愛は白き泡沫《うたかた》に
憎しみは青き水沫《みなわ》に消える
たゆたうばかりは孤独のみ
水に宿るは孤独のみ……

 

 

水精――オンディーヌ――     By.緋桐

 

 

「竜吉公主様、お越しでございます。」
 廃墟の広間に滑るように現れた蒼い影は、居合わせたすべての者の溜息を誘った。この空間に満ちた絶望の瘴気さえも、彼女の清々たる気を拭い去ることはできないようであった。崑崙と金ゴウ、両仙人界が堕ちた今、彼女こそが穢れえぬ最後の生ける浄界であり、見る者全ての心を一瞬憂慮の暗雲から解放するのであった。
「公主、辛い身体で会議に出させてしまってすまぬ。」
 石の円卓の上座に坐する太公望が、気遣わしげな視線を投げた。
「何を言うのじゃ、この非常時に。」仙女は答える。「我ら全ての明日がかかっておるこの時に、私の身の上などに気を留めている暇《いとま》はなかろうに。」
 そういって微笑むめでたきまでに玲瓏な顔は、多少やつれてはいても有無言わせぬ威厳と意志の強さが在った。太公望はその意を解したように静かに頷き、公主の席に着くのを見届けると会議を始めた。
 何を言うというわけではない。彼女がただその場に居合わせるだけで、殺気立つ会議の出席者たちは安らぎ、程よい緊張感と共に意見を交わし合った。快い水音のように人心を癒す得難き水の仙女は、黙してそこに座していた。時折、紺碧の瞳を苦しげに伏せながら。
 公主はふと、うち伏した睫毛に何かを感じた。――視線だった。それも、いつも彼女に向けられるような羨望や畏敬ではなく、まるで観察するような不遜な視線。このような視線の送り主は「彼」しかいない。公主はおもむろに顔を上げた。自分とちょうど対称の位置に、「彼」は居た。公主の瞳に似た紺碧の頭髪の下の、その秀麗な顔に勝ち誇ったような微笑を浮かべながら。そして公主の誇りは、その微笑を赦さなかった。負けじと睨み返す。その熾烈なやり取りに、気づく者はいない。……やがて、公主の視線が負けた。その顔がわずかに背けられるのを見、満足したように「彼」は会議の輪に加わった。

「太公望師叔は、どうやら太上老君を捜しにいかれるようですね。」
 会議の後、浄室に戻った公主を楊ゼンは訪ねていた。
「そのようなことを、なぜ私に言うのじゃ。」
 素っ気なく、公主は答えた。
「私が会議の内容を聞いていなかったとでも思うたか?」
「……必死なのでしょう、あの人も。」
 楊ゼンも、公主に答えるつもりはない。
「何がじゃ。」
 公主は視線すらほとんど合わせようとしていなかった。
「解っているでしょう?」
――貴女もまた、同じような魂の持ち主なのだから。
 くすりと、楊ゼンは唇だけの笑みを浮かべた。
「公主。」
 目の前に出された湯呑を取るふりをして、楊ゼンの手が公主の白い指に触れた。
―― 一閃が走る。
「……!」
 途端に、楊ゼンの手に赤い筋が走った。公主はさっと指を引っ込める。
「勘違いするでないぞ、楊ゼン。私は、誰のものでもない。」
――自分のものですら。
「ほう……」
 楊ゼンは、自らの鮮血を舐め取った。
「では、僕と何があっても恥じないと?」
「!」
 黒髪が揺れ、浄室の御簾が音を立てた。楊ゼンは、崑崙で最も気高き仙女をいとも簡単に組み伏せた。
「や……」
「また、この前みたいなことをしてほしいのですか?」
 公主の蒼い瞳が怯えた影を帯びた。一瞬、公主の体にある感覚が甦ったのだ。あの悪夢のような夜、この青年から与えられたある感覚を。公主は身を捩った。
「やめるのじゃ、楊ゼン……」
 首筋を、青い髪の伝う感覚。公主は思わず目を瞑った。
「いいですよ、貴女が素直になるのなら。」
「…何じゃと?」
「貴女が自分の中の全てを吐き出してしまうまで、ぼくは貴女を離しませんよ。」
 公主の目が急に見開かれた。
「私が何を隠しているというのじゃ!」
 その瞬間、楊ゼンをはねのけて公主は立ち上がった。なんという道士、いや、なんという男であろうか。あれほど勝手に自分を暴いておきながら、この男はまだ何を汲み足りぬというのか。苛立ちにも似た感情で、公主は楊ゼンを凝視していた。
 数秒の間の後、楊ゼンは静かに立ち上がると浄室を去ろうとした。ふと立ち止まる。
「……公主、貴方は僕に似ている。」
――その孤独ゆえに。
 彼の影の去った後も、しばらく公主はそちらの方から視線が逸らせなかった。

公主は、必死で誰かを追いかけていた。いや、誰かではなく、去りゆく者のその全てを。しかしどんなに引き止めても、求めても、結局彼らは消え去って、自分の周りを漂う水球のひとつと化した。
……闇のなかに独りとり残され、公主は涙を流すことも出来なかった。否、彼女は彼女自身のために泣くことなど、始めから赦されてはいなかったのだ。この仙人界に生まれ、どこか超越した処で、下界を知らずに育たざるを得なかった彼女は、己れを求める者全てを受け入れる運命であった。全てを生み出し、やがては全てを己れの中に還してやらねばならぬ水の性。その哀しい星の下で、公主は永い時を生きてきた。
――そう、自分は人間ではない。人間であってはいけない。
 彼女の中の「水」は、彼女自身にそう言い聞かせた。水は己れを持たぬもの。水は全てを拒まぬもの。
 「彼」もまた、彼女の「水」を求めてきた者の一人であったはずだ。それがいつの頃からか、「彼」が彼女自身を求めるようになったのは。
 あの夜、彼女は初めて拒んだ。その他ならぬ「彼」の求めを。彼の求めは、彼女自身であった。「水」ではなく、彼女そのものを。このまま彼に己れを引き渡せば、ゆえに自分自身が全く違うものとなってしまいそうで、恐ろしかったのかもしれない。
――だが、結局拒みきれなかった。なぜかは解らない。彼女の力が、彼に及ばなかったようには思えない。しかし、彼女は現に彼に屈服した。そうして、引き裂かれた。
 それ以来、彼が恐ろしくて仕方なかった。彼の姿を見るたびに、身体の中が灼けつくように痛んだ。力ずくで身体を奪われた恐怖などではない。それは不安だった。彼に自分の存在が侵されていくような不安が、日々襲いくる。――水は、何者にも染まってはいけないのに。
 彼と出会ったばかりの頃、彼はまさに「必死」であった。彼が人間以外の存在であるということは見知っていたが、そのような異端の自分を覆い隠すために、彼がどれほどその身を削り、技を磨いて、誰よりも完璧に自身を取り繕っていたかも知っていた。その頃の彼はおよそ周りなど見えてはおらず、そのくせまるで素直でなかった。(そう、素直でないのはむしろ彼ではなかったか)まだ幼い子供の頃から、甘えるということを知らなかった彼。頼るということを嫌った彼。同情を憎んだ彼。心の底でいかにそれらの感情に飢えているか、きっと彼自身気付いていたにもかかわらず、決してそれを求めなかった彼。そしてがむしゃらに突っ走り、疲れた彼にとってもまた、彼女は憩いの水際《みぎわ》であったはずだったのに……
 見ると、常闇のなかに彼が佇んでいた。公主をじっと見据えている。そう、彼はいつからこんな目をするようになったのか。あの、見えるようで見えていない少年の瞳が、このように深い視線を湛えるようになったのは。暗い水底を見通すような視線。
 手を伸ばそうとする。だが、身体が動かなかった。全てを含んだ水は、あまりにも重かったから。
 愛も憎しみも。
 喜びも苦しみも。
 微笑みも涙も。 
 生も死も。
 全てが彼女のなかに在った。今まで与えられ続けた全てのもの、受け入れ続けた全てのものが。
“……公主、貴方は僕に似ている――”
 何が彼を変えたのか。あの視線の深みがどこから生じたのか。彼女はもはや知っていた。だが咎めるわけでもなく、ただ見つめるだけのその視線が苦しかった。彼女が受け入れるのではなく、彼女を受け入れようとしているその視線が。
 苦しげに、彼女は目を閉じた。やめてくれ。問いかけるのはやめてくれ。呼び覚ますのはやめてくれ。どうか静かに、闇のなかに眠らせておくれ。もうずっと長い間、自分はそうしてきたのだから。彼はただこう呟く。
“――貴女は、そうしてそのまま永遠を生きるのですか――”

 雨音に気付いて、窓の格子を少し開けた。どうやらあのまままどろんでいたようだった。久しぶりの、下界に降る恵みの雨であった。けぶる春霞のような雨のおとないに、公主の心は少し昂揚した。外に出てみたくなった。
 ほんの少しだけと、室を出て雨に打たれてみる。長い黒髪に、雫が伝い落ちる。白い頬に雨滴が結ぶと、さながら涙のように見えた。
 火照った身体に冷気が快い。公主は天《そら》を仰いだ。かつて自分の故郷を含んだ天を。ふと、誰かの影がよぎったような気がした。
「玉鼎……?」
 返事はない。
「普賢か……?」
 影はやがて薄れた。
――誰でもよい。せめて幻のなかにだけでも、還ってきておくれ。あまりに皆去りすぎた。
 あの夜、肌を合わせた後に、あの男はこう自分に囁いた。
――水に心はないのですよ、公主――
 だから、貴女は水ではないのだと。
 公主は今、心の中で言い返す。いいや、水にも心はあるのじゃよ、楊ゼン。ただあるように見せていないだけなのじゃ……そなたはそれをも見抜いているのじゃろうが。
 公主は一心に天を見つめる。
 公主には解っていた。彼が何を求めたか。彼が何を取り戻したかったか。そして自分の中に、彼が何を見ていたのかも。
 彼は言いたかったに違いない。赦されてもいいのだと。超えている必要はないのだと。もはや雲の頂にいる必要はなく、地に降りてきてもいいのだと。かつて自分が戻されたように、彼はこの水の仙女を、地上に引き戻すつもりだったのだろう。だが降り立った地上には、すでに彼女の住まう場所はなかった。彼女はそれを悲しまなかった。水は、孤独をも飲み込むものだから。だが……
 公主は雨に手を翳す。
 指から零れ落ちる雫を浴びながら、公主は心の中で呟いた。
 いま、ここでなら。泣いていても、誰にも気づかれはしないだろうと。雨が全てを覆い隠してくれるだろうから。
(いまだけなら……)
 手を翳したまま、天に呼びかける。
(いまだけなら、泣いてもいいのだろうか、のう、楊ゼン……)
 雨は、永久に降り注ぐようだった。


                                ―Fin―







*あとがき*

 初投稿で、こんな長いのですみません。その上全く何が言いたいのかわかりませんね。楊竜なんです、一応。何だか公主様の心理分析のような話になってしまいましたが……
 これは二部作で、もうひとつは楊ゼン側からのほぼ同じストーリーなのですが、そっちと併読すれば、もう少し意味がわかるかもしれません…(爆)。
 ちなみに時制的にはこの作品は仙界大戦後と太上老君探しの合間の話、という設定になっています。楊ゼンがその間公主様を襲う暇があったかどうかはわかりませんが、なんとなく彼らは私の中で非常に不器用なカップルというイメージで、相手をどう愛していいか、下手したら愛していることすら全然わかっていない二人である気がします。だから楊ゼンは思わず子供のような真似をしてしまうし、(ただの鬼畜になってしまいましたが)公主もどっこいな反応を見せる。それが中学生のカップルなら可愛いけど、なまじ人生経験のある大人(?)同士だから非常に厄介でもあり、面白くもあるんでしょうね。
 でもとにかく、物語って難しいですね。もっと修行してきます……