きっと指の間をすり抜けていった想いがある。

 

「待って、竜吉」
雨上がりの新緑が薫る午後。
頬をなでる風に草原の緑は波打ち、咲き初めの白い林檎の花は愛らしく揺れる。
そのたおやかな花の風情そのままの女性――
「捕まえた」
青年と言うにはすこし若い、だが少年と呼ぶには力強い腕が、
戯れるような仕草で華奢な肩に絡みつく。
「…っ?!」
あやうく姿勢を崩しかけて、ひたむきな腕に抱きとめられる。
この子は自分の力がどれだけ強くなったのか、知りもしないのだ。
勝ち誇ってうれしそうに覗き込んでくる目は、竜吉が予想していたよりも
わずかに上から彼女を見ていた。
深い海を覗き込むような青の双眸が呆然とした自分の顔が映している。
いつのまにか自分より背が高くなっていたのか。相手の成長を実感すると同時に、
刹那的に身を噛むような甘い痛みが、胸をよぎる。
「こら!」
翳りのない少年の笑い声の後ろから、老成した低い声音がする。
「師匠?」
咎められた訳が分からずに、竜吉を背中から掻き抱いたまま声のほうに振り返る。
そよぐ草の上を長衣をはためかせて、養父はゆるやかな坂を近づいてくる。
若々しくも泰然とした姿だ。
「公主を離しなさい。困っているだろう」
「だって」
ふてくされる表情はまだ幼い。
「だって。師匠が教えてくれた怖い話をしてあげようとしたら、逃げるから」
初夏の風のなか、そっと解かれる腕。
彼女は心持ち顎を上にあげる。
「竜吉はここにおります」

肩越しに見えた蒼穹をはばたく鳥の白さが、今でも目に痛い、鮮やかな程に。

◇  ◇  ◇

仙界は墜ちた。
天から消えた世界を何も知らず、地には少しも違わずまた夏が、めぐりくる。

朝歌の城壁は過酷な自然と戦乱にさらされ、真夏の日のもと、乾いた白き倣岸さで
立ち塞がっていた。縦に深く亀裂が走り、割れ目からは雑草が萎びた緑を見せている。
革命が叶った今。
ここはあまりに惨めだった。
永きを視てきた城壁は、姿こそ寸毫も変わらぬが、全ての熱狂から取り残されていた。
何万の甍がひしめくかつての王都は、息を吹き返したように急速に賑わいを取り戻しつつある。
世界は若返る。
かつて、ここは世の果てのように見えた。
だがそれがただの破れ土だったことに人々は気づいてしまった。
少し上を仰ぐだけで今まで知らない空が広がっているのを見た。
轟々たる空。

「本当に」
白く垂れた長髭がわずかに動く。
この人はいつも突然話し出すように見える。
ひげで口元が見えないためそう思うのだろうか。目元も同じ。まっしろの眉が覆っている。
表情が読めないように出来ているのだ。そのご老人、今は楼閣の内に静かに座り、
高い天井の黒い梁から垂れた、透けるような紗を揺らす微風にまなじりを下げて
「ここはよい風が入るの。おもては炒るような暑さじゃよ」
同じ風に、柔らかい綿雪のような羽毛をふよとそよがせて
「私は焼き鳥になるところでしたよ」
白鶴もうっとりと目を細める。

ここは王城の一角、隠れるように建つ楼閣。
崖の上、背後に広がる静溢な森に包まれ、押し出されそうになりながら巌の上に建っている。
誰が造ったものだったのか忘れ去られる程、どの建築よりも古く、足組みは岩場をぬう樹木の根のひとつと化していた。
旧朝には、あの皇后・妲己がこの小宮を愛した。全土を洗った策略は、すべてここから矢番えられ放たれた。彼女が絢爛の生活の寸隙を縫っては潜んだ別邸は、誰からも干渉なく権謀を振るうのに都合がよかったのだろうか。
そうではなくて、ただ単純に、この典雅な建築様式と御簾の外の刻々変化する雄大な眺めを好んでいたのかもしれない。

今日も王城の、黄・白・赤・緑・紫、五色の錦の燦然と波うつさまがここから眺められた。
朝歌に強烈な夏の陽射しが照りつける。
だが、その陽射しもこの浄室に届くまでには御簾や紗にろ過されて、ゆるやかに透明な光で床を暖めている。そのやわらかな空気の満ちる浄室で、竜吉は元始天尊と白鶴を迎えていた。
「して、お変わりないか?」
誰よりその身を案じられるべき人が逆に聞いてくる。
「みんなぴんぴんしてますよ。普段うるさくしてるのに限って伸びていますが。公主は如何です?」
「案外大丈夫なようじゃよ」
急き込んで話す白鶴に、はんなりと匂やかに微笑する。
人界に墜ちて、純潔の人が平気なわけはない。
白鶴たちが浄室に辿り着くまでに、この女仙の弟子・赤雲に案内されて通った回廊にも、伽羅香は漂っていた。空気が動くたび、沈んだ煙がそれ自体生き物のようにむっくりと動くのだった。しかし「平気」と言いきられては、
「それは何より。心配だったんですから」
と返事するよりないのを白鶴はいつも、はがゆく思う。
そして二言めには、さりげなく話題はすり変わっているのもいつものことだった。

元始は相談事と称して涼みに来る。
しかし油断ならぬこの人のこと、しっかり用事を運んでくることも忘れない。
竜吉は渡された巻物を文机にさっと広げる。
伏し目がちの睫が白い頬に扇形に影を落とす。
「・・・これは私でもよいのだが、」
しばらくして、吐き出すように言った後、竜吉は探るような強い視線をむけた。
隣でおとなしく聞いていた白鶴は、何気なく見た竜吉の面差しの厳しさに息をとめる。
普段の優しげな印象をも凍りつかせそうな、残酷な美貌。唇がゆるく結ばれて曖昧な微笑に見えるのがなお恐い。
「できぬか?」ひげをひと撫しつつ、「最良と最悪の場合にそなえたいのじゃ」
「・・・『最良と最悪』ならこのまま白紙でお返しすれば済むことではないか?」
「違いないのぉ」元始苦笑。
元始を見据えている竜吉の色素の薄い瞳。
これが「公主」と呼ばれる所以なのだ。彼女の貴い血筋でも、傾城の容貌でもなく、典雅な物腰でもない。
何よりも瞬間垣間見せる、人をはっとさせるこの鋭い視線が、崑崙の女仙を束ねるに相応しい彼女の気質だった。
が、次に白鶴の硬直した様子をみとめて、ふと頬に微笑を浮かべる。
「まぁ、すこし考えてみよう」
花鳥紋様の縁取りをくるくると巻いて、にっこりする。白鶴は雪解けを見た気がした。
「そうか」
凍りついた空気も溶解する。そして蝉の声が再び耳に帰ってくる。

赤く西日の射すころ、浄室の静謐に階下から人の動きが伝わってくる。
「すっかり邪魔したの。」と元始は白鶴を前に促す。
「これから馬鹿弟子の顔を見に行こうと思ってな」
太公望はすでに仙界を人界から引き上げさせる準備に入っていると、ここにも聞こえてきている。何かその事で話でもあるのだろう。
回廊の先には、碧雲が案内に立つため、音もなく控えている。ともに見送りに立とうと腰を浮かしかけた公主に、元始はよいと皺の深い手で制して、
「ではよろしく頼んだぞ」
まだ外は暑そうじゃな、などとぼやきながら外を眺める。
「・・・厄介事を押しつけてすまないが、して他に誰かというとやはりおらぬのでな――」
ふいに語尾が宙に吸い込まれた。
「太公望も、楊ゼンも、」
小宮の眼下、軽い眩暈を覚えるほどの斜陽のもと、赤黒く反射する石畳の上を、ひとり清涼な彩の影が蜃気楼のように渡っている。まばらに行き交う人のあいだを悠然と歩く姿。
「そなたには悪かったと思っておる」
「・・・?」
頭を垂れて待っていた碧雲は、元始が帰り支度をしたまま動かないので、小首をかしげ、元始の視線を何気なく辿った。影絵の群集劇のような光景。
だが、すぐに彼女にも同じ水際立った人物を見分けることが出来た。
碧雲ははっと元始の老鷲のような横顔を見、
白鶴に大きな瞳をむけ(視線を避けられた?)、
最後に御簾のうちにいる主を困惑して見つめる。
だが座したままの竜吉には、おそらく逆光の碧雲の表情も、そとの男も、見えていない。
夕日であかく映える御簾の奥、脇息に頬杖をついて、
「何事も思いつめぬことじゃよ」
もの哀しくなるくらい真摯でふんわりした声が碧雲の耳を打つ。