HOLIDAY MORNING



交差点の信号を待つ僅かな時間、視界の隅を過ぎった影にヒイロは伏せがちだった瞳を微かに揺らめかせた。
それは例え彼と向き合い、顔を見ていた人間が居たとしてもわからないような些細な変化だ。当然十数メートル離れた道を歩く人物に気づかれるようなものではない。
ヒイロ自身それだけの距離、まして通勤に混み合う雑多な人間の気配の只中でどうして彼を見出したのかわからない。
だからそれは、そう、本当に偶然でしかなかった。
偶々そちらに意識を向けていて、偶々目立つ髪をした彼が通った。知った顔に印象が似ていると意識に引っかかったのでよく見てみたら本人だっただけのことだ。
彼がもし今歩く道を右折するならばそのままヒイロの元へと辿りつくだろう…そんな期待にも似た緊張を持ったヒイロの視界の隅、彼は、デュオはそのまま道を直進して行った。
交差した道を通り過ぎ、その姿は角のビルの影に消えていく。
信号が青に変わった。
メトロへ向かう人の群が立ち止まるヒイロを邪魔そうに避けて歩いて行く。
暫しの逡巡の後、ヒイロは信号の変わった交差点ではなく右手の道へと進路を変えた。
僅か十数メートル先の角を右折すれば、その先は長い一本道だ。


大きな仕事の後は余程の事情が無い限り一日の休みが与えられる。
明確に定められた規則ではないが、いつの頃からかそれはプリベンターという組織の慣例になっていた。
そもそもが普段の有休ですらあまり必要ないというヒイロなので、そんなものは要らないと突っぱねていたが、他のメンバーが休みを取り辛くなるのだと言われ渋々ながら従うようになったのはそう昔のことではない。
単独行動の時には無い煩わしさに苛立つこともあるが、現在の世界情勢を考えればこんな生活もそう悪いものではなかった。
腕を鈍らせるつもりも堕落するつもりも無いが、最早生き急ぐ必要も死に急ぐ必要もないのだ。休めるときに肉体を休ませることは理に適っている。
本日のヒイロもそうした仕事明けだった。
自室で何かしても良かったが、そろそろ買い出しが必要だと思い至り、ついでに当分の間何も買わなくていいように色々揃えてしまおうと思った。
商店が駅前に集まるのはどこの町でも同じだ。だからメトロの方角へと足を向けていたのだが、まさかこんな朝早くに逆方向から歩いて来る顔見知りがいるとは思いもしなかった。
本来彼がいるはずの支部はここではない。
そして彼の部署が忙しかったという話はヒイロの耳に届いていない。
と、いうことは、彼は単純に休みを取っているだけなのだろう。ヒイロと同じような訓練を受けてきた人物のはずだが、彼は人並に休みを取得し周囲に馴染んでいるらしいと、噂程度には聞いていた。
不審な点があるわけではなく、用があるわけでもない。個人的な関係を育んできた覚えもない。
だから今こうして彼の後を追うのは全く意味の無いことで、今すぐ本来の目的地へ戻るべきだと理性は言うのだが、何故だかヒイロの足は止まらなかった。
一本道とはいえ、出遅れたヒイロの視界には既にデュオの姿は無い。だが人の流れを外れたこの道を歩くのはヒイロだけで、未だ実際に声をかけるかを迷っている彼からすればそれはとても都合が良かった。己の存在を知らしめるか、それは着いてから決めればいい。
この道の先に何があるか…つまり彼の目的地はよく知っている。
(OZの宇宙基地跡になど、何をしに行ったんだ)
彼が何か企んでいる可能性は低いだろう。不審な点は無いが、用も無いが、興味ならば僅かながら存在していた。
旧OZ南米宇宙基地は、かつてヒイロが自らの手で破壊した場所だ。
戦後はコロニーと結ぶ商用シャトルポートにしようという再開発計画が進められているその場所は、今は当然ながら修復工事中で関係者以外立ち入り禁止だ。
道の半ばでそれを示す札があったが、そこにデュオの姿は無かったのでヒイロもまた無視をして道を進んだ。まさか工事現場までは踏み入っていないだろうが、おそらくそれが見えるような位置にでもいるのだろう。
ヒイロ自身一度だけ訪れたことがある。
見たかったわけではないが、任務の都合で入らざるをえなかっただけだ。そして敷地まで入っているのに敢えて目を逸らす程の抵抗もなかった。
戦禍の跡はきれいに消され、焦げた土はコンクリートで覆われ崩れた建物は撤去され建て直されていた。
青空を背景に林立する白い建物はまるで全てが夢だったかのように、何事もなくただの開発中ポートの工事現場としてそこに存在していた。
なんて嘘臭いのだろうと思った。全てが。
災いの跡を遺して欲しいわけではないが、塗り固められた虚像の不快感はそれに勝る。自分は例え時間が巻き戻ったとしてもおそらく何度でも同じことを繰り返すのだろうが、罪悪感が皆無ではないからこそ尚更だ。
だから、ヒイロはあまりここが好きではない。
大型車両も通行可能な道路には街路樹が植えられている。
整備され、そして放置されている歩道をまっすぐに進んだヒイロは程なくして行き止まりへと突き当たった。
目の前には大きなシャッターがあり流石にこれは乗り越える気になれない。後は敷地の周囲をぐるりと囲む柵があるばかりだ。
周囲を見回し、今度はその外周に沿って足を進める。
火を免れ生きていたらしい木々はそれなりの成長具合で、日差しを程良く遮ってくれていた。
思いがけず心地よい散歩道に出会ったような気持ちで敷地の半分程の距離を歩いた頃、ヒイロはようやくデュオの姿を見つけ足を止めた。
距離があることもあり、まだ彼の側はヒイロに気づいていないようだ。
「……?」
デュオは予想通り敷地内部を見通せる位置にいたが、彼の視線はそれよりも上を向いていた。彼の瞳が静かに、魅入られたように見つめる先は空だった。
つられてヒイロも上を見上げる。
ヒイロに目的無く空を見る習慣はない。それは主に時刻や天候の確認の為にするものであって、空そのものを気にすることはない。慣れない行為に途惑ったものの、見上げた空はとてもきれいな青空だった。
今日は朝からいい天気だった。
そういえばあの日も晴れていた。ちょうどこんな風に。
深く澄んだその色合いは何かを思い出すもので、ヒイロは記憶を探るように瞳を細めた。そうして思い至り、天へと向けていた視線を地上へと戻す。
そこには、自分の瞳と同じ色の空を見上げ続ける青年が居た。


『デュオの瞳はサファイアのようだね。それも最高級の青だよ』
いつだったか、そんなことを言っていたのは戦友の一人だ。出自に相応しい知識を身につけた彼は、男でありながら宝石にも当然詳しかった。
『デュオに相応しい石だよね。落ち着いたら君の瞳に合わせた石をプレゼントするよ』
そんな高そうな物いらないと慌てるデュオを前にカトルは楽しそうに笑っていた。
言葉遊びの延長の口約束とはいえ、彼のことだから本気だったのだろう。そのこと自体はどうでもいいことだ。
ヒイロが興味を引かれたのはその石そのものだった。
サファイア。ダイヤに次ぐ強度を誇るコランダムの宝石。
それは含有物によって色を変える。
無色のコランダムに価値はなく、含有物が多過ぎてもまた価値を失う。クロムが混じればルビー、クロムの含有率が低い、あるいは鉄やチタンが混じればそれがサファイアだ。混ざり物の固い石はその澄んだ深い色故に古来より珍重されてきた。
青は、どこまでも手の届かない空の色だ。
そして深く澄み切った水底の色だ。
だからこそそれは人の触れられない禁忌の領域とされ、神聖視された。
神の領域を司る宝石は神職者に特に重用される。装飾品として身につけてでもその色を宿そうということだ。
デュオの瞳は当然ながら生まれ持ったものだった。
神の服を纏い戦う彼の身にその色が宿るのは、なんという皮肉だろうか。
それでも彼にはその色が似合っているのだ。あまり他人の色彩に頓着しないヒイロですら、他の色など思いつかないな、と思うくらいには。
『サファイアは愛の証なんだよ』
続けられたその言葉には、大変似合わない、と思ったものだったが。


短い回想から意識が戻ると、視線の先、空を見上げていたはずのデュオはぽかんとした顔でヒイロを見ていた。
口に出されずとも顔を見れば何が言いたいのかわかる。敢えて言葉にすれば『何でいるの?』だ。
如何に距離があっても遮るもののない場所だ。いずれ見つかるだろうことは想定の範囲内だったので、ヒイロはそのまま彼に歩み寄った。
驚いてはいるようだが特に疎まれている様子はない。
「お前何でこんなとこにいるの?」
「支部はこの近くだ」
すぐ傍まで歩いてきたヒイロにかけられた言葉は想像したそのままだった。
彼が聞いているのはそんなことではないと知りながら、ヒイロは馬鹿にしたように「そんなことも知らなかったのか」という口調で返した。
案の定デュオは顔を真っ赤にして怒る。
「そうじゃなくって!こんな普通人が来ないような所…」
「お前は?」
「え?…えっと、それは…え…」
引っ掛けに簡単に乗ったデュオは、同じ質問が自分に返ってくると思っていなかったのか想定外の事態に言葉に詰まった。
ヒイロ以上に不自然な自分の行動に気がついたらしい彼が目を白黒させているのを眺め、ヒイロは彼を観察した。
無造作にシャツとジーンズで行動している姿からは遠出してきたとは思えない。まるで町にいる極普通の学生のようだ。
だが荷物など自分達には不要なので、最低限の物を持って身軽に移動してきたのだろうことは察するに容易い。
「お前が見る物があるとは思えないが」
暗に、ここに関係があるのは自分だけだと臭わせる。タイミングはともかくヒイロがここにいるのはありえない事態ではない。だがデュオは違う。
「…そりゃあ、見るものなんてないけどさ。でも」
ちらりと視線で伺ったデュオは、ヒイロの疑問を含んだ眼差しに気づいたのだろう。苦笑して、「この間夢を見たんだ」と言った。
「普段はあんまり夢なんて見る方じゃないんだけど、多分あの頃の夢だった。よく覚えてないけど、オレはカトルの所に世話になっていて端末に向かって何かを調べてた」
ただそれだけなんだ、と言う言葉に嘘はないのだろう。
説明にはなっていないが追求するほどのことでもない。そうか、とでも言って話を終わりにしようとしたヒイロがそれを音にするより前に、デュオは言葉を続けた。
「まさかお前に会うなんてなー」
苦笑混じりに視線を向けるのは工事中の基地跡だ。
見せかけをきれいに整えられた白い敷地には当時を伺わせる要素は一切無い。
「ここってさ、確かにオレにはぜんぜん関係ないんだけどさ。放映されたニュースで見た場所なんだ」
情報は知っていた。
裏も取った。
それでも、自分の目で見た事実はここだった。
「お前が本当に生きてるんだって知った場所だった」
思い出したら来てみたくなって。
その頃のことを思い出しているのか、その口元が綻ぶ。この場所の持つ意味も、欺瞞に白く塗り潰された建物も彼には何の関係も興味もなく、ただこの大地とあの日と同じ青空が大事なのだと彼の瞳は愛しげに語っていた。
「……そうか」
ただそれだけだと何でもないように白状した彼は、そのとき言葉の出なかったヒイロの心情など欠片も理解していないのだろう。
驚いた。ただひたすら驚いた。
そんなことを言う人間が、しかも自分に対して、いるというただそのひとつに。
…だが、思えば、以前もヒイロはこんな彼を見ていたのだ。
そう、あの頃だ。捕虜になっていた彼を保護し、落ち着いた途端デュオは泣き出した。生きてたんだ、お前生きてたんだな、と笑って嬉し気に涙を零した彼の笑顔はヒイロの脳裏に焼きついている。
別に、特別な関係、というわけではなかった。
知人の延長。せいぜいが戦友。その程度でしかないはずなのに、デュオの情はこうして時折思いがけない程に深い。
こんな人間もいるのだ、と思う。
そして、彼のそんなところを、嫌いではないと思う。
───サファイアは愛の証なんだよ。
ああ、全く似合わない。似合わないが憎らしいほどに相応しい。
かの目の肥えた戦友の見立てはどこまでも正しいのだ。
彼には青い瞳が似合っていた。あまり他人の色彩に頓着しないヒイロですら、他の色など思いつかないな、と思うくらいには。
含有する不純物次第でコランダムはルビーとサファイアに変化する。
ルビーの持つ意味は『愛の疑惑』。
サファイアの持つ意味は『堅固な愛』。
二面性を持つ元はひとつの鉱石は、ゴミにも宝石にも為りうる。僅かな違いで、たった1%の不純物で赤にも青にも変わる、強く、強すぎない石。そして死神を名乗るくせに彼は彼であるが故に決して赤に染まらない。
青は、どこまでも手の届かない空の色だ。そして深く澄み切った水底の色だ。
だがそれでも彼は神聖なものではなかった。
焦がれるように空を見上げる彼は、見上げるだけであって、地上に存在している。ヒイロと同じくどこまでもただの人間でしかなかった。
『お前が生きてて嬉しい』
そう言ってぼろぼろの体で嬉しそうに笑った顔を覚えている。
特別な関係ではない。
普段は思い出しもしない。
それでも、こうして互いに記憶を共有し、その温かな熱に癒されることもある。
───それでね。サファイアの宝石言葉はね─…
聞くつもりもなく聞いていた、その会話を思い出した。デュオは変わらない。あの頃から、その本質は変わらないままだ。
それは時折、思いがけない場所からヒイロに触れて他人という温もりを伝える。
見上げた空で、太陽はまだそう高い位置にはなかった。
早朝から動き出していたのだから当たり前のことかもしれない。だがつまりそれは、休暇という普段なら用のない一日がまだ十分残っているということだった。
ならばまずは、昼食にでも誘ってみようか。
慣れないことに途惑いながら、ヒイロはその言葉を音にするために口を開いた。
そう。
こんな生活もそう、悪いものではない。


                                          end.




COMMENT;

10周年企画、12ヶ月連続12日更新のその12です。
9月の誕生石はサファイア。宝石言葉は「慈愛、誠実」。

サファイアの宝石言葉には、一体何をしたらイチニになるんだ?!と激しく悩まされました(笑)
宝石に詳しいわけではないんですが、ルビーとサファイアの関係にはときめくものがあったのでそれを絡められて良かったです。でも、今回は「揺らがないデュオ」で書きましたが、「愛の二面性」と絡めても面白そうだと思います(>△<*
(余談ですが今回、道路の白線のザラザラしてるのもコランダムを使ってると知って驚きました。混ざったものの違いでそこまで扱いが変わるとは…)
唐突に南米基地のこと書いてますが、実は以前から密かに萌えてました。
学校で別れてからヒイロが自爆して、C102コロニー(バルジ強襲の回)で再会する流れは何度考えてもときめきますよ…!
シンガポール宇宙港でデュオはウィングの映った速報(基地破壊ニュース)見ても驚いてないんですよね。「気づいてくれたか!」と一言です。
なので、(多分)特に本編で描かれてはいないんですがヒイロ謝罪の旅の情報はカトルとデュオだって気づいてたんだろうなと思ってます。パーガンが突き止めてた位ですし、ゼクスと決闘とか激しいこともしてますし;;
情報を得て、ウィングを確認して、実際に生で会ったのが助けられた時…って考えるとその段階を踏んだ喜びにときめきまくりますね。そりゃ『運命的だな』ですよね!(*ノノ)

1年間続いた企画もついに終了です。
ここまでお付き合い下さりありがとうございました!


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