一滴の闇。

 

 

 堕ちていく、その始まりは。

 

 

 

 

   


『 慾火 ―碧― 』  

 

 

 

 

 




 真夜中に部屋で、へまをやらかした。
 墨と硯を傍らに何気なく書き付けていて手を滑らせたのだ。
「うおっ?!」
 思いもかけぬほど飛び散った墨は点々と白い紙を染め、
「大丈夫ですか師叔」
「……ではない」
 惨憺たるありさまだった。
 おまけに墨で濡れた感触がじわりと指先にまで浸入してくる。
「だああ、もう!」
 慌てて手袋を剥ぎ取った。
 時すでに遅く、案の定そこには黒い染みがくっきりと浮かび上がっている。
「仕方ないですね――」
 そういって踵を返しかけた蒼い麗姿が動かなくなった。
 じっと、此方を見つめてくる。


 深い紫紺の瞳。
 普段は落ち着いていて感情などあらわにすることもないそれが揺らいでいる。
 どこか危うい程の熱を帯びていて、それが余りにも美しくて見入ってしまう。
 その瞳が見据える先は常に大局なのだと思っていた。
 駒に過ぎぬ此方に向けられる視線は所詮必要最低限の義務感だけと思っていた。
 ……わしを、見つめておるのか?


 その眼差しが汚れた指先に向けられているとようやく気付いた。
 一体どのような意図を持っているのかと思う間も無く。
 足音も立てず歩み寄ってきたかと思うと手をとられ指先を口に含まれた。
 柔らかくて少し冷たい唇の感触と暖かく濡れた口腔の感触が感覚を掻き乱す。
「っ…なに…何をしておるのだ?!」
 激しい狼狽の声とともに力任せに手を引こうとした。
 しかしそもそも力で敵うはずもないのだ。
 微塵も揺らぐ事のない手はひやりとしていて指先を這う舌だけがひどく熱い。
 触れられた途端に躯を奔り抜ける何か。否、それの何たるかは判っていた。
 紫紺の瞳は伏せられたままで蒼い髪までもがその表情を隠してしまう。
 唯ひたすらに繰り返される指先への愛撫に溺れるような愉悦を感じた。
「…よ……よう…ぜん……」
 躯の震えが止められない。
 名を呼ぼうとする声さえ震えて途切れそうになる。
 震えの理由はやはり――
「…………」
 無言のまま僅かに舌の動きが滞る。
 加えられていた愛撫が途切れたことを惜しむ己がいる。
 その事を知られたかと思った途端に途惑いと怯えが生じた。
 おずおずと上げた視線が真向から見つめる紫紺の瞳とぶつかった。
 瞬く間に全身がかあっと上気するのを自覚する。
 余りにも熱い眼差しは総てを忘れさせ、引き込まれてしまいそうで恐い。
 どくどくと激しく打つ鼓動が躯中を駆け巡る。
 ゆっくりと離れていく感触が新たな震えをもたらす。
 手を掴まれたままでいなければ何をしでかしていたか。思うだけで恐くなる。
 しっとりと濡れた指先が疼いた。
「まるで、矛盾していますね」
 ぽつりと発せられた言葉は余りにも意外な内容である。
「矛盾?」
 つい何時ものように問い返し、ついではっと息を呑む。
 掴まれたままの手首に軽い痛みが奔った。
 指先に近付く美貌を呆然と見やる。
 軽いくちづけに躯が痺れ、呟きに心が揺れた。
「あなたを穢そうという者があなたを穢した汚れを拭い去ろうだなんて」
 嘲笑うような声音でありながら、その実あまりにも狂おしく切ない声を聞く。
 僅かばかりの理性を掻き集めかろうじて視線を合わせた。
「おぬし……わしを、穢す気か?」
「ええ」
 混乱していて他に言い様のなかった問いに恐ろしい程直裁的な答えを返された。
 それが何を意味するか判っていた。だが真意はつかみきれない。
 拒否すべきなのだろうかと思いつつ動くことができずにいた。
 触れた膚に籠もる熱がどちらのものなのかという事すら朧になる。
 自分が何を求めているか、何を言えばいいのか判らなくなった。
「穢す…と、言うが…如何様にして?」
 我ながら間の抜けた問いだと思う。
 今更こんなことを訊いてどうする?
 紫紺の瞳を苛立ちが掠め、不意に抱き寄せられた。
「このようにして、ですよ」
 長い指先に顎をとらえられ唇を奪われる。
「…っ……ん…ん…ぅ」
 急なことに驚き身じろいだが力強い腕はびくともしない。
 唇に触れた舌に誘われるままそれを受け入れ絡め取られる。
 余りに快くて、それが恐くて眼を閉じてしまう。
 暗闇に怯えて彷徨わせた手が暖かな胸許に触れた。
 そこにしか確かなものが無いように思われて必死で縋り付いた。
 何がどうなっているのか判らぬまま陶酔にぐらりと意識が揺れる。
「……師叔」
 不意に唇が離れ耳許を囁きが掠める。
 乱れた息を宥めようもないまま狼狽えて視線を泳がせた。
「…………おぬし、は…わしを」
「愛しています。でもだからといって、大切に包んでおく事はできない」
 愛情というものと大切という感情は異なるというのか?
 その心と行動の間にはいったい何があるのだろう。
「では、どうしたいのだ……?」
「――あなたに触れたい。あなたをこの腕で抱きたいんです」
 身の危険、という言葉が刹那脳裡を掠めた。
 しかし何処か違う。その微妙なところが理解できずにもどかしくなった。
 此方が欲しいのは、おそらく。
「……おぬし、わしのことが好きなのか?」
 その、心。
「好きです」
「本当に?」
「僕の言葉を疑うつもりですか?僕はこんなに――」
「確かめ、られるか……?」
 身をもって…と続いた言葉に我ながらひどく驚いた。
 顔を合わせていられなくなって目の前にある躯に逃げ込んだ。
 両腕で抱きしめられて安堵したのに震えが生じる。
「…師、叔?」
「おぬしの…心を分けてくれるというのなら」
 ただ求めるものに手を伸ばす。
「……ええ」
 後戻りできぬと囁く警告を頭の隅に追いやった。
 心と躯が一つになっていないようで、ぐらぐらとした眩暈に襲われた。
 この先にあるものを知っていながら理解していないのだといまさら思い知る。
「師叔」
 肩を掴まれ引き離され、突き放されるのかと怯えた瞬間に抱き上げられた。
「よっ…ようぜ……」
 何をされるかとこわばった躯がそっと牀の上に降ろされる。
 真上から見下ろしてくる紫紺の瞳は見蕩れる程美しいのにどこか恐かった。
 流れ落ちる蒼髪に閉じ込められてもう逃げられないのだと感じる。
「恐いですか?」
「恐い…と言えばやめるのか?」
「いいえ」
 恐い、と言っても大丈夫らしい。
「恐くない…と言ったら?」
「少し乱暴になってしまうかもしれませんね」
 熱に冒されたような瞳が恐いのだと気付いた。
「…すこし……恐いよ」
「そう、ですか」
 予想外に穏やかな手が襟元に触れてくる。
 留め具をはずす長い指をただぼうっと見つめた。
 抱き上げられた瞬間、急に現実に襲われてぎゅっと眼を閉じる。
 もうこの波に身をゆだねてしまおうと決めた。
 躯にまとわりつく衣が羞恥と共に剥ぎとられていく。
 腕や肩に触れてくる手の温もりに心が融けていくのを感じた。
「師叔?」
 不意の問いかけに流れかけていた意識を無理矢理ひきずり戻す。
「…なん…だ……?」
「本当に…いいんですね?」
 じっと見つめてくる瞳は最後の機会だったのだろう。
 それを振り払うことに甘い苦痛を覚えながら腕を伸ばした。
「決して…裏切らぬと誓えるのなら、な」
「無論……」
 この男が約束だけは決して違えぬと知っているから誓いを求めた。
 躯の奥に巣くう闇からじわりと滲み出るものがある。
「一蓮托生、ですからね…離しません……離せません」
 離せないのは此方なのだ。絡めた腕はもうほどけない。



 ようやく、待ち焦がれていた闇が身を覆った。

 

 

 

 

 



 

 

   《後記》

 

 『慾火 ―碧―』と『慾火 ―蒼―』は対(つい)になっています。
 同じ時間、同じ場面をそれぞれの視点から捉えたものです。
 なので台詞は当然ながらまったく同じ。
 それ以外の部分も段落としては同じ数で書いています。
 さすがに文字数までは統一されていませんが……
 同じ瞬間に、それぞれが思うまったく異なる事というのが今回の主題でしょうか。

 

   ひさやす

 



《草子の感想》

はうあっ! 同じ視点から同じ瞬間を! 
スゴイです!これを読んでから、また「蒼」を読むと感動の嵐です。
ひさやすさんのうまさに。
もうスゴイの一言。
文章の流麗さにメロメロです。(この感想だけういてるし)
はっ、ういてるといえば!(笑)
右にいる君は誰だいっ? ここで何をしてるんだい?
アンタ人魚姫かいな(笑)
・・・一応、挿し絵なんすけどねえ・・・
あまりにあまりなので、こんなとこに置いてみました。
題名の横なんかにおいた日にゃあ、雰囲気ぶちこわしも
いいとこですもの。(こんなに文章が美しいのだから・・・)
目です! 目! 美しい楊ゼンの目!(爆)
この手は楊ゼン君の手です(ナルシストっぽいポーズだ)
なんかエステの広告みたいだな・・・

ひさやすさん、お見事です・・・(感動)
師叔の感情の揺れの描写が息止まっちゃいます。
それにひきかえ、挿し絵がギャグちっく(涙・涙)になって
私はもう抹殺ものです。
ありがとうございました!


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