「太乙真人様、いらっしゃいますか?」
昼過ぎになって碧雲が太乙の客間をたずねた。
「公主様の薬湯を頂きに参りました」
人の気配がしない扉のうちをそっと伺うと、格子の影が床にうつって幾何学的な文様が浮かび上がっている。
遠近感までが狂ってしまいそうだわ、と何とはなしに碧雲は思う。
部屋の最奥まで伸びてゆく直線の中に、柔らかい曲線が小さく動くので見ると自分の影だった。
思わず髪のハネを片手で押さえる。
留守なのだろうか、もう一度呼びかけてみようと口を緩めた時、
「こっちだよ」
太乙ののんびりした声が返ってきた。

「…花火、ですか?」
格子模様のなかを通りぬけると、太乙と道行の二人が薬草や火薬などを並べていた。
「やぁいらっしゃい。そろそろお出かけかい?」
碧雲は慎ましく着飾っている。
どちらかというと男所帯の城内では、彼女のような華やかな姿が珍しい。
「ええ、もう直に始まりますから。その前に公主様のご用事を済ませようと思いまして」
「そっか。こっちも急がないと。薬湯ならそっちに置いてあるから、持ってっていいよ」
「ありがとうございます」
「ナタクは公主にも迷惑をかけてないかい?」
奥の部屋へ行った碧雲に聞こえるように、太乙は少しだけ声を大きくした。
目の前の道行が、ぴょこんと飛びあがって、
「…そういえば見かけないでちゅね。公主に預けたんでちゅか」
「ここで暴れられたら危な過ぎるからね」
太乙は両腕を広げて、部屋の中にころがる花火玉を示す。

今宵は宮廷では若き王の婚儀の祝宴がひらかれる。
仙人たちはささやかながら派手な餞として、花火を内緒で用意していた。
だが今万が一爆発して、せっかくの秘密がばれてしまうだけならともかく、花火と共に自爆するような危険だけは犯したくない、ということで、太乙は弟子のナタクを竜吉公主のもとに預け、火気厳禁のもと道行とふたりで火薬を調合していた。
「公主は無事でちゅか?」
戻ってきた碧雲は、麻袋をきちんと手にしていた。
「今は天祥さんも公主様のもとにいますので、ナタクさんと一緒に遊んでますわ」
道行真人のことばには、厄介な里子を預かった公主を同情する語調が含まれていたが、言外には彼女の衰弱を聞く意図もあった。
碧雲は聡く気がついていたが、竜吉に言い含められた通り、はっきりとは答えなかった。
ただ、
「最近、夢見がよろしくないご様子で姉弟子ともども心配はしているんです」
「夢見?」
太乙は無意識だろう、細い顎に手をやる。
「ええ。何でもないとおっしゃるのですけども、どうも悪い夢をご覧になってるのかと」
「…夢?」
わずかに道行は眉をしかめる。
「まぁ、碧雲君、その薬湯があれば公主も少しは楽になるよ」
「あ。はいっ、ありがとうございます!それでは失礼いたしま」
「あ、ちょっと待って。」
途端に思い出して、太乙は退出しかかる碧雲を止めた。
「何でございましょう?」
「この小瓶も預かってくれないかな。ナタクが万が一…」
説明しはじめる太乙の隣で道行が『また親バカが』と呆れた顔をして嘆息する。
「万が一暴れたら、これを投げるとミストが広範囲で噴出して、どれだけナタクが早く逃げようとしても神経ガスで動けなくなるから、確実に」
「確実に」碧雲は自分の手にも収まる瓶を眺めていたが、
「周りにいる私どもも巻添えになりませんか?」
そうかもしれない。
「…そうだよ、それを考慮に入れてなかったなぁ」
目から鱗という風情で太乙は押し返された小瓶をてのひらで転がす。
碧雲は飛び立つかのように、短く礼を言って逃げ帰っていった。
「ねぇ道行?」
呆れかえった道行は、冷たい視線で返したが、
「夢見とは不思議な話でちゅね」
「ん?…あぁ。」
小瓶をうっちゃって、太乙は手をひらひらさせる。
仙人は夢を見ないという。
無我の境地に至り、秘めた欲とて持たない仙人にとっては、眠りはただ深き無想の時でしかない。
「記憶の歪みがほころび始めているのでちゅかね…」
「詩人だね、案外」
ひとつ茶化しておいて、太乙は窓の外に目をうつす。
柳の木立が揺れている。
「あれはどしゃぶりの雨の夜だったよね」
おもむろに太乙が口を開く。
「?」
「僕は遅れて玉虚宮に到着して、たまたま見たんだけど、元始天尊様と… ああそうだ君もいたよね?」
道行はようやく意味がわかって、コクコクとうなずく。
太乙は崑崙が在りし日の昔話をしている。
「そうでちゅよ。あの時、初めて会った楊ゼンに尻尾を掴まれて、『あっごめん』って…」
道行は、数百年前に引っ張られた尾がまだ痛むかのような表情をつくる。
赤ん坊のような風貌で、実は道行は執念深い。
「やっぱり見た目、十二仙とは分からないでしょ、君は。
――そう、あの夜、元始様と君を真中に、玉鼎と楊ゼン、公主が引き合わされていたんだ。
珍しく賑やかな夜だった。玉鼎と公主が一言二言交わしている横顔を、ちびっこが茫っと見上げていたよ。僕が近づくのに気がついて、ビックリして慌てて視線を泳がせた、」
幼い楊ゼンが見つめる大理石の床は、鏡のように大広間の逆さまに映し出していた。
「今じゃ、すっかりふてぶてちいけど、あの頃は紅顔の童子だったでちゅね。」
「今思うと、初めから狂ってしまっていたんだろうね」
語らざるべきものを公然と話すのは、一種独特の開放感がある。

知るものの僅かな崑崙のタブーを、二人ははじめてあけすけに語り始める―――

昔、崑崙と金ゴウは黙契を結んだ。
全ては封神計画のためだった。
崑崙の元始は一番弟子王奕と引き換えに、金ゴウ教主の幼子楊ゼンを預かった。
そして楊ゼンは十二仙の玉鼎真人の弟子となった。
だが、その楊ゼンの手に、黙契の証として崑崙の姫君竜吉を与えるという悪戯のような伏線が秘密裏に加えられていた。
女カ無き後の仙界の礎となるべき婚姻だった。
本人たちさえ知らぬうちに仕組はすっかり整えられていたのだった。
しかし、これは女カを討つまでの有限の取り決めであり、形ばかりのものだったし、
封神計画さえ完遂すれば、二人の運命は再び二人に返されるはずであった。
やがてこの秘計は、定められた時と同じように、闇のうちに破棄された。
――二人も知らぬままに。
何があったのだろうか…。
「二人が近づき過ぎたってことだね」
「口さがない噂もあったち」
窓のそと、ざわりと柳がしなる。
「…でも、二人は『覚えていない』にしても、公主が気づき始めているということになりまちゅよ」
「その可能性があるってことだけど…」
仙界大戦が終わったばかりで、傷も癒えていない今、女カに黙契を気取られるのはとても危険なことだ。
封神計画を、ここまで来て気づかれるわけにはゆかないのだ。
「元始様はこのことをご存知だろうか?」
女カには知られてはならない。
そしてあの二人も過去を取り戻すべきではない。
「そもそも本当に楊ゼンも公主も自分達のことを本当に忘れてるのかな?」
そうでなければ、二人が相見えるのはとても危険な要素を含んでくる。

朝歌に月が昇る。
夕方、通り雨を降らせた雲はかき乱れ、足早に月のおもてを駆って行く。

朝歌城下を見下ろす楼閣に竜吉公主の浄室はある。
「誰じゃ」
その浄室の静かな屋根裏の扉を押し開けるなり、竜吉公主はかざした紙燭でぼんやり浮かび上がった影を見止め、
「…」
小さく息を呑んだ。

柱も壁も全て黒の濃淡に沈んでいる書庫の窓辺で、灯りで淡いオレンジに半身を染めた人影が、気だるげに振り返った。
戸口に竜吉の姿を見つけ、同じように驚いた表情で上体を起こした。
楊ゼンであった。

楼閣に絶え間ない波のように、王城から歓声が打ち寄せる。