吹き荒ぶ風に混じって流れてきたのは。

  甘い甘い、死の香り。


  柔らかな、声音。












   * * 【夢遊病者と狂詩曲】 * *













「お久しぶりん。太公望ちゃん。」


突然の来訪者は、そう言って月から降りてきた。
風に羽衣をはためかせた天女のように。
意図的にそう装ったのかは定かではないが、わしにはそう思えた。



瞬間、風が唸った。耳をつき抜けた轟音。
わしは思わず、顔をほんの少しそむけた。


そして、その先。
眼前にはあの女がいた。
わしの血を殺した女が。
憎むべき、女が。

笑っていた。


それは今まで見てきた人々の、どんな笑顔よりも美しかったので、
わしは何かに縋るように、ほんの一瞬目を閉じた。



風に流されてくる、むせるような甘い香りが煩かった。




「ねえ?どうしてわらわを殺さないのん?」

女は微笑んだまま聞いた。

「今なら、手を伸ばせば届くかもしれないのにねん。」



その独特の甘ったるい喋り方が、煩かった。




そう、分かってる。
今なら、こやつを殺せるかもしれない。
たとえ出来なくとも、そうすべきなのに。
それだけを、望んできた筈だったのに。

今、あの女が目の前にいるというのに。
何故か、わしの心は不思議なくらい落ち着いていた。

殺されることだって十分にあり得ると、やけにスッキリした、けれど、
どこか麻痺したような頭で考えてみる。

―――――おそらく、無駄なことだろうが。

やはり、不安も恐れも、憎しみさえ湧いてこなかった。

少し、失望した気分だった。



・・・・・・?

・・・・・・何に?









「ねえ?どうして?」

思考を断ち切るように、女は重ねて問う。



ああ、煩い。

何もかも知っているくせに。








「・・・・わしは、どうすれば?」

考えるよりも先に、小さく掠れた声が喉から漏れ出た。
それはひどく情けないような声音で。
自分が喋ってるとは思えなかった。




「おぬしを殺せん。」




信じられないような気持ちで自分の言葉を聞いた。
―――何故。
それはわしの望みだったのだろう?

けれど、どこかでそれを知っていたような気もした。
そう思ったら悲しくなったので、少し俯いた。

もしかしたらその時自分は泣きそうな顔をしていたのかもしれない。
それとも、笑っていたのだろうか。
多分、その両方。


耳が、風の叫びで塞がれたような気がした。







女の高く響く笑い声を、どこか遠く、意識の片隅で聞いた。







ふいに、わしの頬に手が添えられた。
はっと顔を上げる。
間近に、あの女の顔を見た。
白い肌。強く光る眼。風にゆれる長い髪。
触れている手は柔らかく、あまりに冷たかった。
頬と手が重なったところから、どんどん蝕まれていくような。

どんどん、殺されていくような。



「可哀想にねん。」

そう言って、またクスクスと笑った。




「おぬしは、わしを殺さぬのか?」

驚くほど淡々とした声で訊いた。


「あらん。殺してほしいの?でもダメ。
あなたがいなくちゃ、わらわの楽しみがなくなっちゃうじゃない。」



添えられていた手が、ゆっくりと頬を撫でるように離れていった。
名残惜しいと思ったのは、錯覚だったのか。

―――そう思いたかった。







『ああ、この女は。』








「可哀想に。」


自分でも何故そう言ったのか解らなかった。
ただ、脳裏に浮かんだ言葉そのままを口にしただけだったのだけど。


女はそれを聞くと、何が可笑しいのだかまた笑った。



「そう。わらわ達はお互いがいなくては生きていけない存在なのよねん。」

「一蓮托生か。」

「そうよん。だから仲良くしましょうねん。」



『仲良く』―――憎み続けてきた相手にそんな事を言われるとは。
皮肉な生だと、どこかぼんやりと思った。








「終わりは。」

無意識のうちに紡ぎ出されていた言葉は、ひどく自虐的で。

「終わりはないのか?わしらの終わりは。」


一人では生きられないのならば、終わりもまた二人。
一瞬、二人『仲良く』死んでいく姿を頭の片隅で想像して、バカバカしいと
思ったが、笑う気にもなれなかった。


「そしてこの計画の、かしらん?」

女は微かに目を細めて、唇の端を吊り上げた。

「ああ。」
わしはその絡まりつくような視線を振り切るように、相槌を打った。
(―――女は答えを求めてはいなかったので、返事などいらなかったのだが。)






何故こんな事をこの女に問う?


ただ、訊かなければならない気がしていた。
多分、わしは何かを期待していたのだと思う。この女に。
いや、『何か』ではない。
もう分かりすぎるほど、分かっているはず。


そんな事を考えていたわしに、女は優しすぎる答えを返した。



「もうすぐよん。終わりは、もう少し先。その時まであなたを待ってるわ。
あなたの死を、想いながら。」






ああ、良かった。

でもそうは言わずに、「そうか。」とだけ呟いた。



わしは漠然とこの女に感謝した。
何だか救われたような気がしていた。
それを認めるまでに、何て多くの時を費やしてきたのだろう。

けれど、同時に自責の念が生まれたのを感じた。
責めるべき者など、どこにもいないのに。
罪など、どこにもなかったというのに。
――――あるいは、見えてなかっただけかもしれないが。

少なくとも、わしに罪などなかったのだと思う。
もちろん、この女にも。
あるとしたら、それは大きすぎてわしらの手には負えまい。



――――それは、奢りだろうか?
いや、どうでも良い。どうせ裁く者など、いる筈もないのだから。









風が、わしらの間でクルクルと舞いあがった。
風の音は空虚な溜息を奏でて、純粋なメロディーに変えた。
・・・・・あるいは、それは安堵だったか。








「だから、わらわを殺してね?」



そう言った女の声は、思いの外優しかった。
まるで夢を見ているような、儚げな響きが耳に残った。




「必ず。」

わしはそう言って、少し頷いた。













   それは誰も知らない約束。

   全てを裏切る約束。

   優しい約束。














わしらは悪巧みをする子供のように、クスクスと笑い合った。














 * End *