「狂ってる」
そう言って目の前の男が目をそらしたから、普段見せないその表情に少しうろたえてみた次の瞬間、その口元がいつもどおりのむかつく笑みをうかべているのに気付いた。手元で光る液体が揺れる試験官を眺め、雲中子は言い直す。
「や。そんなたいしたものじゃないな。たんなる科学バカだ」
「生物バカには言われたくないね」
雲中子は机に向き直り、太乙に背を向けた。
そして気のない声でぼつりと無愛想に一言。

「したいようにしたら?」

「・・・言われずとも」






ここに来る前の雲中子との短いやり取りを突然に思いだし、太乙はそんな自分に背筋が一瞬寒くなった。
思い悩む必要など何一つない。自分にとっては日常的に繰り返す実験の一つでしかないのだから、今日だっていつも通りでいればいいじゃないか。そう自分に言い聞かせ気を紛らわせようと何気なく目の前に出された茶を口に含む。そして吹き出した。
「・・・・・・まずっ・・・」
「特製の青汁ブレンドティーです。体にいいんですよ?」
あらあらと、まるで子供を見るように彼女は笑った。その目元にはシワ一つなく、はじめて出会った時、つまり彼女がナタクを宿したあの頃と何もかわらない、まるで少女のような風情で殷氏はそこにいる。
本当に人間なのか怪しいぐらいのその若々しさに気が抜けるほど。
「た、確かに体には良さそうだね。すごい味」
よく見ると色もすごい。どろりとした緑色の液体の入った茶器をさりげなく遠ざけて、コホンと太乙が息をつく。そして緊張の面持ちで本題を切りだす。
「で。返事を聞かせてほしんだ。殷氏」
「あの。私。さっきから考えているんですけど」
殷氏が眉根をよせて首をかしげる。ドキドキしながら太乙が身を乗りだす。
「あなた・・・誰でしたっけ?」
「・・・・・」
太乙が思わず机につっぷすと、殷氏はあわてた声でいいわけをはじめた。
「ナタクのお師匠様だってことはもちろんわかってるんですよ? でも、あの、私、お名前が思い出せなくって。さっきからずーっと思いだそうとはしてるんですけど」
「太乙」
「たいつ?」
「ちがう。たいいつ」
「太乙さん。じゃああらためて。息子のナタクがいつもお世話になってます」
そう言って突然頭をぺこりと下げる殷氏。間のはずしかたが無意味に天才的だ。
この女性を相手にしていると、意気込んで乗り込んできた自分がまるでアホみたいだ。そう思いながら哀しい面持ちで太乙は遠ざけた茶を無意識のうちにすすり、その絶妙なる風味に再び茶を吹き出していた。さっきまで噛んで含めるように話していた内容をわかっているのかいないのか、殷氏はにこにことその様子を眺めている。
「それでさっきのお話ですけど」
「うん」
ゴホゴホとせき込みながら太乙が顔を上げる。
「やっぱり私、お断りします」
「そう」

そう。やっぱりね。

こう言われることを自分はきっと知っていたのだと考えながら太乙が立ち上がる。もうここにいる理由はない。
長身の太乙を少し不安そうに見上げ、殷氏もつられて立ち上がる。
「・・・ごめんなさい。せっかく私のために研究して頂いたのに」
「ちがうよ。君のためじゃない。私の科学的興味と・・・仙人界の未来と・・・・・それと、ナタクと兄弟達のため、かな。あとおまけで李靖?」
そう言って太乙はくすくすと笑った。ずっと背負っていた重いものががあっさりと消えてしまって気が抜けた。
「でも本当言うと、主な目的は自分の科学的興味の一つにつきるんだけど」
「はあ・・・」


太乙は殷氏に仙人骨を与えようとした。
夫と息子達を置きざりにして、一人きりで老いそして死に行く運命の殷氏に。
人間を人為的に仙人にすることは、宝貝人間を造るのとは意味が違う。より自然の理をねじまげるその研究は太乙のまったくの個人的なもので、仙人界の未来うんぬんはウソであり、元始天尊にでも見つかろうものならきっと大目玉をくらうだろう。
それをわかっていながら、仙界自体の消滅のかかったこの非常時に、太乙は一人で必死に研究を重ねてきた。
そして、研究が完成した暁には、まず殷氏に仙人骨を与えようと、そのことだけを決めていた。
科学的興味。科学的狂気。
その通りだ。この手で生み出せないものはないのだとそんな傲慢さで自分はどんなことにだって手を染めるのだろう。


「聞きたいことがあるんです」
立ち去ろうとする太乙の腕を殷氏がためらいがちに引き止める。
振り返った太乙の目に、殷氏の黒目がちな大きな目が映る。
「先立たれることは恐ろしいですか?」
しばらく無言で太乙は殷氏を見下ろしたままでいた。色んなことが頭をよぎったような気もするし、反対に、この心は何も感じないような気もする。自分の腕を力なくつかむ殷氏の白い手見て、なんて小さい手なのだろうと思った。
「私達は、何かを失うことに馴れていないんだ」
答えになっているのかわからないけれど、太乙は事実だと思うことを言った。
「でも、最近は、失ってばっかだけどね」
崑崙山も十二仙も。
乾いた笑い声を小さく上げた太乙に殷氏は首を振った。
「失うものが何もないなら、はじめから何も持っていないのと同じだと、私は思うんです」
「そんな抽象的なこと言われたって」
・・・・私にはわからないよ。
だから太乙には寂しそうに微笑むことしかできない。
「私が死んだら息子達も夫も泣くだろうけど、その哀しさは私が存在したことの何よりの証拠で、大切な大切なものなのだろうと、思うんです」
「そうだろうね。でも、悲しませないことが一番幸せじゃない? ずっとずっと一緒に生きてけたら、それが彼らにとって一番だと私は思うけど」
殷氏の手を取って太乙が言う。白くて細い腕。3人もの強い道士を生み出したというにはあまりにも華奢で頼りなげな。
「だから私は君に言ったんだよ。君の愛する者のために、ずっとずっと一緒に生きていけたらどうって。そして私にはそうすることが出来るんだよ」
殷氏がうつむく。つかんだ彼女の腕がなぜか離しがたくて、この女性が人妻であることを知っていながら、太乙は殷氏を自分のほうに引き寄せた。彼女が気付かないくらい、ほんのわずかに。
「ナタクと木タク、金タクはそれを望んでいるのかしら」
「きっとね」
ますます殷氏がうつむいた。しばらくそのままでいて、やがてぱっと顔を上げる。
太乙を見上げて柔らかな声で言う。
「でも、私は、彼らのためだけに生きてるわけじゃないから」
泣きそうな顔で微笑む。
「私は私のために私の人生を生きてるから、私のための選択をしていいんだわ」
「・・・・息子達のためには生きられないと言うの?」
「私は私のために生きてて、息子達もそれを望んでるって・・・私は信じます。人を愛することって、そういうことなんだと、私は、ずっとずっと、思ってきたから・・・・。それぞれの人生をそれぞれ生きた上で、誰かを大切に思うことが、愛することなんじゃないかって。同じ道を歩くんじゃなくって、違う道を歩きながら愛し合うんです」
ああ。まただ。また太乙の知らない世界の話。
太乙は息苦しくなって顔をしかめる。
「じゃあ今度は私から君に質問」
自分の声が苦々しく響いた。こんなこと話すつもりなんてなかった。
「たとえばナタクが。金タクが木タクが。君より先に逝ったらどう?」
「私のところに還ってくるんだと、信じます。そしてまた何度でも私は彼らを生みましょう」
「あはは」
太乙がぱっと殷氏の手を離す。一歩下がって髪をかきあげる。自分の背が光をさえぎり殷氏に影を落としていた。
「そっか。彼らには、還るとこがあるんだね。だから、あんな無鉄砲な戦い方をするんだ」
やけに明るい調子の自分の声が不自然で太乙はいらついた。もう早くここから去らなければとそれだけを思った。
「ごめん。もうわかったよ。本人の意志が固いんならしょうがない。他の人にかけあってみる」
「タイツさん」
「太乙」
「たいいつさん。あなたもどうぞ」
「は?」
「これから先もし死ぬようなことがあったら私のところに還ってきて下さい。そうしたら、あなたのことも生んであげます」
「・・・」
「もちろん、あなたが嫌じゃなかったらですけど」
「・・・・・・・」
「まあ! そうしたらみんな兄弟だわ!」
妙案を思いついたという顔をして殷氏が手をたたく。太乙は何も言うことができなかった。何も。
ただ、ナタクの弟になるのはなんかイヤだなあ・・・と、ぼんやりと考えた。
「素敵だと思いません? タイツさん」
「だからタイイツだって・・・」








科学的興味。科学的狂気。
じゃあ、殷氏のアレは母性的狂気だ。そして科学的狂気は母性の狂気にかなわない。
黄布力士を操縦しながら、太乙はやけにこった肩をぐりぐりと回した。
とっとと戻ってまた徹夜で崑崙山2の研究に取り掛からなければならない。そして最後の戦いへ。
研究のことを考えはじめると頭の中がそれだけになって、太乙はしばらくそれ以外のこと全てを忘れた。
上の空の操縦のせいで機体が揺れ、その拍子に、黄布力士から、ぽろりと、小さな白いものが落ちていった。
太乙が造った仙人の骨。
あわててももう遅く、大地に広がる濃い緑の森に吸い込まれるように、その白はどんどん見えなくなっていく。
「あーあ。もったいない」
しばらくその場所を未練たらたらで旋回し、太乙は一人つぶやく。
何年もかかったのに。もう二度と造れないかもしれない奇跡的発明。
「いや。もうきっと造らないな・・・」
殷氏にも、唯一相談をした雲中子にも言わなかったことが実は一つだけある。
その奇跡的発明の、成功率のこと。
5分5分かな? そう太乙はふんでいた。
拒絶反応による体組織の崩壊も力の暴走もありえたことで、それをわかっていて太乙は殷氏に仙人骨を植え付けようとした。
そして決めていたことがある。
もしも失敗したら、殷氏を殺して自分も死のうと。
そう決めたことの理由はわからない。それをつきつめることも無意味で、考えはじめたら殷氏を仙人をしようとしたそもそもの目的さえ理由なんて太乙はわからない。頭の中の不気味で哀しい思考回路は時々わけのわからない結論を、そこに辿り着いた道筋も示さずにはじきだすのだ。

唐突に「死ぬこと」について考えた。通り過ぎて行く壮大な景色がいろんなことを思いださせた。
みんなみんな死んだ。
失うことに馴れてない仙人はうまく心の機能が働かない。自分も。
死ぬことってなんだ?
母性は、殷氏は、生きながらに死を内包して、生と死を同じように抱きしめて、同じものとして受け入れる。

―――『私のところに還ってくるんだと、信じます。そしてまた何度でも私は彼らを生みましょう』

微笑みながら、彼女にとっては当たり前の確信を持ってすごいことを言ってのけるあの信じられないほどの強さは、男にとってある意味恐怖だ。
でも、彼女に永遠の命を与えるはずの仙人の骨はもうなくなってしまった。
何度でも生み出すのだと言った殷氏は、仙人の時間からすればあっという間のうちに老いて死んでいく。
唐突に、生まれて何千年目かにしてはじめて、死ぬことについて考えて。
泣きたいほどに思った。苦しくて胸が熱くて。
死ぬことは一人になることだ。先立たれることは恐ろしいことだと言うけれど、先立つほうがもっと恐ろしくて寂しいことなんじゃないのか? 
自分が泣いてるだなんて太乙は認めないけど、視界に広がる空の青がひどくにじんだ。
ああ、と思う。
還りたいよ。私も。死んでこの体がなくなって魂魄さえ吹き飛んで、私の全てが何もなくなったら、君の子宮に還りたい。そして君が私を生んで、君から生まれた私はまた歩いていくんだ。


これはたんなる感傷だ。それ以上でもそれ以下でもなく。
どんなに泣いたって想ったってこれからも冷酷なほど整然と日々は流れていく。
でもどうしようもなく泣きたい気持ちは本当で。胸の痛みも射すような熱も本当で。
『あなたを生んであげます』―――その言葉と殷氏の微笑む顔ばかり思い出していた。




















私太乙×竜吉も好きなんですけど、太乙→殷氏もうめっちゃ好きで・・・・
絶対絶対実らないし・・・ですけど恋が成就しない=報われない、ではないから、心の中で何かが満たされたらそれはそれで哀しいけど幸せなんじゃないかって感じで(わけわからん) 殷氏ってかわいくて強くてしっかりしててそんでもってやっぱりかわいくてかわいくて最高ですよねっ!! 好き好き大好き。あああ〜〜〜〜私も彼女から生まれたいです〜〜〜本当に。この話の太乙と同じ気持ち。ひそかに自分でも気付かず心中願望っぽいものまで抱えてて太乙さんめったやたら暗いですが。別に私の中の太乙像はこんなってわけじゃないっす・・・(笑) 太乙→殷氏バンザイ! ラブラブなのでも甘いのでも暗いのでもなんでもいいんでもしどっかにあったら私に教えて下さい!!! 殷氏好き好き。もうそればっか。