった。
でも夜明けと日暮れはなにかが違う。
太陽には神が宿る。日暮れには魔物に出逢う。そんな言葉を信じてしまいそうになる位それらは言い知れないなにかを宿していた。
地球は息が詰まる。
徹底的に効率化を図った宇宙での生活に馴染んだ者にとって地球の生活は無駄の極地に思えたし、濃度の濃い酸素は体に纏わりつくようだった。
圧し掛かるような重力は地面に縫いとめられるようで、苛立ちと焦りを生む。
それでもここは、こんな風に堪らなく惹きつけられるものも同時に存在する場所だった。
「すごいな…」
呟く言葉に純粋な賞賛が混じる。
母なる惑星を懐かしむ気持ちはデュオにはなかった。
自分の故郷はコロニーであり、無限の広がりをもつ宇宙だった。懐かしいと想う場所も帰りたいと願う場所もこの空の遥か上空にある。
夜がくれば宇宙はデュオの元へと還ってきた。
本当のあのそらで星が輝くことはないけれど、どこまでも続く深遠はそれでもデュオのこころに安らぎをもたらした。その瞬間だけ自由を感じる。
それでも。
地球は、美しい。
「あいつは、気づいてるのかな。こういう景色」
同じものを見て同じことを感じるとは限らない。でも感性以前の問題として、少なくとも彼には『余裕』というものが一切感じられないような気がした。
素性の知れない、だけど多分似たような立場であろう自分と同い年くらいの少年。
彼の望むように無視してやればいいのに、その存在がどうしてかデュオは気になった。
名前も知らない。
デュオの名前は教えたが、彼がそれを口にすることも一度もなかった。
彼にとってのデュオがどうでもいい存在というわけではないだろう。あちらからしても正体不明のデュオの存在は気がかりだろうし、情報も欲しいはずだ。
けれどそれは最初のデュオと同じ意味での『興味』だった。
彼が気になるのはデュオのバックボーン、組織であり目的。そしてデュオ自身の能力…自分の邪魔になった時に消す為の、状況把握。
求めているものはデュオそのものではない。デュオという個人には興味がない。
どうでもいい。
存在を認められていない。
だから彼はデュオを呼ばないし、自らの背景などけして洩らさないデュオとの会話を必要としない。
当たり前のことなのにそれは何故か酷く悔しい想像だ。
「でも多分、あいつの方が正しいんだ」
ガンダムのパイロットとしてより正しい在り方なのはあちらの方なのだろう。
不用意に相手の領域に踏み込もうとしている自分の方がおかしい。客観的に判断すれば今の自分の行動は度が過ぎている。
(それでも、気になるんだ)
自らの勘に従ってとった行動が正しくないというならそれはそれで仕方のないことだ。気になるものは気になる。
それは、もしかしたら破滅へ向かう道なのかもしれないけれど。
勘には自信があるデュオも、今はこの判断が正しいことなのか間違っているのか、それすら全く見当もつかなかった。
「まあ、考えてても仕方ない。…まずは名前から、かなーっと」
座り込んでいた甲板から、勢いをつけて立ち上がる。
彼に自分の名前を呼ばせるのはきっととても難しいだろう。
でもそれより多分、彼の名前を教えて貰う方がよりいっそう難しいに違いない。
別にコード・ネームで構わない。デュオは、彼をあらわす名前が欲しかった。
―――予感があった。
彼を呼ぶとき、きっと自分はその単語に特別な意味を見出すのだろう。
彼に呼ばれる時、Gのパイロットという身分だけではなく自分自身を彼に認められた時、自分は酷くうれしい気持ちになるのだろう。
ガンダムの修理は部品が足りなかった。それら注文したパーツが届くのがあと数日後、少なくとも自分も彼もそれまではここで足止めされることになる。つまり時間はたっぷりあった。
デュオはもう一度水平線へと目を向けた。
肩を貸したとき、あの少年の瞳を間近で見た。長い前髪で覆われ黒だと思っていたそれは本当は深い青だった。
気付いた瞬間に宇宙を思い出したそれは、今こうして空を見上げていると全く違う色のように思える。でもどこかで見た筈だ、と記憶を辿って気付いた。
(そうか、夜明けの宇宙の色だ)
だから惹かれるのかもしれない。
彼に認められたいと思う気持ちは、故郷を想う気持ちとどこかで通じているのかもしれない。
自分の中のまだあやふやな感情をそう結論づけて、デュオは目を閉じた。
波音は規則正しく不規則に、語りかけるように響いて胸の奥を穏やかに撫でていった。
太陽が地平線に沈み、辺りが黒々とした闇に包まれる頃デュオは静かにその場を後にした。
彼が去って少しして。
貨物の影から一人の少年が滑るように姿を現した。
先程までデュオが佇んでいた辺りをじっと見ていた彼は、小さく頭を振って呟いた。
「なんなんだ、あいつは…」
呟きは波音によってかき消され、雲間から覗いた月だけがその光景を見届けた。



日が落ちると同時にサルベージ船の作業は終了した。
先程までの喧騒が嘘のように艦内は静まり返り、船体を隠すようにして外部に洩れる場所の灯りは消されていった。
一般の航路を外れ、海の闇に溶け込んだ船は誰にも見つからないように息を潜める。
こんなに静まり返った船が夜明けにはまた活気づくのだから、なんだか不思議なものだとデュオはいつも思っていた。
当然船が完全に沈黙したわけではなく、部屋を覗き込めばその中では様々な作業を行っている人間がいるし、海の上に在る船が完全に寝静まる時間なんてあるわけもない。
それでも夜は静かな時間だった。
デュオも地球に降りてから連日働きづめだ。いつもだったら休める時に休むとばかりにすぐ雑魚寝に混じってしまうのだが、今日ばかりはそういうわけにも行かなかった。
顔見知りの船員がすれ違う度に彼に笑いかけ肩を叩き「大変だな」と声をかけていく。肩を竦めてみせながら、彼らの態度にやはり彼の少年は与えられた個室ではなく未だ自機に張り付いているんだな、とデュオは確信した。
予想的中、というやつだ。想像通りすぎてもう溜息も出てこない。
大まかな修理はもう終わっていて、残りは不足したパーツを補ったり細かい調整をするのみとなった二機のガンダムは今は仲良く並んで横たわっている。
作業用ドックに入ってまず目に入るのはその二体の巨大な足で、彼がいるだろうコクピットがよく見えるようにデュオはゆったりとした足取りで胴体部分へと回り込んでいった。
コクピット内部にいるのではと思っていた黒髪の少年は予想に反し、ハッチの横に座り込んで端末を叩いていた。
伸びたケーブルはコクピットへと繋がっていたから今は情報収集か微調整の途中なのかもしれない。横になった機体の中での長時間の作業は体の負担になるから、端末を持ち出して座り込んでのそれとなったのだろうか。
後ろから覗くような度胸のある奴などいないだろうが(それ以前に近づくことも出来ないだろうが)、それにしても秘密主義な彼にしては無防備だな、とデュオは内心首を傾げた。
しかし思えば彼は昼には骨折してたような重傷者なのだ。
如何に単純骨折とはいえ自分で繋いだ辺り普通じゃなさすぎて忘れていたが、もしかしたら治したての足の負担にならないよう彼なりに配慮したのかもしれない。
怪我人として来た筈の少年が端末を叩き続ける姿は他の船員達を内心心配させただろうが、そんなことを彼が気にするとも思えなかった。だからドックへ向かうデュオを見て彼らは安心したように肩を叩いたのだろうか。
「っとに、ハタ迷惑だなぁ…」
サルベージ船の乗組員なんて荒くれ者の集まりだが、自分の機体をけして触らせず無茶としか言いようのない状態で頑なに修理を続ける年若い少年の姿は彼らの心配と不安を煽ったのだろう。中には自分達くらいの息子がいてもおかしくない人間だっている。
やってる側にとってはたいしたことなくても、見せられた側は堪ったもんじゃなかったに違いない。そしてそんな心配をされていることを知ったとしても、どの道彼が行動を改めることなんて有り得ないのだろう。
(まあ、オレも大概普通じゃないけどあそこまでじゃねぇぞ)
見上げた先では少年が無心に端末を叩いている。
デュオの気配なんてとっくに気付いているだろうし、気付いて貰うようデュオだって気配を消さずに近づいたというのに欠片すらも反応しない。
「まったく、かわいい反応ですこと…」
溜息を吐きながら呟いて、デュオは改めて顔を上げた。
「おい、いい加減お前も休めって!」
このセリフももう何度目だったかな、と相変わらず綺麗に無視されながらデュオは思った。


咎められるかと思ったが、デュオが彼の機体に手をかけても少年は何も言わなかった。
攻撃される可能性も考えながら身軽に腕から胴体部分へと飛び移ったデュオは、気軽な調子でそのまま少年の正面へと回って彼と同じようにその場に座り込んだ。
彼の操作する画面を見るつもりはなかったし、彼の手の動きからそれを推察するつもりもなかった。だから全てが端末の陰に隠れてしまうその位置はそんなデュオの意思表示のつもりだった。
デュオのことなど意にも介してないような少年は、それでもデュオを意識しているのだろう。おかしな行動をすれば命が飛ぶ、彼と対峙する時にはそんな感覚も常にデュオの中に生まれていた。
勿論デュオとて必要があれば彼と同じことをする。そんなのはお互い様だった。
「なあ」
永遠に続きそうな気まずい沈黙の中、最初に口を開いたのはデュオだった。
「なあ、お前の名前教えて」
無視されるかと思ったのに少年はその言葉に手を止めて顔を上げた。
そのことが意外で、そして少し嬉しい。
「お前の名前、教えて?」
デュオは繰り返した。
情報収集目的だと思われるかもしれない。
そう考えるのが普通なのに、何故だかその時はそんなこと頭に上らなかった。
純粋に彼に興味があるのだと伝わるデュオの小さな笑みに、黒髪の少年が僅かに目を瞠ったのがわかった。
彼をここに連れ込んだ理由の中にはそれも確かにあったのだと思う。
でも今は、それよりもこの目の前の少年のことが知りたいと思っていた。現時点ではおそらく敵じゃない、同じ目的をもってこの惑星へ降りただろう少年のことを知りたい。
ガンダムのことじゃなくて、彼自身のこころに触れたい。
静かに染み入るようにその気持ちはデュオの中で広がっていった。彼に、ふれたい。
「何故俺に拘わる」
少年が呟いた。聞き取りにくい低く掠れた声音は何故だかはっきりと耳に届く。
その音に篭められた僅かな興味を聞き逃さず、デュオは彼をじっと見つめた。
「オレはただ、お前のことが知りたい」
だから偽名で構わないから、お前の名前を教えて。
知りたいと言いながら嘘でも構わないというデュオの言葉はどこか矛盾している。けれど少年が紡ぐ言葉がデュオの中で真実になるのだと、その言葉は真摯に伝えていた。
揺らぐことのなかった少年の瞳が初めて途惑いを見せた。
「お前に教える必要はない」
「お前じゃない、デュオ・マックスウェルだ」
きっぱりとデュオは返した。
サルベージ船に連れてくる時既に名乗ったし、艦でも皆に呼ばれていた。でも彼はまだ一度もその名前を口にしていなかった。
認められていない。そのことが酷くデュオを傷つける。
(これはなんだろう)
なんという感情なんだろう。
デュオは自問した。
目の前の少年に認められようが認められまいがなにも変わることはないはずだった。デュオはガンダムのパイロットだったし、例え彼が同じ目的のために地球へ降りてきたのだとしてもデュオ自身単独行動を崩す気もないのだ。
敵対しなければいい、協力することもあるかもしれない。でもそれはお互いを利用するだけで、仲間意識をもっているとかそういう甘い感情でもないのだ。
穏やかな気持ちではなく、挑むように激しく想う。
「オレはお前に興味がある」
躊躇いなく自らの内心を口にするデュオのまっすぐな瞳に、向かい合う少年の方が内心怯んだ。そのことがデュオにもわかった。
同時に、気づく。
(お前だって、オレのこと無視できないんだろ?)
自分達は既に出会ってしまった。
それはもう巻き戻しようのない現実だ。
同じような状況で他の誰かに会ってもこんな感情が芽生えたのかどうかはわからない。けれどデュオは確信を以って言える。「否」、と。
彼だからだ。
なんでかなんて知らない。彼だからこんなことになっている。
それだけが、真実だった。
「お前のことが知りたい。だから、名前。教えろよ」
「………」
彼は無言のまま何か考えているようだった。
沈黙が続く。気まずいわけでも緊迫感が漂っているわけでもない、けれど居心地の悪い長い長い沈黙。
その内心を量るように彼を見つめていたデュオは、暫くして諦めたように、ふ、と息を吐いた。
「悪かったな、困らせて」
困ったように肩を竦め、にこりと邪気なく笑った彼に少年が息をのんだ。
深まった笑みは苦笑に変わる。
「悪い。マナー違反はオレの方だ」
言ったのは全部本当のことだけど、それでも踏み込みすぎて、悪かった。
それだけ言ってデュオは立ち上がった。そのまま後ろを振り返らず滑らかな動きで機体から飛び降りる。
そして振り返らないままで言った。
「でもさ、気が向いたら呼んでくれよな。オレの名前」
返事は返らないままだったけれど、背中に少年の強い視線を感じていたのでデュオは気づかれないよう小さく笑った。
時間はある。急ぐことはないんだ、と自分に言い聞かせて。



三つ編みの少年の去った格納庫は他に存在するものもなくとても静かだった。
作業を再開しようかと思った少年は集中できず、暫くなにか打ち込んでそして諦めたように手を止めた。
「なんなんだ、あいつは…」
自分の声に苛立ちが混じっていることに気づいて口を閉ざす。
間違っても、こんな感情を吐露したような声をかの少年に聞かせるわけにはいかなかった。
「………」
体の中の空気を全て吐き出すような溜息が洩れた。
自分は本当に運が悪いのかもしれない。
しみじみとそう思う。
地球への降下に失敗し海へ落ち、計画の当初から機体を失った。
一般人の少女には顔を見られ、自爆に失敗し、少女の口封じにはデュオという少年の邪魔が入り。
そして今はこんなところでこんなにも感情を乱されている。
(ああ、苛々する)
原因のわからない焦燥感は、苛立ちとなって彼を苛む。デュオといる間にそれが僅かずつ、けれど確実に増していることを本当はずっと気づいていた。
不思議な少年だった。
空気のような存在感、人懐こさを装った抜き身のナイフ。
無視すればいいとわかっているのに気づけば耳は彼の声を拾っていた。
コードネームとはいえ教えるつもりはないし、敢えて偽名を名乗るつもりもない。なのに彼といるとふとした瞬間に何かを告げたくなる衝動に駆られる。
その「何か」が名前なのか、それ以外のものなのかすら彼にはわからなかった。
彼の名前を呼ぶのにも抵抗感がある。それは、感情の面では自分のコードネームを告げることよりも更に抵抗があった。
それしきのことで大人しくなるなら、どうということはない筈なのに。
それでもその抵抗感は言い様のないものだ。
それはもしかしたら、この理由のない焦燥感と同じ場所から発生しているものなのかもしれない。
(デュオ・マックスウェル、か…)
こころの中でだけ呟いて、起動していた端末の画面を見る。
そこに示されているのはウィングの故障箇所を示す図と、必要とされるパーツの一覧。損傷の程度はそう激しくないとはいえ、与えられた任務を果たす上でそれらの箇所を見過ごすことはできない。
「………」
彼は静かに視線を横にやった。
そこには一体の黒い機体が横たわっている。
デスサイズ、と。少年が愛しげに呼んでいたのを聞いた。おそらくそれが機体の名称、あるいは愛称なのだろう。
死神の鎌の名を冠する隠密性に長けたその機体の構造は、ウィングと非常に似通っていた。だから今必要なことが何かなんて、本当は考えるまでもない。
躊躇いを覚えること自体が間違っている。
「…ちっ」
腹立たしいのは、自らの内にある屈託を自覚しているからだ。
目的を果たせば彼は傷つくだろう。自分をまっすぐ見ていた瞳が何故だか視界に焼きついて、彼を責めているような気がした。
名前を問われただけだ。
ほとんど会話も交わしていない。なのにこれは一体どういうことだろう。
調子が狂う。
地球へ降りてから立て続けに起きた様々な事柄の中でおそらく最もタチの悪い出来事は、彼と会ったことに違いない。
「………」
少年は一度目を閉じた。
(…俺には、関係ない)
自分に言い聞かせるように呟く。
自分の中の冷静な部分が下す決断は間違っていない。
ああ全く、本当に自分は運が悪い。
今から自分がすることを彼はけして忘れないだろう。それは二人を繋ぐ糸になり、また二人を引き合わせるに違いない。
あんなよくわからない人間、二度と会いたくないくらいだというのに。
今の状況で選べる選択肢は少なく、任務を確実にこなす為に自分はそれを選択しなければならないのだ。結果がわかっているのに選ばなくてはならないなんて。他の選択肢がないなんて。
なんて、間の悪い。
「………」
別に焦りを覚える理由はない。彼を、苦手に思う理由も。
なにより会って間もないあの顔が声が離れなくなるなんてことも。ある筈が無い。
全ては気のせいだ。
小さく舌打ちをした彼は機体から滑り降り、そして漆黒の機体へと手をかけた。
静かな船には、夜明けが迫っていた。




一度目は偶然。
(名前を知りたい)
(俺には、関係ない)

二度目は必然。
(どうしてこんなに気になるんだろう)
(俺には関係ない。その筈だ。なのに、何故…)


ならば。三度目は。




彼が来ることは、わかっていた。
目的が一致している以上その為に最適なルートを選べば、間違いなく彼もこの方法をとるのだから。
そしてそれを理解していてもデュオは自分のルートを変更しようとは思わなかった。
忘れ難い興味がある。
この先なにがあっても、闇の彼方にその姿が見える限り自分は追ってしまうのだろう。彼は、同じ道を歩く者なのだから。

(気づいたな)

計器の反応は常に確認していた。
近づいてくる人影。この状況で予想できる人物は、ただひとり。
貨物室に積み込まれた黒い機体を確認して彼が息をのむ。
予想していた反応に、デュオは気負いのない口調で明るく声をかけた。
「よお、お前も早く積み込めよ!操縦席の方はオレが引き継ぐぜ」
ルートを絞り込む際気づかなかったとは言わせない。
彼だってわかっていてここへ来た筈だ。デュオが、同じ道を選ぶだろうと。
わかった上でそれでも彼はここへ来た。
―――お前だって、オレに興味があるんだろ?

(それが、全ての答えになるんじゃないだろうか)

にっこり笑ったデュオに少年が苦虫を噛み潰したような顔をした。そんな態度を取られることも予想通りで、逆にデュオは楽しくなってしまった。
だから、次に起こったことは。
本当は物凄く予想外で。


「デュオ!」


構えていた銃口を上げ、呼ばれた名前にデュオは言葉を失った。
あまりにも自然に紡がれた言葉。
紛れもなく彼の声で呼ばれた名前。

予感が、あった。

彼を呼ぶとき、きっと自分はその単語に特別な意味を見出すのだろう。
彼に呼ばれる時、Gのパイロットという身分だけではなく自分自身を彼に認められた時、自分は酷くうれしい気持ちになるのだろう。
頭の中を、いつかどこかで聞いた言葉が過ぎって消えていった。

『だって。名前を呼ぶって、「そいつ」を認めることなんだぜ?』

「……あいつ」
少しの間デュオはその場で動けなかった。
驚きに跳ねた心臓が、徐々に徐々に落ち着きを取り戻していく。
静かに、本当に静かにデュオは微笑んだ。
もう行ってしまった彼がその顔を見ていたらきっとまた目を瞠ったことだろう。それくらい嬉しそうな顔で。
「オレの名前。覚えやがった」
にっ、と全開笑顔になったデュオは、ぐっと拳を握り締めた。



自らの意思に拠らず紡がれる抗い難いその流れを。
人は、ときに、『運命』と呼ぶのだ。



                                          end.




COMMENT;

いつもうさ吟醸へお越し下さり本当にありがとうございます(*><*)
うさ吟醸は2006/8/18で250000hitを越えました。25万なんていうと本人もあわあわしてしまう数字なのですが、こんな数まで来たんだなぁととても感慨深いです。
感謝の気持ちを込めて一生懸命記念小説書きました。お楽しみ頂ければ嬉しいですv
ここまでいらしてくださった皆様に、こころからの感謝を込めて。

記念小説は本編序盤のお話です(・w・)ノ
ヒイロに呼ばれた時のデュオがやたら嬉しそうなのが印象的で、その辺を中心に書いてみました。
実は本編に沿ってるように装いつつもセリフと行動の順序が違ってたりしてかなり捏造です。見比べちゃダメなのです…;;
耳に残ってる言葉はソロで、届いたのはヒイロの声、と…説明しないとわからないようなもの書いてしまったような気がしますがそんな感じです(^w^;
デュオは「名前」というものをとても大事にしてる人だと思うのです。
多少なりとも一緒にいたらそれくらい悟ってそうなのに、コロニーに戻って敢えてその名前を使ったヒイロはかなり複雑に思うところあったんだろうな…なーんて邪推してしまいますね(笑)


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