一滴の闇。


狂いゆく、その始まりは。

 





『 慾火 ―蒼― 』

 

 

 




 真夜中の部屋でその椿事は発生した。
 墨と硯を傍らに、何やら書き付けていた師叔が手を滑らせたのだ。
「うおっ?!」
 思いもかけぬほど飛び散った墨は点々と白い紙を染め、
「大丈夫ですか師叔」
「……ではない」
 師叔の今宵の努力を無に帰せしめた。
 それだけにとどまらず、大きすぎる手袋までもが墨に染まっている。
「だああ、もう!」
 慌てた師叔があたふたと手袋を外す。
 時すでに遅く、沁み込んだ墨は師叔の膚にまで達していた。
「仕方ないですね――」
 水差しを取りに行こうと立ち上がり、そこで僕は動けなくなった。
 師叔の、手を見てしまったから。


 真っ白な手。
 薄く静脈の透ける手の甲。
 握り込めばたやすく手の中におさまるであろう細い手首。
 形の良い、桜貝色をした小さな爪。
 ほっそりと靱(しな)やかな指。
 ――その指先を黒く染める一点の墨。


 まるでこのひとを穢(けが)す僕を糾弾しているかのように鮮やかな黒が眼を灼いた。
 けれどもう、この想いは止められなくて。
 足音もなく師叔の傍らに立つとその手をとり墨の滲んだ指先を口に含んだ。
 身を屈め恭しく、神聖なるものに対峙するが如くに。
「っ…なに…何をしておるのだ?!」
 激しい狼狽の声とともに師叔が手を引こうとする。
 でも力で僕から逃れるなんて無理ですよ?
 しっかりと手首から掌までを掴んだまま含んだ指先に舌を這わせた。
 触れた途端にびくりと震える指。否、師叔の全身が震えた。
 碧い瞳はきっと僕を非難している。嫌悪してさえいるかもしれない。
 そう思うから敢えて視線を上げずに指先への愛撫を続けた。
「…よ……よう…ぜん……」
 師叔の震えがおさまらない。
 僕を呼ぶ声さえ震えがちで消え入りそうに細い。
 でもその声はどこか――
「…………」
 無言のまま視線をゆるく上げた。
 自分の指先を、つまりは僕の口許を見つめる瞳に非難や嫌悪の色がない。
 ただ途惑いと微かな怯えと、それと判らぬほど極々ささやかな愉悦の色がある。
 おずおずと上がった師叔の視線が僕のそれとぶつかる。
 瞬く間にかあっと上気した師叔の頬を黙って見つめた。
 僕は一体どんな眼をして師叔を見つめたのだろう。
 口に含んだ指先までもが早まった師叔の鼓動を知らしめる。
 こまかに震え続ける指先をゆっくりと舐め上げた。
 惜しむようにその手を唇(くち)から解放しても師叔の震えは止まらなかった。
 指先を染めた黒も消えぬまま。
「まるで、矛盾していますね」
 ぽつりと発した言葉がよほど意外だったのだろう。
「矛盾?」
 師叔がいつもの声で問いかけ、ついではっと息を呑んだ。
 僕はまだ師叔の手首を掴んだままでいる。
 その指先にいまいちど唇を寄せた。
 軽くくちづけ、呟く。
「あなたを穢そうという者があなたを穢した汚れを拭い去ろうだなんて」
 嘲笑うような声色を使ってみせたが、きっと師叔には通用していない。
 未だ途惑い気味ではあるが落ち着きを取り戻しかけた眼で僕を見つめる。
「おぬし……わしを、穢す気か?」
「ええ」
 端的な問いに直裁的な答えを返した。
 わざと真意をはぐらかす為に。
 今度こそ怯えて逃げ出すだろうと思ったのに師叔は微動だにしなかった。
 手を振りほどこうともしない。
 困惑した笑みを僕に向けた。
「穢す…と、言うが…如何様にして?」
 とぼけているのだろうか。
 それとも本当に判らないとでも?
 僕は苛立ちを孕んだ動きで乱暴に師叔を引き寄せた。
「このようにして、ですよ」
 細い顎を強引にとらえ唇を重ねる。
「…っ……ん…ん…ぅ」
 身じろぎする細い躯を抱きすくめ深いくちづけを幾度も繰り返す。
 半ば力づくで柔らかな唇を割り舌を絡めとった。
 怯えた眼がぎゅっと閉じられる。
 かろうじて自由だった小さな手が僕の胸許に押し当てられた。
 服地をきつく掴んだが、それきりで押し返そうという動きではない。
 まるで縋り付くような師叔の仕草はかえって僕を当惑させた。
「……師叔」
 唇を離し覗き込むと、そうっと開かれた碧い瞳は酔っていた。
 乱れた息はそのままに視線を彷徨わせている。
「…………おぬし、は…わしを」
「愛しています。でもだからといって、大切に包んでおく事はできない」
 真っ白なまま綺麗にとっておくことができない。
 上がった視線が問うような色を見せる。
「では、どうしたいのだ……?」
「――あなたに触れたい。あなたをこの腕で抱きたいんです」
 それこそ永遠に師叔を失ってもおかしくないような発言だった。
 長い無言が紅唇に宿る。
 そして、そっと発せられた言葉。
「……おぬし、わしのことが好きなのか?」
 なにをいまさらと言い返せない真摯さがその声音にあった。
「好きです」
「本当に?」
「僕の言葉を疑うつもりですか?僕はこんなに――」
「確かめ、られるか……?」
 身をもって…と細く囁く声が途切れた。
 ふわりと胸許に倒れ込む躯を慌てて支える。
 両腕で抱きしめた華奢な躯は小さく震えているようだった。
「…師、叔?」
「おぬしの…心を分けてくれるというのなら」
 ゆるゆると背に回された小さな手がやがて意志をもって抱きしめる形になった。
「……ええ」
 このひとは何を欲しているのだろう。
 心を得る為になら躯を開放してもいいということだろうか。
 でも、心を得るということは。
「師叔」
 薄い肩を掴み引き離すと何を言う間も与えず抱き上げた。
「よっ…ようぜ……」
 刹那かたくこわばった躯を牀の上に降ろす。
 身を屈めて真上から見下ろすと肩から蒼髪が流れ落ちた。
 蒼い帳の中に閉じ込められた師叔はやはり怯えた眼差しを僕に向ける。
「恐いですか?」
「恐い…と言えばやめるのか?」
「いいえ」
 嘘は言えなかった。
「恐くない…と言ったら?」
「少し乱暴になってしまうかもしれませんね」
 泣き笑いにも似た表情で師叔が微かに首を振った。
「…すこし……恐いよ」
「そう、ですか」
 脅かさないように穏やかな動きで師叔の襟元に手をかける。
 留め具をはずし袖のない短い上着を脱がせる。
 背に腕を差し入れて抱き上げた瞬間に、師叔はかたく眼を閉じた。
 そして躯からは力が抜け、為すがままになった。
 裾の長い道服をたくしあげゆっくりと剥ぎとっていく。
 腕や肩に触れても抵抗はなく、まるで意志のない者に対しているようだった。
「師叔?」
 手を止めそっと声をかけると躊躇いがちに瞼が上がる。
「…なん…だ……?」
「本当に…いいんですね?」
 じっと見つめて逸らされないようにする。
 微かに顔をゆがめた師叔が両腕を伸ばす。
「決して…裏切らぬと誓えるのなら、な」
「無論……」
 あなたをひきずりこんだ闇の底には逃げ道などもう無い。
 裏切るも何も。僕達は。
「一蓮托生、ですからね…離しません……離せません」
 首筋へ絡みついた腕に抱き寄せられる。




 最後に、思い出したように灯を消した。

 

 

 










 

《後記》

 

 『慾火 ―蒼―』で語られているのは次の二点。
 師叔の素手、すなわち“普段隠されているもの”を見たことによる動揺。
 その手の白さを穢す墨の黒さを己に重ね合わせてしまうことによる罪悪感。
 しかし その白さそして罪悪感は飽くまでも主観に過ぎない。
 どれほど想っていても知る由(よし)の無い内実も有る。
 何方(どちら)がより深い闇を抱えているのやら――

   ひさやす

 

 

《草子の感想》


ああ、私のアホな感想なんかつけたら、この小説を汚してしまいそうでこわいわ(涙)
濡れ場にも品があるというか、ありがちなんじゃなくって、息をつめて
見つめあうような緊迫感があってすごいです。
さりげないセリフの数々も、おおっ、さすが! という感じ。
終りかたとかもう、かっこよすぎ。

ええと、挿し絵の言い訳。
ごめんなさいっ(とりあえず平謝りっ)
全然裏絵じゃないし、「たいがいにせいや、コラ」って言われちゃいそうな
誤魔化し絵。というか顔だけ(涙)
師叔の手です、手! 自分の左手を見ながら(もうつりそうだったさ)描きました。
そのぷるぷると震える左手の苦労に免じて、お許し下さい・・・・(大泣)




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