うち捨てられた古い屋敷によりそうのは、びっしりと果実を実らせ、枝を撓ませた大きな木が2本。
ときおりの風が水面をゆらす暗い暗い池。
もう月が中天にかかり、ところどころ歯抜けになった屋根の瓦を照らしている。
どこぞの貴族の別荘であったのかもしれない、と、考える。
時代が変わる前の。
半ば朽ち、その用を果たさなくなった門が、伏羲の背でキイキイと啼り久しくなかった来訪者の存在を告げる。

「ふむ」

打ち捨てられた古い屋敷。仮宿にはぴったりだ。
そう判断し、乾いた草を踏み分け、
くすんだ朱の中門をくぐりつんと鼻にぬける古い空気を胸にすいこみ
存外に立派な柱の間を進んでいく。
天井は高く暗い闇をはらみ、伏羲自身の影は明かり取りの窓からさしこむ月光に、長く細く灰色の石の床に続く。
戲に柱を腕でこづいたら、広い回廊ににぶい音がひびき、白く埃が舞った。


「おお! 絶景だのう!」
回廊を抜けるとそこは池をのぞむ露台になっていて、何年も風雨に晒された朱塗りの手すりと床は薄汚れ、踏みしめる度にきしんだけれど
池に映る月の色と黒いシルエットになった木立がとてもうつくしく
伏羲は満足して目を閉じる。
そして湿った水の匂いを吸い込んだ。
どっこらしょ、と、歳よりのような掛け声とともに、池を望む柱の横に座り込む。
彼はずっと一人でいた。何年も何年も。
通り過ぎる人々と時折かりそめの関係を持ち、手助けしたり、かきまわしたり、感謝されたり、ときに恨まれたり姿をくらませたりをしたけれど
根本的にずっと一人でいた。
こんなふうにずっと一人でいたら、自分の名前も記憶も忘れ気がついたら呆けているんじゃないかといぶかしんでいたけれど
そのような心配をよそに、伏羲の意識はいつだって冷たい泉のように明瞭で
何一つ、千年前のため息一つ忘れずに、伏羲の中にあった。

黒い手袋。

不揃いな黒い髪。

少女のように細い首。

ゆるやかに動く空気に前髪が揺れる。

伏羲は月を見た。何十年、何百年昔の貴族がこの露台から月を見たように。
白い月だった。
少し眠るかと考える。
それとも、美しい月を見ているか。
伏羲は決めかねて、埃と土と飛ばされてきた枯れ葉がつもる露台の床に横になる。
寝転がって月を見る。
とても静かで、自分の規則的な呼吸の音が、まるで遠くから聞こえてくるかのようで
美しすぎてなにもかもがせつなくすら思える夜とはこんな月の下のことなのだと。

 

女がいた。

確かに女が。

かさりと、枯れ葉が動く音がする。人ならざる者の気配に身体を起こした伏羲の黒い手袋に包まれた手が乾いた葉を潰した音だ。
眉間に力を込め沈黙した池の水面に意識を集中する。
否。池ではない。
池の手前、池をぐるりと囲む背の低い手すりの手前、薄い色の女がひどく古風な、しかし派手やかな着物を着て座っている。
誰かを待ちわびる風情で首をめぐらせ池を望み、短い髪にあらわなうなじをこちらに向けて。
声が聞こえた気がした。きっとその女の名を呼ぶ男の声が。
黒い影があらわれる。姿なき影が。
女がその影をみとめ微笑む。花が開くような笑顔。もしくは、熟れた花弁がぱっと散るような。

手を伸ばせばとどく距離、そこで、亡霊の逢引? 白い月光のもとで?

ちがう。これは、過去の記憶だ。場が持つ記憶が、なんらかのきっかけで、何十年何百年前の光景をそのままに映し出す幻。
黒い影の男の手がのび、女は待ち受けるかのようにしとやかに顔を伏せ、男の指先にはらりはらりと着物が脱がされていく。白い身体だった。白い白い。
とがった鎖骨、その下の、細い体には重たげな乳房。影の男に嬲られてたわむ。
足が開かれ、その間に黒い影は身を沈め、女の唇を、喉元を、快楽に潤った女自身を貪っていく。
女が首をのけぞらせ喘ぐ声が伏羲の耳にとどく。耳元で幾千もの羽ばたきのように響く。あえかな息が。
こらえきれず震える細い指先が床をはじく音が。

 

そのように安売りをするではないよ。

 

ただ心の中で伏羲は思った。
思ってはみたものの、身体を開くことで女が失うものなど何もありはしないことを知っている。
与え、犯され、つらぬかれ、女は身悶えるけれど、それに引きずられるのはいつの世も男ばかりで。

幻を見るなどと・・・

幻影を見るなどと・・・

振りきるように首を振るがもつれあう男と女は消えはしない。
いっそうはっきりと熱をはらみ、女は狂い、霞をまとったようなその身体が闇に浮かび上がる。
赤黒い感情の固まりが頭をもたげる。
息苦しくて、咽喉を押さえた。声がでそうだった。名を、呼びたくて。女の名を。
幾世の時を名を変え、希代の美姫と謳われ、血にまみれそれでもほがらかに微笑んできた女の。
その生涯の中で持った無数の名の中の一つの名を持ち、交わった千を下らぬ数の男の中の一人と交わる目の前の女の。
妲己妲己妲己妲己。
伏羲が知るのはただ一つの名だけ。
女が伏羲を振り返った。彼女に覆い被さっていた黒い影は消え、いつしか女は立ち上がり、一糸まとわぬ姿を月光に透かしながらゆらりとこちらに歩み寄る。
マボロシだ。過ぎ去った過去の貴族、もしくは皇帝の、麗しき寵姫のマボロシ。
肩よりも短い髪は銀を含んだ輝く薔薇色で、深い金色の瞳に見下ろされ、伏羲はまばたきすらできない。
ずっと逢いたかった、などと、おかしなことを言ってしまいそうで、伏羲は息をのみこむ。
美しい美しい人。
白い指の先に触れられた瞬間、背中がゾクゾクと震えた。実体があるようなないようなその感触。
いざなわれるままにそのたおやかな腕を引き、細い首をつかみ寄せ、わずかに開いた花びらのような柔らかな唇に深く吸い付き、舌をからませる。
女の身体が力をうしない、半身を柱にあずけ座った格好の伏羲の上にまたがるようにくずれる。
何度も何度も口付け、舌を吸い、とろりとした蜜のような唾液を味わい、頭に回した手は絹糸の髪をすくいまさぐる。
布越しの感触がじれったく、手袋をとった少年そのものの華奢な指先で、自身にまたがった女の濡れた秘所をやさしく愛撫する。女が眉根を寄せ、首を振る。はやい呼吸がみだれ、か細い喘ぎ声になる。
甘い戦慄が女に触れる指先から駆け抜けて、眩暈がしそうだった。
喉元まで込み上げる、飽和する欲情と快楽の固まりに、感情が追いつかず焼き切れる。
首筋に舌を這わせ、強くキスをして、紅い跡をつける。指で愛撫を与えたまま、とがった乳房の先端を口に含み、舌先で転がす。
女は泣くような声をあげ、伏羲の頭を抱き込み、腰を小刻みにゆらし愛撫に応える。
薔薇色の髪が目の前でゆれていた。立ちのぼる女の香が甘く甘くむせかえるように甘く。
愛液で濡れた両手で女の顔をはさみこみ、その目をのぞきこむ。
焦点の合わないうるんだ瞳が伏羲を見返す。
力なく下ろされた手首をつかみ、軽くひねりあげると、女の身体を床に押し付ける。
覆い被さる格好で伏羲は女の顔を見下ろした。
顔を見たまま、服を脱ぐ。
そしてもう一度確かめるように、横たわった女の身体に指を這わす。
なだらかな腹。形良い足。
触れ合った肌同士が共鳴するかのようで、それだけでうずく。
足を開かせて、身体を進めた。やわらかな中に自身が呑み込まれていく。
「・・・・・ふ」
あまりの快楽に顔がゆがんだ。
女が指を噛む。伏羲が動くたびに声が洩れ、長い睫毛の先端が震える。
かすれる呼吸がいよいよはやく、伏羲の口からこぼれ、つかんだ手首を床に折れるほどに強くおしつけながら夢中で何度も何度も腰をつきあげる。
そのたびに上気した乳房がふるふると震える。

-----ああ


絶望的な確かさで思う。
身体をつなげたままの、何度目ともしれない貪るような口付けをかわしながら。
しびれた意識の中の、澄みわたった一点で。

 

 

--------ずっと、ずっと、こうしたかった。

 

 

抱きすくめキスをして髪をつかみたかった。濡れた性器を舐め乳首を嬲りその泣き声が聞きたかった。
ずっと、自分は、何千年の昔から、この女に、こうしたかった。
抱いて抱いてメチャクチャにしたかった。

幻影を見るほどに一人の女を憎み欲した自分は、その女が消えた瞬間、狂ったのだと思う。
でもそれでもかまわない。

のぼりつめる。意識が切れる。女の身体が痙攣する。
息が、できない。