ポケットに入れっぱなしだったものを思い出し、それを取り出したヒイロは違和感に眉を寄せた。
「…間違えたか」
丸められたそれには、覚えのある結び目があった。
「あらヒイロ、珍しいわね」
「……」
からかい混じりのやわらかい声にヒイロは足を止め体の向きを変えた。
無言ながらも律儀なその姿に、彼に声をかけたサリィはくすくすと笑った。
「首元よ」
ヒイロの疑問を含んだ視線に気づいたのか、彼女は自らの首を指しながら言葉を付け足す。
「あなたはラフな格好でジャケットだけ羽織ることが多いけれど、シャツを身に着けるときはきちんとタイを絞めていることが多いから」
シャツにジャケットだけというのが珍しくて、と言いながら、彼女は珍しいと言うよりもその姿を見るのが初めてだと気づいた。それでも一番上までボタンを留めているのは如何にもヒイロらしい。
「ネクタイは無くしてしまったのかしら。ちょうど事務に顔を出すところだから、新しいものが必要なら声をかけておくわよ」
「必要ない」
「そう?」
言葉と共にジャケットのポケットから見覚えのあるタイが姿を現す。
持っているのなら何故、と思ったサリィはヒイロの言わんとすることが分かって微笑んだ。
「昨夜は仮眠室だった」
「いやだわ、あの子ったらまだ不精してるのね!」
件のネクタイの結び目を見て彼女は笑った。「こうすればカンタンなんだ」と明るく触れ回っていたデュオの姿は彼女も記憶に新しい。
「珍しいわね、あなたが取り違えるなんて。さてはあの子、眠いからって荷物投げ出してあなたの荷物跳ね飛ばしたわね?」
「…否定はしない」
「ごめんなさいね、デュオはここ一ヶ月ほとんど眠れていないはずなの。今日も本当はオフの予定だったんだけど、結局後始末をお願いしていて」
だから怒らないであげてね、と申し訳無さそうに謝る彼女の言葉をヒイロは視線で止めた。
別に彼女やプリベンターが悪いわけではない。それはヒイロも、そしてデュオも理解していることだ。負担はお互い様だ。
混乱期を抜ければ多少は落ち着く。そこまでの辛抱だ。
「デュオは今日は夕方からデスクワークの予定よ。あなたとはちょうど入れ違いの勤務だから、良かったら渡しておきましょうか?」
「………。いや、俺のもあいつの所にあるはずだ。直接渡す」
「それもそうね。それじゃあそろそろ行くわ、呼び止めてごめんなさいね。また午後に」
会話中笑顔を絶やさなかった彼女は、最後にまたにこりと微笑むとファイルを抱えなおして去っていった。
去り際に「暇を見つけてちゃんと休むように」と言い付けていくのがなんとも彼女らしい、と思いながらヒイロも再び足を動かした。
まだ朝も早いせいかフロアにはあまり人の気配がない。本日もブリュッセルの空は青く、どこからか鳥の囀りが聴こえてきていた。
ポケットを上から手でなぞる。厚手のジャケット越しでもそこには確かな存在が感じられた。
(本当は、サリィに渡せば良かったんだ)
彼女が事務室の後向かう先をヒイロは知っている。高いビル、広いフロアのこのプリベンター本部の中でも仮眠室に最も近い会議室だ。
この時間ならデュオはまだ寝ているだろう。
これを彼の枕元に置いて、ヒイロのネクタイを回収してきて貰えばいいだけのことだ。人の気配にデュオはきっと目を覚ますだろうが、サリィと少し話をして彼女の退室後また寝付くに違いない。
午後の会議で彼女と会うことはわかっているのだから、自分の分はそこで受け取ればいい。それが一番早いことはよく分かっていた。
昨夜、デュオ・マックスウェルがヒイロの隣に潜り込んできたのは、仮眠室が混み合っていたからだ。
彼と自分の性格の差異は誰しもが認めるところなので誰も疑問は抱いていないようだが、本当のところデュオはヒイロを避けている。それはもう長いこと、遡れば月面基地で捕虜になった頃には始まっていた。
時と共にその傾向は高まっていたが、終戦を機に一気に加速した。ヒイロはそれを知っている。
それが周囲が認識するような所謂「性格の不一致」というものならヒイロも納得出来たのだろう。だが、そんなことは無かった。
彼はヒイロが地球に降りて初めて会った自分以外のガンダムパイロットだった。
だからこそ警戒も他の比ではなかったが、むしろそれよりも互いが互いに感じることが重要だった。
自分達はとても「近かった」。
一見して水と油、だがその奥底は溶け合う程に近かったのだ。
だからこそ彼という存在はヒイロにとって絶対に気を許すわけにはいかないものだった。それはデュオも同様だったのだろう。
お互いそのことに気づいていて、手探りで関係を築き上げようとしていた。あれはそんな日々だった。
…戦中、二人だけで、静かな時間を過ごしたことがある。
情報収集以外動きが取れない状況だった。デュオは部屋を出ることも出来ずただ怪我の治療に専念していた。
逃げ場の無い空間で、「二人」で完結する世界で、ヒイロはついにデュオを『認めた』。
ヒイロには詳しくわからないが、タイミングとしてはデュオも近いものがあったらしい。当時、屈託無く笑う彼はそんなことを言っていた。
昨日と何も変わらないのに、その時を境にそこに生まれたのはとても穏やかな時間だった。温かい空気。心許す、というのはああいうことを言うのだろうと後になって思った。
―――それはとても儚い楽園で、次に会ったときにはもう存在しなかったけれど。
デュオによって作られてしまった壁は今も揺ぎ無く存在している。
だから、そう。彼は眠かったのだろう。
以前起きたちょっとした事件のせいで、仮眠室を使うときヒイロの周りにはいつも一定の空間が出来る。あまり場所を取っても悪いのでヒイロはいつも隅に陣取るようにしていた。
疲労困憊の状態で寝場所を探したデュオは、限界だったからこそ自分で作った壁を越えてヒイロに近づいた。
呂律の回らない様子でしゃべりながら服を脱ぎ散らかしすぐ寝入ってしまった彼は、だから気づいてないだろう。結局あの後ヒイロが一睡もしていないことに。
(…別に夜明かしをするつもりはなかったのだが。)
歩みは止めないまま、ヒイロは小さく溜息を吐いた。
隣から聞こえたのは規則正しい呼吸だった。
寝息というほどの大きさもないそれはかつて馴染んだもので、懐かしさにヒイロの眠気はどこかへ行ってしまった。
そっと伺うと、伏せられた瞼が見えた。
あの頃より少し大人びた顔。だが基本的な部分が変わるはずもない。まろい顔だち、鍛えられ均整のとれた体、やわらかな空気。
着の身着のままで寝てしまったデュオはジャケットとネクタイは外したもののシャツはそのままだった。息苦しくないようにか上二つのボタンを外している。確かズボンも緩めていたようだったが、流石にそちらは毛布が隠していた。
ヒイロを警戒して敢えて寝返りをうたないのだろうデュオは、それでも時折身動ぎはしていた。
そんな空気の微かな動きの中、ヒイロの感覚が捉えたのは血と硝煙と汗の臭い。
そして、戦場を思い起こすそれらに混じって、太陽の匂い。
それら全てが、全くもって彼らしいとしか言いようがなかった。
―――ああ、懐かしいな、と思う。
彼の傍は居心地がいい。
デュオとヒイロは近かった。だがそれでもヒイロには一生こんなやさしい空気は作れないだろうとも思う。
一度知ってしまったそれを自らの意志に反して手放さざるをえなかったヒイロは、こんな機会を待ち焦がれてさえいたのかもしれないとすら思った。
だが、だからこそ、のこの事態。
のんびりし過ぎたヒイロは、予定していた起床時間より半時程過ぎてはっと気がついた。
自分で立てた予定というだけで誰にも迷惑はかからないのだが、失態は失態だ。
未だ誰も起きださない仮眠室でデュオの眠りを妨げないよう注意しながらも慌しく支度を整えたヒイロは、よく確認せず近くにあった方のネクタイを手に取った。
前夜皺にならないようくるりと丸めておいたのも間違い易くなった一因だっただろう。見た目だけはそっくりだったのだ。
手に触れた感触が固いことに気づけば良かったのだろうが、とにかくその時ヒイロは気配に敏いデュオを起こさないことに細心の注意を払っていた。
無造作にジャケットに突っ込み、落ち着いてから改めて身に着けようとしてみれば…というわけだ。
チチッ、という一際高い鳥の囀りにヒイロは物思いから我に返った。
引かれるように窓を見ると綺麗な青空だった。その色を見て、無意識に指がもう一度ポケットをなぞった。
指に触れる結び目が布越しでも存在を主張していた。
「………」
勤務時間が終了したらデュオにこれを返しに行くことになる。
もう眠気も飛んだだろう彼は、きっと「いつも通り」だ。
デュオがそうすると決めたのだろうから、今までもこれからもヒイロは何も言うつもりはない。
けれどそれは望むことがない、ということと同義ではないのだ。
「………」
布越しに形を辿るように撫でていた手が、布の切れ目へと辿り着いた。
一瞬躊躇した彼はそのまま内部へと指を滑らせ、ゆっくりとそれを取り出す。
昼の光の下で見るそれはとても草臥れていて、改めてよく見れば何故間違えたのかわからない程だ。
同じ時期に同じものを支給されたはずなのだが、と苦笑したヒイロは、それでもその布からですら伝わるやわらかな気配に目を細めた。
「…デュオ」
そっと呟いて、彼は目を閉じた。
伝えるつもりのない想いを告げるかのように、手の中の布にそっと、羽根が触れるようにくちづける。
そこからは硝煙と、汗と、血と。そして太陽の匂いがした。
end.
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