BIRTH GRAVE 誕生の墓

 









 

そういえば、さよならを言っていなかった。

お互い、もう二度と会えないことをわかっていたのに。


 






「おぬしには、すまぬ事をしてしまった」
思いをさまよわせていた竜吉公主は、元始天尊の声に顔をあげた。
少し、言葉を探す。
「・・・私に、ではないであろう? 元始天尊殿」
その顔が怒りに染まっていたわけではなく、いつもどおりの優雅な微笑みをたたえていたのに、
元始天尊は思わず公主からわずかに視線をそらす。
「こうなってしまっては、わしも悔やんでも悔やみきれんのだよ」
金ゴウとの衝突でくずれかけた回廊で、二人が佇んでいる。王天君の宝貝のせいで、元始天尊の顔は苦しげな汗でぬれている。
時間がなかった。これ以上長引けば、力のない道士からどんどん命を落としていく。
選択肢は一つだけ。王天君を殺すこと。
「そういえば、王奕は心からは人に慣れきらん奴であったな・・・」
「こうなることの前兆はあったと?」
おかしそうに竜吉公主が問う。
「いや・・・何と言ったら良いか・・・。聡明で才能に恵まれた少年だった。
王奕ならば、とわしも思った。しかし、聡明ならばこそ、ということもあるのかもしれん」
「・・・元始天尊殿。あなたは、知っておられるか?」
「何をじゃ」
「王奕はね、あなたが思っている以上に、あなたのことを慕っていたのだよ。斜めに構えてはいても、あなたに気に入られようとその期待に応えようと、努力していた」
・・・そう、側で見ていて痛々しいほどのひたむきさで。
元始天尊が今度ははっきりと目をそらす。そして力無く公主に問う。
「竜吉公主よ。わしを憎むか? 王天君、いや・・・・王奕を金ゴウに捨てたわしを」
「憎むなどという感情は、とうの昔に忘れてしまった」
公主が静かに答える。
「私にその資格もない」
「いや。そうだ。おぬしならあるいは、王天君をまだ止められるやも・・・」
「誰も、王天君を止められぬよ。殺す以外には」
それを聞いて、がっくりと元始天尊が肩を落とす。
「どこで、どう歯車が狂い始めたのか・・・」
「確かなことは」
公主が崩れ落ちた天井ごしにさしこむ光に目を細めながら言う。
「私達は過ちを犯したということ」
「わしの、咎か」
「誰か一人を責めることなどできはしない。あなたも、私も、それを止めることができなかった」
後ろを振り向いた公主の目に、飛び去っていく魂魄が映った。
また一人。崑崙の道士が命を落とした。
元始天尊が眉根をよせて、深いため息をつく。
その隣で、竜吉公主は見るものを凍らせるような笑みをうかべた。
「違う。私も、憎むかもしれぬな。王天君を。もしこれ以上私の大切な者達を奪っていくなら」
「竜吉公主・・・?」
「そう、憎むことはできるのだ。私にも」
誰よりもこの崑崙を愛し、名もない道士達全てを慈しむ竜吉公主を知っているから。
そして、かつて一番近しい場所にいて、確かに惹かれあっていた王奕と竜吉公主を知っているから。
元始天尊はそう呟いた公主に、何も言うことができなかった。






遠い昔のこと。
彼女は生まれたときから仙女だった。
そして、一人だった。
透けるような肌の下で何を感じ、夜を映す水面の碧の瞳で何を見ているのか、誰も知りえなかったし知ろうともしなかった。
人ならざる公主のその美しさと力は、称賛と憧憬の対象ではあっても、彼らには初めから遠すぎる存在であったから。
ある時、彼女は力を暴発させ人を殺めた。それは偶然の事故であって、誰も公主を責める者はいなかったけれど、それ以来竜吉公主は自ら鳳凰山に結界をはりその中にこもったきり。
その結界の中で、よく公主と王奕は一緒にいた。
子犬のように寄り添いあって。
二人でいても、一人きり。
お互いが、自分の孤独の合わせ鏡。
でも、絶望しきっていたわけではなかった。
むしろ、この世界に、そして自分自身に、何かを求めていたからこそその希望に身を震わせていた。

いまだどこか少女の面影を残した竜吉公主が、手の上で浮かばせた無数の水滴をふっと吹く。
水の結界ごしに薄くさしこむ光のひだに、きらきらと反射する。
それを王奕は無言で見つめる。
「何もしゃべらないのだな。今日は」
「うん・・・・」
「修業がきついか?」
王奕が膝を抱える。
「修業は、なんてことない。ただ・・・・昨日、おふくろの夢を見た」
「そう」
公主が再び華奢な手の上で水滴を遊ばせる。生まれては消えていく光の粒が、二人の顔をちらちらと照らした。
「マザコンなんだね」
「ああ・・・・って、違げーよ!」
いきりたつ王奕に、公主は少し笑った。
「わかったわかった。・・・で、おぬしの母上というと、確か」
「俺を捨てた女」
また暗い目に戻って王奕がはきすてるように言った。そして爪を噛む。
「夢の中でまで、嫌な目で俺を見てた」
「会いたいのだろう? 本当は」
爪を噛む仕草をやめ、王奕が公主の目を見た。
「会って、聞きたいのだろう? どうしておぬしを捨てたのか」
そしてまた目をそらして、爪を噛む。目を伏せて何度もまばたきをする。
「・・・・・うん」
消え入りそうな返事の後でしばらく黙ってから、ぽつりぽつりと王奕が語りだす。
「元始天尊様は、時が経てばわかるって言ってた。あの女・・・おふくろのことも、自分という存在の意味も」
「存在に意味なんて必要なのかな。ここに自分はいる、そのことだけでどんなことよりも確かなのに」
「俺は、必要なんだ。意味が。誰かにここにいていいって言われなきゃ・・・・俺は必要な人間なんだって言ってくれなきゃ、不安で不安で死にそうになる」
「誰ももうおぬしを捨てたりしないのに」
あからさまに自らの傷をさらす王奕に、竜吉公主が眉をひそめて言った。
王奕がハハハと乾いた笑い声をあげる。
「捨てられたこともない公主には、わかんねーよ。きっと」
「・・・そうだね」
途切れてしまった会話。目をつぶって王奕はやわらかな光を浴びる。
「・・・・公主はさ、いつまでここの中にいるの?」
公主が答えないので、王奕が目を開けて、その顔をのぞきこむ。
「一生ここにいるの? この結界の中で、誰とも会わずに。それが道士を殺した公主の償い?」
公主は笑おうとして失敗した。心の痛いところをつかれて、自分は今たいそう変な顔をしていると思う。ちょっと息をついてから、ゆっくりと口を開く。
「償い・・・・では、ないよ。私がこんなところにこもっていたところで、あの道士が生きて戻ってくるわけではないし」
「単なる自己満足だーね」
「・・・・きっついのう。おぬし」
公主はやっと少し笑うことができた。微笑みながら続ける。
「そうじゃな・・・何というか、自分なりのくぎり、というか。初めはここに逃げ込んだだけだった。全てから、崑崙から、罪を犯した自分から、解放されたくて。でもね、分かったんだよ、王奕。私は崑崙がきっと誰よりも好きなんだって」
「崑崙がぁ? 単なる空中に浮く岩の塊じゃんよ」
「私はここで生まれて、ここで生きてきて、そしてこれからもずっとここにいる。ここ以外にわたしの居場所などないもの」
「・・・そうだな。確か公主は、地上では生きられないんだもんな」
軽はずみな自分の発言を恥じるように、王奕がすまなそうに言った。
公主が首を振る。
「それもあるけど。でもそれ以前に、私は崑崙が好きなんだよ。父様と母様が愛したここが。崑崙の空気も、空も、名も知らぬ道士達も、なんだかもう、泣きたいほどに好きなんだよ。理由なんてない」
「・・・・」
「彼らが私を好きでなくても、私が消せない過ちを犯したのだとしても。好きだから、私はここを守りたい」
公主が両の手を組んで、祈るように目を伏せる。
「私は。何があっても崑崙を守る。この結界の中で、そう決めた」
その横顔が、遠く思えるほどにきれいで、貴くて、王奕は目を細めた。
「公主は、強いんだね」
「強くなんてないよ。ここに逃げ込んで、感情がすり切れるぐらいに考えて、そう思っただけのこと」
「じゃあ、この結界から出るんだ。もう」
「そうじゃな・・・。まだ少し、怖いけれど」
「大丈夫だよ。・・・・俺もいるし」
王奕がぼそっと言う。
「俺も守るよ。アンタと一緒にこの崑崙を。・・・俺にだって、他に行くとこねーし」
「・・・居場所など、一つでよかろう? 一つあれば、生きていける」
「居場所・・・ここは、崑崙は、俺の居場所かな」
「そうじゃ」
「・・・・・じゃあさ。修業して、強くなるよ。俺は。・・・崑崙が、俺にここにいていいって言うならさ。アンタより、強くなる」
「ふふふ。そうはいかぬわ」
公主のまわりで、くるくると水が楽しげにうずをまく。
「二人で、ずーっと崑崙を、守ろうな」
眩しげな表情で王奕が言った言葉は、光りさす結界の中で、やさしく響いた。





最後の別れは、短い逢瀬だった。
静かな夜。
結界を解き、やっと少しずつまわりの者と交流を始めた公主を久方ぶりに訪れた王奕は、心もとない顔で彼女に言った。
「元始天尊様の命で、金ゴウに行くことになった」
「して、何のために」
「使者・・・・だって」
公主はしばらく黙ってから、努めて明るい顔で言った。
「・・・すごいではないか? 元始天尊様は、よほどおぬしを信頼しているらしい」
「あのさ、公主」
王奕が、小さいがはっきりとした声で言った。
「もう二度と、アンタに会えない気がする」
公主はうつむいた。しばらく息をとめて、吐き出すように答える。
「私も」
沈黙が続いた。
二人がそう確信する理由など、どこにもなかった。
王奕は単なる使者としてしか自分の役割を知らされていなかったし、公主も元始天尊と通天教主の間の約束など露ほどもしらなかったから。
でも、二人は感じていた。
理由などなく、孤独な者の動物的な勘で。
もう、会えない。
二度と会えない。
どうしても打ち消せない、哀しい予感。
王奕が無言のまま、公主の黒髪を一筋手にとり、握りしめる。
「痛いよ・・・・王奕」
「うん・・・」
言うべき言葉がこんなにも分かっているのに、二人はそれを言うことができなかった。
ただ一言、さよならって。
公主が顔をあげ、二人は目をあわせた。
ますます王奕が髪を握る力を込める。
公主が眉を寄せる。
「・・・・痛い、痛いよ。王奕」
王奕の見開かれた黒い目が、ぼんやりと月の光をうつしていた。
やがて沈黙は、夜の闇に呑み込まれていった。









―――暗闇に目がなれると、もっともっと、暗いものが見えてくる。
それは何より、自分の心。
憎悪で歪んで、それ以外何も思い出せない。
光を閉ざされて、暗い所に押し込められて。
がりがりと石の床を割れた爪で掻く。もう何も感じない。痛みすら。
むきだしの欲望でぬれたいくつもの異形共の視線。声。もう何も聞こえない。
虚空に浮かぶのは、この出口のない憎しみに麻痺した心だけ。
許さない許さない許さない。
消えろ消えろ消えろ。何もかも。この世界を形作る全てのもの。
王奕は床に突っ伏して、嗚咽を洩らした。

―――――違う。自分が、消えてしまいたい。

もう誰も自分を必要としないなら、消えてしまいたい。
自分を暗闇から引き上げたあの手が偽物だったのなら、消えてしまいたい。

堅い床を何度も何度も手でうちつける。血がにじむ。
それでも止めない。骨が砕ける。

・・・また放り出すならば、どうして救い出したりしたの。
・・・また突き落とすなら、どうして夢を見させたりしたの。

どうして。誰もが自分を捨てるの。

顔をあげた王奕のにごった目に、白い女のからだが映った。
腐臭と、うごめく醜い影のなかで、一瞬だけそれは似てもいないある面影にかさなる。
公・・・・主・・・?

この世ならざる美貌が、幻惑の微笑を浮かべる。
その手を王奕に伸ばす。

わらわが、助けてあげる。
わらわだけは、捨てないから。あなたを「最後まで」捨てないから。

だから、こっちに、いらっしゃい・・・・。

王奕は自ら、その白い手を取った。
そう、選び取ったのは、彼自身。その引きがねが何であれ。
堕ちていくのも、壊れていくのも、彼が選んだこと。










手の届かない何か大きな力に取り上げられて、見えなくなっていく。
震えるか細い、うつろう魂。  

公主は知っていた。
二人の運命の糸は、もう決して交わらない。

・・・何て遠くに、私達は来てしまったんだろうね・・・王奕。





赤雲と碧雲も、ダニ宝貝にやられて寝台にふせっている。
彼女達が心配で、そして金ゴウに乗り込んだ者達が心配で、胸がつぶれそうになる。
時折、王奕の面影が胸をかすめる。
しかし竜吉公主は何も言わず、ただ刻々と体力を失っていく年若い道士たちの傍らでその看病をしていた。
その手を止め、ふと公主が顔をあげた。
立ち上がって、その場を後にする。
崩れた廊下をふわふわと進んでいく。
そして、ぴたりと歩みを止める。
何が見えたわけではない。でも、彼女にはわかった。
・・・・・・ああ、やっと。
光あふれるどこまでも続く回廊。
そこに、公主は小柄な姿を見た気がした。

やっと、辿り着いたんだね。王奕。あなたのその道の、最後に。
居場所を、救いを、ぬくもりを。求めて求めて、もがき続けたその道の最後に。

公主は目を細めた。
その幻の姿が、笑っているのか、泣いているのか、怒っているのかわからないけれど。
でも手は伸ばさなかった。
涙も流さなかった。
ただ、呟く。あの日言えなかった言葉。

「さよなら。王奕」



輝く魂魄が、空の青を裂いた。








「おお!!公主! 今、たった今・・・」
後ろから聞こえるあわてた声に、竜吉公主は振り返った。
あたふたと元始天尊が駈けてくる。
「わかっておるよ。今、終わったんじゃな」
そしてその場を後にする。
もう二度と振り返らずに。






  私達は・・・
  友情でもなく、幼い恋ですらもなかった。
  ただお互いの傷をなめあっていただけ。

  でもね。そばにいたかった。
  これは、本当。






元始天尊が気遣うように公主に尋ねる。
「おぬし・・・平気か? ほら・・・何というか」
「平気だよ。私は」
そう言って公主は笑って見せる。
「私は私の道をゆく。王奕が王奕の道を選んで、そして生きたように」
「は? 道?」
「・・・・この崑崙を、絶対に守ろう。元始天尊殿」
「そ、それはもちろんじゃ」
「ふふ。これからが本番じゃな。聞仲に妲己、まだ敵はうじゃうじゃといるぞ」

竜吉公主は空を仰いだ。 
王奕と二人、崑崙を守ろうと誓ったあの日の残像が、どこまでもどこまでも白い。