小鼻に浮いてくる汗の不快感。
ぬぐってもぬぐっても、じわりじわりと集中力を剥いでいく。
「あーー暑い」
この一言に尽きる。
言ったところで何の解決にもなりはしないが、それでも言わずにはいられない。
「こんな所でよく仕事ができたな」

・・・いや、できてたら滅ぼされてないか。だよな。
武王姫発は、朝歌城の広い執務室でひとりごちる。
殷国最後の皇帝のこと。
あの老いて細い首が鮮明に網膜に焼きついている。賢王と名高かった人だった。

姫発は報告の山成す机を離れ、楼台に出る。
わずかに風が前髪をなびかせるほかは、張り付いたように空気は動かない。
湧き立つ入道雲。壮麗な屋根を持つ正殿からの眺めは、まぁまぁといったところ。
正面の大門から真っ直ぐ南に伸びる朱雀通、その左右の計り知れない数の甍。
その下にどれほどの人間が暮らしてるのかと、周公・姫旦や邑姜の尻に敷かれながらも王者は臣民の営みに思いをはせる。
余談だが、姫発のもうひとつこの景観で気になっていることがある。
それは、横手の崖にたつ涼やかな木陰に守られた小楼。
この暑さのなか、蓮のようにひとり涼しげだ。
姫発は、夜と朝焼けに見るその姿が好きだった。
とくに夜、宵闇に月を浴び、内からほのかに明かりをこぼすその様はさながら繊細な香炉だ。
眠られぬ時誰ぞ弾く音曲を耳にして、こちらも手遊びに琴を合わせたことがあった。
姫家は音楽の才を持っているものも少なくないのだ。
ともあれ高楼の楽人は誰なのか、密かに思うのは楽しみであった――

「お、忘れておった。」
執務室でござを勝手に持ち込んで、ごろごろしていた男−太公望だ−がはたと床から顔を起こす。
「天祥はどこにおるかのう?」
「ナタクと一緒じゃないか?」と楼台から姫発の声。
「何か御用でも?」
執務室のもうひとりの客人、楊ゼンは奥まった机で静かに筆を運んでいた。
間違っても、誰かと違ってごろ寝を愉しみながら、桃をむさぼる態を人に晒すつもりはない、と言わんばかりに、髪を結い、袖をまくりあげて机にむかっている。
「いや、そう急ぎではないのじゃが、天祥をあちらに連れて行くように言われておったのを思い出したのだよ」
と、こちらはこちらで、仕事をする気はないと主張してやまない太公望は寝返りを打とうとして、横にころがる打ち揚げられた鯨の様相を呈した四不像にぶつかる。
四不像はうっすら目を開いて、
「…今殴ったの、ご主人っすか?」
午睡の邪魔をされてすこぶるご機嫌斜めだ。
「いや、そこで寝ておるおぬしが悪いのだっ」
「四不像、気温が上がるから挑発にはのるなよ」
すかさず姫発は牽制球を投げる。
そう言われて四不像は素直に、何か嘯きながら、再び床に顔をうずめる。
見ると、太公望は楽しみを邪魔されてフテ寝して桃をかじっている。
「なぁ、誰がどこに天祥を連れて行け、だって?もののついでに誰かに頼んでおくけど?」
「いや、気に病むな」気のない返事。
「ふーん、それならいいけど」
姫発は煮え切らないような顔をして太公望を見ていたが、やがてこちらに背を向けてまた城下を眺める。
視野の片隅でなんとはなしに観察していた楊ゼンは『太公望師叔はお茶を濁す時には四不像あたりに悪ふざけをしかける』などと思っていた。
四不像に次いで、悪ふざけの標的にされるのは自分なので、この観察には自信がある。それよりも、師叔が「あちら」などと丁寧な言葉使いをするほうがはるかに珍しい。教主元始天尊にむかって「じじぃ」と言う人なのに。
誰のことなのだろう?そうつらつらと考えながら、ふと顔をあげる。
背を向けたままの姫発の頭越しに、森の楼閣が見える。
楊ゼンは眼鏡の奥に怪訝な表情をかすかに浮かべた。

「目を離すとさぼってますね」
部屋に現れた旦と邑姜は、午睡を貪る太公望と四不像と、窓辺で黄昏る武王を見て、露骨にウンザリ顔をする。
「一時間くらい静かに出来ないんですか」
「こいつの伊達眼鏡のせいじゃ」
「何を訳のわからないことを」
「・・・あら、ホントだ。」
「ちょっといやらしいっす」
「・・・。」
「さぁ武王、これから先に目を通していただけます?」
うまい、邑姜。
「あ?・・・あぁ、日中はちょっと暑すぎるからなー。日が暮れて涼しくなったらやるから今は休憩。」
悪びれもせず、一方的に宣言する姫発に、
「夏休みの宿題をしてる小学生じゃないんですから、小兄様」
と、几帳面な突っ込みを入れる、几帳面に襟元まできっちりと着込んだ旦。
暑いのによくも、と姫発にはそれだけで弟の忍耐力に感動すら覚える。
邑姜も、性格と逆で生物的には実は旦のほうが南国系なのかもしれない、と密かに信じている。
しぶしぶ机に戻った姫発は、邑姜が差し出した茶を一口含むなり、
「気を利かせて冷たいのにしろよー」
「ぬるめの方が喉が渇かなくていいんですよ」
駄々をこね散らす王に、邑姜は薄い唇を結んで、ついと猫のような動きで踵をかえす。
気を損ねてしまった。
「ちょいまち」
「なんですか」
睨みつけるように、きっとたたきつけた視線が片手で遮られる。剣ダコのある大きな手が、とっさに身をかたくした邑姜の頬にそっとふれる。
「ほら動くな」
「なっ・・?」
「まつげ」
「・・・」
言葉が一瞬途切れたあいまに、暑いな、と今頃になって旦は気づく。
ほのかに赤く染まった頬に、こわごわと触れてきた指の感触だけが残る。

これが彼の巧いところなのだ、邑姜は心の中で呟く。

「―――そうだ、」
小さな顔をのぞき込んでいた姫発は目をしばたいて、邑姜の背に合わせてすこし前かがみにした背中をまっすぐ正す。それから執務室に集まった面々をひとりずつ振り返ってから、ちょうどみんなそろってる事だし、相談したいことがあったんだよ」
発は紫檀の机に腰をかけ切りだした。
中国全土には、殷家の皇領地がまだ何ら処理をされずに、多く点在している。遠くは湯王が旧朝を興したときに、王家が所有した領地もあるが、はるか時代をくだってからは、地方豪族が上納した土地もそれこそ数え切れないほどだ。
これらは、豪族が役職、階級、様々な融通を聞いてもらうために送った、至極大雑把にいうと賄賂の類だ。そして、なかには肥沃な土地もあるのだが、革命の騒乱にまぎれて、今は当然打ち捨てられ、賊徒の巣になってしまっている荘園すらある。
「何か聞いたことのある話っすね」目が覚めて、四不像は
「たしか崑崙にも廃園があったっすよ。」
「さては、あのじじぃもワイロで・・」と太公望。
「ご主人じゃあるまいし、まさかそんな不埒なことを教主がするわけはないっすよ」
先程の挑発のお返しか、四不像はぴりっと反撃をほのめかす。
「まぁまぁ。…でさ、そのうち一箇所、渭水の近くの土地を姫家の私有地に受けたいんだ。どう思う?」
姫発は無意識に折りたたんだ扇子を一定のリズムで膝をたたいている。
口を開きかけて、食い入るように見る旦。彼も初めて聞く話だ。
発は弟が何か言うと思ったが、言葉がなかなかでてこない。
代わりに太公望が、
「…なんでまた?」
渭水といえば、西岐からはいくら早馬を飛ばしても半月はかかる遠隔地だ。
姫発の扇子が膝に落ちかけてぴたりと空で止まる。
「いや、別邸を構えてもいいかなと思ってさ。渭水は美しい土地だ。それに住みついた暴徒を静めたら治安もよくなるだろ?」
「それに父上の虜囚の地でもあった場所ですし。」
旦もかすれ気味の声で畳み掛けるように付加える。
苦言・諫言に徹する知将の彼もこのときばかりは弟なのだ。
「…そうであったのう。」
それが姫発にとっても、言わないが、一番の理由に違いない。
「酔狂なことだな、…もっとも、それを若さと呼ぶんだろう」
「若くはねぇって。俺もかれこれ31になるんだからさ。」
幼い日からあんちゃんと呼んでまつわり付いてきた兄で、早逝の世継より、1歳年を追いぬいてしまった。
武王は照れ笑いをごまかすように、掌の扇で浅黄色の衿元に風を送る。
その様子はやはり若くも、生来の天真爛漫に落ち着きが備わってきた。
太公望は、先王姫昌から預かったこの若い王を、持ったことのない子供のように慈しんできた。目の中をかすめた一抹の愁いを見逃すわけもなく、
「おぬし、、そうは言うが、儂をいくつと思ってるんだ?」
茶化してやる。
こちとら不老不死が屋号の仙人・道士なるぞ、と言ったところか。
「おまえらと一緒にすんなよ。それが専売特許なんだから。でもさ、これにはさすがの仙人様でも驚くと思うぜ?」
「言うてみい」
言ったな、と姫発はにやりとする。
「旦なんか30歳だぜ?」

水を打ったような沈黙。嘘をつくでない、嘘を、とまくしたてる太公望。
四不像は口を開けっ放し。邑姜は小さくぷっと吹き出す。
楊ゼンも思わず隣に立つ旦をちらりと確認してしまう。
老け顔の弟はこぶしを握り締めて静かな怒りを見せる。
一瞬勝利の快感に酔った姫発は今更ながら激しく後悔。
「じょーだんだって・・・」
というも時既に遅し。覆水盆に返らず。
旦は津波が来る前の静けさを思わせる静かで抑制の効いた声で有無を言わせず兄王を机の前にねじ込む。
「こちらは冗談ではないのでご覚悟を。」
あれもこれもいつもの日常。
気丈で明晰な邑姜、天性陽気で奔放な姫発、生真面目だが天然気味の旦。
ある夏の一日。
渭水の別邸を邑姜に贈るといって周りをどぎまぎさせた姫発のプロポーズ。
だがそれはまた別の物語である。