プリベンターは忙しい。
世界にとっては不幸なことなのだろうが、常時火種の消火活動で忙しいこの組織でまともな生活をしようなんて夢見る方が間違ってる。
だから部屋に帰れず仮眠室で雑魚寝なんて、言うまでもなく日常茶飯事なのだ。
「ふぁ…っふ」
盛大な欠伸をしながらデュオは思い切り伸びをした。
昼を過ぎたこの仮眠室には既に彼以外誰もいなかった。デュオがこの部屋に転がり込んだときにはとても混雑してたから、ここを使ってたのは日勤の奴らだったのかと考えつつデュオははっきりしない頭を小突いて眠気を払おうと努力していた。
ずっと忙しかったのに加え、数日徹夜続きの強行軍の後で、流石の彼も限界を迎え倒れるように寝たから寝覚めもいつもに比べすこぶる悪い。
(報告書と、情報収集と、ああ、そういやなんか2、3件新しいヤマが着てたよーな…面倒だなー)
いくら自分が有能だからといって仕事を回され過ぎだ、とデュオは嘆いた。
世の中火種だらけで仕方ないのはわかるが、倒れては元も子もないのでこんな状態が続くようなら上司に苦情を言わねばならないかもしれない。
「オレはうーちゃんやヒイロみたいな人外な体力ないんだよー」
起こしていた半身を再度ぱふんと敷き布団に倒れこませながら、同じに扱われても困る!とごろごろ転がったデュオは、はーっと溜息をひとつ吐いてシャツのボタンを外し始めた。まあ、仕方ないんだけどね、と呟く。
昨夜は本当の本当に限界で、着の身着のまま寝てしまったからシャツもズボンもぐしゃぐしゃだった。
そろそろデスクに戻らないといけないがせめてシャツくらいは着替えたい。
皺だけならまだしも、任務帰りだったデュオのシャツは汗と土埃とうっかり手に擦り傷を作った時についた血までオプションとしてついている。昨夜は気にならなかったが自分でもどうかと思う状態だ。
「…あれ、予備まだあったっけ…?」
ストック尽きたかもと不安になりながら持ち込んだ荷物を探る。他の物に潰されて皺だらけだったがなんとか未使用の一枚を探し出し、頭のメモに「ランドリーに行くこと」と予定を追加した。部屋に替えを取りに戻る時間は今日もとれなさそうだ。余裕があったらシャワー浴びたいなあなんて考えながらボタンをはめていく。
寝っ転がったままの横着な体勢のままシャツのボタンをはめ終えたデュオは、ここでようやくまともに起き上がった。
だらしなく出たままの裾をズボンに押し込んで、昨夜こればかりは丸めて脇に避けておいたネクタイを手に取る。比較的ラフな服装が許されるプリベンターだが、ジャケットとこれだけは支給された。
「…?」
手に取った時点で感じた違和感にデュオは首を傾げた。
デュオは面倒くさがりで、タイは規定通り着用するもののいつも結ぶのが面倒で片側を輪にしたままにしている。そうすれば首を回した片側を差し込んで絞るだけで身に着けられるからだ。
でも開いてみるとそれに結び目はなく一枚の布になってしまった。
(ほどいたっけ)
昨夜…と言っても夜は明けていたが、あの時は本当に眠かったから自信がない。
首を傾げながらするりと襟ぐりを通し、偶にはいいかとダブルノットで結う。結び目の固さといつもと違うタイの長さに気持ちが引き締まるような気がしてデュオは微笑んだ。
ジャケットを手にして荷物を担ぎ、自分もこの部屋を退散しようかとドアへと向かう。ドアの横には鏡があったので、デュオは何気なくその姿見で自分の身だしなみの確認をした。
「……あれ…?」
違和感。
眉を寄せたデュオの視線は鏡に映ったタイに固定されていた。
…そういえば、昨日自分はこのタイに血をつけてしまわなかっただろうか?
ようやく回転を始めた頭が、邪魔な血をシャツで拭った時の感触を蘇らせる。そう、あの時間違いなくタイも巻き込まれていたはずだ。
しかし鏡に映るそれにはやっぱり血の汚れなんて無くて、それどころかあって然るべきくたびれや埃っぽさもない。まるで洗い立てであるかのような清潔でしゃっきりとしたライン。
「そういえば結い目もなかったし、やっぱり誰か間違え、て……」
昨夜の様子を脳裏に蘇らせたデュオはそこで言葉を止めた。
―――『定員オーバーだ』。
「…まさか」
丸めて放り出したタイのすぐ傍にあったのは誰の荷物だっただろうか。
いや、そもそも荷物を取り違えるほど傍にいたのは誰だっただろうか。
デュオが辿り着いた時点で仮眠室は満員だった。
その中にはデュオと同じ任務に就いていた人間も混じってるし、偶々忙しくて帰れなかった人間もいるのだろう。
仮眠室にはベッドが4台あるがそんなものを使えるのは稀だ。大抵は床にめいっぱい敷き詰められた敷布団で雑魚寝することになる。
それでも今日は地面すらも埋まってる状態で、口頭での報告を終えたばかりのデュオはふらふらになりながら隙間を探した。
だがそれは探すまでもなく見回しただけで、あった。
部屋の隅、何故かそこだけ潜り込めそうな空間がある。何故そんな空間が綺麗に空いているのか一目で理解したデュオは、眠かったので遠慮なくそこに突き進んだ。
「なーヒイロ、ちょっと詰めて」
「定員オーバーだ」
「わかってるって。でもお前の周りちょっと空いてるじゃん。そこ入れて」
「……」
「オレなら平気だろ、なーオレもう眠いの限界なの。寝させてー」
小声で会話しながら既に荷物を置きジャケットを脱ぎネクタイを外しているデュオに、ヒイロは仕方無さそうに「勝手にしろ」と言って再び横になった。
仮眠室でヒイロの周囲に空間が出来るのはいつものことだ。
意外なことにヒイロは雑魚寝を全く気にしない人間だったが、如何せん受けてきたエージェント教育が徹底しすぎていた。
ある日、偶々ヒイロの方に寝返りをうった人間が強烈な一撃を食らったのだ。反射行動なのでヒイロとしてもどうしようもない。
この場合悪気がない分タチが悪い。ヒイロとてデュオ同様忙しいので仮眠室を使わないわけにはいかないし、彼専用仮眠室なんて特別待遇を取るわけにもいかない、だが誰も次の被害者にはなりたくない。
結果として、ヒイロが仮眠室を利用するときは彼は壁際に寄り、他の者は彼と1.5人分の空間を空けるようになったのだ。これだけで何の問題も無くなった。
デュオが潜り込んだのはその1.5人空間だ。
デュオとて訓練された体だ。ヒイロの琴線に触れるような行動は睡眠中でも取らないことなんて容易いし、もし何かあってもガード出来る自信だってある。結果的に問題にならなければいい。
それでも私的問題から普段なら近づかないのだが、今彼はとにかく眠かった。
幸い空間は広めで小柄なデュオは片側にいるのがヒイロだということを意識する必要もなく休めた。
ヒイロの領域まで侵入したのなんて散らかした荷物くらいだった。
「……。もしかしてこれ、ヒイロの…」
鏡越しに眺めながらデュオは自分の首元を彩るタイを指で撫でた。
そういえばヒイロはタンクトップにジャケットのスタイルが多く、タイを着用する姿はあまり見ない。これが折り目もなくきれいなのも頷ける。
「あいつ、間違えて…」
呟きながらデュオはだんだんと自分の頬に熱が篭っていくのを自覚していた。
鏡を見る。
顔が赤い。
「……っ!」
自覚した途端恥ずかしくなってきて、慌ててデュオはネクタイを引き抜いた。
結ったばかりのタイはシュッという衣擦れの音を立ててデュオの手へと戻る。跡のついていない布はぱらりと解けてまた一枚に戻った。
それを握り締めて、デュオはへなへなとその場に座り込んだ。
「最悪だ…」
眠気が一気に飛んだ。
先程までは何も感じなかった「それ」を握る手が熱い。なんだかヒイロの匂いがするような気さえして、デュオは赤くなった顔を片腕で覆った。
「最悪だ」
不意打ちすぎる。
「………」
―――言うつもりはない。
表に出すつもりもない。これは自分の中で生まれ、そして自分の中だけで消すと決めた感情だった。
必要以上に近づかなければ何の問題もなかった。
なのに、嗚呼何てこと。
こんな些細な接近ですら容易く感情は溢れ出す。
固く握った手から布を解放すると、デュオは皺になってしまった部分を丁寧に指で伸ばした。それから丁寧に、きちんと畳んでいく。
折り畳まれた布は普段デュオが身に着けているものと同じものなのに、持ち主のことを思うだけでどきどきした。まるで特別な布地であるかのようだ。
「………」
緊張を散らすようにふーっと息を吐き出す。
「ヒイロに返さないとな」
あいつ今日は何の仕事だったっけ、と自分のペースを取り戻すようにぶつぶつ呟いたデュオは、荷物を手にしてもう一度立ち上がりドアへと手をかけた。
鏡に映る顔はまだ赤いが、それも歩くうちにすぐ引くだろう。
「………」
片手はドアノブに。
反対の肩には荷物を入れたディバッグ、そしてその手には畳まれたネクタイが一本。
そこでデュオは動きを止めた。
「仕事」との境界線。
最後のドアに手をかけたまま、誰も居ない部屋でデュオは手の中の布を見つめる。
「…ヒイロ」
そっと呟いて、彼は目を閉じた。
伝えるつもりのない想いを告げるかのように、手の中の布にそっと、羽根が触れるようにくちづける。
触れるか触れないかのそんな行いにも勝手をした罪悪感を覚えながら、デュオは今度こそドアを押し開けた。
途端に雑多な音が押し寄せる。
熱をもった頬を腕で荒く擦ってから、デュオはいつも通りの顔でにっこりと笑った。
「さーて、うっかり者のヒイロさんにオレのネクタイ返してもらわないとな!」
end.
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